重松 清
かっぽん屋 (角川文庫)
 前回、川餓鬼の正しい夏休みについて書いたので、「正しくない夏休み」ってものについて考えてみた。すぐに、頭に浮かぶのは、夏休み明けの新学期ひそかに想い焦がれていた清楚だった女子が茶髪ではすっぱになっていたりした中学生の頃の思い出である。彼女にとっての夏休みが何か「正しくない」ものであるのは容易に想像がついたのだが、こういった思い出はあまりに生々しいし、「ひと夏の過ち」みたいでなんかしっくりしない。そんなことを思いながら、夏休みをテーマに書庫をあさってみると、ありました。しっくりする小説が。重松清の『かっぽん屋』である。本書の中の『すいか』という短編はまさに「正しくない夏休み」を描く秀作だと思う。
主人公のヨシヒロは小学校6年。悪友のコウジとともにすいか畑で「かっぽん」する男女を草むらから覗いている。ある日ヨシヒロは、女が男に突かれながら切なげにその乳房を押し付けていたそのすいかを両手に抱き、「まあるいすいかを抱いていると、なにか別の、もっと大きなものに抱かれている気分にな」り、「地面にこすりつけるように腰を動かし」ているのを女に見つかってしまう。「ちょっと、あんたなにしよるん?」「いやらしいな、子供のくせに」と女につめ寄られる。やがて「おちんちん、見せて」と言われたヨシオは、気がつくと女の乳房にむしゃぶりついていた・・・・・・そんなことがあった後、ヨシヒロがひそかに恋焦がれる同級生のカヨコの優しげな声に思わず「うるせえのう」と邪険にしてしまうヨシヒロ。思春期の切なくて正しくない夏休みを重松清の筆が陰鬱になることなく描いた快作である。


森下 雨村
猿猴 川に死す―現代によみがえった幻の釣りエッセイ (小学館文庫)



森下 雨村
釣りは天国 (小学館文庫)
 先日、ウナギのことを書いていて久しぶりに雨村の釣りエッセイを読み返した。このエッセイは以前にも触れたことがあるのだが、(日本の原風景で釣る)何度読み返してもすばらしいエッセイである。雨村はうなぎ釣り師としても知られた人物で、昭和初期のうなぎが川にあふれかえっていたときの様子を以下のように生き生きと描写している。
 春日川の川筋にうなぎの多かったことは間違いなかった。いまの日本の住宅難のように、年ごとに遡上してくるうなぎは、その棲家がなくて、川岸の穴にせりっこをしていただろうと思われるほど多かった。その証拠には、一かかえほどの石を十ほど並べたほんの一と跳びというほどの石橋の根で、小さいけれどもつぎつぎと五,六匹のうなぎを釣った記憶がある。(同書『とおい昔』)
雨村の幼少時の話なので大正の頃の高知県下の郷里佐川村の川でのことである「釣った」とあるが、雨村の釣り方は独特のもので「ヒゴ釣り」と呼ばれるものである。この釣法は、私も幼い頃、祖父に連れられてうなぎ釣りに連れて行ってもらった時に、うっすらながら記憶にある。岩場などにもぐりこんだうなぎの穴に「ヒゴ」と呼ばれる竹を細く削って作った仕掛けの先にミミズなどをつけて、喰いついたところを、穴から引きずりだすように、「ヒゴ」をひっぱて釣る方法である。竿などを使わない伝統漁法といえよう。うなぎの棲家を見つけることがこの釣りで肝要なところであるから、当然、河川にそのような自然環境が保持されていなければ、そもそも、この釣法は通用しないのである。しかも、川に半身をつけての釣りなので、まさに川遊び的な要素もあり、まさに川餓鬼といった様相を呈していたのではないかと想像できる。事実、祖父もうなぎを釣りに行くときは、もっぱら遊びに興じる餓鬼の様であったと母が言っていた。
 このような、うなぎが生息する河川も護岸の整備や、水質の悪化などで少なくなるに従い雨村のような川餓鬼にもお目にかかれなくなって久しい。
