「寂しさ」(NO295)

 

 4月1日、新年度の始まりだ。初々しい新入社員が入ってきて、職場にその一人が配属されると、それまでは鉛のようにどんよりしていた職場の色が、たちまち輝き始める。そんな光景をこの時期、私はいつも楽しみに待っていた。私は人事部に行く前に人材開発センターという全社の教育研修を司る部門に籍を置いていた。総勢40人はいただろう。そこの企画課長として全社の研修プログラムを創る先頭に立っていた。

 

そこには猛烈なセンター長がいた。人事部と交渉してこちらの意向が通じない時に、ダメでしたと帰った私をそのセンター長はいつも一喝した。「どの面(つら)さげて帰ってきたんだ、こちらの意向が通らないなら通るまで帰ってくるな、もう一回行って来い」とそのセンター長の雷が落ちた。人材開発センターは人事部と同格の本社の一部門だったから、そのセンター長は意識して人事部の意向に負けるなとはっぱを我々にかけた。私は「はい」と小さく答えて、人事部に行くふりをして、遅い昼食をとりに近くの蕎麦屋によく行ったことが懐かしい。

 

新入社員教育は富士山が真近に見える富士吉田の民間の施設を借りきっていつも実施した。新入社員を4組に分けて、4泊5日の研修を4回連続で実施した。新入社員研修はいつも、40人のセンターの人員が総勢で取り組む一大イベントだった。交代で実施するのだが、私は全体を統括する責任者としてずっと4回そこに居続けなくてはならなかった。最終の組が終わってそこの施設を後にした時、私は決まって、監獄から解放された、と安堵した。

 

頬にあたる風は既に5月の緑の風だった。舟木一夫の唄を口づさみながら施設から坂を下った。街の匂いが懐かしかった。ああ自由がもどったんだと、いつも感慨が溢れてきた。時には涙さえ流れた。牢獄のような重たい重責から解放された心地よさが私を包んだ。光がまぶしく私の身体を照射してこれが自由なんだこれが娑婆(しゃば)なんだと嬉しかった。毎年繰り返したことだが、あの自由の解放感の感触は一生忘れない。

 

55歳で企業を離れて、ハローワークの窓口で12年仕事をした。67歳で介護離職して、義父の介護を妻と一緒に行った。義父の介護は3年で終了した。70歳で私は自由になった。さてこれから何をして生きて行くか、と自分に問うて、その答えは哲学に生きると決めた。外的キャリアはもう卒業だ、これからは内的キャリアを磨こう、と想った。

 

今日感じたこの「寂しさ」は何だろう、とずっと一日考えていた。それは郷愁かもしれない。あるいは、私の中に外的キャリアへの未練がまだあるのかもしれない。新入社員、新しい年度の始まりという時の流れが私を企業組織へと連れ戻すのだろう。あんなに葛藤の中にあった組織人としての生活なのに何故それに郷愁があるのか…多分、きのう書いた暇と退屈の倫理学の国分功一郎の余韻がそうさせているような気もした。「人は刺激を避けるけれど実は刺激を求めている」という彼の考察が思い浮かぶ。刺激が欲しいんだ、その刺激がないことがとても寂しいんだ、と言う整理に行き着いた。

 

勤労係長総務課長教育課長経営推進室主幹人事部長関連会社常務取締役と歩いた私はずっと組織の体制側で仕事をした。その私がハローワークに非正規の労組を立ち上げて委員長として、東京労働局長と向き合ったことは、初めて組織に抗った経歴だ。そこで私の外的キャリアは終わった。最後に組織に抗う体制とは反対の立場を経験して連合や自治労の人たちと意見交換できたキャリアは、特筆できる私の尊い外的キャリアとして自分に達成感と満足感がある。それでいいではないか、それでもう十分ではないか、これ以上どんな外的キャリアを求めるんだという声が私の中から聴こえる。外的キャリアよりも内的キャリアの方が人間としての魅力は上でそれを磨こうと決めたのではないか、そんな声が続く。ではなぜ、寂しいのだろうか…

 

私はどんなに時間が余っても決して暇や退屈にはならないという自信がある。何もしない時間に限りない価値を感じているからだ。音楽を聴き、自然を眺め、こうしてブログを書きながら哲学するこの時間はかけがえのない至福な時間だ。だから、時間があって何をしよう何もすることがないという、暇と退屈の倫理学で国分功一郎が指摘した「刺激のない世界への恐怖」は私にはない。私は独りが好きで無限に自分自身で「刺激」を創造できると整理しているから。

 

でも、新年度、新入社員と言う言葉は私に「寂しさ」を持参した。その場にいられないことの無念さがあることも事実のようだ。葛藤の連続だった、あの組織の中に帰ろうと私の魂が想っているとは思えない。でも、一つだけ願いをかなえてあげると神様が言ったら、あのさらに過酷だった受験戦争の中に帰って行きたい、そこで精鋭どもをなぎ倒して1番になりたい、と神様にお願いするのではないかとこの前想って愕然としたことも事実だ。人間の欲や業は人間のエネルギーでもある。マイナスだけでなく全ての原点でもある。私はまだ枯れてはいないのだ、と整理することでこの「寂しさ」を治めた。

 

仮に今、私が企業に戻って、新入社員教育を担当するとして、私は新入社員たちに何を語るのだろう。多分、偉くなれ、出世しろ、社会に役立て、負けるな、等の言葉は彼らに投げかけないだろう。外的キャリアよりも内的キャリアを磨けと言うだろう。「それは何故ですか」、と問われたら、「人生は自分との勝負だから、自分に勝つとは自分を納得させることができるということだから、他者を納得させることより自己を納得させることの方がずっと難しいから」、と言うのだろう。

 

そして、人生は芸術だから、芸である「想い」を術である「言葉」、即ち「生き方」で示せ。その生き方は自分で見つけるしかない。その力は、人と逢い、自然と逢い、芸術と逢い、本と逢う中で育まれる。嫌な人でも避けるな、自然を見て親しめ、芸術を鑑賞しろ、本に接しろ。仕事は結果であるけれどその過程が自分で納得できて自分で満足できればそれで十分だ。評価は気にするな、評価は自分自身が自分にすればいい。外的キャリアよりも内的キャリアを磨くことが人生を生きる大きな力となる。そういう態度で仕事を大きくしていけ。と言うだろう。

 

(2024年4月1日 記)

「三つの素敵なもの」(NO294

 

 私の中に三つの本がざわざわと音を立てている。そのざわざわする音を言葉にしたい。文章にしたい。できるかなあ。やってみる。その本とは、国分功一郎「暇と退屈の倫理学」、ローティ「偶然性アイロニー連帯」(NHK100分で名著テキスト)、そして、三浦しをん「舟を編む」の三つだ。いずれも素敵な本だ。そこには限りない「ロマン」がある。そして、魂に響く「音」がある。知性と教養に溢れた世界もある。どのように紐解いていくか、それは私の力量次第だ。単純な解説ではない私自身の世界からそれらを紐解いてみたい。

 

国分功一郎は1974年千葉県生まれ。早稲田大学政治経済学部を卒業後、東京大学大学院総合文化研究科修士課程に入学。博士(学術)。専攻は哲学。現在、東京大学大学院総合文化研究科教授。2017年、『中動態の世界――意志と責任の考古学』(医学書院)で、第16回小林秀雄賞を受賞している。私と同様に早稲田の政経で学んだことで親近感がある。「暇と退屈の倫理学」は2022年 東大・京大で1番読まれた本と言われる。2022年1月~12月文庫ランキング(全国大学生協連調べ) で25万部突破のロングセラー。

「暇とは何か。人間はいつから退屈しているのだろうか。答えに辿り着けない人生の問いと対峙するとき、哲学は大きな助けとなる。 著者の導きでスピノザ、ルソー、ニーチェ、ハイデッガーなど先人たちの叡智を読み解けば、知の樹海で思索する喜びを発見するだろう。現代の消費社会において、気晴らしと退屈が抱える問題点を鋭く指摘したベストセラー」という本のコメントがある。退屈そのものの発生根拠と存在理由を追求している。400頁を超える小さい字は難解で簡単には読み進めない。でも何故か、その本を手放せない。そこにはロマンがあるからだろう。

 

「危機や不幸に対応するためには…ラディカルでなければならない。問題の根っこ(ラディクス)にまでさかのぼらなければならない。思想や歴史を学ぶこと、あるいは哲学を身に着けることは、その実践である」、「哲学は自然について考えること自然を発見することによって始まった。アリストテレスは最初の哲学者たちのことを『自然について語った人々』と呼び、『神々について語った人々』と区別することで彼らを定義している。…広い意味でも狭い意味でも、自然なるものにアプローチする新しい哲学が必要なのだ」と、別の著で国分は指摘している。この指摘は「暇とは何か」を追求する本著のベースに流れている。これがロマンなのだと私は想う。根っこへのアクセス、自然へのアクセス、アクセスする想いが即ちロマンなのだろう。

 

「何故人は退屈するのか」という大命題を、「人は刺激を避けるにもかかわらず刺激を求める」という矛盾に置き換えて、その矛盾を脳科学や経済的統計モデルやこれまでの哲学者たちの論調を複層導入して考察する、極めて難解だ。でも、難解でも著者の意欲と気持ちが伝わってくる。そしてとてもわかりやすい興味的な言葉で「人間というものはいったい誰かと一緒にいたいと願うものなのかそうでないのか、人間は誰かと一緒にいたいと願っているがバラバラに自由に生きたいとも願っている。いったいどちらが人間の本性なのか」と問う。その考察を人の個性や好みで一括せずに、あくまで客観的に立証的に学問的に考察している意気ごみは素敵だ。

