週末、冷たい雨の降る中、春の野に出た。車で数十分走ると、都会の喧騒の中に、奇跡のように開発を免れた一角がある。かつて、佐藤春夫が『田園の憂鬱』で描いた、まさにその田園地帯が残っている。暖冬と言われても、冬のぶり返しのような驟雨が降りそぼるのに、何を想ったか、山菜を取るため、つれあいとゴアテックスの雨具に身を包み、スコップ片手に嬉々として出かけた。

 フキノトウの薄緑は、車窓からきょろきょろと辺りをうかがう、私の目に自然飛び込んできた。まだ弱弱しい緑は、冬枯れのモノクロの中で、そこだけ生命の息吹をしっかりと感じさせて可愛らしい芽を、むっくりと地面から盛り上げて、春の到来を告げていた。車窓からみたそれは、残念なことに農家の庭先であったので、私たちは、車を止め、掘り返されて耕作に備える、土の匂いのする、近辺を歩いた。するとほんの10分ほどで、また可愛らしいその姿が群生する一帯があった。幸い、道筋から離れたそれは、散歩する犬たちの、ご不浄に身を晒すことが無い場所でもあり、雨の中、柔らかくなった土くれをおこし、まだ若い新芽を10ほど手に入れた。

 自宅に帰り早速、天ぷらにして食した。口に入れた瞬間。うん?と私もつれあいも顔を見合わせてしまった。苦い。「でも、この苦さが春の味だね。」なんて言いながら、苦味を吟醸で洗い流す。なかなか、箸が伸びないそれであるが、ホント、春の味である。

 先日、日経の家庭欄に食の乱れについて、書いてあった。最近の幼稚園児のお弁当が、二極化しているそうで、乱れている方の代表として、ご飯の上に駄菓子のフライや漬物を載せ、マヨネーズであえたものが写真入りで紹介されていた。ひどい世の中である。

 私の、母親はどちらかと言うと、過剰なほどの手作り派で、山菜は勿論、四季の野の草にやたら詳しく、そんなものを、子供の私は少し恥ずかしく想っていた。友人からは「おまえんちは、貧乏だから、路の草食ってんだって」と揶揄されたりもした。

 そんな、苦い思いが、フキノトウを噛みながら、じんわりと、胸に沁みた。苦い。苦いけどこれが春の味なんだよ。やっぱり、子供たちにもこの苦さは伝えないとな。少しの、反駁と揶揄の声を気にすることは無い。その苦味も含めての大人の味なのだから。

佐藤 春夫
田園の憂鬱

 僕たちの食卓に毎日のようにのぼる「お肉」。牛肉、豚肉、鶏肉。当たり前だけど、切り身になってパックになる前は、大きな瞳の牛であり、ピンクの皮膚の可愛らしい豚であり、褐色の羽の鶏であった。誰かが、「食肉」として処理をし、命を奪い、そうして僕たちはそれを購入して食している。ヴェジタリアンだって、医薬品の動物実験からは自由でないことを考えると、無数の命の上に、僕たちはその生をつないでるのが分かる。一級のドキュメンタリー作家の著者が子供向けに、「と場」(食肉処理場)の仕組みを伝えた、入門書。食肉を含め他の生き物の命を奪って生きる僕たちが知らなければならない現実がここにある。

森 達也
いのちの食べかた

 必要最小限の装備と、食料を手に未踏の山岳地帯に独り挑む。服部文祥の登攀スタイルは、すがすがしくも、常に危険と隣り合わせだ。テントを持たずツェルトで風雨を避け、軽量化されたドライフードでさえも携行せず、山菜や岩魚を糧とする。ソロの登攀なので当然、ザイルのビレーワークを伴うことなく、滑落の危険は常にある。そんな、危険と隣り合わせの山行は、身体を山のむき出しの脅威に晒すこととなる。「自分が、血となまぐさい内臓を皮膚という柔らかい袋に詰め込んだ装置に過ぎないということが、(中略)ばれてしまうのである。ちょっとしたミスや大自然の些細な衝撃で袋はバシャンと割れ、僕は死ぬ。」といったような、危険の臨界点の果てに彼が望むものは、「世界がつねに自分の想像を超えたものとして存在する」ことを、身をもって確認することに他ならない。