 先日、岐阜の郡上市を訪れたとき、その懐かしい川餓鬼に遭遇した。清流を半パンで泳ぐ子供たちの嬌声。空には天に届けとばかり入道雲がそびえていた。蝉時雨は山にその嬌声とともにこだました。「正しい夏休み」を見たきがした。後日、調べると郡上、粥川は950年頃、藤原氏の一人、藤原高光という人が、鬼退治のために山に入ったが道に迷うい、うなぎの案内でやっとこ鬼の住処にたどり着き鬼を退治した、爾来、うなぎを神様の使いとしてあがめ大切にしたという。その習慣が今でも残っていて、この川のうなぎはことのほか巨大であるという。(井田徹治著『ウナギ』より)そのうなぎは現在、国の天然記念物として保護されている。
 うなぎのすむ清流、川と戯れる川餓鬼。森下雨村の昭和初期には珍しくなかった地方の光景は、いまや天然記念物なみに貴重である。私たちは戦後何をしてきたのだろうかと、川餓鬼の声を遠くに聞きながら思った。蛇足だが、この流域にはこれまた天然記念物のオオサンショウウオも住んでるという。いつまでも清流が保たれるよう祈るばかりである。


佐藤 真
ドキュメンタリーの修辞学
 ドキュメンタリー映画監督の佐藤真氏が亡くなられた。突然の訃報であった。4日に精神科へ転院途中に突然走り出し、近くの団地から飛びて亡くなってしまったという。躁うつ病の治療を続けていたという。
 「「二〇〇六年九月吉日 佐藤真」と署名のある『ドキュメンタリーの修辞学』のあとがきから、ちょうど1年である。本書を上梓した頃から、病は監督を悩ませていたのであろうか、胸が痛む。その「あとがき」に監督はこう書き記している。「記憶と痕跡も、私がこだわり続けてきたことのひとつである。生身の人間にむかうのではなく、すでにこの世に存在しない人々の記録や痕跡のほうに、私の関心が徐々にシフトし始めた」「またぞろ、「不在」を追いかけることになったのである。」と、『エドワード・サイードOUT OF PRACE』の製作にあたって、監督の関心が生者から死者へ、存在から不在へとそのベクトルが変質していることを語っていた。にしてもである、その「不在」がこんなにも早く監督を取り込んでしまうなど、想像もできなかった。監督の著書『ドキュメンタリーの修辞学』を読み返すことによって、その早すぎる死を悼んだ。
 私が監督の作品を初めてみたのは『阿賀に生きる』である、その後『阿賀の記憶』をみてその静かなまなざしに、心を打たれた記憶はいまだ新しい。『阿賀に生きる』は新潟県の阿賀野川に暮らす人々を、監督とスタッフが共同生活を営みながら描いたドキュメンタリーである。水俣病に関心のあった監督が、新潟水俣病の被害地であもある阿賀野川流域の人々の生活を慈しみながら撮った記録映画である。水俣病患者の法廷闘争の場面なども見受けられるが、むしろそこにいきる人々の日常をフィルムに定着させている。そこには大上段に構える政治的な意図も無ければ、かといって土着の共同体のなかで、自閉的にまどろむそんな孤立も感じられなかった。社会の枠に組み込まれ、それに、時に足掻き、時に充足し、時に裏切られ、時に掉さす。そんな市井の人々の美しい姿が確かに、24コマのフィルムに定着していたのだ。その『阿賀に生きる』から10年後に再び監督が阿賀野川を訪れて『阿賀の記憶』を撮る。そこでは監督が「撮る側としては、『阿賀に生きる』(一九九二年)以降にあの場所をとるということは、とても重かった。できればその後の人生は撮らずに済ましておきたい」と危惧するように、10年前にフィルムに定着させた人々は多くが鬼籍に入っていた。その「不在」を慈しむかのようにカメラは主人のいなくなった囲炉裏端の空席を長が回しのショットで写し撮る。薪の爆ぜる音だけが聞こえてくる。
 写真を「カオスに満ちたこの世界の中からある一瞬だけを裁断して定着させた光と影の痕跡」と言い、「潜在的に遺影」と言うのに対して監督は映画は「<現在ここにある>といった現在へ踏みとどまろうとする志向を持っている」と言う。『阿賀に生きる』で共同体的撮影班を率いて集団製作を行い、水俣病という社会的な主題も織り込みながら製作した監督は『阿賀の記憶』の中で「現在を強く志向する」フィルムの中に「不在」を強く感じたであろう、その製作スタンスを、批判的なまなざしで見つめていた「私的ドキュメンタリー」的なもの方へと移しはじめたような感じがした。それが「不在」へのベクトルではないのかと私は思っている。しかし「私的」な空間に充足するだけではなくそこからもれ出るような、あふれ出るような社会性を保とうとしたところ、その「私的」を食い破ろうとする力、そんなものを『ドキュメンタリーの修辞学』は感じさせる。
