働きながらの子育て、肩肘張って、男性社会に立ち挑む。そーんなイメージからは程遠い、「怒涛の主婦小説」。ちゃらんぽらんな夫の代わりに、一家を支える大黒柱の「豊ちゃん」こと五十嵐豊子は、なんだかなーと疑問を持ちながらも、幼稚園の送迎に「うんしょ、うんしょ」と自転車を漕ぎ、会社に出社し、夫のだらしなさにうんざりしながらも、愛しちゃってる。ぽわーっとした雰囲気の中に、働く主婦の力まない生き方が見える。この、脱力感はせかしかした日常でほっとする感じを与えてくれる。「うんしょ、うんしょ」と自転車を漕ぐと豊ちゃん。「この電気自転車という乗り物だって、ちょっと不思議だ。これに乗っている二十代の女の子なんて見たこともない。二十代の男の子だっていないだろう。これに、前にも後ろにも子供用の荷台がついている姿が、美しい。」と言う。豊ちゃん。素敵です。



夏石 鈴子
夏の力道山
 盆も過ぎ残暑厳しいなか、里帰りできなかった詫びにと母に電話を入れた。郷里の盆では親戚一同が集まり、昔噺に花が咲いたことなどを、つらつらと話す母の声を受話器の向こうに聞きながら、私は以前、母が語った戦争の話を思い出していた。
 太平洋に、大きな河川の流れ込むところ、そこが、母の生まれた土地だ。河口の豊かな土壌は稲作をはぐくみ、川は、初夏には鮎、秋には鮭、そうして通年でうなぎの良い漁場であった。祖父は半農半漁の生活を営みながら、長患いの妻を黄泉に送り出してからは、母を長女に4人の子供を育てていた。時は昭和18年の頃である。敗戦の気配も、田舎のどこかほうけた暮らしにはまだ感じられなかったという。
 そんな、田舎にある日、川沿いから米国の艦載機がその金属製の腹を陽光にきらめかせながら、飛来すると、一帯を機銃で掃射するといったことが起こった。母は幼い弟たちをリヤカーに乗せると、その弟たちを筵で多い、裏の山まで走ったという。その後、艦載機は頻繁に訪れ、やがて洋上に黒い戦艦が現れると、艦砲射撃が始まったという。問わず語りに母が語った内容は、たぶん、こんな感じだった。史実では、艦砲射撃の犠牲者の慰霊碑が丘の上に立っていることからも、おそらくそんなことがあったのだろうと推測される。
 川を目印に、まるで川に戻る鮭の銀鱗をきらめかせるように、ギラリとその金属の腹をなびかせ、太陽になぶられる、黒味を帯びた芋の葉の上に、一瞬、黒々とその不気味な影を落とすと、その影のなかに葉の葉脈の、紫がかった深赤が、血のように浮かび上がる。その、刹那、脳裏を掠めるいやな予感。緊張に乾いた口の中に、鉄の匂いが広がる。
 ウナギのひごを石からそうっと引き出す祖父の耳に、突然、グラマンの猛るエンジン音が響く。稲穂をやさしくなぶる風の流れが、波のように見えるもつかの間、その波を反対から旋風が、稲穂をなぎ倒す勢いで巻く。ばっしゅ!ばっしゅ!と機銃の立てる水柱がそれに先行する。
 こういった記憶は、はたして母の話からなのか、山川方夫の『夏の葬列』から得たものなのか、もはや私の記憶の中で二つは曖昧に合わさってしまっている。その曖昧さをとくために、いつか話を聞こうと思っていた祖父も鬼門に入り久しい。その祖父の墓を、今年も参らなかったことを詫び、母への電話を切る。



山川 方夫
夏の葬列 (集英社文庫)
SFの黎明期に先人たちがいかに諸外国のSFに感銘し、その文化を読者の成熟を含めて育んででいったかは、最相葉月の『星新一 一〇〇一話をつくった人』に詳しい。その星新一らが蒔いたSFの種は、世界でも類のないくらい豊かな果実を実らせた。最近、かのSFの巨匠ベスターの『ゴーレム100』とあわせて円城塔の『Self-Reference ENGINE』を読む機会があって、いみじくも両者を比較して読み比べていしまったのだが、改めて日本のSFのレベルの高さにうなった。Serf-Referennce、つまり自己言及を題材にした本書はベスターのカラフルで狂乱じみた内面世界の表現に劣らぬ、優れた哲学的世界を構築している。すべてを計算しつくすかのような巨大演算コンピューターは最早その演算速度を世界の形成と一致させるまでに発達した、そんな近未来を舞台に、その世界の外部を穿つ、つまり自己言及のパラドクスの永遠の循環のメタレベルを探求するかのようなプロットの本書はまさに、日本が誇るSFの快作といってもいいであろう。