 

最後には、人間の「本性」の概念では答えられないとして人間の「運命」の視点を持ち出してくる。このくだりは、私の哲学の原点となっていること、「人間は他者を想い他者を気遣う存在」なのに一方で、「自己の欲と業で他者を排斥し抑圧する」どちらが本当の人間なのか、という問いとシンクロする。この問いを突き詰めていくとこの世から戦争をなくす論理が生まれるかもしれないとも思う。逆にその考察の結論は人間にはやっぱり、戦争は必然と言う結論かもしれないけど…難解な分厚い本なのに素敵な本だと私が想う原点は、国分さんの探求と純粋さと真っ白な気持ちだろう。それは彼のロマンと一言で言える。一つ終わった。次はローティだ。

 

本質や普遍を追求するギリシア以来のこれまでの哲学を否定して、彼は「人間の中には客観的な統一的な本質や普遍性は存在しない」と言う。「それぞれの個性と価値観こそ大切なものでそれはその人の言葉という象徴的なものと繋がる。その言葉を絶えず磨いて、自分にとって重要な『終局の語彙』を絶えず改訂して行く環境こそ哲学の役割だ」と哲学の新しい概念を提唱する。 「思想の変遷を遂げ、自己理解を更新し続ける、その変遷過程こそ哲学の肝であり、社会正義と個人の欲望との矛盾を統一するべきではない。統一するというところに偽善がある。一人の人間の中にあるこの矛盾する概念をそのまま肯定して、お互いが会話をやめないことで、自分自身の価値観を保ったまま相手の価値観も理解できる方向に進める。自分とは異なる異見と遭遇することで、時間はかかっても、人は自分の『終局の語彙』を絶えず自分でも気がつくこともなく改訂して自己を改造していくことを皆が理解するべきだ」と彼は整理している。

 

「自分自身の絶えざる再記述によって、自己創造し続ける人間、その手伝いを哲学はするべきで、本質論や普遍性を振りかざして、こうあるべきだと人間を規定したり、社会正義を定義したりすることは間違っている。一つの正しい主張へと読者を説得するのではなく、むしろそうした正しさを解体し自身にとって重要な『終極の語彙』を改訂へと開くことを促すべきだ。その為に哲学は人類の会話が途絶えることのないよう守るための学問である」と言う彼の整理は、私の哲学の原点である、人間の中にある矛盾を解決してくれる大きなヒントがそこにある。「他者を想い慈しむ心」と「自己の欲と業に任せて突き進む自分勝手な世界」は統合する必要はなくそれぞれが併存していい、と言ってくれているからだ。

 

本質や普遍性や社会正義が存在する、それを追求するのが哲学だ、という従来の哲学を真っ向からそんなものはないと批判した彼は哲学界から追放されたが、私にはとてもよく理解できる。そして上記の国分功一郎のロマンともシンクロする。ローティにも大きな素敵なロマンがあってそれを私は感じる。「常識を疑うロマン」そこに限りない懐の深さが彼にはあって素敵だ。

 

最後に、「舟を編む」だ。上の二つとこれが私の中で繋がるのは「言葉」という概念でだ。「舟を編む」という直木賞作家の「三浦しをん」の小説が今、NHKでドラマ化されていて、とても感動した。この本は本屋大賞も受賞し2013年には映画化もされている。私は不覚にも知らなかったが、ドラマに接してすぐ本を購入した。

 

「舟」とは辞書のことだ。その「舟」には「言葉」という、荷物をどっさり乗せている。その言葉一つ一つがまるで宝物のように想えてくることを、小説もドラマも映画も描きたかったことは紛れもないことだ。私は芸術を「芸」と「術」に分解して考えている。「芸」とは想いだ。「術」とはその想いを表現する「言葉」だ。想いを言葉に乗せる。その言葉は、音楽なら音であり、美術なら絵であり、文学なら文章である。そして人生は芸術そのものだと私は考えている。人生の芸は「想い」であり、言葉である術は「生き方」だと整理している。芸術は全て想いが先ずあって、それを様々な術である言葉で表現しているのだ。音も絵も文章も生き方も人に語りかける、だから感動と共感がそこに存在する。「言葉」の奥にあるものは「想い」だからその言葉を聴くとその言葉を見るとその言葉に接すると、その人(芸術家)の想いがわかる。魂がわかる。人の人生もその人の生き方を見ていると、その人の想いは明確に見えてくる。

 

舟を編む、というのは辞書に乗せる言葉を編むということ、その舟は言葉の入口でもあり出口でもある。人は辞書で言葉の入口と出口の両方を経験している。こんな想いで辞書を紐解くとそれまでは見えていなかった景色が見えてくる。辞書がまるで生き物のように私に語りかけてくるからだ。「初めに言葉ありき」とは聖書の言葉だが、言葉とはことほどさように、人間のこの世界の原点なのだろう。言葉なくしてこの世は始まらないことを聖書が言っているように、人間にとって言葉は命なんだろう。若松英輔の著書に「言葉を植えた人」と言う本がある。言葉を大切にして言葉こそ命だと思っている著者が、言い得て妙の題名をつけている。私は「舟を編む」というドラマを見て、原作を読んで、もう一度若松の「言葉を植えた人」を読みたくなった。彼が何故この本を書いたかが想定できたからだ。

 

「舟を編む」のストーリの解説とは程遠いことを今私は書いている。でもそれでいいんだと思う。何故なら、このブログの題材の「三つの素敵なもの」の正体を書いているからだ。その正体を言葉にすると、それは「ロマン」である。難解な哲学書である、国分功一郎の本にも、ローティの本にも、そして、三浦しをんの「舟を編む」にも、このロマンがあるからだ。何故なんだろう。それは、反骨信でもあり常識を破る気概でもあり、想いを真っ直ぐ伝えようとする勇気がそこにあるからだ。理屈ではなくそれはロマンの香りを私に届けるのだ。星空を見上げた時人はそこにロマンを感じて勇気と優しさと感謝をもらえる。芸術も同様に私達に想いを様々な言葉にして、私達にロマンをくれる。

 

人との出逢い、自然との出逢い、芸術との出逢い、本との出逢いが人を成長させその魂を磨いてくれると私は確信している。それは、それらとの出逢いの中に「ロマン」があるからだという確信が強くなった。「ロマン」を求めて、それらとの出逢いを一層強めて行きたい。

 

(2024年3月31日 明日から新年度の日に 記)

「新しい命、反田恭平のピアノ、諸々のこと…」(NO293

 

  2月4日から止まっていたこのブログの針はまた動き始める。2月24日という特別な日を経過して今日は3月24日、50日ぶりのブログ発信を自分で祝いたい。

 

長女が二人目を出産して大喜びしたのもつかの間、赤ちゃんに母体との血液不適合による早発性黄疸症状が出て、生まれた(2月24日)次の日には、設備が整っている順天堂浦安病院に赤ちゃんは緊急搬送された。光線療法で黄疸値を抑えながら、血液全交換輸血の危機を切り抜け厳しい状況を脱して3月12日に赤ちゃんは無事退院した。

 

もうすぐ喜寿になる私なのに二人目の孫ができた。初めての孫はこの4月に1年生に入学する。その子は長女のお腹にいる頃からずっと見てきているのでとてもかわいい。4歳を過ぎるあたりからの急速な成長は目を見張る。女の子だからおしゃまだ。最近は、「じいじ、いつまでもテレビ見てるから朝あと10分と言って2時間も寝るんだよ」、寝る前におしっこは行ったのと言うと、「じいじ、おしっこは赤ちゃんに言う言葉だよ、もう、トイレと言わないといけないんだよ」「じいじ、ひげくらい剃りなさい」などと口やかましい。そんなことが整理して言えるようになったことがとてもうれしい反面、これから成長していくと何を言われるのか、まるで説教ばかりされるのではないかという不安もある。

 

それでも、一人っ子と決めていた子に妹ができたことがうれしい。お姉ちゃんになったその子も大喜びしている。しかし、その生まれた新しい命はこの人生に出て来るなり早々に大きな試練にぶつかった。でもその試練を生きることに懸命にチャレンジして無事に切り抜けた。その子に生命力(その子に流れる時間)があれば元気に退院してくるだろう、そのことを祈った、同時に私のこの命と引き換えに新しい命を守って下さいと祈った。だから2024年2月24日は私の命は終了して新しい命に引き継がれたと思っている、いつお迎えがきても泰然としていられる覚悟がやっと一層強くなった。

 

「人生は悲しみと困難に溢れている」と私は整理している。悲しみは、濡れ手で粟を掴むように、どんどん入って来るのに、喜びは、両手を広げていても、なかなか掴めない。やっと掴んだ喜びも、両手の指の隙間からすぐにどんどん逃げていってしまう。人生はどうしてこうなっているのか。出産の歓喜は一転不安と悲しみへと変わった。それでもその悲しみは希望へとまた繋がった。新しく出て来た子の名前は、奏乃(かの)ちゃん。姉と同様に美しい音を奏でるようにと奏乃ちやんだ。姉は絃(いと)、これも音楽に由来する。3歳からピアノを始めてこの前はヴェート―ベンコンクール本選で金賞をとった。奏乃ちゃんもお姉ちゃんの後を追ってピアノに向う日を楽しみにしていたら、先ずはその前に大きな人生の試練に晒された。

