
生田 武志
ルポ最底辺―不安定就労と野宿 (ちくま新書 673)

桐野 夏生
メタボラ
「美しい国ニッポン」なんて空ろな絵空事をのたまっていた、安倍氏も記者会見では虚ろな目をしていて、その無責任ぶりに怒りを通り越して悲しみを覚えるのだが、小泉改革によって行われた、小さな政府を目指す市場主義経済改革路線を批判する材料として「格差社会」や「ワーキングプア」と言った事柄が、声だかに主張されるに至っては、イメージ先行で、その内実が不可視で曖昧なところが、そのイメージのみで改革からの反動、旧態依然の保守主義者の後先考えない、選挙対策めいていた言説として流布していることは、もはや作為的なものを感じ、悲しんでもいられない、とばかりに実態はどうなっているのだろう?と関連書籍を読み漁っているところなのではあるが、読んでいて感じたことは、「格差」「ワーキングプア」と言ったものを論じている、評者そのものがその言葉を親身になって感じることができないのではないか?という御身分なのである。フィールドワークで集めたその「実態」は机上で論理付けされるための資料でしか過ぎなく、その「論理」なるものも非常に空疎なものが多かった。つまりは自分の立ち位置とは違う人を、選民思想的感覚で俯瞰し、哀れみやもしくは自己責任を説くための御託にしか過ぎないと言うことである。このことは安倍氏や福田氏が政治家2世として首相となっている、その選民思想と類似している構造だ。つまりは、内実を伴わない空疎な理念はまるで、経済アナリストが市場を語っているように限りなく不確定、疑わしいものである。
このように、「格差社会」を扱った本が不甲斐無いなかで、本書はルポルタージュの力を真に示す優れた本である。このことは著者が、生の現場に入り込み、そこでの実体験からたたき上げた理念が実社会に深い孔を穿つまでに強靭にその足腰を鍛え上げれれていることにある。実際の経験がその理念の強さ(正しさではない)を担保しているのである。このような「現場主義」的なスタンスは、先に亡くなられた佐藤真氏や氏が影響を受けた小川紳介などの優れたドキュメンタリー映像作家にも通低するスタンスなのではあるが、その「現場主義」的スタンスは時として、対象(映像や文章として立ち上げたときの被写体や文に書かれる人としての意味)の「私」性と対象者が生きる社会の構造、とそれを支える構造(マルクスのいう上部構造)との間に齟齬を生み出す可能性がある。観察者は常に目の前にいる「私」性を伴った個人の生々しさと、それが特異であればあるほど、社会の構造との乖離を感じるのではないか?その個人から何らかの理念を抽出することへのためらいといったような・・・さらには、その社会の構造に投げ込まれた自分の立ち位置といったものへの嫌悪さえも。まあ、もっとも俯瞰的位置から見下すように開き直ってしまえば元も子も無いのだが。
このような、ルポ、ドキュメンタリーの抱える、困難さを著者も日本最大のドヤ街「釜ヶ崎」に20年もの長きにわたって、内側から観察したその当初に当たっては痛感していたようである。
それが証拠に、氏は釜ヶ崎の労働者の実態を知るべくその現場に足を踏み入れるきっかけを以下のように語っている。
「そのとき大学2年のぼくは、数学や物理学の論理的基礎を学んでいたが、一方で自分自身と世界との生きた接点が見つけ出せないという現実喪失感に苦しんでいた。もともと、社会にある貧困の問題に関心は持っていたが、それと自分固有の問題とをどうつながりをつければいいのか、解けない問題のように感じられていた。下層の労働運動に関わりながら独自のキリスト教体験を重ねた思想化、シモーヌ・ヴェイユの著作集を読んで強く惹きつけられたのはこの頃だった。ちょうどその時期、この釜ヶ崎の番組を見た。」
と、氏の立ち位置はそのはじめから、社会の問題を自己の問題として取り扱うことの困難さ、その誠意あるスタンスを「不在の神を待ち続ける」ヴェイユと重ね合わせ吐露している。そこには俯瞰的な視座は微塵も感じられない。しかし、それは途方も無い困難な道であった。常に被観察者と自己の境界が侵犯されるからである。事実、氏は1990年に勃発した「釜ヶ崎暴動」(その記述はパリコミューンを彷彿とさせる)を機に、深い悩みのうちへと沈んでゆく。
「ぼく自身も、「様々な立場の人とともに差別と闘う」ことを自分の問題として考えようとしながら、それをどう引き受ければいいのか、わからなくなっていた。釜ヶ崎で日雇労働を始めたとき、それまでの自分が嘘くさいものに見えてきたように、釜ヶ崎に関わる自分への疑問が再びのしかかっていた。混乱した状態のまま、ほとんどの活動を中止した。」
こうして貧困問題を自己の問題として、弁証法的にいうなら「昇華」できなかった氏は、悩みながらも日雇労働を続けながら、釜ヶ崎に滞在し続ける。そして、転機は外から、悲劇の形をとってやってくるのだ。すなわち1995年に大阪道頓堀の戎橋で起こった野宿者、日雇い労働者藤本さんへの暴行致死事件である。つまり世に言うところの「ホームレス襲撃」事件である。このことに衝撃を受けた氏は、「自分でもなぜかよくわからないまま」現場へと駆けつける。そうして、
「釜ヶ崎や野宿者の問題は自分にとって引き剥がそうとすれば自分の肉や血を引き剥がすことになる。そんなものになってると実感せざるをえなかった。しかし、だとすればその自分が、次々と殺されていく人たちがいる中で何もしないでいるのはなぜなのか。事実、野宿者襲撃は次々と起こり続けている。そして、若者のの襲撃で殺されなくても、日雇労働者や野宿者は仕事がないというだけの理由で次々と死んでいる。しかもそれは社会的に黙殺され、放置され続けている。そのたびに、明日、あさってと橋から路上から公園から花を投げるのか。」
と、再び自己の問題として釜ヶ崎を見つめなおしてゆくのだ。それは、問題が「昇華」されたのではなく並立する問題に目を向けた、つまり平行な視線の視野を広げた、といっていいだろう。このようにルポにおける、対象と自己の葛藤から生まれた氏の考え、批評についてはまた別に記そうと思うが、なんせ、20年の身を投じた上での現場で鍛え上げられた理念である。力強いのである。ここでは、貧困が構造的な問題、決して自己責任に還元されるべき問題では無いとのみ述べておく。そしてその構造が生きる個人をいかに絶望へ、それは経済的絶望のみならず、内面の荒廃も含むということは、派遣労働者の実態からその悲劇的な顛末を描いた桐島夏生の『メタボラ』というエンターテインメントのテーマになっていることからもわかる。
さらには、対象と自己の侵犯と和解への運動は文学サイドからは笙野頼子が『一、二、三、死、今日を生きよう!』という面白い小説もあるので、そのことも次回以降触れてみたいと思う。
本書はルポの力を感じる力作である。