円城 塔
Self-Reference ENGINE (ハヤカワSFシリーズ Jコレクション)



アルフレッド・ベスター, 渡辺 佐智江
ゴーレム100 (未来の文学)




最相 葉月
星新一 一〇〇一話をつくった人
 最近、女性作家による時代物がいい。北方水滸伝のように漢(おとこ)の任侠味あふれる時代物も捨てがたいのだが、しなやかさにあふれる女性作家ならではの時代物も落ち着いていていいものだ。この、新人作家による本書は「女による女のためのR-18文学賞」の第5回大賞と読者賞を受賞したものだ。
 舞台は江戸・吉原。廓に生きる遊女たちの艶やかで、そしてしっとりとしたエロスの中に、彼女らの悲哀と、そしてたくましく生きようとする矜持が、確かな筆で、これがデビュー作とは思えない緊張感をはらんだ文体でつづられます。
 「夜になれば好いてもいない男の魔羅を咥え込み、明け方になれば好いてもいない男にまた会いたいと媚を売る。それで良いのか。暗い部屋の中、ばいん、と不快な音を響かせて弦が切れた。」
 「あと2ヶ月で茜は初見世を迎える。仲之町に咲く桜の満開の頃、道中もなく、知らぬ男に貫かれて花をもぐように破瓜の血を流す。」
 美しくもはかない、刹那的な女たちの生き急ぐ恋がここにあった。

 


宮木 あや子
花宵道中
 乾いた文体の中で、ペキンパーの映画のようにカットバックされた暴力シーンが明滅する。流血し、皮を剥ぎ、死体を慰みものにする。そんな非道で不条理な暴力の果てに、やむことのない欲望への渇望と、永遠に満たされない不在を埋めるかのよに生き急ぐ焦燥と、虚空を掴みとろうとするかのように夢を追い続ける、そんな現代人の闇を描く、傑作短編である。ただ、その暴力は酸鼻のきわみなので、あてられないように。



平山 夢明
ミサイルマン―平山夢明短編集
 終戦の日を過ぎ、送り火を過ぎてもなお暑い夏の日々に、過日の惨禍に思いをはせる。そんな今日この頃、戦争関連の小説で少し変り種を見つけた。まあ、たまにはこんなのもってな感じで読んだのが、クリストファー・プリースト『双生児』だ。舞台は第二次世界大戦前のイギリス。国の代表としてベルリンオリンピックの競艇競技に挑んだ双子の兄弟。そして、大戦のさなか二人の人生は分岐点を向かえ、一人は爆撃機のパイロットに、もう一人は良心的兵役拒否者として赤十字活動へと、向かう。その二人の対照的な生き方に歴史のほうも分化し、ナチスドイツが和平協定に望むといった、現実の史実とは異なるパラレルワールドが展開される。そのこと自体は歴史改変ものとして真新しくはないが、著者の力量は半端がなく、歴史の改変、もしものワールドを冒頭から張り巡らされた伏線で周到に、かつ複雑に分化させてゆくのだ。ストーリーを追うのも苦労するようなその力技についてゆくと、深く過日の戦争に思いをはせざるを得なくなる。SF、ミステリ、ドキュメンタリー混在のこんな小説で夏の日々を過ごすのも悪くはない。お仕着せがましいその手のジャンルに新たなエンターテインメントとして突破口を穿つような小説である。



クリストファー・プリースト, 古沢 嘉通
双生児
 同僚とシャワークライムをしながら、もう夏休みが終わっちゃうね、なんて話が出た。同僚はきちんと盆中は休んでいたのだが、こちとら仕事でい!といいながらも、「ああ、この暑さの中○○部長の顔を見るのはやだな。」という同僚の言葉に、頭髪薄くいつもいやみっぽい顔の部長の姿が脳裏に浮かび、思わず納得。話は、そこから夏に会いたくない人、会いたい人、夏に読みたくなる本、読みたくない本ってな具合に続き、「新潮夏の100冊」じゃないけど、漱石の『こころ』だろう、と収まりかけたとき、では新刊本だったら?とふと思い、本田孝好の『正義のミカタ』なんていいのではないかと思った。
 主人公はいじめられ続けたダメ青年。大学に入って新規一転と思いきや、いじめっ子の高校の同級生が、同じ大学にいて落胆。、気分暗転するも「正義の味方研究部」という怪しい部活動にまい進するうちに、自身がみなぎってゆくといったような、ストレートな青春、成長譚である。やや、そのストレートさが暑苦しかったりするのだが、夏にお勧めの一冊ではある。