 「映画監督が生活苦のあまり首を吊ったという話は聞いたことがない。生来この業界の人間は自分も含めて楽観的にできているのかもしれない」と言う監督。その監督の新しい作品が見れなくなる。寂しい。
 深くご冥福をお祈りいたします。 
前回のつづき
 隘路を抜けると、集落に出た。山の方向から道が合流しており、その合流する道を登ってゆくとすぐに、右手に牛舎が見える。木造の牛舎の中で黒々とした牛が見える。しばし、逡巡するも牛舎の入り口に車の頭を入れ、車を降りた。前方に白い軽トラックが止まっているのが見える。荷台の上の窓から振り返ってこちらを見る視線を感じる。年のころ14,5の少年とも少女とも見える視線がチェックのキャップ越しにこちらを見ていた。と運転席のドアが開き、おじさんが少し怪訝そうな面持ちでこちらに歩いてくる。私は、おじさんに向かって声を掛けた。「すみません。これは飛騨牛でしょうか?」「そうや」と答えるおじさんは私が指差す牛舎を見ながら「飛騨牛や」という。口調にやわらかい関西のイントネーションが感じられる。「あの、昨日町で、とてもおいしい飛騨牛をいただきまして、ハイ。あまりにおいしかったものだから感動して、それで、その店の人に、近くに飛騨牛を飼っている人がいると聞いたので、ハイ、見に来ました。あの、私た横浜から来ました。ハイ。で、少し見せていただいてもよろしいですか?」と一気にまくし立てるように、言う。すると、おじさんは突然、花が咲いたかのように破顔し、「そーかい、横浜から、わざわざ。」「よか、よか見てって下さい。」と言ってくれた。おじさんは痩身でグレーのワークパンツに水色のポロシャツは少し生地が薄くなり、とても着心地がよさそうな、でも顔には想像していた、牛飼いの人(北の国からの五郎見たいな無骨な人を想像していた)とは違って、髪の毛に藁はついているものの細い顔は笑顔にしわがより、しかし細面の顔は、外仕事より事務仕事が似合いそうな、知的な雰囲気を漂わせて、まあ、勝手に想像していた「農夫」といったイメージを見事に払拭させるようなさわやかさで、牛舎を案内してくれた。牛舎は清潔で、匂いも思っていたほど強くはなく、むしろ乾いた干草が太陽をいっぱいに吸収したような、香ばしく鼻腔をくすぐるわくわくするような匂いと、とうもろこしのような穀物の匂いはちょっとしたパン屋のよう。あまり広くはないとはいえ、黒光りした木の柱に支えられた、スレート吹きの牛舎は5棟ほど、どれも風通しがよさそうで、光が牛の鼻先まで届いている。「あっちから、若い順にいるんや」とおじさんは入り口近くを指す。なるほど一番、左手の棟にいる5頭ほどはどれも私の腰程度の背丈で、楽しそうに飛び跳ねている。子供たちである。子供の牛も大人の牛も柱や柵につながれるようなこともなく、牛舎に収まっている。子供たちはてんでばらばらにあっちを向いたりこっちを向いたりしているが、大人たちはみなきれいに顔をこちらに向けている。その総数は30頭には及ばないのではないかと思う。広くはない牛舎だが、きゅうくつ感は感じられない。こっちを向いた牛たちのまなざしが数十注がれる。みな、おとなしい。黒潤んだ瞳は大きく、そして優しげだ。体は思ったほど筋肉質ではなくしかし、しっかりと張りがある。腰高の骨格は墨汁のような漆黒の毛に覆われているが、不思議と剛毛の感じがしない。「おとなしいんですね。」と聞くと、「そうやな、きょうは、涼しいから、過ごしやすいんかな。」とおじさん。「うちのは、うまれると、角落とすから」「角落とさんと、突きあうから」とおじさんは掌自分の腹を突くしぐさをする。「こっち、にいるのが今年12月に出荷するやつや」「こいつなんか、ちーさいけど中は、詰まっているよ。」と寝そべる1頭の肩をぽんぽんたたく。そのたたき方は愛おしくて仕方が無いといった感じ。そーか、つぶらな瞳に、一瞬、食肉牛であることを忘れていた私は、少し寂しくなる。飛騨牛がおいしかったからここに来たというのに。12月に出荷されるという3頭のうちの1頭が鼻頭を伸ばして私の匂いを嗅ぎ、ぶひひん!とくしゃみをする。可愛い。「写真撮ってもいいですか?」とつれあい「いいよ」とおじさんは「これ、起きてこっち向け!」と寝そべる1頭を足で蹴飛ばす。
