連休に西湖にカヤック、キャンプに行った。アウトドア師匠の同僚夫婦とつれあいの4人でフォールディングカヤック2艇の所帯である。都心を出発する折には季節はずれの蝉が啼いていた。夏を思わせる陽気である。
 さすがに標高の高い湖畔は冷気が立ちこめ肌寒かったが、山は緑濃く紅葉の気配は微塵も感じられない。ナイトクルージングでは、星空に人工衛星が音もなく航跡を描いていた。湖面はキャンプサイトの光が反射するために、星を映しこむことは無かったものの、湖の中心まで漕ぎ出すと、街には無い暗さが、夜空をいっそう艶やかにする。
 朝もやの立ち込める湖面は鏡のように滑らかだった。
街に帰ってくると、空気に金木犀の香りたち、ようよう秋の気配が漂い始めていた。
    
西湖の朝焼けとカヤックからテン場を望む


野田 研一
自然を感じるこころ―ネイチャーライティング入門 (ちくまプリマー新書 (065))
 自分でも30を越えた頃からやけに自然に惹かれ始め、カヤックやらサーフィンやら山登り、沢登りと、本来若かりし頃に行うようなアウトドアスポーツに、体に鞭打つように行っていると、何でいまさらなのかな?と思ったりする。若い頃は、都会の紫煙あふれる猥雑なゴールデン街なんかで朝まで飲み、激論していたというのに・・・
 というわけで、自然に対する関心が高まってきたのだが、読書のほうも硬めの思想書よりは、梨木香歩や、田口ランディ、藤原新也など旅や自然をフィールドにする作者のものを好むようになってきた。「枯れた」といえばそれまでなんだけど。
 ネイチャーライティングなる分野があるらしい、著者によると、「自然に関するノンフィクション形式のエッセイ」を指すらしい。具体的には1)自然に関する科学的情報2)自然に関する個人的な反応3)自然に対する思想・哲学的解釈の要素を重要な構成要素とするものらしい。と、なって思い起こすのは、服部文祥の『サバイバル登山家』である(以前「自己の外部に確固として存在する圧倒的自然」でふれた)。その『サバイバル登山家』について、以前、「この、漠然と、しかしながら、えもいわれぬ焦燥感に包まれた現在、自己の外部に確固とした存在をリアルに感じ続けることのできる行為、それは真摯な哲学的行為にも似て、神々しさを放っている。」と書いたことがあるが、つまり自然への関心というのはつまるところ、自分の外部への関心ということになる。しかし、その「外部」というものは、あたかも自己と向き合うように確かに存在するのではなく、自己が投射する対象として存在しているに過ぎない。著者が指摘するように、自然への関心がロマン主義文学と呼応するように高まってきたことは、自己への関心の高さを、自然へと投射し始めたことを意味するのではないだろうか。つまり、ラカンが言うように自己の内部でまどろんでいた意識が、自然という鏡を通じて、新しい近代的自己を確立し始めたといえないだろうか。
 では、なぜ今、ネイチャーライティングなのだろうか?それは、自己を確認する対象に過ぎなかった自然に、自己を投射させるだけではなく、逆に自然から照らし出されることによって、自己が変容してゆくという構造に人々が気づき始めたからである。このことは主客の2元論がより相対的なものへと変質したことに機縁するような気がする。様々な自然科学の発達により対象としての自然が私たちの認識構造の変質を迫るより動的なものへと姿を変えてきているのである。そのことが著者の指摘する「交感」というキーワードの意味ではないだろうか。著者によると「交感」とは「自然と人間の間に何らかの対応関係を見いだす感覚あるいは思考。その内容は感覚レベル、心理学レベルから民俗的、宗教的レベルまで様々だが、根底には人間と自然との間に連続性と関係性を見いだすコスモロジーがある。」という。
 つまり人間と自然とのより相対的な動的な関係性である。しかし、無垢な、強固な自然というのは、ソシュールが言うように、カオスを言葉によって切り分け認識し始めた人間にとっては、幻想にしか過ぎない。しかし、あまりに人間的な認識構造をあたかも、強固な外部が存在するかのように振舞うことによって、人間中心的なものの見方をより多様な、相対的な見方へと変えてゆくには、必要なことなのである。しかし、何度も言うが、未開の無垢な自然は最早、どこを探しても無いのではないだろうか?だからこそそれを求めて、自然へと誘われるのだ。


