「選挙が残したもの…」(NO334

 

  昨日は朝、3時過ぎまで開票速報を見ていた。今日も終日テレビに釘付けで、政治のことを考えていた。完全なテレビ依存中毒状態だ。「選挙が何故こんな結果になったのか」、という、今回の結果に対して私の中で整理できないものがあって、それを解消したいから、ずっとテレビを見て、その答えを得ようとしている自分がいた。

 

次のような問いが私の中にあった。マスコミの予想が何故こんなに正確に当たるのか、自民党の議席が300を越えることは歴史的なことだ。何故こんなことが起こったのか。人の価値観や考え方は、そんなに簡単には変わらないはずなのに、直近の衆院選と参院選で負け続けて、両院で過半数まで割った自民党が、何故300以上もとってしまうのか、とても不思議で、ある意味では怖い感じもした。

 

しかし、マスコミが事前に言った、高市人気の凄さは本物だった。特に若者に彼女が人気があるということが、とても不思議なことに感じた。安倍派の政治と金問題で前回は自民党の公認から外されて落選した大物議員も軒並み当選してきた。一方で、立憲の大物議員が多く落選している。高市突風のすさまじさに唖然とした。でも、ずっとテレビを見ていて、その答えがある程度私の中で整理されてきた。高市さんは多くの人の中に信頼を勝ち得ていたんだと…

 

彼女の逃げない物言い、はっきりした言質、シンプルな言い回し、そして、言ったことはやるという、行動力と企画力、新鮮さが、国民に刺さったのだと思った。そして、失われた30年を挽回して高度成長した時のような日本、日本人の底力をもう一度創造してくれるという期待を皆に抱かせたのだと思った。一言でいうなら「希望」を彼女は国民にくれた。一方で、中道の、野田さんは、辞任会見で涙を流しながら自己批判を語った。即ち、「こんな古い人間には人はついてこない、自分はリーダーとしては失格だ」、という言葉が印象的だ。野田さんだからこんな反省の弁が言えるのだ。

 

民主党が政権を自民党に取られたのも、野田さん。そして、今回の惨敗、と、二度の大敗北を謙虚に、「自分は古かった」と、反省していた。「自分はリーダーとしての器でもなかった」、とも言っていた。これは、野田さんの中にある本心なのだと思う。その言葉を聴いて、もともと大好きな野田さんが、私はさらに好きになった。「こんな状況だから、より中道の視点から、よく、政治を見ていきたい、問題点も指摘したい」、とも言っていた。二度の大失敗を乗り越えて、野田さんはさらに成長して、必ずもう一度立ち上がって来るのだと思った。それを期待している。

 

それにしても客観的には、26年間も敵対してきた公明党と立憲が合流して同化できるはずがない。中道という理念も全く抽象的で、弁舌爽やかで理路整然とした野田さんの持ち味は、中道を創ってから日に日に冴えなくなって心に響いてくることはなかった。大きな無理がそこにあった。今回の結果は、高市人気と、中道という新党の曖昧さが相乗して、歴史的なことが起こったと私は総括した。野党にも、高市さんのような清新な、国民を引きつけるリーダーの出現が待たれる。

 

これから政治はどうなっていくのか。しっかりその推移を見ていきたい。豊かさと幸せと安全を担保できる国づくり、魑魅魍魎(ちみもうりょう)の諸外国のリーダーたちと敢然と向き合える力のあるリーダー、企画力と行動力のある国民に期待を持たせて国民を引っ張っていけるリーダー、シンプルに何をしたいのかを伝えられるリーダー、信頼と期待と希望をくれるリーダー、そんな政治家がどんどん出てきて欲しい。

 

自民党が今回の結果に驕って暴走するのなら、また、もとの欠点だらけの自民党に戻ってしまう。そしたら、次回の選挙ではまた、議席を減らすのは論を待たない。高市さんがこの結果を受けてどんな政策を提案し実行していくのかを、しっかりみていきたい。そして今回の結果を、与党も野党も常に真摯に考えながら政治をやっていくことが肝要だ。