 ふと、視線を感じる。先ほどの少年との少女ともつかない、おそらくおじさんの子供だろうと思われる彼<彼女>がトラックを降りて地面にしゃがんででいる。一瞬私と視線が交差するもつかのま、彼<彼女>の周りには子猫が数匹。彼<彼女>の手にする藁にじゃれ付いている。私はその視線の先に手を振ってみる。少しだけちらりとこちらを見ると、立ち上がりまた車に乗ってしまう。恥ずかしがりやさん。私は、そんな私のしぐさを見ている、おじさんの視線を感じる。つれあいは牛に夢中で気づかない。私はしばし、自分の仕事、発達障害の臨床系のそれ、を口におじさんにたずねようかとも思ったが、止める。
 「とても、良いとこですね。こんなところですごすから、牛もおいしく育つんですね。」と笑顔で尋ねる。彼<彼女>のことは聞かない。一瞬、息を呑んだおじさんも笑顔で「そや。いいとこや。水はきれいやし」と。
 それから、餌や飼育環境、牛を飼う苦労なんかを聞き、「ありがとうございました。楽しかったです。」「うしさんさようなら」と別れを告げると、おじさんは車まで送ってくれようと歩き出す。藁の山で寝転んでいた子猫が列を作っておじさんの周りを踊るように跳ねる。うも!と潤んだまなざしの大人の一頭が短く啼く。車に乗った、彼<彼女>はじっとフロントガラスを見ている。遠くから川のせせらぎが聞こえる。
「さようなら!」牛さん。おじさん、彼<彼女>さん、子猫たち。
「さよなら!きいつけてな。ありがとう。」おじさんはあふれるような笑顔。
「さようなら!がんばってください!」
 車中の私たちは、交わす言葉がなかった。胸の奥から何か、懐かしいそして熱いものがこみ上げてくる。橋を超え、トンネルを抜け、涙が収まった頃、つれあいにぽつりと聞いてみる。「なあ、気づいたか?あの車の中のあの子、そのしょうがい・・・・・」「いや、いいんだ。」と私。しばらく走った後につれあいがこうつぶやいた。「うん。気づいてた。牛さん可愛かったね。みんな幸せそうだったね。」「そうだね」私は力強く言った。「そうだね。幸せだね。」と。


青山 潤
アフリカにょろり旅
 
 夏のスタミナ。ウナギ。なんか疲れたなーとか思うと、よっしゃ、鰻でも喰いいくか!ってな具合に、若手に言ったりする、あの鰻。言った手前、引くに引けず、財布の中身を確認したりする。なっていっても、あの腹の黄色い天然ものは高価なのです。しかし、私が幼かった頃鰻ってこんなに高価だったかしらん?そーいや、よく川に行って鰻とってなかったけ?と過日に思いをはせる。確かに、捕っていた。川に一晩中に竹でできたかごにレバーなんかを入れとけば数匹は入っていた気がする。祖父はよく「ひご」と呼ばれる仕掛けにどぶみみずを餌に捕っていた、そんな記憶が、確かにある。
そんな日本人になじみのウナギであるが、これが実に不思議な生き物で、古来はギリシャの哲学者から近年の科学者まで、その謎をめぐってロマンあふれる創造と冒険の源であったことはあまり知られていない。私の好きなグレアム・スウィフトの『ウォータランド』にも詳細なウナギの記述があることからも、その、不思議な生態は作家の創造力を刺激するほどであることが分かる。なんといっても、その謎の核心は身近な水辺にぬらぬらとうごめくそれが、実は遠く太平洋の深海マリアナ海溝あたりで産卵しはるか数千キロを旅して川に住み着くということだ。そんなウナギの不思議を東京大学のウナギ研究班の著者がつづった旅エッセイである。学術的な関心もさることながら、著者の真骨頂は研究者とは思えない足取りの軽さ、逆境にめげないタフにある。全世界に18種いるといわれるウナギ。そのウナギの手に入っていない一種をはるばるアフリカまで採りにきた学術的フィールドワークなのだが、かの地のトイレ事情に絶句し、ウナギをめぐって地元漁師とかんかんがくがくのやり取りをし、ローカルバスに揺られ、内戦の爪あとにおののくといった一級の冒険譚に仕上がっているのだ。