オー・ヘンリー, 和田 誠, 千葉 茂樹
20年後 (オー・ヘンリーショートストーリーセレクション 1)
 幼少の頃、オー・ヘンリーの『最後の一葉』や『賢者の贈り物』を読んで幼いながらも、人生のほろ苦さの片鱗を感じたことを覚えている。新潮文庫の真っ白な装丁も良かった。何か冬のプレゼントのようにほっこりと暖かく、そして少し寂しいヘンリーの短編。初訳作品を含む、全編新訳の本書は、あの頃の懐かしい気持ちに帰れました。表題作の意表をつく20年後の友との再会。『改心』の金庫破りが最後に見せた良心。ヘンリーの短編はやはり王道です。



桜庭 一樹
青年のための読書クラブ



桜庭 一樹
赤朽葉家の伝説



桜庭 一樹
少女七竈と七人の可愛そうな大人
 桜庭一樹の作品には「異形」の者たちが登場人物として重要なたち振る舞いをする。『七竃』の「異形」と形容されるほどの美貌のかんばせの持ち主。『赤朽葉』の千里眼を持つ老婆。そして『青年のための読書クラブ』の面々。醜悪なかんばせ、華麗な女生徒が学ぶ学園内で越境するジェンダー。桜庭の作品ではその「異形」な者たちが歴史を作り出してゆく。そしてそれはプロパーたちが正々堂々と築いてゆく「正史」に対して、裏側に隠された「異史」として描かれるのだ。「異史」を築く、トリックスターたち。「異形」の者たちが跋扈する。著者の学園小説である。
 川崎市某所。住宅街を流れる小さな小川にグッピーの群れが泳いでいると教えてくれたのは、同僚だった。主婦の彼女は早速、子供たちをつれてグッピー採りにむかったら、わんさか採れて、自宅で飼育しているという。生まれも育ちもその小川近辺の人に尋ねると、4,5年前から生息しているという。小川にグッピーが?とやや疑心暗鬼になりながら早速現地に行った。
 仕事帰りだったのでとっぷり日が暮れている。同僚の教えてくれた場所は、幹線道路から一本入った住宅街を流れる小さな小川。周辺は遊歩道に整備され、川幅は1メートルに満たない。親水公園風に整備されている。おそるそろる水面をライトで照らすと・・・いる!しかもものすごい数で群れている。集光性の性質なのか街頭の下に集まっている様子は、水面がばしゃばやライズするほど。ためしに網ですくうとすぐに採れる。持参したコップに入れて横から見てみると、明らかにグッピーである。
 近所の人に聞いてみると。「前からいたよ。」とのこと。そのおばちゃんは「えー、グッピーって言うんだ。メダカかと思ってたよ。熱帯魚?何でこんなとこにいるのかね?」と言っていた。
 川の水温は心なしか暖かいように思える。周辺の河川に生息域が拡がっていないことを考えると、この場所のみのようだ。おそらくこの小川そのものが何らかの温排水を利用して作られたものであると考えるのが妥当のような気がする。
 それにしても、フツーに泳いでるグッピーの群れ、違和感を感じずにはいられなかった。


捕まえたグッピーたち


パラマウント・ホーム・エンタテインメント・ジャパン
ゴースト・ドッグ


http://blog.ameba.jp/ucs/entry/srventryinsertinput.do
ソニー・ピクチャーズエンタテインメント
波止場
 風邪気味な日々が続き、本を読むことがつらいのでDVDで映画を観た。ジム・ジャームッシュの『ゴースト・ドッグ』である。ジャームッシュの映画は『ストレンジャー・ザン・パラダイス』、『ダウン・バイ・ロー』など、これといって複雑なストリーがあるわけでなく、淡々と画像が流れていくので、風邪気味でも苦も無く見れると思ったのだ、1999年の本作品は以前観たときには、なんか、タナティーノぽいなとの印象しかなかったのだが、今回、やや腰をすえて観たためまた違った印象を持った。
 まず気になったのが、過去の映画のパロディめいた引用が多いなというところだ、たとえば主演のフォレスト・ウティカー演じるところの殺し屋が住むニューヨークのアパートの屋上なのだが、鳩の小屋があり、主人公は伝書鳩を可愛がっている。これは、明らかに、レース鳩を屋上で飼育している、あのマーロン・ブランドが『波止場』の中で演じていた港湾労働者の姿である。
 さらに、主人公の周りにいるマフィアの面々が「ソニー」だったり「ルーイ」だったり、その名前や描かれ方は『ゴッドファーザー』のカリカルチャアーである。
 全体的に、マフィアの世界と主人公の世界を大げさなまでに戯画化して描いているのだが、作品中にマフィアのボスの娘が読んでいた「羅生門」のペーパーバックに触れるところは戯画化されず黒澤映画へのオマージュとも感じられる。
 このようにカリカルチャーライズされた映像はB級フィルムのような怪しさを漂わせている-そこが、タランティーノを感じさせる-のだが、ジャームッシュのひねりがきいているところは、主人公の殺し屋、ゴースト・ドッグが「葉隠」に心酔して、その哲学を生きる手本としているところである。「葉隠」的哲学。それは、すなわち滅私奉公的ファナスティックな武士道精神である。つまり、かつて「波止場」のマーロン・ブランドが不当な搾取的な労働者への抑圧と戦うために一人立ち上がったのに対して、ゴースト・ドッグは主人の雇用主である、かつて命を救ってもらったマフィアに、自分を捨てて仕えることによって、その姿を「葉隠」の武士道と重ね合わせることによって、生きているのである。
 つまりファナスティックな自分をむなしくする哲学に心酔するとと、マフィアの手先となって殺し屋家業に精を出すこととが、主人公の中で無自覚的に一体化されていることを、強烈に皮肉っているのだ。そしてラストに主人公が望むような結末が待っている。そこには喜劇としかいいようがないような雰囲気が漂うのだけれど、ポケットから「羅生門」を出して「あんたも、これ読んだほうがいいぜ」と虫の息で主人のマフィアに言うゴースト・ドッグ。このシーンだけが、全編を覆うカリカルチュアーから解き放たれている。それは、大義が不在の世の中で、極私的な狂気を大きな大義へと変革させようとする現代人の孤独なそして無謀な試みを慈しみながら描いているような気がするのだが、それは深読みだろうか?
ゴースト・ドッグ公式サイト