 

NICU(集中治療室)での20日間近い懸命な治療で、なんとか元気に退院できたが、出産が母子にとって大きな危険と背中合わせにあることをしみじみ思う。母体にとっても赤ちゃんにとっても、大変なことなんだという認識を改めて感じた。軽々に少子化を改善するために生んで下さいということはとても、簡単には言えないことが理解できた。大きな覚悟が子供を産むということには必須なのだ。仕事で、といっても夜はほとんど飲み会で帰宅はいつも午前様、休みはゴルフ、家にいる時はゴロゴロと寝ていたり、起きている時はテレビでスポーツ観戦ばかりをしていた私は、子育てをスルーして来た。団塊の世代はほとんどそうだろう。

 

孫の成長をずっと見る機会に接して、子育てと言うものが初めて分かった気がした。そして出産の大変さも今回改めて思い知らされた。妻はつわりが酷く最初の子の出産は母子ともに生命の危険に晒されて母子ともにかろうじて一命を取りとめたのに、その認識が私にはもう遠い存在となっていた。やっと憎まれ口を叩けるまでに成長した絃(いと)ちゃんで卒業と思っていたらまた一から出直しの新しい命が出てきて、孫育てが始まる。「しっかり孫育てをさせてね」と懸命に頑張っている新しい命に向かってNICUの外からその時私は心で叫んでいた。

 

赤ちゃんの誕生、新しい命の誕生は本当に神秘的で奇跡的なことだ。人間に限らず、新しい命の誕生はかけがえのないことなのだと思う。その分、大きなリスクも伴う。医学が発達していない昔は生まれた赤ちゃんは多くがその命を失っていった。中には母子がその命を失った。医学の発達は歳を重ねた人の命を守るのと同様に、生まれたばかりの命を守っている。とても偉大なことだ。でも、年寄りにしても赤ちゃんにしても、その人の中にはその人の「時間」が流れている。人はその時間を生きる。そしてその時間は長い人も短い人もいる。いわゆる寿命というものだ。その人の中を流れる時間に身を委ねた時、生死を超えて瞬間の命を愛おしむことができる。これはもう神の領域だ。そんな境地で生きて行きたい。

 

私は2月20日にサントリーホールで反田恭平のピアノを聴いてきた。長女が緊急入院して、一番とりにくいという反田さんのピアノのコンサートS席2枚を一度はあきらめたが、いかにも勿体ないということでドタバタの緊急時を押して私が代表して聴いてくるということになった。危機を押して聴いた彼のピアノは圧巻だった。感動した。その感動をこのブログに書いて皆と共有したいと思った。その矢先、長女の出産と新しい命の異変があり、1ヶ月余が過ぎた。その感動をここに書き残さなくてはとても勿体ないと思ったが、この騒動の中に、遙かに遠くへ行ってしまった。でも、やはり奏乃ちゃんの誕生と共にここに書いて置きたい。奏乃ちゃんが大きくなってこのブログを見て懐かしめるように。以下は反田恭平ピアノコンサートの実況中継だ。

 

様々な複雑な想いを胸に私はサントリーホールに独りで向かった。反田さんのピアノの感動を代表して聴いて皆に伝える役目が私にはある。その一点しか私の心にはなかった。視点は、「反田さんのピアノは他の人とは違うのか違わないのか」ということだった。違うとしたら何がどこが違うのかを明確にすることだった。結論として彼のピアノは他の人とは違っていた…

 

ホールに入る前に「その日の前段」があった。昔バブルの時によく遊んだ六本木なのに、その明かりとオシャレな街のたたずまいとそこを歩く人の装いと気高さは改めて私を魅了した。ここが東京なんだ。眩しいばかりのそれは、限りない郷愁も同時に運んで来た。忘れていたことがここにまだあったんだ、と私は感激しながら歩いた。

 

お腹がすいていた。おしゃれな店しかない中でやっと接触できそうな店を探してチョコのケーキとブレンドコーヒーを注文した。外で食べようと席を探したがどこも空いていない。相席の一つ空いていた椅子に断って座った。そこから20-30分間のコンサート前段のトークがとても印象的で楽しかった。私と同じくらいの老夫婦との相席、ご主人は笑顔で迎えてくれたが、奥さんは邪魔よという雰囲気で知らんふりだった。「反田さんですか」、とご主人から声をかけてきた。そっぽを向いて食べていた私は振り向いて「そうです」と答えた。「よくチケットとれましたね、よくここに来るんですが反田さんのチケットは初めて取れて今日が初めてです」とご主人。内田光子のリサイタルをここでよく聴いているとのこと。「皇室が来た時もすごかったですよ」とのこと。

 

ピアノの話になり、「私はアルゲリッチのCDを全部持っているんです」とご主人。「そうですね彼女のピアノは歯切れが良くて小気味よいぱりぱりした音が私も好きです」と答えた。「反田さんのピアノが他の人とは違うのかということが今日の私の視点です」と言うと、「そうですね、でも、やはり音楽は好みの問題ですね、上手い下手ではなく好き嫌いですね」と言う。知らんふりしていた奥さんも会話に入ってきた。「お一人ですか」「はい、いろいろ事情があって私が代表して聴きに来ました」と私、「80歳を越えてこうしてここで美しい音楽を聴けること素敵な芸術に触れられることが生きている大きな楽しみです」と奥さんはしみじみと言った。その時もう最初の気まずさはすっかりなくなっていた。開演時刻が近づいて、それではと別れた。でもこの同じくらいの人生を歩いてきた人とピアノの話が心からできてうれしかった。

 

手に入れたS席はステージの真横にあり前から3列目、手を伸ばせば指揮者に届くほどの絶好の至近な席だった。ぐるり会場を見渡してみた。そんなに大きくない会場はどこの席でもしっかり音楽を聴けるいいホールだなと思った。またここで素敵な音楽を聴きたいまた来ようと思った。第一ステージの「モーツアルト:歌劇ドン・ジョヴァンニ序曲」は若い音だなと思った。反田さんが組織して学生中心に精鋭を揃えたオーケストラだが、音色は東京フィルのようなプロの熟練した重厚なハーモニーの方がいいなと私は思った。第二ステージ、反田さんのピアノを聴ける「モーツアルト:ピアノ協奏曲第20番ニ短調」だ。聴きながらノートに書いた言葉。音が生きている、音が重なる、はぎれいい、ぱりぱりしている、音に色がある、ピアノで語っている、爆弾のような音だ、音が何重にも響いている、深い…

 

終わって言葉にならない感動があった。この感動を独り占めしていいのかという想いがあった。そして残された人生でこれと同様な感動を、他者に社会にGIVEしたいという沸々とした想いがこみ上げてきた。それは自分の個性の発揮でしかない。魂を磨いて精進したいと思った。そして、ピアノの結論として、やっぱり技術を磨くこと、しっかり弾けること、そして自分でしか出せない音色佇まいを追求すること、これは人生と同様だ、と想った。

 

第三ステージは「ブーランク:ピアノと18の楽器のための舞踏協奏曲『オーバード』」第一ステージと同様な感覚があった。音が若いのだ。プロのオーケストラというよりも、えりすぐった学生のオーケストラだった。

 

第四ステージは「ラヴェル:クープランの墓」、充分に反田さんのピアノが聴けた。オーケストラも私の耳が慣れたのかとても重厚ないい響きを奏でていた。曲の違いもあるかもしれない。美しいそれでいて強い、一音一音が聴こえる、アクセントがある、楽しみながら弾いている、ピアノのソロがまるでオーケストラのように聞こえる、まるでこれは虹だ虹が音を奏でている、真っ青のブルーの中を大空高くコンドルが飛んで行く、鍵盤の魔術師、歌ってる、多重で響いている、あられのような音、清い急流とぶつかりながら川底の石ころを川岸に跳ねながら流れている音…アンコールは「トロイメライ」だった。あんなに激しくキーを叩く人がこの静かな曲を弾く。そこに反田さんのトロイメライがあった。その感動のままでは電車に乗れなかった。溜池山王まで歩いた。駅の近くでコーヒーを飲みながら反田さんのピアノの余韻に浸った。

 

これを書いている時、尊富士が110年ぶりに新入幕優勝を果たした。右足のけがをおしての命がけの捨て身の出場で見事勝った。34年ぶりに日経平均もバブル後の新高値を記録している。失われた30年と呼ばれた低迷期を本格的に脱することができるかが焦点だ。そして、大谷も降ってわいた試練を何とか切り抜けて欲しい。ベーブルース以来の逸材、ベーブルースを超える不出世の逸材を我々は失いたくない。感動は人間にとって一番大切なものだ。その感動を創れる反田恭平のピアノも凄い。感動はでも万人が創造できると私は確信している。魂を磨けば誰にでもその個性は感動の原点だからだ。残りの人生、魂を磨き続けたい。そしてできれば私も他者に社会に感動を届けたい。(2024年3月24日 記)

「裏金の哲学的視点からの考察」(NO292

 

 これをブログに書きたいと思って私は逡巡していた。何故なら理屈をこねることになり面白くない、と思ったからだ。でもまた思い直してこうして机に向かっている。他者に発信するというよりも、もやもやしている自分の中を整理したいのだ。

 