 身近なウナギにこんな悠久の物語があって、それを語ってくれる研究者たちのなかなか日の目を見ない地味な研究への探究心に感嘆しながらも、そのおかしさに腹を抱えてしまうのだった。
 
 前回のつづき
 前日の暑さがうそのように、飛騨の山並みは朝の霧を衣のようにまとっていた。少し肌寒いくらいの、朝。前日、飛騨牛をたらふく食べてくちくなった腹を抱え、つれあいと早速、飛騨牛に逢うべく、山中に車を飛ばした。しかし、やはり店のシェフから教わった道順は酔った頭には入っていなかったらしく、なんとなくこっちだよなと頼りなげなハンドルさばきで、どんどん山中に入ってゆくと、そこは最早、対向車とすれ違えないような山道、愛車のプジョーもえっちら、おっちらという感じで何とか山を上っている。左手には清流が流れ、右に迫る山肌からは時折、その清流に流れ込む沢がちらほらする。「うーん、沢登りにはナイスではないか。」とつれあいに言うと、「ほんとに、飛騨牛に逢えるのかなー」と早くも呆れ顔。緑の木漏れ日は、車中を薄く染め、ひんやりとした空気はしっとりと水分を含んでやや重たい。道端の標識を確認するとM村とある。清流はM川。急峻な道は曲がりくねり、いくつものトンネルを抜ける。民家はほとんどない。「熊に注意」の立て看板は、なかば錆びて朽ちている。何回目かの橋を渡って、いよいよ道幅が狭くなり、やばいかな?と思った矢先。車のフロントに上からバサバサと音とともに茶色い影がぶつかる。ガリっ!一瞬、車内が暗くなる。「ぎゃー」叫ぶつれあい。「おげっ!なんだ、今の?」「鳥ばったみたい」「すごくでかくなかった?フロントガラスの半分は逢ったよ。」「あっ、ここ見て!」つれあいが何かを見つけたらしい。その指差すフロントガラスには、三条のくっきりした爪あとが。しかもガラスにくっきりと刻み込まれていた。猛禽類が襲ってきたらしい。しばらく、車をとろとろ走らせ、「何か、やばくない?」と臆病風に吹かれた私は言った。熊に襲われるはまだしも、鳥はいやである。あたりをきょろきょろし、フロントの傷を確かめるためサイドのウィンドウを開く。「気をつけて!」とつれあい。ウィンドウの隙間からあの大きな爪で引きずりだされる妄想が浮かぶ。と、そのとき、「うもー、ぐもー、うぉーおお」と山中から響くなぞの声。「ぐもー、うぐおー」と低く響く声に、「うわ!今度は何だ」とあわててウィンドウを閉める。すると、鼻腔をつく強烈な獣臭。いよいよ、やばい。とおもいきや、「もー、うもーもー」との声。そして、なんとなく香ばしいこの香り。「飛騨牛?」とつれあいと同時に顔を見合す。どうやら、この近くにいるようだ。声は山の奥から響いてくる。その声と匂いを辿れば逢える。「よっっしゃ」と再び、細い山道を登ってゆく。きょろきょろあたりを見渡しながら、くんくん鼻をならしながら。つづく
シャワークライムで淵をトラバースしているとき、ふと壁面を見ると、色艶やかな蝶が苔むす壁面からの水を飲んでいるのに出くわした。深山の渓谷の淵である。あたりは薄暗い中、翅に浮かびでた瑠璃色が金属的な光を放ち、黒々とした岩場に幻を見たような気がした。
 山中の岩場ではよく蝶が水を飲んでる場面に出くわす、体温の調節のためともミネラルの補給のためとも言われているが、専門外の私には、良く分からない。ただ、その美しさに嘆息するばかりである。
 夜、ランタンを灯すと、今度は蛾がやってくる。大きなものは私の掌大ある。ばさばさと音をたてて飛んでくる。良く見ると艶のない翅には抹茶のようなくすんだ緑。夜の闇に似つかわしい。蛾の飛行は月の明かりを頼りとするらしい、したがって、月より強い光源があると、その方向感覚が狂ってしまい、こうしてランタンの周りを乱舞するらしいが、専門外の私には、良く分からない。ただ、その妖艶な舞に夜の深さを知るばかりである。