 

(2026年2月9日 選挙の余韻の中で記)

「正義とは何か…」(NO333

 

  「正義」について考えている。考察のきっかけは二つある。テレ朝の26年間続いた沢口靖子主演の「科捜研の女」が最終回で終りとても感動した。もう一つは明後日に迫った選挙の様相を見ながら、同じ人間なのにどうしてあんなに主張が違うのだろう、ということだ。政治家で人々(国民)の幸せや豊かさを願わない人はいないと私は思っている。それなのに、真逆の論理が行き交っている。「正義」は一体何で、そしてそれはどこにあるんだろう、と不思議に思った。

 

前者は、禁止されている「DNA鑑定による犯人の似顔絵」を主人公は創って、結果として犯人検挙に繋げたが、警視庁からまだ尚早で冤罪等につながりかねない未完成のその技術の使用は、強く禁止されていた。そのことに躊躇して手をあぐねている間に犯人は殺人を重ねた。主人公はそれをみて、職を辞することを覚悟で職務規律を犯してDNA鑑定の似顔絵を創った。この場合「正義」はどこあるんだろうと私は迷った。

 

私は企業で終始人事労務に身を置き、そこでは不当労働行為や思想信条差別や公職選挙法違反すれすれの人事労務施策を仕事とした。後年はリストラが主な仕事となった。大きなリストラでも3回を超える。この仕事は「正義」なのだと自分に言い聞かせながら職務を実行した。その正義の中身は、企業を守ること、企業を守ることが従業員の幸せと豊かさに直結していると信じてやまなかった。でもよく考えると、その「正義」は、企業に従順ではない者を切捨てていく、あるいは仕事が遅く成績が悪いものを切捨てていく労務管理だ。それはまさに弱者を切り捨てるものでもあった。でもそれが多くの普通の従業員を守る手段だと信じて疑わなかった。

 

自分の仕事に苦悩して「正義」はどこにあるのかを自問して、結果として私は55歳で企業を去るのだが、企業を離れてみて、企業の横暴や身勝手さが鮮明に見えて来て、かつ自分が非正規になったこともあり、弱者の境地が良く見えてきた。そして最後はハローワーク管内に非正規労組を立ち上げて、東京労働局や人事院や厚生労働省と対峙した。自分が長年やってきた本音と建前を駆使しながら弱者を切り捨てる大企業の人事労務管理への疑問を、正規と非正規の理不尽な格差是正の主張を当局にすることで私は自分を慰めていたのかもしれない。

 

後者の今回の選挙での各党の言い分の違いは、主義主張やイデオロギーが異なれば真逆の論理になることも理解はできる。どうしても解せないのは、人々(国民)の幸せと豊かさを政治家を志した人は皆持っているはずなのに、アプローチで何故こんなに異なってしまうのか、ということだ。そしてもう一つは、強者と弱者への目線の異なりだ。自民党支持のものは強者で野党支持者は弱者なのか、全くそんなことはない。でもどうしても政治家たちの主張の根底には、富裕層と貧困層、強者と弱者、保守と革新、という視点がまとわりついている。それはとても古い感性だ。

 

そんな視点ではなく、この日本をどうするか、社会を豊かにしていくにはどうするか、将来日本を背負ってくれる人を育てる教育はどうあるべきか、外国人と日本人の共生はどうあるべきか、自分の国は自分で守るのかどうか、他国が攻めてきたらそれを撃退する軍備がなければ日本は占領されてしまう、いや、どこかが攻めてくるというその前提が間違いで、全ての国を信じることで軍備などいらないのか、憲法はどうなのか、軍隊を持たないと宣言している世界に一つしかないこの平和憲法は自衛隊という世界でも屈指の軍事力を排除して自衛隊を否定してそれでいいのか、等々、基本的な問題課題をシンプルに議論していくべきだろう。

 

