京都南丹市の事件に想う(NO335)
京都の南丹市の事件の余韻が私の中にずっと尾を引いている。多分、多くの人の心の中にもその余韻が重く被さっているのだろう。やるせないというか、切ないというか、人間の機敏、人間の限界、人間の情根、人間の弱さ、人間の非道、を感じて、この気持ちはどこにもやり場がない、絶望さえ、感じる。
この事件は「離婚再婚」という、人間の営みの中で展開されている。離婚がこんなにも多くなり、離婚と背中合わせに、子供の帰趨の問題がある。離婚の当事者は自分達の問題だから離婚が生む当事者に対しての結果については覚悟を持っているのだろうが、もうひとつそこには、子供の意志が独立して存在していて、その意志や心をないがしろにすると、今回のような結末を生む可能性が構造的に存在しているということに私達は気がつかなくてはならない。それは、離婚の当事者は、それによって生じる子供の想い、葛藤、意志、をコミュニケーションによって、とことん確かめながら、進めていくことを胆に命じることなのだろう。
離婚した母親が再婚した時、連れ子の籍をどうするかは、12歳未満の場合、親同士の見解で決めることができ、子供自身の同意は必要ないということを私もこれまでは知らなかった。どうしても新しい父親とは暮らしたくない籍にも入りたくないという子がいたとしても、その希望と想いは再婚した当事者の言うがままになるという、子供心をないがしろにする民法の条文も問題だ。今後検討吟味して欲しい。
この事件は、私は当初から直感的に、父親の関与を疑っていた。そうでないとあまりにも説明がつかないことが多くあったからである。警察も同様にそう感じて内々に捜査をしていた。しかし警察からの情報がほとんどないので、世間全体がマスコミ含めて引き回されてしまった。テレビのコメンテーター等も口を揃えて、家族の関与は口にしなかった。想像でモノを言うのは控えるという金科玉条で、口をつぐんだ。そのことが、それを観ている我々に大きな葛藤を生んでいる。多分、母親は父親が子供を殺したという事実は知っているような気がする。父親の態度を見ていてそう感じないことは不自然だからだ。家族もあらためて任意で再び事情聴取となっている。
この不幸な事件を生んだものは、離婚そして再婚というプロセスだ。2025年における日本の離婚件数は、2024年の確定値(約18.6万件)を基にした速報ベースや動向調査では、依然として高水準を維持しており、2年連続の微増傾向にある。婚姻件数が減少する中(2025年は48.5万組)、離婚件数は約18〜19万件前後で推移し、婚姻対離婚比率は約3組に1組(約38%)の割合となって高い割合が続いている。主な離婚原因は「性格の不一致」と言われる。昔は離婚することは公言できないタブーだった。時代は変わったものだ。
現代の日本における結婚の約9割は恋愛結婚だと言われる。惚れて恋して結婚したのにどうして性格が不一致になるのか。不一致なら恋など生まれないはずなのにと思ってしまう。女性が離婚しても一人で何とか生計を維持していける仕事に就ける世の中になったということも離婚の背景にはあるだろう。婚姻対離婚比率が38%にもなるのだから大変な数字だ。結婚した夫婦の子供が述べ10人いたらその4人は今回のようなリスクを背負っているということになる。性格の不一致と言うのは結婚してから新たに相手の性格がわかるということだから、好きになる時点で性格合わせは関係ないのだろうか。恋をして好きになるという大きな原点に性格の一致は不可欠な要素なのだと私は思うけれど解せない。
女性が離婚して母子家庭となった時、好きな人ができて母親が再婚した場合、連れ子が本当のお父さんではない新しい父親に抱く感情はとて複雑なものだろう。母親をその人に盗られるという想いが大きいのだと思う。母親を盗んだ人に愛着を持てと言われてもそれは無理な話だ。特に小学高学年の場合、反抗期でもあり難しい。その場合は、子供と別れて暮らすという手段をとるべきなのだろう。でもそれは大きな経済力や住むところを含めて物理的なことが満たされなければ普通にはできないことだ。仕事はあっても4割が非正規という昨今、共稼ぎでも子供を別居させる余裕など親にはない。