表と裏という言葉は表裏一体で、表があれば必ずそこには裏があり、逆もまた真だからだ。裏という言葉には「悪」という響きがある。何か人の知らないところでこそこそと悪いことをやっているというイメージがつきまとう。でもこの世の中この社会は表だけでは成り立っていないことも皆が知っている。そしてできれば表で正々堂々とこの人生と社会を渡っていくことが人間としての摂理だとほとんどの人は想っている。だから、裏という言葉には敏感に反応してしまう。少し、武将を例にしながら表と裏を紐解いていきたい。

 

信長、秀吉、家康の3人を比較すると、信長は表と裏が合一していて思っことは真っ直ぐに表で表現している。彼の中には権謀術数は存在せず、全て表でやってしまっている。嫌いな部下がいれば即座に切捨てるし、タブーである宗教寺院の世界も燃えつくし惨殺している。欲しいものはゲットするようにすぐ行動を起こす。「鳴かぬなら殺してしまえホトトギス」なのだ。秀吉はどうだろう。秀吉ほど裏で動いた人はいない。表での勝負は既にそれまでの裏の彼の動きで決定されている。彼は欲張りで一つのことを獲得したらまた次の異なるものが欲しくなりそれを手に入れていった。家康がやっと上洛した時、大名たちが集まる前日、秘かに家康の宿舎を訪れて「よく来てくれた」と彼の手を握り涙を流して平身低頭家康に頭を下げた。翌日の公の席では一転、居並ぶ諸大名の席で、強烈な上から目線で、家康を睨み自分が主君だから黙って従えと喝破した。この両面とも秀吉であるのだけれど、彼は裏の人だ。

 

家康はどうだろう。彼はシャイで義理人情も厚く仏にも帰依していたので、表の彼は逡巡して煮え切れなかった。その分、行動につくまでに様々なことを比較衡量して、戦略と考察の中にいた。狸というあだ名や「どうする家康」と言われる由縁だ。どちらかというと、彼は裏の人だったように思う。でも、同じ裏でも家康と秀吉の裏の中身は異なることが今日のテーマになる。どちらがいいということは表に出た結果から推敲することになるが、客観的にみて、秀吉にはずるがしこい自分勝手な面があるが、家康には清々しささえ感じる、潔さがある。これは好き嫌いで、秀吉の方がいいという人も多いだろう。社会にとって人々にとって、結果がどうなのか、という視点でも評価は分かれる。「鳴かぬなら鳴かせてみせようホトトギス(秀吉)」「鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス(家康)」という例えは言い得て妙だ。

 

もう一人、上杉謙信を紐解きたい。彼は「義」の人だと言われる。攻めてきたら応戦するが決してむやみに他者の領土を占領踏みにじることはなかった。彼の中にあった義とは何だろう。正義のことだ。月光仮面は正義の味方だ。関東管領だった上杉家にはそんな自負が脈々と流れたていたのかもしれない。食うか食われるかの戦国の時代だから、権謀術数は勿論彼にもあったのだろうが、土壇場の判断の時、謙信の中にはこの「正義は何か」という問いが必ずあって、その軸で仏壇に手を合わせながら最終の一手を考えていたのだと思う。彼はまさに表の人であり、裏で汚い手を使うことは自分を含めて家来にもそれを戒めていた。

 

政治家を回顧してもう少し表と裏を考察してみたい。田中角栄はまさに裏の人だ。彼の事務所やこのまえ焼けた目白の屋敷では、札束が乱れ飛んでいた。陳情者からはそれをひっそりもらい、自らはその場で金をつかみ取りして手渡ししていた。学歴のない彼が頂上まで登りつめる手段として彼は、何の疑問もなく、これしかないという確信のもとに、金で買収して人心を彼のもとに参集させて「数」で勝負する道を突き進んだ。見事にそれをやり切り彼は日本列島改造論を唱えてやり切った。結果として日本は大きく成長繁栄する道をその後突き進めた。まさにその時裏金は乱れ飛んだ。裏金は彼の政治手法を実現させる唯一の方法手段だったのだろう。裏金がなければ、角栄は存在しないし、日本列島改造論もないし、日本の成長発展もなかったかもしれない。その彼はロッキード事件で賄賂を受け取り逮捕された。哀しい結末がそこにあった。明日(2月5日)22:00-22:45分に放送されるNHKの映像の世紀田中角栄『列島改造の夢と転落』をしっかりみてみたい。角栄は裏の人だ。

 

後、国鉄やNTTを民営化した中曽根さんと郵政を民営化した小泉さんとクリーンの代表の三木さんと10年間君臨した安倍さんと今の岸田さんと麻生さんに触れる。中曽根さんは裏、小泉さんは表、三木さんは超表、安倍さんは表と裏が半々、岸田さんは表、麻生さんは裏である。こう見てくると、表が良くて裏が悪いとは一概には言えなくなることがわかる。好き嫌いや自分の波長との相性で、人は人を好きになったり嫌いになったりする。好き嫌いは理屈ではなく感情であり感性の問題だ。

 

安倍さんの「もりかけさくら」疑惑はおそらく裏で安倍さんは動いている。でもそれを隠し通せる手も打っているところが安倍さんの力でもある。首相補佐官に検事出身の法曹界に人脈豊かな人を起用して、司法のトップとその補佐官は常時連絡をとり司法の動きは官邸に筒抜けになっていた。一方、今の岸田さんは、誠実な表の人だからそんな関係は司法トップとは構築していない。もりかけさくらの問題がうやむやになって安倍さんが逃げおおせたことと、今回の安倍派の裏金疑惑が大きく暴かれたことは、安倍さんと岸田さんの裏の力を象徴している。検察は安倍さんには苦汁をのまされたという恨みが残っていて今回の捜索はそのかたき討ちの一つだ。まだまだこの先があるとは予測している。それでも、麻生さんを抱き込んで、局長の証言を変えさせてまで凌ぎ切った安倍さんの裏の力は凄い。岩盤突破と官僚と対峙しながら様々な裏の手をうって、既得権を覆そうとした力も凄い。でも彼の評判は私のまわりでは悪い。

 

小泉さんは自民党をぶっ壊すと叫んで自民党総裁になり、派閥の意向を尊重するそれまでの慣例の組閣人事を一切誰にも相談せず独りで決めた。郵政解散を止めようと森さんが最後に小泉さんを説得しようと官邸に入ったが、「干からびたチーズ」しかなかったとチーズを片手に説得に失敗して出て来た映像は今でも脳裏にある。小泉さんはそれだけ純粋な人でここぞと思ったら突っ走る表の人だった。裏の工作は皆無だった。小泉さんが慶応の竹中さんを擁して行った新自由主義という競争原理の導入と民営化優先の手法は、貧富の差を生み派遣を筆頭にした非正規4割という現在の異常な構造を生んでいる。小泉さんの純粋さが好きな私の中にも複雑な想いがある。郵政民営化の是非には結論は出ていない。一つ、小泉さんが、「原子力発電を薦めたのは自分の間違いで、これから生涯の活動を原発廃止にかける」という決意を語って元首相の細川さんと行動していることはそこに彼の純粋さがあって、とてもうれしい。

 

もう一つ、麻生さんについて述べると、彼はとてもしたたかな人である。めぐり合わせで彼は首相を1年という短期で辞めたが、その時彼は思いを定めたのだと思う。俺は裏で生きていくと。裏で生きるとは院政を敷くということだ。いわゆる首相誕生を仕掛け、表では首相に従順な姿を演出しながら、裏で首相を操っていくということだ。これは企業でも社長を退任して会長になっても代表権を離さずに君臨して表の社長を裏で操っていく手法と同じだ。でも安倍さんを自分も犠牲になることを覚悟して最後まで守り通した力は見事だ。それだけ麻生さんは安倍さんを100年に一度の逸材として評価していた。今は上川さんを押している。おばさんとよんだり、「きれいとまではいわないが、政治力はぴか一だ」ともち上げている。麻生さんはユーモアのある人だ。漫画を愛している。女性の容姿外見に触れることはまかりならんと非難するマスコミは麻生さんのユーモアを理解して欲しい。

 

資本主義の原理は競争のエネルギーで経済と社会を大きく繁栄させようとするもの。そこには大きな歪もおのずから生まれる。富める者はさらに富み、富まざる者はさらに富まないからだ。強者と弱者の区分を強くしていくという弊害が資本主義にはある。そのことをマルクスは資本家の労働者への搾取だとして、資本主義を打倒して労働者が主人公の社会を創ろうとマルクス主義(共産主義理論)を掲げた。しかしそれを実現させようとしたソ連は崩壊し中国は経済は資本主義を取り入れている。こうみてくると、政治や社会を変えることは至難の業だということがわかる。その為には人々の価値観の転換を図らなければならないからだ。その為には表の力だけでは不十分で裏の力がいる。「清濁併せ飲む」器量と人間力がそこにいる。

 

企業で言えば、社長の下に必ず副社長を置く、これは何かあった時に社長を守るためだ。副社長の役割は社長を守って犠牲になることだと副社長になる時には覚悟している。検察の手が伸びてきた時、「全ては私がやりました。社長には一切相談していません」、というのが副社長の役割で言わばつかまり逮捕される役割なのだ。検察が動くようなそんな重要な重大なことを社長が知らないはずはない。でもそういうことなのだ。今回の安倍派のことも、派閥の領袖は社長で会計責任者は副社長なのだ。そう考えると会計責任者がつかまって、派閥の領袖がつかまらない構図は企業では理解できることになる。

 