高市さんが首相になって歯に衣着せぬ物言いで、上記のような問題点が明確化され始めている。右に傾くと警戒するのではなく、右左を脱却して基本に帰って、この国をこの国民をどう豊かに幸せにしていくのか、国際法も侵す最近の大国にどう処して自分の国を守っていくのか、物価高や消費税や社会保険料等の身近な問題も大切だが、国家の存在、国家の存亡にかかわる防衛や経済や研究開発や、少子高齢化による労働問題や、若い人を育てる教育規範等、大きな国家としての在り様を議論して欲しいと思う。そしてその議論の根底にはいつも「正義とは何か」という問いを持って全員が自分を振り返って欲しい。

 

「私は正義とは愛」という結論に今至っている。キリストの三つの愛がある。施す愛、引き受ける愛(贖罪)、そして一緒にいる(添い遂げる)愛だ。物質的な弱者には「施す愛」が必要だ。精神的な弱者には「引き受ける愛」が必要だ。そして、一番大切な愛は、一緒にいる愛だ。一緒にいるとは物理的なことではない。心が通っているということだ。この愛は、強者にも弱者にも等しく必須な愛だ。

 

「正義」とは客観的なものではないのだろう。一人一人の中にある極めて主観的なものだろう。今、声高に選挙演説している立候補者は全員、自分の言うことが「正義」なのだと確信しているはずだ。それがいい悪いということではない。正義とは極めて主観的なものだからだ。でも、そうしたら社会正義とかはどこに行くのだろう…社会正義などは存在しなくなるのだろうか…そうでもないような気がする。人間が培ってきた社会的倫理は普遍だ。それを拡張すると「愛」に行き着く。どの人にも人間の「矜持」がある。その矜持をじっと見つめる時、人間は愛に気づく。その時、自分の中にある正義の意味が解けてくるような気がする。

 

自民党が単独過半数という予想が出ている。私はもう少し高市さんにやらせてみたい。でも、自民党が勝ちすぎると、維新や国民民主の意見を聴かない危惧もある。自民党も政治とお金の問題はじめ、長くやってきた政財界との癒着やしがらみが多くある。まだまだ古いなあと思える行動力の遅さもある。ことなかれ主義にも陥りそうだ。自民と維新で与党過半数あたりが適正なところのように思える。(2026年2月6日 選挙まであと一日 に記)

 

「医学と精神(心)の狭間で…」(NO332

 

  医学の偉大さは理解し肯定している。一方で、医学を超える力、即ち精神(心)の力への期待も大きい。精神(心)の力とは何だろう…

 

「病は気から」と昔から言われてきた。これは気が病を呼び込み気が病を癒すということだ。医学的に言うと、気の状況によって、人間の中にある免疫力が左右されるということだ。免疫力とはどんな優れた薬よりも優れた薬なのだろう。人間の身体は癌に代表されるように細胞の状態が身体の状態を司っている。悪いものが来たらその悪しきものをやっつけてしまうというとても恐れ多い力を持っている。だからその力に期待してしまう私がいる。

 

確かに私は、20年近く苦しんだ喘息を薬の力で治した。そして年に4-5回は身体全身に出てくる蕁麻疹を薬と注射の力でここ3年余りは一度も出て来ない状況に改善させた。これは、身体の免疫が外部から投与された薬の力も得て、喘息や蕁麻疹という発作を抑えているのだろう。その意味で医学は偉大だ。でも身体に作用する医学的な薬や注射や点滴は、病気を治すという反面、健康な組織にも作用してそれを壊すということがある。いわゆる副作用だ。

 

現代医学に身体を任せる限りは、この治療をしたら、この薬を飲んだら、この点滴や注射をしたらきっと良くなるという確信を持つことが必須だ。それに疑心暗鬼でいる限り、それらの効果も減じられるのだろう。ここに精神(心)の状態が関与している。悪い個所を根こそぎ取り除くという外科治療(手術)はそこにある病原体を除去するのだから病気はその瞬間はそこにはなくなる。しかしまた一定の時を経て。同じ病気が再発したり転移したりして、せっかく覚悟を決めて行った外科治療(手術)はもとのもくあみとなる。確かにその手術で生きる時間は長くすることができたのかもしれないけれど、それは一時のことにしかすぎないという挫折と遭遇する。そんなことなら大変な手術でかけがえのない瞬間の穏やかさを奪うよりもそれを避けてできるだけ穏やかな瞬間を維持したいとも人間は想う。