松尾 由美
九月の恋と出会うまで
向田 邦子
隣りの女 (文春文庫 (277‐4))
 向田邦子の『隣の女』はアパートの隣室に住む女のミシンの音から、想像が膨らんでく人妻の艶やかな不倫を描いた作品であるが、松尾由美の『九月の恋と出会うまでは』不思議なアパート(入居に面接があり、芸術家が多く住む)の隣室から、エアコンの孔を通じて聞こえてくる不思議な声をめぐる物語だ。「シラノ」と名乗るその声の主に従い、隣室の住人を尾行することになったのだが・・・
 物語は時間を遡及するようなSF風な展開を見せながらもクライマックスのさわやかな恋愛への予感は、これが優れた恋の物語になっている証左。秋のさわやかな風に吹かれて読むのがお勧め。
 平日に休暇がとれた、とは言うものの風邪気味とあって、仕方なく遠出はやめて、鎌倉方面にドライブに行く。途中、海岸沿いのイタリアンレストランで昼食にする。とある作家がおいしいとエッセイに書いていた店だ。地元の知り合いに聴くと、「まあ、まあおいしい」というので寄ってみた。
 2階建ての一軒家は、すべての席から海が見える。板張りの床がきしむなかなか雰囲気のある店である。通された席はいちばん奥のテーブル席だったが、海からの柔らかな光が降り注ぎ、光の粒子が店内を拡散して漂い、何か懐かしい感じがした。
「なかなか、いい店でないの」と思って周りを見ると、一つおいた隣のテーブルに女性が3人。髪を結って和装にあわせるかのようなスタイルの若い女性はジーンズにスニーカー。ノースリーブの少し太めの女性はひっきりなしに煙草を吸い、その二人を気遣うような若い女性は、二人がノーメイクなのに一人だけばっちり化粧している。しかし、光燦々とあふれる中で見ると少し粉っぽい。つまり、なんというか「業界の人」風の3人である。
 テラス席ではワインのデキャンターを傾ける、夫婦。
その、3人の女性を気にしたわけではないのだけれどパスタには「娼婦風」をオーダーする。「イベリコ豚のジェノベーゼソース」も食べたかったが、前菜2品とったのでよすこととした。車なのでアルコールはなし。
パスタを食べていると隣に5人の主婦と思しき女性たちが入ってくる。みなランチを注文。ゴルフの話、着ている服の話、子供の話。親の話。かしましい。パスタをすする音が気になる。そばを食べているかのよう。平日の昼下がり、夫は働いているのに、妻たちはイタリアンでかしましくしているという少し穿った見方をする。自分は差し置いて。数年前のサラリーマン川柳を思い出す。確かこんな感じだったような・・・
 昼ごはん 妻はセレブで 俺セルフ
思い出して少しにんまりする。でも楽しそうな主婦5人。「娼婦風」を食べ終わると件の3人ももういなかった。
 帰り逗子の魚屋で金目を買う。1000円だった。帰って煮付けにする。旨い。ちょっとセレブな休日であった。