ことほどさように、物事には表と裏が交錯している。表の事には必ず裏があり、裏が表を創る。私はハローワークに初めて非正規だけの労働組合をつくり委員長となったが、東京労働局や厚生労働省という労働の専門家たちと闘うには、すぐ潰されてしまうと思って、ハローワークの正社員である職員組合の委員長として長年組合を引っ張り、局や厚生労働省や連合や自治労にも信頼と大きな人脈を築いていた人を顧問として迎えた。彼は新しくできた非正規労組に院政をひこうひけると思って顧問になったが、私はそうはさせなかった。

 

「あなたは私を利用しようと思っている、でも私もあなたを利用しますから」と宣言して、譲らなかった。彼は表では執行委員会でもほとんど発言しない。発言がないから同意したと思っていたら、執行委員会で決めたことを何回も覆してくる。「そんなら最初から言えよ」、とある時私は彼に言い放った。彼は無言だった。彼は寝技で仕事をする人だった。豊富な人脈を使って秘かに誰にも気づかれずに調整する裏の人だった。それは見事な力だった。難局を助けてもらったこともあるし、邪魔をされたこともある。でも難局は表の力だけでは到底乗り越えられないことが多かった。「何とかなりませんか」、と彼に最後は頼むと、「よし任せとけ」と、裏で調整してくれた。その時どんな裏金が動いたのかは知らないけれど、結果として表はうまくいっている。

 

企業の時、株主総会の朝必ず暴力団の総会屋が来る。通りに放った偵察隊から「部長、今ここを通りましたもうすぐ行きますよ」と連絡が来て身構える。3-4人で来た彼らは最初はとても紳士で低調だ。話が進むにつれ、声高な脅しに入ってくる。最後の彼等の言葉は「総会が壊れてもいいのか」だ。頃合いを見計らって、課長が封筒を渡す。中を確かめるでもなく彼らは笑顔になって去って行く。総会の朝の定番の儀式。決して肯定されることではない。そしてそこで使うお金は伝票がきれるはずもない。いわゆる裏金だ。

 

ここまで書いて、少し私の中は整理されてきた。武骨でゴマをすらずに出世しなくても自分の信じた道を一筋に生きる人の姿に人は感動を覚えその人を応援したくなる。いわゆる謙信の「義」に生きる姿だ。全てがそういうふうにありたい。生来、真面目で、誠実で、頑固な、私はそういう態度で仕事をしてきた。しかし、これまで書いた裏の力が無ければ乗り越えられない局面があるということを地位が上がるごとに納得理解して行った。だから、今回の裏金のことも単純には考えられない。そこに至った「必然性」と「義」を吟味しなければ落ち着かない。これを書いて少しその吟味ができそうだ。   (2024年2月4日 記) 

純粋ということ(NO291

 

 高校の卒業時に私がみんなからもらったメッセージは、真面目、誠実、明るい、という三つの言葉で溢れていました。生来の特徴として私は、「純粋」なのだと思います。嘘が嫌いで嘘をつけなくて、すぐ人の言うことを信じてしまっていました(今でもその傾向はあります)。それが、企業に入って表と裏を知り、表だけでは仕事は完遂しないことを学んで、私は大きく成長しました。でもやっぱり、人事手法としての、本音と建前を使い分けて人を管理し、人を動かすことに、どうしても矛盾を感じて、そして、リストラで簡単に人を切る、組織の理不尽さに、ついていけなくて55歳で企業という組織を離れました。

 

離れてからは、外から見ていると、企業や組織の横暴さや勝手さが目にあまり私の思想は保守の論理から、革新や左翼の論理まで理解できるようになり、大きく転回して、深くなり、自分の成長を感じました。最後は、非正規の労働組合までハローワークに初めて創りました。

 

「純粋」という視点では、裏金や建前は肯定することはできません。でも、「政治的に解決する」という言葉さえあるように、この言葉は、政治とは表と裏があり、どちらかというと裏をさします。世の中には純粋で押し通すという精神力と信念が一番大切なものですが、組織を動かし人を動かして、社会に組織に大切なことを実現していくには、どうしても表だけでなく、裏の力がいることも事実です。その裏の力とは、お金の力であり地位の力です。だから、裏金はなくなることはないという思いがあり、裏金が、そういう前向きな趣旨で使われるなら、裏金を私は全否定していません。

 

嘘をつかない純粋さが人の心を動かします、これが一番。そして、それを前提としながら、勝負どころでは、裏の力も動員するという、人間の大きさが必要です。特に政治家にはその力がいるし、企業でも地位が上がっていくに従って、組織と人を動かす裏の力が、必要になってきます。これは、闇にまみれるのではなく、自分が汚れるのでもなく、人間が大きくなることだと私自身は、自分を評価しています。人は、武骨で真っ正直でいつも、割りを食って出世できない人を好きになることも事実です。一方で颯爽と脚光を浴びて硬軟使いわけて偉くなっていく人も好きです。NHKで今やっている正直不動産はそのことを描いています。

 

企業や社会に揉まれて生きてきた私の中にはまだ、生来の純粋さが脈々と流れています。一方で、社会や組織に貢献するための裏の力を肯定する気持ちもあります。裏金を肯定する前回のブログはその裏金の使途が問題です。このことを追伸として書きました。裏金を肯定することの誤解をさけるためです。(2024年2月1日 記)

「季節はまわる」(NO290)

 

  能登の大地震で始まった1月が漸く終わった。私的にも多忙だった1月はとても長く感じた。季節は2月へ。玄関のドアを開けると春の佇まいを最近感じていた。「何だろう、この春の佇まいは」、と思っていたら気がついた。庭の梅の木に白い花が満載でそこから仄かな梅の香りが漂ってきているのだ。椿の小さい蕾が膨らんで赤い色がちょこんとその蕾の先についている。山茶花は12月から咲き誇ってまだ咲いている。枝を切らなかった分、いつもより花の数が多くて壮観だ。沈丁花も早く咲きたいと用意万端だ。早春の庭がやがて来る。季節は人間の心と繋がっている。人間の哀しみを季節は見ている。そしてその悲しみをそっと、自然の中に表現する。

 

ずっと昔、左遷された菅原道真が九州の大宰府で京の都を想い読んだ句が、梅の花を見ているといつも自然と口をつく。「東風(こち)吹(ふ)かば匂(にほ)ひおこせよ梅の花あるじなしとて春な忘れそ」。わが家の梅の花よ、東風が吹いたら、私のいる大宰府まで匂いを届けておくれ、主人がいないからと言って、春を忘れてはならないよ。My ume tree, could you please send your scent on the east wind? Don't forget to bloom in spring even if I'm not here.

 

遅々とした能登半島地震の対策にいらいらしながら1ヶ月が過ぎた。神戸の震災の時は、社会党の村山首相の指揮の遅さに立腹した。東日本震災の時は民主党政権の対応に凍りつくような危機を感じた。国会では今、野党は自民党政府の対策の遅さを攻撃している。自分達の時の遅さは棚に上げている。批判することよりも、一緒に対策していくことが急務だ。政治と金の問題も政治とは裏金は必須のものだということは企業を経験した者なら誰でもわかる。私は勤労係長の時、お前の仕事は裏金を作ることだと、上司に言われて呆然とした。

 

政治とは国会議員の世界が政治だけではない。企業も官僚も組織があるところに政治は必ずついてまわる。きれいごとでは組織や社会を改善してよりよく成長させていくことはできないということを皆知っている。自分の私腹を肥やすためだけの裏金であれば当然に糾弾される。でも、物事を動かして前に進めるには裏の政治力は不可欠である。その為に使うお金は裏金でなければ使えないのならその裏金はそれに使われれば当然に生きたお金だ。だから、ここぞとばかり、揚げ足を取るのではなく、社会のためにどうあるべきかという大所に立って野党も考察して欲しい。私も一票入れて過去に成立した民主党政権はこの自民党的な老獪な政治運営ができなくて表面のきれいごとに終始して立ち往生した。それは頭でっかちの経験不足の民主党の限界がそこにあった。長い自民党政権は既得権勢力と癒着する。これは歴史の常道だ。絶えずそのことを反省しながら綺麗な裏金を「私」ではなく「公」に使って欲しい。

 

前置きが長くなった。今日書きたかったことは次のことだ。

 

私は今、「日々を生きる」ということから、「今日一日を生きる」、という心境になっている。過去もない、未来もない、あるのはこの「今日一日」だけ。そのこの今日一日に感謝して、しっかり生きる、そんな整理ができつつある。日々を生きるということをずっと考えて来たが、日々という言葉には、明日が必ず来るという想定がある。そうではなくて、今日のこの一日しかないという覚悟で生きて行きたいと、ほんのこの前に思った。今日この一日しか存在しないという覚悟は、死への恐怖も、天変地異への恐怖も、大きな事故への恐怖も、重篤な病への恐怖も、お金がなくなる恐怖も、そして、かけがえのない人との別れ(死を含む)も、みんな、乗り越えていくことができる覚悟だ。

 

それは何故か、それは、明日に期待することなく、自分に与えられたこの、今日という一日しか自分にはない、存在しない、という覚悟がそこにあるから。今日一日しかないのは、自分だけにないのではなく、人間の人生がそういうものだと思う。すると、その一日に無限の感謝ができる。その感謝は、例え、その一日が、身体が動かなくても、目が見えなくても、耳が聴こえなくても、天変地異がこようとも、大きな事故に逢おうとも、お金がなくなろうとも、かけがえのない人との別れ(死を含む)があろうとも、そして、自らがこの世を去ろうとも、そんなことには執着することなく、自分の前に今ある、この一日を豊かに生きようとする力を創造する。それをつきつめると、「今こここの時この瞬間」を生きる、という哲学に収斂する。そして、そこをさらに掘っていくと、釈迦が到達した、「空」や「無」の境地が見えてくる。いわゆる「『私』からの卒業脱却」がそこにある。