 昔、教科書だったかで、ヘルマン・ヘッセの短編を読んだ記憶がよみがえった。蝶をコレクションする少年が友人のコレクションにすばらしい、蝶を見つけ無断でそれを拝借するも、盗ってしまったという、自責の念に駆られ、それを返しに行くが、少年の掌の中で、無残にもそれが壊れてしまっていたという話であった。子供の頃、とても好きだった短編である。
 家に帰り、書庫を探すと岩波書店の『蝶』という本の中に『クジャクヤママユ』とうい題で該当の短編が収録されていた。読み返してみると、どうも幼少の頃の記憶より、少し描写が違うように思えて、調べてみることとした。すると、教科書に載っていたのは『少年の日の思い出』という題で『クジャクヤママユ』のヘッセ自身による改稿版であった。そのことは、みやぎさんの「硯箱」という素敵なサイトに詳しいので、興味のある方はそちらを参照してください。(『硯箱』)しかし、ヘッセが描いたのは蛾であっのは少しびっくりした。今まで蝶とばかり思っていたので、あらためて、今度山に入ったら、蛾もじっくり観察してやろうと思った。飲み屋の便所で翅を広げばたばたしているイメージがあったが、そんな先入観はやめにしよう。しかし、蛇足だが、蝶=てふてふは銀座のバーみたいだが、蛾は池袋の人生横丁のキャバレーみたいな感じがするのはなぜなのだろう?まあ、どちらにしたって幻惑に満ちた妖艶な燐粉で、惑わされないようにしなきゃいけないのではあるが。
 ヘルマン ヘッセ, フォルカー ミヒェルス, Hermann Hesse, Volker Michels, 岡田 朝雄


川端 裕人
桜川ピクニック

 先に紹介した夏石鈴子の『夏の力道山』の「豊ちゃん」が働きながら子育てをする、怒涛の主婦なら、こっちは働く主夫のおばかで、のりのりの怒涛の主夫小説である。もとパンクスの「恵」こと「グミちゃん」は二人の子持ち。ある日3歳になったリカはこう考える。「観察1 パパには大きなおちんちんがある。観察2 保育園のクラスにはおちんちんのある子とない子がいる。仮説1 ない子には、そのうちに生えてくる。」と。したがって「グミちゃん」にこう聞くのである。「ねえ、ねえ、リカちゃんのおちんちん、いつはえてくるの」。第一次性徴である。そこまでは、フツーなのだが、ある日、「グミちゃん」のお尻におできができるにいたって、リカはこう考える。リカにはおちんちんの代わりにおマメとおまんちょがある。「観察4 ぱぱにもおマメができることがある。仮説3 男の人にも、おマメやおまんちょができるかもしれない。」と。イヤーまいった!さあ、ここで困った元パンクスは小難しいこと考えずに「おしりのうた」を作り、リカとともにお風呂で絶叫!「おしり、おしり、ほら、みんなのおしり!」いつの時代も子供は下関係が大好きである。やけくその「恵」のお尻ソングは保育園で大人気となり、やがてみんなで「おしりのうた」の大絶叫へと流れ込んでゆくのです。子育ては理屈じゃねーというような、おばかな、怒涛の主夫小説『おしり関係』ほか収録のおばかな子育て記。抱腹絶倒モンです。

 この夏、岐阜を訪れる機会があった、つれあいがすごーくおいしいという飛騨牛を食べられる店に連れて行ってくれた、それは南飛騨の有名な観光地から山間に入ること車で10分ほどの、農村地帯にぽつねんとあった。古民家風の一軒家はそこがお店だとはにわかに信じがたいたたずまいで、門にすらすらと膝丈の、おそらく麻でできたのであろう、風を受けて軽やかな暖簾をくぐったのは、山間部の闇がふもとから、山頂へと舐めるように駆け上がった宵の口であった。陽光の名残は、首を痛いほど仰ぎ見る飛騨の山並みの山頂付近の木立の、さらにその天辺に、通り抜ける風に揺れる木々のこずえでかろうじてそれと分かる空との間が僅かにほの暗く輝いている其処にしか感じられなかった。タクシーがつくのがあと10分遅かったら、山並みはすべてを嘗め尽くし、暗い底のひなびた集落といった、印象しか残さなかったのではなかったか?