そうだとしたらどうすればいいのだろう。離婚して好きな人ができても生涯母親は再婚できないのだろうか。それもとても矛盾している。私の知り合いの女性で、一軒家に自分夫婦と結婚した自分の子供(男性)夫婦と孫が同居していた人がいる。ところが、自分は離婚し、なんと自分の子供も離婚してしまった。離婚した自分の夫は出ていったが孫が可愛いのでまだ家の近くに住んでいる。離婚した自分の子供夫婦はなんと離婚しても一緒にその家にいて、孫と一緒に暮らしているという。理由は、孫が両親から離れたくないということで、親の別居はできないという。このケースの場合は、大人の離婚を乗り越えて残された子供の気持ちを第一に考えている。子供のことを考えて離婚しないのではなく、離婚という意志を実現させて尚且つ、子供の気持ちも大切にして両立させている例だ。
日本の「子供を産まない(生涯無子)率」は上昇を続けていて、2020年時点で約27〜30%の女性が生涯で子供を持たないとされている。この割合は世界的に見ても非常に高く、背景には経済的不安、非婚化、晩婚化が挙げられる。2030年以降もこの傾向は続き、2040年にはさらに深刻化する見込みという。若年層(Z世代)の意向では、約36〜46%が「将来的に子供を欲しくない」と回答しているという。結婚しても同じ姓にはしない夫婦別姓と言い、結婚しない人が多くなり、かつ、結婚しても子供はつくらないと言い、同棲や内縁夫婦等も市民権を得て来ている。時代や社会はまさに変化している。家の繋がりや夫婦の繋がりや、親子の繋がりや、地域の繋がり等で、がんじがらめにされる文化や社会を敬遠する風潮は確実に広がっている。表札も出さないことが常識になるような、なんとも寂しい想いの中に私達高齢者は生きて行かなくてはいけないことがとても複雑な想いだ。
一昔前は結婚して自分の姓が変わることに憧れて自慢にしていた頃はどこへ行ってしまったのだろう…。フランスの婚外子率は非常に高く、出生全体の約6割(60%超)に達しており、欧州主要国でトップクラスだ。結婚という形にこだわらず、事実婚(PACSなど)の状態で子供を持つことが一般的であり、これが高い出生率を維持する背景となっている。PACS(フランス語:Pacte civil de solidarité、民事連帯契約)は、フランスで1999年に導入された、異性または同性のカップルが結婚に近い法的保護(税制優遇、医療・相続の一部権利)を受けながら、より簡素な手続きで共同生活を営むためのパートナーシップ制度だ。ここまで来たら日本も事実婚でいいのではないか。戸籍や一緒に住むという面倒くさいことを捨てて、逢いたい時にあって伴侶とも子供とも豊かな時を過ごすという考え方も、考察吟味してそれに合う法律を整備していくことも大きな課題のようにも思えてくる。形式ではなく両親や子供の気持ちに添った生活の在り方を模索する中で、今回のような悲劇を少なくさせることはできるのかもしれない…
フランスには日本のような家族単位の「戸籍」はない。代わりに、個人単位の「出生証書(Acte de naissance)」が身分登録の中心となる。この証書には出生、婚姻、離婚、死亡など一生の身分事項が追記され、家族関係は個々の証書を連結して確認する。日本とは異なり、日本の「1家族1つ」の戸籍(世帯)と異なり、フランスは「1人1つ」の出生証明書で管理されている。出生証書は身分登録の基礎。婚姻や離婚なども追記されるため、日本での「戸籍謄本」に相当する。 結婚しても出生証書の姓は影響を受けず、旧姓が継続される。そして極め付きは、婚姻しない、婚外子の率が6割だから、日本からみると、家族の形態や戸籍(世帯)に縛られない個人単位の社会文化である。
離婚しても、結婚しないで子供をもうけても、焦点はどう暮らすかということだけであり、戸籍上の制約など面倒くさいことは一切ない。そこに親や子供の意志を尊重できる背景がありそうだ。日本も家系の概念を捨てて世帯の概念を捨てて当事者の意志を尊重していく社会文化に法律をやき直す時期が来つつある気がする。今回の事件は、離婚再婚という世帯に囚われた構造的な要因の中で必然的に生まれたような気がしてならない。形を超えたかけがえのないものの存在を行政は研究して欲しい。