 

研究会で昨年の12月私は1年間かけて書いた「素人が紐解く哲学」を発表した。この記述は、私に大きな力をくれた。考察が格段に進んで深まった。その余韻が「日々」を生きるのではなく、「今日この一日を生きる」という想いに私をさせたような気がする。亡くなった自分にとってかけがえのない人も、想えばそこに、いつもいて自分を見ているという境地になれる。孫が大きくなる頃は私はもういないという死への喪失感もなくなる。いま一緒にいるとかいないとか、死ぬとか死なないとかの、物理的な形而下の現象を卒業して、形而上で生きて行きたい。それは、哲学者の池田晶子が生きた宇宙の世界で生きるということと似ている。人は死んだらそれぞれ、宇宙にある番号のついた住所へ帰っていくことが、生まれた時から決まっている(アカシレコード)と、シュタイナーが言っていたこととも重なる。素人が紐解く哲学を書いて、シュタイナーがよく理解できるようになった。

 

シグナルの「20歳のめぐり逢い」が今、流れている。次はNSPの「面影橋」。母校の早稲田の裏を流れる神田川に枝垂桜が壮観だった。そこにひっそりと面影橋は佇んでいた。異なった環境や思想や価値観の中で人は育つ。その自分と異なる価値観や手法や生きる姿を非難攻撃するのはやめて、見解は異なるがその異なる見解を集めて人間のことを考えて行きたい。そうしたら、戦争はきっとなくなる、政治的対立ももっと建設的なものになる。「愛」という言葉がそこに必要だ。民主党政権の時、「政治は愛だ」と鳩山首相は言った。私はそうだと今でも思っている。でもその愛の裏に、組織を動かす裏があることも見落としてはならない。外国と渡り合っていくにはきれいごとだけではすまされない。老獪な裏の力もいる。それはけっして「愛」と反することではない。私は55歳という早い時期に企業から脱出したので、企業の臭いはかなり早く捨てられた。しかし企業で経験した裏の力は人間の社会の中で必須なことだと今も思っている。

 

自民党の派閥の領袖がしたことが、私の想う大切な裏の力の養成であることを願っている。「人生は上を見ればきりがない、下をみてもきりがない」自分の歩く人生が一番だと思うことが肝要だ。確かに一方で、お金がないとなにも始まらないことも事実だ。痩せ我慢で、おカネがなくても豊かな人生を創造するといっても、やっぱり難しい。先立つものはお金であることは万人が認めることで異論はない。今回の派閥のお金の問題を自分の問題として皆で考えたい。

 

自分を振り返ってみて、私はお金にはそんなに苦労しないでここまで生きてきた。お金のことを意識したのは小学校時代が一番だったように思う。医者の子供や漁師の元締めや、バス会社の社長や、銀行の支店長、等の同級生の家に遊びに行くと、その家の広さに圧倒された。そして、おやつで出てくる豪華なお菓子と飲み物に圧倒された。こんな家の子供に生まれたら良かったといつも羨ましかった。テレビがあり、自転車があり、おもちやが、部屋に溢れていた。美味しいものを食べて豪華なおもちゃで遊んで、その頃まだ一般的でなかった自転車を乗り回す同級生は、夢のように思えた。

 

私自身も、紅茶会社のお坊っちゃんといわれて、お金持ちの家の子供だと周囲には思われていたが、実際は、台所は火の車で、倹約した細々とした日常であったことを思い出す。でも、中学から子供3人とも、私立の中高一貫の進学校に入れ下宿までさせて、家計をやりくりした親の執念を今になってすごいことなんだと振り返る。上をみたらきりがない、下をみてもきりがない、という言葉がピッタリする。足摺岬の田舎の小学校は、ほとんどが漁師か、農家の子供で、一週間ずっと、同じ服を来ていた子供が多かった。貧しかったということだろう。先に私が羨んだ子供たちはほんの一握りの子供で、大半はその日の食事もままならない家計を切り盛りしていたのだろう。サラリーマンいわゆるホワイトカラーは皆無で、会社の社長である私の家の佇まいを、皆は羨ましがっていた。

 

そんなお金の問題は、だからずっとどんな時空にもある。例え裏のお金だとしてもそれが社会に役立つお金ならいい。鼠小僧が金持ちからお金を盗んで貧しい庶民に配った行為は、法律では罰せられるがこれは正しいことのようにも思う。人に迷惑をかけることはダメなことだけれど、お金を盗まれたその財産家の困窮度を考えると許される範囲とも言える。勿論法律を侵すことを正当化するつもりは毛頭ないが…

 

(2024年2月1日 記)

「幻」の考察 (NO289)   

 

  「何故生きるか」、という問いをやめて、「どう生きるか」という、人生から問われている問いに答えて生きよ、とフランクルは言う。でも、どう生きるかの前に、何故生きるかが分からないと、どう生きるかは見えてこないとも言える。生きることを前提にするか否かの問題だ。生きることは何故なのかという考察はやっぱり大切な必須なことのようにも思う。この問いは生きるための十分条件ではないけど、必要条件であるのではないか。

 

では改めて聴こう、何故生きるのか、と。死にたくないからという答えも一つである。だから、その死が周囲から已むおえず押し寄せてくるまでは死なないで生を続ける。これは人生では多くあることかもしれない。そうなら、その生は筋金のない緩んだバラバラのトタン屋根だ。あっちへ飛ばされこっちへ飛ばされ、まるで糸の切れた凧のように行く先も不明な転落しかかった、風まかせの行き先不明の列車となる。そこには魂や心はない。そんな人生でいいのか。決してよくはない。人生は主体性がなくては人生ではないだろう。その主体性はいったいどこから出て来るのか。

 

それは絶望と希望の狭間から醸成されるのではないか。絶望を潜り抜けるのは希望しかない。一方で、希望が絶望に変わるのは人生の常道。その意味で、人生は希望と絶望とまた希望とそして絶望が織りなす色彩なのだろう。仏教が教えるように、「無常」が人生、「常」ではないのだ。能登半島のあの元旦の大地震を誰が予想したか。3.11の東日本震災を誰が予想したか、神戸の震災、熊本地震を誰が予想したか。天変地異は全て誰も予測不可能で、ある日突然にやってくる。全てのものことを奪って被災した者は呆然と立ちつくす。

 

でも、人間はその絶望から歩き出す。その時希望を信じて歩き出す。歩くその先に絶望しかないことが確信されるなら、その歩みは決して始まらない。希望は「幻」かもしれない。でも、その幻を人は創造して前に進む。人生とはそういうものなんだろう。このために生きると決めても、不意に絶望が押し寄せる人生はそういうものだろう。この整理に行き着いてしまうと悲観で人生を送ることになる。でもその悲観に抗ってそこに、「幻」を創作して生きる力は楽観だ。生きているという現実は、生きている全ての人に意識するしないに係らず、この楽観があるのだろう。

 

私は「先天的悲観後天的楽観」だという自覚がある。その後天的な楽観は悲観を覆い隠すために自らが作り上げた「幻」かもしれない。それでも、その幻は生きる力をくれるのだ。人間はそういう意味で、絶望を希望に変える力を生来持っているのではないか。これは生きていてとてもうれしい力だ。どんな絶望の淵に沈もうとも希望の光を見つけようとする力が自分にはあるということだから…幻とは希望なのだろう。(2024年1月16日記)

目標の様相(NO288

 

 今日、病院で注射の待ち時間に、私は、目標について考察していた。実は自転車に乗って自宅を出てからすぐ、私は目標について考えていた。目標が大好きな私はその目標を完遂したことはない。そこに、今もこうして目標への憧れがあるのだろう。できなかったことへの、郷愁がそこにあるのだろう。自分を慰める意味もそこにあるのだろう。生まれ変わったらこうしたいと思っても、私は生まれ変わっても同じ轍を踏んでいるという確信もあるほどに、意志が弱い。この意志の弱さは、反面自分の魅力のひとつなのではないかという逆説も最近は考える。

 

なぜ、そう考えるのか。強い人間は憧れられることも多いけど、面白くないだろう。弱い人間だから、人はその人に近づきたいお世話したいとも思うのではないか、と思うからだ。そういって弱さを装っているのではない。真底弱い人間なのだ。この歳になって、今さら自分の弱さの克服でもないような気もする。でもそれは他者の視点からの自己のこと。自分ではどうしてもこの弱さを克服したいと思うのだろう。そのためには目標が必須だ。目標を創るのは小さい頃から得意だ。創っているその間は、その、目標は実現したように思えるからだ。でも、実際はその目標は紙に書かれた文字にすぎず、いままで一度も達成されたことはない。

 

外的キャリアはもう卒業した。残るは内的キャリアだけだ。人自然芸術本との出逢いの中に、内的キャリアを成長させるものはあると確信している。内的キャリアの成長とは換言すると、魂の成長だ。なぜ、この四つが魂を成長させるのだろう。それは、「感性」が成長して鋭く敏感になるからだろう。一時流行った鈍感力はどうだろう。鈍感力も感性の進化に他ならない。感性は鋭敏化しても、鈍化しても、成長なのだ。いわゆるそこに止まっていなければどちらに動いても、感性は成長している。私の人生の多くの部分を占めた目標は受験だった。5科目の制覇は、残念ながら達成されなかった。そのことが今も未練として残っているから、私はまだ、目標を立てているような気がしている。孫の勉強を自分に転嫁して満足していこうというような魂胆もそこには、垣間見える。