しかし、今は僅かながらの、宵の光の中で、その店のたたずまいが、やけに威風堂々としていることに、私はただただ怖気づいていた。そんな私の、銭入れのかるーくなる予感に、ああ、このまま風に吹かれて山に昇天してゆきたいとの思いを知ってか知らずか、つれあいが、「ここは、まかせて!」とポーンと財布の入った肩掛けを叩くと、よっしゃ!とばかりに、どこぞの若旦那風に、足取り軽くはらりと暖簾をくぐると、しっかりと「ごめん!あない頼もう!」とばかりに虚勢を張る私はといえば、ビーサンこそはいていないものの、不精ひげはやし、半パン、ポロシャツのただのアウトドア親父。
 で、お味は?旨い!美味!すごい!の三連発。口の中でとろけるそれはもはや、牛を越えて築地料亭のトロクラス。しかし、噛むごとにしっかりした、獣の肉汁が口腔いっぱいに拡がり、そこにすかさず、地酒を流し込む。至福。天国とはこのことか。と人の財布をあてに贅沢三昧。こんな旨い牛って、どんな牛?とばかりに、酔狂の舌は滑らかにシェフに、「こんな旨い牛に逢いにいきたい」と訴えていた。聞けば山奥深く、清き水の流れる里に、ちらほらと個人の牛飼いが住んでいるという。「逢いたい。是非に、逢いたい。!」と懇願すれば、酔客の扱いに慣れたシェフに、「牛の顔は、みんな同じですよ。はは。」と笑われる始末。それでも、と粘ると、何とか地図片手に牧場の説明をしてくれた。「今の時期は山に放牧されているから」と。しかし、酔った上に細かな地図を示され、しかも知らずの土地果たして飛騨牛に逢えるかしらん?と一抹の不安を抱え、都会風をふかした自分に少し鼻白む。しかし、くちくなった腹を抱えて、いざ飛騨牛へとばかりに、温泉に浸かってその日は、至福の夢に落ちたのだった。
つづく
 1999年9月30日に起きた東海村の核燃料加工工場JCOで起きた臨界事故で、現場で被爆した工場従業員の悲惨さは『朽ちていった命』に詳しい。このことは、過去のブログで書いたので以下を参照してほしい(『朽ちていった命』)。写真家の金瀬胖氏による本書は、事件のあった東海村を事故後から最近にわたって撮影した写真集である。被写体は生々しい事故現場やこれみよがしに事故の悲惨さ、もしくは当時の混乱をフレームに収めたのではなく、そこには一見のどかな、そして平和な田舎の海岸や、田園地帯、住民の姿がやや荒い素子の白黒フィルムで撮られている。しかしそのフレームの中には、原発の排水施設や発電施設そのものの姿が、同時に写し取られてる。それは、あたかも日常生活の中の異物のように、そしてそのことに、無自覚な住民たちの平和裏に、潜む闇のように読み取れなくもない。その、コントラストをいっそう鮮やかにするかのように、サーファーが波に戯れ、住民はのどかに農作業に勤しみ、子供たちは元気に登校する。光と影。意図的に対比させられたこの構図の意味するところは、単純に考えると、無自覚さの裏に隠蔽された放射能という目に見えない恐怖を浮かびあがらせることだろう。しかし、実際に事故当時に東海村に住んでいた住人、また原子力関係の事業者、農民、漁民、サーファーに知り合いが多いこともあって、つぶさに話を聞く機会があったのだが、誰もが、原発、原子力の危険性に無自覚であったのではないと、ここに言い添えたい。むしろ、現代文明を生きるうえでやむなし、利便さを得るがための代償、事故は天災に近しいとの感覚を持っているように思えた。環境問題や教育に熱心な住人の中には、むしろ原発を容認するかの動きもある。フィルムの向こうの住人の思いは、かくも複雑、モザイク模様である。
 東海村の「東海祭り」を見学したことがある。そこで「東海音頭」に合わせておどる老婆を見ながら、私は複雑な思いになった。その音頭はこんな歌詞であった。「はあー、誰があ、ともした原子の火ー、やあ、よい。よい。」。人為と作為を自然、天然へと取り込もうとするかのような、そんな民俗学的な匂いをそこに嗅いだ私は、身震いを感じた。夏の東海村は暑かった。



金瀬 胖
EXPOSED―東海村感光録