生田 武志
ルポ最底辺―不安定就労と野宿 (ちくま新書 673)
 先に本書の社会性と観察者の「私」性について述べたが(ルポルタージュの力)、それでは現代の社会にあって、野宿者や「ワーキングプア」、もしくは「ネット難民」と呼ばれる、貧困層の人々が生まれる原因や背景はどうなっているのだろうか?ここで著者は、そういった貧困にあえぐ人々への「自己責任」めいた説明を退けている。貧困になるのではなく貧困が生まれるのである。そして、その背景には、「市場・国家・家族」の失敗があるという。市場の失敗は経済収益(賃金)の低下もしくは失業として、国家の失敗は税収による所得の再配分の破綻(セーフティネットの不備)として、家族の失敗は相互扶助と破綻として現れると指摘する。この3つの失敗がかさなるところに「貧困」が生まれる。たとえば市場の失敗と国家の失敗の重なるところには、低賃金や失業状態(市場の失敗)にあり、かつ社会的な救済措置(セーフティネット)が機能していない状態(国家の失敗)ではあるが、家族の相互扶助機能が働いている状態(家族の失敗からは逃れている)といえよう。具体的には「パサライト」「ひきこもり」といったような、若者や家庭で介護されている障害者や老人などがここに当てはまってくる。では国家の失敗と家族の失敗が重なってくるところにはどのような状態が発生するか?国家の失敗によるセーフティーネットの不在と、家族の失敗による相互扶助の不在は、個人主義的な小さな政府を目指す市場主義的経済の状態を指す。したがって競争の激しい社会がここに当てはまる。では、市場の失敗と家族の失敗が重なったところはどのような状態か?これは、国家による再配分のみが機能して、低賃金、失業、家族の相互扶助の無い状態であるから、大きな政府の個人主義社会、すなわち北欧の社会状態に近い。
 このように市場・国家・家族の失敗のすべてが重なり合ったところに「貧困」が発生するのであると著者は指摘する。そしてその貧困をなくすためには、先の3つの失敗に代わるオルタナティヴな社会的活動が必要だと説く。つまりは市場の機会を公平均等にし、国家によるセーフティネットを構築し、家族による相互扶助の機能の復活である。しかし、言うは易しであり、段階的に貧困層にある人々へのケアを行わないと現実的に貧困から抜け出すのは困難であると著者は指摘することも忘れない。
 紛争地帯や難民が発生するような、究極の貧困地域に派遣される「国境なき医師団」が大阪の野宿者の状態は海外の難民キャンプのかなり悪い状態に匹敵すると指摘していることも驚きだが、そもそも「先進国」であるところの日本に「国境なき医師団」が派遣されていることが驚愕である。
 私たちの、足元で究極の貧困が不回避のものとして生まれ、そこにあえぐ人たちはなかなかそこから抜け出せずに固定化され、さらには、不定期労働(スポット労働・契約労働)の若年層への浸透に見られるように、貧困の「予備軍」の増加。本当に本腰を入れてオルタナティヴな活動による、社会構造の変革を行っていかなければ、近い将来、巨大な貧困という「第三世界」を内包した、見せ掛けの繁栄を誇る国になりかなねない、いまその瀬戸際にこの国は立たされている。
 9月27日は何の日かご存知であろうか?人によって楽しい日、悲しい日、それぞれであろうが、横浜市民にとっては1977年に起きた米軍機墜落の悲しい日として記憶される。
1977年の9月27日。厚木基地を飛び立った米軍のファントム戦闘機が横浜市荏田に墜落。兄弟2名が死亡。その後4年の歳月を経て母親もなくなるという痛ましい事故である。
当時、近隣に住んでいた友人の話によると事故現場は米軍によって封鎖され、警察車両等の実況見分もできなかったという。米軍が去った後、そこには焼け焦げた巨大なクレーターがあったたと。市民が写した写真には、現場を背景にピースサインをする米兵が写されたものもある。
 26日付け朝日新聞の社会面に「倉庫撮った日本人拘束」との見出しで、22日に行われた相模原市の米軍相模総合補給廠で行われた米軍主催の音楽祭に入場した男性が、敷地内の倉庫を家庭用ビデオカメラで撮影した際に、米軍の憲兵隊に3時間にわたって拘束され、身元、撮影目的、米国人をどう思うか、宗教などについて尋ねられたとの報道があった。男性は入場料を払い音楽祭に参加したという。
 あまり、知られていないが都心青山に米軍のヘリポートがあり、要人が頻繁に使用している。超低空で飛行するヘリは、原宿、青山の繁華街を掠め飛ぶ。
 いまだ、アメリカにとって日本は占領下といったところか、しかもたっっぷり金を持った市場を抱えての。ヘリが墜落して、G○Pの看板に激突し、米国産のブランド物を買いあさる日本人に多数の被害が及んだら・・・悲劇を通り越して喜劇的光景ですらある。イロニーに陥らずに良く見ることである。過去と今を。私たちの現状を。