 

目標は人生には必要不可欠なことだと私は思っている。でも、ここまで生きてくると、外的キャリアを構成する外的キャリアを助長する、目標はもう必要ない。というよりそれを実現する必要性ももうないから、目標は消える。一方で内的キャリアへの目標は前以上に大きくなっている。一言で内的キャリアに資する目標とはなんで、その、ゴールは何かを、私は病院の待ち時間で考えていたのだ。

 

まず、なぜ、内的キャリアを成長させたいのかというと、自分のために他ならない。それが、他者の評価に繋がって素敵な魅力ある人だと評価されればそれにこしたことはないが、他者よりも自己において、私は内的キャリアを成長させたい。それはなぜか。多分生きることへの豊かさや充実のためだろう。もっと言えば、死ぬことや病気になることや天変地異に逢うことや、事故に逢うことや、貧困や、孤独や、疎外から自分を守りたいからだろう。これは一言で言ったら、哲学ではないか。すでに、そのために私は哲学をしているではないか。なんのためにわざわざ今、目標などという、私にとっては、もう脱ぎ捨てた古い言葉が浮かんでくるのだろう。

 

それは、肯定的に考察すると、私は若くなったのかもしれない。歳を重ねると「無為自然」に生きたいと思う傾向がある。反対に目標を立ててその中に生きるということはどろどろした世界に戻るということだから若くなったのかもしれない。さっき、看護師さんと会話していて、「辻さんは若いね」、と誉められた。久しぶりに逢った看護師さんだったから、嬉しかった。「若いね」という意味は、外見ではない。話しの内容が若いと彼女が言ったのは明確だ。話の内容とはまずは、テーマなのだろう。そして表現なのだろう。蕁麻疹の注射だから、「最近はどうですか」、との問いに、「もう、一年半も出てない。蕁麻疹もリズムなんですね。ここで出るべきか出ないべきかを考えているんですね。蕁麻疹に出るべき機会を減らしてあげることなんですね」、と私は話した。そしたら、「辻さんは相変わらず若いね」、と言う言葉が返ってきた。そのあとは、「私も負けないで勉強しなくちゃ」と続いた。これは、とても、うれしい言葉だった。同時に、咄嗟のその看護師さんの言葉が驚きでもあった。なぜ、私のその発言から、「若い」と言う言葉が出てきたのだろうと思ったからだ。多分、蕁麻疹をそのようにとらえている私の想いが「若い」と、彼女は感じたのだろう。それは、私の中にある、「哲学的な視点」を彼女は感じてくれていると思えて、とてもうれしかった。

 

実はほのかにその看護師さんを私は素敵な人だなあと思っていた。向こうも多分、その私の想いが届いて、好意をもってくれていて、それが、シンクロして、こういう会話が成立したのだろう。ほんの数分の短い会話の中に、溢れるような、「感性」が、交錯していて心地よかった。これは、自転車で、目標について考えている延長線上にあると、私は整理した。目標とは「若い」のである。年を重ねたら目標はもう、卒業して無為自然に生きるのだろうが、目標は再度、人生を引き戻す形で私に若さをくれるのかもしれない。そうなら、目標を立てることはとても今、大切なことだと思った。

 

生活を楽にするため、生活を豊かにするため、一瞬を輝かせるため、生きていることへの感謝を感じるため、具体的には、家族やかけがえのない人達の豊かさの創造のために、人は目標をたてるのだろう。自己の成長がその原点にあることはかなり年齢を重ねなければ出てこない視点だ。料理や園芸や断捨離やパソコンやスマホのネットワークの知識や税や社会保険の知識も目標の範疇だ。そうした、具体的な目標に私は叉、少し気持ちを引かれていて、自分でもビックリする。一方でやはり、内的キャリア、魂の成長という、目標は、でんとして私の前にある。これまでの未熟な未達成のリベンジとしての目標ではなく、いままでの総ての過程を肯定した立ち位置で、新たな目標を立てていくという視点が必要なのだろう。

 

目標の先にあるものは何か。それは、自己の充実に他ならない。その意味で目標は、生涯、年齢を超えて私達の前に存在している。今、突然、なぜ、人間は目標を立てるのか、という答えがわたしの中に出てきた。人間の豊かさや幸福について論じたものは、時代を超えてたくさんある。多くの思想家や哲学者達が幸福論を整理している。でも、私は難解な幸福論より、マズローの欲求五段階説が、一番だとずっと思っている。そのシンプルさが魅力的だ。

 

人間の欲求にはきりがない。その欲求は満たされたとたんに次の欲求が出現する。衣食住等の「生理的な欲求」が満たされさえすればそれでいいと思っても、それが、満たされれば人間は、その上の「安全」の欲求を願う。手に入れた生理的欲求を守りたいのだ。安全が担保されたら、今度は「社会的帰属の欲求」が出てきて、社会と交わりたいと思う。それが、実現したら今度は、社会に帰属しているだけでは満足せず、「称賛(誉められたい)」して欲しいと願う。称賛を勝ち得たら今度は、それでも、満足せず、「自己実現」という、自分が存在している意味を自分で感じなくては満足しなくなる。そして、最後はマズローが晩年到達した「自己超越の欲求」だ。欲が有る限り人間はそれが満たされるとその上を望むから、その欲を消してしまうことが、究極の人間の幸福であり豊かさだという結論だ。この自己超越の境地は釈迦が、到達した、空や無の世界と同じだろう。


このマズローのシンプルな整理は人間の幸福論豊かさ論の結論だと私は今思っている。「目標」は、人間の欲望の産物なのだろう。そしてその目標は人間を高め豊かにし幸福にする。でも、目標がある限り、人間は、最終的な豊かさや幸福は得られない。なぜなら、その目標を達成するために、困難や悲しみや葛藤と向き合うからだ。目標を卒業した時初めて人間は、豊かに幸福になる。これは、自己を超越したからだ。「私」というものを脱ぎ捨てられたからだ。「無為自然」に生きるとはこの境地だろう。いままた、目標に戻る私は、せっかく積み上げてきた無為自然から遠退くような気もする。でも、自己超越や空の世界は、目標を絵描き続けるなかで、やっと、到達できる世界なのだとも思う。いままた、目標に帰ろうとしている自分は、それでいいのだろう。その中から、いつか、自己超越の「無為自然」の境地にいけるのだろう。目標の様相は際限なく続く。

 

(2024年1月9日 記)

箱根駅伝(NO287)

 

 走る走る走る。一秒を削って走る。走れなかった仲間のために走る。ここまで自分を育ててくれた全ての人に感謝して走る。箱根を走る若者を見ていて私はその走る輝きに感動する。その姿は美しい。その姿の前には、もう、どこの大学を応援するという些細な想いは消える。以前は母校の早稲田が下位に沈んだらテレビの前を去る私がいた。しかし今は違う。全員を応援したくなる。それだけ、私も成長したのだろう。

 

優勝候補だった中央が沈んだ。来年は予選会からスタートとなった。年末に体調不良者が続出したそうだ。でも、体調不良も実力の範疇だ、仕方ない。絶対の王者と言われていた、駒沢は青山に完膚なきまでに叩きのめされた、完敗だ。なぜそうなったのだろう。青山の気迫が勝っていた。走る青山のランナーからは、「負けてたまるか」という、気迫が満ち溢れて、こちらにも伝わってきた。一方で、駒沢からは、受身になった「戸惑い」が走るランナーに終始あった。

 

「負けてたまるか」という合言葉は、原監督の、力を結集する、力以上のものを出させる作戦だったが、見事選手達はそれを自分のものとした。そこに、青山のしたたかな成長した文化を感じる。この精神力は日本が、蒙古襲来、日清戦争、日露戦争等、大国に勝利した原動力だ。先の戦争も、特攻隊という、死を覚悟の作戦を立てたが、アメリカには勝てなかった。神道を柱に教育勅語や皇国史観で、国民を一つにした火の玉作戦は玉砕した。そして、日本は今、その反動で、日の丸や国歌への尊敬の念を欠いた、自国を愛することに疑心暗鬼な国になっている。このことは国民にとって一番不幸なことだ。自分の親や自分の家庭や自分の国を愛せないことは、とても不幸なことだ。政治は、前途多難な日本を、なんとしても豊かな国にして欲しい。そのためには、一致団結して、一致協力して、皆で同じ方向を向いて進んで行くことが不可欠だ。そのための真摯な議論を期待したい。

 

元旦から、能登半島の天変地異と羽田の航空機事故が重なり、前途多難な2024年の幕開けとなった。こんなときに、スポーツで、一喜一憂することなんか、自粛するべきだという意見もあるだろう。果してそうなのだろうか。コロナの時も、東日本大震災の時も、広範囲な自粛が勧奨された。困難な時、悲しみに満ち溢れた時程、スポーツの感動や芸術の感動は必要だ。人生はもとより、悲しみと困難に満ち溢れている、いわゆる四苦八苦の世界だ。自分の身内や自分のかけがえのない人が、その、天変地異や事故に巻き込まれなかったということで、胸を撫で下ろすことは間違っている。何故なら、その、天変地異や事故とは、全員が背中合わせにあるからだ。東京にも早晩、直下型地震が来るだろう。その時、あたふたするのではなく、「よしきたか」、とそれに向かう力と精神が欲しい。これは、苦難の人生を生きることと同じことだ。