 私も、細々ながら登攀をたしなむものとして、彼のすがすがしさは、人間の原点を見るようで、眩しくも、羨望の念を抱く。この、漠然と、しかしながら、えもいわれぬ焦燥感に包まれた現在、自己の外部に確固とした存在をリアルに感じ続けることのできる行為、それは真摯な哲学的行為にも似て、神々しさを放っている。「僕らの時代は生きているだけでは、何の経験も積み重ねることができない時代」なのだ。そのことに自覚的になり、能動的に「生きる」ことに貪欲な姿勢。それは、私たちが真に必要とする姿なのだ。

服部 文祥
サバイバル登山家

 不登校気味の中学生「まい」が、訪ねたのは母方の祖母、母が「そうよ、あの人は本物の魔女よ」と呼ぶ祖母の、雑木林に囲まれた家だった。裏庭には、パセリ、セージ、ミントやフェンネルなどハーブが茂り、毎朝の食卓に載る卵を提供する鶏小屋の周りには橡や樫、栗などの雑木林が、風を受けてざわつく。林の奥からは「テッペンカケタカ」とホトトギスが啼き、裏庭の奥には野苺が地面に色どいを添えている。そんな自然に囲まれた、「おばあちゃん」の家でひょんなことから魔女になる手ほどきを、祖母からさずかることになった「まい」は・・・・・・

 祖母から孫に、伝えられる古き良きもの。それは地に足をつけた生活の知恵だったり、人や自然を想う、慈愛に満ちた心だったり。どちらも現実世界のなかでは魔法のごとく、失われて久しい物なのだが、それは目を凝らすと、しっかりとそして確かに私たちの周りにも息づいている。そんなことをこの本は教えてくれました。

 「それでね、ああ、死んで魂が身体を離れるときって、こんな感じかなぁ、と思ったの」と夢の中の話をする「まい」におばあちゃんは「おばあちゃんが死んだら、まいに知らせてあげますよ。」「まいを怖がらせない方法を選んで、本当に魂が身体から離れましたよって、証拠を見せるだけにしましょうね」と約束をする。さて、「西の魔女」ことおばあちゃんはどのようにして、「まい」に魂のある事を伝えたのか?思いもかけない方法で。それは読んでからのお楽しみ。

梨木 香歩
西の魔女が死んだ


  映画を見なくなって久しい。学生の頃はジャームッシュやヴェンダースを好んで見ていたが、久しく劇場に足を運ぶことがなくなってしまった。そんななか、ときおり、ミニシアターやDVDでドキュメンタリーを見ることがある。中でも東中野にある、ポレポレ東中野 はお気に入りである。

 そのポレポレで昨年だったかに観た『タイマグラばあちゃん』にはいたく感動した。物語は岩手県の早池峰山の麓にある「タイマグラ」という開拓地に住む、ばあちゃんの話なのだが、過疎化が進み人のいない、山深い農地をばあちゃんとじいちゃんが細々と、自然を友にと耕す。厳しい冬と、決して豊かとは思えない土壌に、正直、離農する方が当たり前と思ってしまうような土地なのだ。ばあちゃんとじいちゃんはそんな痩せた土地の豊かではない生活にも、静かに感謝をささげるかのように暮らしている。

 やがて、じいちゃんがなくなると、ばあちゃんは独り、山深い土地での生活を、より静かに、慈しむかのように続けてゆくのだった。コブシの花に豊作を願い、小さな小さなジャガイモの灰汁を抜くために雪にさらし、寒風に干す。そして何よりもばあちゃんの生きがいは、味噌造りである。冒頭、桶の中で大豆をすりつぶす、ぺったらぺったらという音が響く。足で大豆を踏んですりつぶしている。そしてそれを円錐形に形作ると納屋に干してゆく。納屋の空気には味噌を醗酵させる菌類が住んでいて、自然、大豆は味噌へとゆっくりと姿を変えてゆくのだ。