本多 孝好
正義のミカタ―I’m a loser
 梨木香歩の『水辺にて /on the water,off the water』という本の中で、ダム湖をカヤックで漕いでいる彼女に、湖底に沈んだ村の様子がまざまざとよみがえってくるという、印象的なシーンがある。湖底に沈んだ村で、夏に蝉取りに興じたであろう子供たちの声が、市井を行き交う大人たちの声が、湖畔を進む彼女を捉えて離さない。そういった、失われたものへの繊細さが感じられる、とても良い本である。
 私も、カヤックでダム湖を漕いだことがあるが、水面下に広がる失われた世界へ思いを寄せるといった繊細さは、微塵もない。ダメである。がさつである。と、そんな自分のダメさを癒すために、ダム湖に沈む村を描いた『水になった村』というドキュメンタリーをポレポレ東中野に観にいった。
岐阜県の福井県境にある徳山村という山深い里が2006年にダムの湖底に沈むまでの15年間を大西暢夫氏が撮った記録映画だ。村に住む「ジジババ」の姿を慈しむように撮りためた15年の記録。冒頭、移転の済んだ村に水が静かに満ち始める。「ババ」が好きだった梨の木に、山葵を摘んだあの沢に、「ジジ」が耕したあの畑に、舐めるように満ちる水。移転が決まってユンボによって解体された100年の歴史を超える家々が、水になる。そんな、悲しみを大西氏は大上段に構えるでもなく、淡々と、そして慈しみながらフィルムに定着させてゆく。「ジジ、ババが好きだったから」と語る大西氏(上映後のトークショーで)は、映画として撮った訳ではなかったと言う。後半、大西氏が映画化を意識したというところからは、確かにある種の言質、それはおそらく、映画が「環境問題」や「自然破壊」といったコードで絡み取られてしまうことを容認するかのような、が漂い始める。しかし、大西氏はそのことに無自覚ではなく。はにかみながら「意識し始めたから」と吐露するのであった。その正直さと映画前半の「好きだったから」に息づく徳山村の人々の姿が、私にはとても繊細で好感が持てた。この夏、岐阜に行く予定がある。湖底になったかつての村を訪ねてみようかと思っている。そのことを大西氏に話すと、氏は「ぜひに!」と素敵な笑顔で答えたのだった。
興味のあるかたはぜひ
『水になった村』公式サイト
 週末のたびに、アウトドア三昧で、読書をする時間が取れず何となく罪悪感を感じながらもまた書を置き外に飛び出してしまう、そんな日々の中でも、おっ!これは!と思う作品を読んだ、いしいしんじの『みずうみ』とグレアム・スウィフトの『ウォターランド』である。どちらも水を巡る物語である。
 そんな、貧弱な読書を続けながら、2日続けて水について感じる事のあった週末を過ごした。1日目は河川の源流部をつめるシャワークライムである。登攀のレベルとしては初級の沢に入ったのだが、台風の影響で増水しており、少し苦労した。入渓地点には岩の下にヤマメが見え隠れしていた。源流部の水が無くなる地点まで登攀すると静かな林間にヒグラシの声が響く。言わば、水が河となって生まれる場所に立っていた。
 次の日は、早朝、車を飛ばし太平洋岸の海岸でサーフィンをした。南からの風を受け波立つ波頭にもまれながら、ああ、ここが河の終着なのかと思った。
 源流部から大洋へと水の営みを少しでも感じたかったのだ。何を感じたのかは言葉にはならないのだが、自分がほんとうにちっぽけだな、と思ったのは確かだ。体を使って感じること、そこには、また読書とは違った何かが待ち受けているようで、ワクワクする。しばらくは、ページをめくる時間がつくれそうにない。トホホと思いながらも、またカヤックを車に積み込み海を目指す。



いしい しんじ
みずうみ



グレアム・スウィフト, 真野 泰
ウォーターランド
 郊外都市の湖畔に一人の男が降立った。そばには素朴な女。湖畔で静かな生活をのぞむ男であったが、その眼は油断なく構え、心の休まる時はなかった。愛する女の死をきっかけに次々と明らかにされる男の過去。ありがちなハードボイルド小説の設定だが、本作がデビュー作となる著者の確かな筆力は、ハードな中にも繊細さと美しさが溢れ、ラストの湖畔の輝きの中に漕ぎいでる男の姿は感動を呼ぶ。第10回日本ミステリー大賞受賞の傑作ミステリだ。



海野 碧
水上のパッサカリア