 

人は、病気、老い、天変地異、事故、貧困、死、の中で生きている。それとの共生がどうしても必要だ。そのためには、それらから逃げないで向かっていく力がいる。そのためには、それらの絶望する「不幸」を受け入れることしかない。そんなことを考えさせる新年。箱根駅伝の感動と、能登半島の地震への心配と、羽田空港の事故への疑問が錯綜して、とても複雑な気持ちが、私の中を占めている。それでも、時は刻んでいく。時は流れていく。絶対王者の駒沢を見事破った青学の、「負けてたまるか大作戦」は、いまこの時、私たちの心の中に必要だ。

 

ここまで書いてきて私の中に、でも一緒に哀しみに暮れることこそ今一番大切なことではないか、という声が聴こえてきた。確かに、悲しみや困難に遭遇した時、人は逡巡する。絶望してもう前には進んで行けないと思う。私とてそうだろう。前に進む力が出ない時は、その悲しみや困難の中でじっと沈んでいる他はない。周りも一緒にじっとその悲しみや困難を感じて一緒に静かに沈むしかない。

 

愛には与える(GIVE)愛と、引き受ける(犠牲になる)愛と、一緒にいる愛がある。その中で一番大切な愛は、一緒にいる愛だ。深い悲しみに他者がある時、その悲しみを一緒に感じてその悲しみの中に一緒にいることは最も尊い愛である。それがいわゆる「自粛」というものだろう。この自粛と前に進む力の鼓舞はそのバランスがとても難しい。でもそれはテクニックなどというものではない。深い愛があれば、当然にそして自然に、この二つのことは実現していく。それに身を任せることだ。他者がどうするということではなく、自分はどうするのかということだろう。

 

大地震で命を落とした方々や羽田の事故で命を失った方々に、謹んで深い哀悼の意を捧げる。そして、大地震を被災して今不自由な避難の場所で懸命に頑張っている人々に、深いお見舞いの気持ちを表したい。

 

深い悲しみと困難の中にあっても人は必ず立ち上がって歩いていく。必ず前に進む力はそのうち出てくると信じたい。人生とはそういうことの連続だから。

 

(2024年1月4日 記)

大晦日から元旦へ(NO286

 

 はじめて紅白を中座した。子供の頃からずっと宝物にしていたものを失った気がする。とてもいたたまれなくて中座してこのブログを書いている。ここ数年、紅白はほとんど知らない曲に覆われていた。でも、まんじりともせず決して中座することもなくトイレに行く時間も惜しんで見てきた。それなのに今日の紅白は明確に違った。何か疎外感を感じたのだ。早稲田の1年生の時に学生運動で大学からロックアウトされたその時の寂しさがある。何故だろう、どうしてそんな疎外感と寂しさが私の中にあるのだろう…

 

紅白を10年以上もずっと仕切ってきた名物チーフディレクターの島田源領は私と中学高校の同窓だ。彼が死んでチーフディレクターは2-3年前に交代した。彼が演出していたら、今日私が感じたこの疎外感は決してなかったはずだ。新しいものを取り入れながら、一番数が多い団塊の世代のことは必ず彼の頭の中にあった。だから、知らない曲が増えても、中座なんかをすることはなかった。でも今日の紅白は違った。全く自分の中に入ってこない。全く心に響いてこない。私が悪いのか、紅白の演出が悪いのか。どちらだろう…

 

紅白は歌番組である。これはNHKの会長が明言している。しっとりと歌を聴かせて欲しい。知らない歌でもいい、聴いて、ああ、いい歌だなあと思えればいい。それなのに、今日はまるで歌を聴かせるのではなく、ほとんどの舞台は踊り(ダンス)で彩られていた。歌を聴こうとしてもダンスの方に気をとられてしまって、集中できない。司会も含めて何か、どっしりした歌番組だという自負を失ってしまって、華やかさに心を奪われてしまっているような気がした。舞台が賑やか過ぎて派手すぎて人が多すぎて、じっくり歌を聴く環境になく、まるで全ての歌手の舞台がお祭りに彩られてしまっている。だんだんイライラしてきた私はついに中座を余儀なくされてこうしてブログを書く羽目になった。

 

昭和はどんどん遠くなっていく。世代の違いも分かる。テレビから若者が去っていく時代。でも、もう喜寿を迎える我々団塊の世代と、20代30代40代50代は共生しなくてはいけないのだ。お互いに理解しあって豊かな文化を創造していかなくてはいけないのだ。世代は違ってもその共生をする力が人間力だ。今、「ふきのとう」が流れている。若い人は知らないだろう。でも、その曲を聴けば必ず若い彼らの心には響くはずだという確信もある。そうなら、今日の紅白の私が知らない曲も、聴けば私の心を打ってほしい。でもじっくり聴く前に、様々なことが邪魔をする。ダンスであったり、お祭り騒ぎであったり、何か気ぜわしい演出であったり、それは多岐に渡って、歌っている歌詞や歌唱を味わう余裕が私からなくなる。そうした繰返しがこの中座に繋がったのだろう。これで76年ずっと縛られてきた紅白から解放されるという想いもある。それは私にとっては昭和からのサヨナラを意味する。と、ここまで一気に書いてきた。この想いはNHKにも送って読んで欲しいと思っている。さて、戦争に明け暮れた2023年ももうすぐ消える。そして新しい年2024年が来る。

来た年賀状の返信として私は次のことを用意している。

 

『古稀から年賀のご挨拶を失礼させていただいています。早々の賀状をいただきありがとうございました。今年は辰年です。辰は十二支の中で最も縁起の良い干支とも言われ、様々な願いを叶えてくれるだけでなく、あらゆる物事をいい方向へ導いてくれる力があるとされています。 少子高齢化のこの困難な時に、日本にそして世界に素敵なことが訪れて欲しいと願います。2040年には労働人口が1200万人も減って、2054年には、4人に1人が75歳以上となります。この国は大丈夫なのでしょうか。子供や孫達の時代が豊かであって欲しいと願います。そして人間の「欲と業」による戦争もなくなっていて欲しい。実在しない幻の龍がこの難しい問題を解決して欲しい、そんな想いの新年です。皆様にとって幸多き年になりますよう祈念致します。今年もよろしくお願い致します。』

 

これはこのブログを読んで下さっている皆様への言葉ともしたい。ブログを2023の後半はめっきり書かなくなった。書かなくても生きていけるようになったということもできる。何かを失っても、まだ自分にあるものに感謝して生きていきたい。この人生は、悲しみと困難に満ち溢れている。でも生きる限りはその瞬間を豊かに生きたい。

「上をみたらきりがない、下をみてもきりがない」とこの前、誰かが言っていた。これは、他者との比較よりも、自己の中の比較という視点が大切なことなのだと最近思う。順風満帆な時も、失意のどん底にあるときも、その「時」を受け止め受け入れることで、その困難と葛藤に向かう力が自分のなかに出て来るのだと思う。生きていると、病気や事故や天変地異は背中合わせにある。何か重篤な病気を宣告されても、まだ、自分は、目が見える、耳が聞こえる、身体が動くと、思うことで生きていけると思う。失ったことを追い求めるのではなく、まだ、自分にあることを、しっかりみつめてそのことに感謝して生きていきたい。そのことが、豊かな人生の原点のように思う。

 

日本をここまで豊かな国にしてきた自民党はいったいとうどうやって、これから国民の信を得ていくのだろう。安倍派は早晩解体するのではないだろうか。安倍さんが長く政権の座にあった間に安倍派にこびりついた垢は簡単には一掃できない。自民党の右派は安倍派、一方、今の岸田さんは安倍派と正反対の自民党左派の宏池会。自民党は左右合併でできたが、右の武闘派は岸信介から続く安倍派、一方左派は、お公家集団と揶揄される大人しい政策優先の吉田茂から続く宏池会。保守とは守るだけではなく、古きを訪ね新しきを知る、という進取の気性がなくてはならない。いわゆる温故知新、不易流行、新しさを求めながらも古き良きものを捨てない精神が必須だ。

 

自民党がこの難局を乗り越えて国民の信を取り戻すことは簡単ではない。選挙も近い。ここは、心機一転、自民党を解体するくらいの新しい改革派で舟をこぎ直して欲しい。総理大臣には林芳正、官房長官に小泉進次郎、防衛大臣に石破茂、財務大臣に河野太郎、がいい。国会対策委員長は女性を起用して欲しい。今度の選挙での国民の審判にもとても興味がわく。

 

中座からこれを書いて紅白に戻ったら私の紅白がそこにあった。「さだまさし」あたりを頂点にして、全ての歌がしっとりと私の心に入ってくる。紅白は健在だった、うれしかった。少子高齢化という最難関にある日本。各政党は足の引っ張り合いをやめて、この国をどうするかを真剣に建設的な議論をして欲しい。国家総動員法や大政翼参会は、戦争決行のためにできたが、今や、国の存続が危ぶまれる事態にさしかかっている。国家をあげて、豊かな国づくりにまい進するべき時だ。徴兵で赤紙で戦場へ命を捨てに行く若者がいないだけでも今は幸せだ。この幸せを更に全員の豊かさへ向かって推し進めたい。誰かに託すよりも私はそのために何をすべきなのかを考えたい。 (2023年から2024年への時が流れる時に記)