 ばあちゃんの深い皺に浮ぶ笑顔。自然と人とが強い親和力で結ばれた美しき姿である。

 3/2まで、ポレポレでリバイバル上映中です。

 葉っぱ吸って先輩が逮捕。残された大宮本田高校2年、神山啓人は伝統ある軽音楽部に独り残されてしまった。廃部の危機に、ストラトキャスターぶら下げ、拙いテクニックをのろいながらも、目指すは文化祭「田高マニア30」での演奏。ロックが「好き」だから、との啓人の思いに、やがてメンバーも集まり、すったもんだの軽音楽部の再スタート。はたして、観衆の前で感動のロックの演奏は叶うのか?

 みんながすごした、あの青春。ただ無闇に熱くて、不甲斐ない焦燥に実を焦がしながらも、ちょっとはにかんで恋の予感にどきどきしながらも、しゃにむに突っ走ったあの頃。

 そんな、思ういの詰まった、傑作青春小説です。「歌声よおこれ」!(サンボ)

越谷 オサム
階段途中のビッグ・ノイズ
サンボマスター
サンボマスターは君に語りかける

 短編小説には、長編にはない悦びがある。それは、何気ない風景のように、音楽のワンフレーズのように、記憶の底にそっとしまわれ、あるとき懐かしさと共に、表層に意識される、そんな類の悦びだ。

 山川方夫の『夏の葬列』は、そんな短編の中でも、私がもっとも好きな一篇である。久しぶりに読み返そうと思って書庫を探したが、見当たらない。知人友人に「良いよー。これ、読んでみ。」と貸しまくったのが災いしたのか、どうしても見つからない。思えば、高校生の時に文庫を手にしてから確か3回は再購入されている。また、どこかの知人宅に紛れ込んでいるのだろう。

 戦中の疎開先での出来事を描いた作品は、夏の太陽に焼かれた深い青の中にわずかに紫色をたたえた芋の葉を翻すように、蒼穹の空に不吉なそして、鋭利な刃物のように輝くグラマン機のジュラルミンの銀と、ゴム鞠のように機銃に貫かれる女学生の純白のブラウスに包まれた肢体と、葉を伝う赤い鮮血と、その悲劇の刹那のちかちかするような色彩の点滅は深く、私の心に刻まれて離れることがなかった。おそらくこれを超える短編には出逢えないのではないだろうか?そんな気がする。

 著者の山川方夫は神奈川県の二宮の国道で、交通事故で亡くなっている。車で通り過ぎることも多いその場所だが、私は二宮近辺を走ると、やはり著者のことを思って少し淋しくなる。1965年、結婚して穏やかな生活を始めたところの突然の事故であった。享年34歳。若すぎる死である。

山川 方夫
夏の葬列

 三崎亜紀の『失われた町』を読んだ。前作『となり町戦争』の映画化&舞台化で話題の作者である。数十年に一度、町の住人が消えてしまい、その消えた町の記憶の残滓に苦しむ生者と、町の消滅を阻止しようとする人々の奮闘が、しっとりと描かれている。だが、『となり町戦争』でも感じたのだが、描かれない背景としての「戦争」や唐突に挿入される神話的イメージや、猥雑な九龍城砦のようなマーケットとしての異国が有機的に結びつかない。それはまるで、レンガ造りの塀に穿った穴の向こうに見える景色が一つ一つは魅惑的なのに、穴から目を離すとどうしても、塀の向こうの風景が同一ではなく思えて、だまされたような気分に陥るような感じだ。そのようなはぐらかされたかの印象は、装丁にもあって、その良くできて可愛らしく、凝った装丁は内容とはいかんせんミスマッチだ。前作の冬の河川敷の装丁が良かっただけに、今回も冬の丘陵から望む町の景色のような装丁が良かったのではないか?この装丁ではハートウォーミングなイメージを持ってしまった読者の購入を誘ってしまうのではないか?まぁ、そういった誤解から読書の幅が広がったりする楽しみもあるのだけれど・・・・・・