自民党を中心とする保守の考え方は、日本のかけがえのない文化や社会や法律を守ろうとする。それもとても大切なことだ。でも、時代が進んで人々の意識が変化してくると、日常の暮らし方やルールも変わってくる。当然に古い社会文化の時に作った法律やルールとの齟齬がそこに生じてくる。普段に社会や文化やその時代の人々の心の様相を見極めながら、大切な日本の法律とルールとしくみを見直していくことが必要なことなのだろう。これを書いている時に地震があり岩手県に津波警報が出た。天変地異は必ず来る・・・・
今回亡くなったのは6年生で12歳になる小学生、名前は「結希」(ゆき)だ。「希望を結ぶ」という想いが込められているのだろう。ご冥福をお祈りする。これからのかけがえのない未来を断たれたということでは、とても可哀そうだ。でも、人の死は、誰にも当然に来る。誰も、その覚悟を常時持って生きていくことが不可欠なのだろう。そしてその死に繋がる事象は様々だ。病気、事故、犯罪、天変地異、等々。
私には生来の悲観がある。その悲観を社会に入ってからは、なんとか楽観に転じて生きた来た。それでも折に触れて、その悲観は私の中に顔を出す。その悲観の原点は「死」というものへの恐れである。そして死へ繋がるものへの悲観がある。病気しかり、事故しかり、犯罪しかり、天変地異しかりである。そしてその根底に死は全ての終わりであり全てが無に帰すという恐怖がある。死んでしまえば、かけがえのない人達ともそこでお別れになってしまうという喪失感と絶望がある。でも死の意味を転じて、死と生は繋がっていて、死は喪失ではなく生の次の新しいステージと整理すると少し死への恐怖は和らいでくる。死への恐怖が和らぐと、その死に繋がる病気や事故や犯罪や天変地異等への恐れは軽減されてくる。さらに死という新しいステージは、この人生を全て見通すことができて繋がっていて寂しくはない、と整理するとより勇気が出てくる。
精神科医のフランクルの言葉、「死は人生の完成であり、その死の先にも希望がある」と言う言葉を、私は最近知った。その言葉を、結希君に送りたい。フランクルはアウシュビッツのユダヤ人虐殺施設で奇跡的に生き残った人だ。絶望の中にも希望はある、という確信をそこから得ている。そして死は絶望ではなく人生の完成であり、その先にも希望があると整理した。これは宗教者ではなく一般の人が自分の人生で確信した言葉であり、私はその言葉を知って、漸く自分の中にある死への不安、死へ通じる病気や事故や犯罪や天変地異への恐怖に挑む勇気をもらっている。だから、結希君はこれから穏やかな世界で豊かな時空を送れると確信している。辛いこの人生を見事に完成させてそして新しい穏やかな世界で希望に溢れた豊かな時空の中で過ごせていけると信じたい。
今、「北海道三陸沖後発地震注意情報」が出た。普段と比べて巨大地震が発生する可能性が相対的により高まった時に出される注意報だ。一週間程度は対象地域は避難の継続やすぐ逃げる準備が必須となった。これが発令されるまでもなく、常時、病気や事故や犯罪や天変地異には準備と覚悟がいるのだろう。南海トラフ地震、首都直下地震、はもうずっとその発生が予見されている。富士山の噴火もこの前NHKの特別番組でそのリスクを強調されていた。死に繋がるこれら、病気や事故や犯罪や天変地異は、常時背中合わせに私達のまわりに存在している。それらに対する周到なリスク管理は必須なことだが、それを恐れて暮らすのでは生きている意味はない。
リスク管理をしっかりしたら、いつそれらが来るかは恐れることなく、病気になっ時、事故に遭った時、犯罪に巻き込まれた時、天変地異が起こった時、は、「来たか!」とどーんと構えて、それから逃げることなく敢然と対峙していく勇気が欲しい。そして究極それらにより死を向えても、「死は人生の完成であり死の先にも希望がある」ことを確信すれば、死に繋がる様様なことは乗り越えて行ける。
結希君、お疲れ様でした。安らかに!(2026年4月20日記)