三崎 亜記
失われた町
三崎 亜記
となり町戦争

 少々、古い話になるが新年の日経の特集欄に「村上春樹だけじゃない」というタイトルで、「世界市場」に文芸が挑むとの内容の記事があった。それによると講談社は「講談社BOX」シリーズとして「世界市場で同時展開する゛世界最強の出版レーベル゛をめざ」して(創刊宣言より)、「小説・まんが・ノンフィクションが渾然一体となった」「ハイブリッドレーベル」(同)を創刊するとある。


 おお、なんと勇ましく大仰なと思いつつも、まぁ、読まねば分からんやろと、シリーズの中の舞城王太郎『SPEED BOY』を手に取った。なるほど「クールジャパン」と賞賛(もしくは揶揄?)されるようなサブカル系の内容は、ウーン(としばし黙考)、新しいといえば新しいが、日経が指摘するように世界に挑む「文芸」作品としてはいかにも稚拙な印象は拭えない。


 「創刊宣言」がいみじくも「SONY]や「TOYOTA」になぞらえたように「商品」として緻密なマーケティングの元に作品を描けばこのようになるのではないかと思われる、その構造が透けて見えるところがやや、難である。勿論、「文芸」作品であっても「商品」であることにあたはないのではあるが、昨今の経済面での「グローバリズム」が、似たような商品を生み、さらには人々の思考形態を均質化し、どこの町にもファストフードがあり、郊外にはおなじみのショッピングモールがあるような現代の、私たちが見慣れた風景の背後にあるのなら、このような「商品」としての発想から作品を興してゆくのは(そうだとしたら)ベクトルが逆のような気がしてならない。


 至極個人的な経験を昇華して作品に落とし込む、その多様で能動的な運動が「文学」が「文学」たる所以ではないのか?如何か?


 まあ、シリーズ一作しか読んでないのでなんとも言えないが、「世界」に通用する作品が生まれるか否か、注目である。




舞城 王太郎

SPEEDBOY!

 主体と客体、観念論と唯物論、心と身体。近代の2項対立の思考形態は、内部と外部を分裂し、固定化し、しなやかな交感を失ってきた。多くの作品に変奏されるテーマは、近代的自我の相克として文学の主要課題であった。構造主義やポスト構造主義を経てもなお歴然と染み付いた思考形式は、「わたし」と「あなた」の間に超えがたい亀裂をわたしたちの思考形態に刻印し続けている。「私小説」を観念論的と読み解くのは可能だし、「科学」に対するアンチテーゼである「オカルティズム」を唯物論と観念論の対立と読み解くのは容易、安易ではあるが、わかり易い。

 そういった、近代的思考の呪縛から緩やかに、そしてしなやかに身を逃す場所を、梨木香歩は水面に求めた。カヤックで漕ぎ出すそこは、普段、日常でわたしたちが目にする視座とは違い、静謐が覆い、思考は内面へと静かに沈降してゆく。が、目を開けると高い空はあくまで高く、水面には湖畔の木々がしなやかに映っている。そして彼女の交感は、湖底に沈んだ集落の子供たちの姿を呼び覚ます。

 繊細な、あまりに繊細な自然、他者との交感は、水面に映り、些細なことで、例えば投げ込んだ石が広げる波紋で、荒々しく漕いだ自艇の起こす波で、打ち破られてしまう。だからこそ静かに、そして慈しむようにパドルを操る彼女の姿は美しいのだ。

 以前、私もカヤックで川を上ったがそこには、自然を征服しようとする荒々しい意思しかなく、自らの不甲斐なさに反省しきりである。またカヤックで漕ぎ出そうかな。今度は、静かに静かに。

梨木 香歩
水辺にて―on the water/off the water