 

1年単位での長生きとその長生きが1年単位での健やかな時(瞬間)を奪ってしまうこととの天秤の帰趨は誰もが葛藤し悩むことである。それはこの人生の考え方や死生観によって異なってくる。だから正解というものはそこにはない。どちらを選ぶかは、その人の生き方価値観、時への想い、人生の豊かさや幸福が長さにあるのか瞬間の輝きにあるのかで、違ってくる。抗がん剤の投与も全くそういうことだろう。癌はやっつけてもそれにより他の健やかな機能が阻害されるリスクがあるのなら、その選択は葛藤の中に舞い込んでやっかいだ。

 

医学はある意味で確率の世界であも。少しでも健康や命の長さの確率が高い方法が医学の標準治療としてガイドラインとして医学治療の常識としてある。、だからセカンドオピニオンをしても、医学の範疇にある病院や医師達が医学の常識である治療ガイドラインを逸脱した見解を示すことはほとんどありえないのだろう。「癌は切るな」とか「抗がん剤治療はするな」とかと医学界にいる医師が書く本もあるが、それはまだまだ負け犬の遠吠えのように、極少数の異端的な見解としか評価されていない。要は自分が何を信じるかという問題になる。そして病気と共生して穏やかな瞬間を如何に維持できるかという精神と心の問題がそこにある。

 

聖路加の担当医は手術後の抗がん剤投与を、医学治療のガイドラインに沿って当然の如く当事者である妻に告げた。しかし、渾身の力を込めて書いたA41枚の、私の「瞬間を豊かに生きることの意味と大切さ」という文章を読んで、その医師は微かに微笑みながらこう言った。「わかりました、抗がん剤は見送って経過観察してみましょう」と。その医師の言葉は重かった。そしてその医師の決断に偉大さを感じた。しかしその後、「ガイドラインを逸脱する治療は私一人では決められない、セカンドオピニオンしましょう」という言葉が続いた。

 

癌研有明病院でのセカンドオピニオンの日が近づく。しっかりその医師達の見解も聴いて、今後の治療法を私達当事者が決める。勿論、本人の意向を100%尊重することはもう決めている。でもそれはとても難しい判断であり、その判断を一緒に考えて難しさを半分引き取って、考えて行きたい。医学を超える精神(心)の力とは、睡眠、食べること、運動(歩くこと)そして、いつも心を穏やかにして葛藤を減じていくことの中にあると確信している。

 

(2026年1月30日 記)

「生きることの意味」(NO331

 

  私は今、生きていることを「実感」しながら生きている。通常、人は生きていることを実感することはない。命を意識した時、時(とき)を意識した時、瞬間を意識した時、生きることの実感を感じる。フランクルは、「死は人生の完成であり死を持って初めて人生は完成する」と言った。その意味がとても今深く感じられる。

 

彼は同時に「生きる意味を人生に問うな、人間は人生から逆に問われている存在だ、即ち、人間が人生の意味は何かと問う前に人生の方が人間に問いを発して来ている、だから人間は本当は生きる意味を問い求める必要はないんだ」とも言っている。なかなか難しい言葉だが、私はこれを、「生きることそのものに意味がある」と整理している。そして「瞬間に感謝して生きるしか人間には豊かさの創造はない」、とも結論づけている。何故なら、一瞬先はこの人生は闇ということだから。誰にもそれはわからないからだ。神戸の地震、東北の地震、そして能登の地震、はそれを証明している。

 

繰り返される大地震は科学を超えて人間を超えて根こそぎ豊かな現状を一瞬において覆す。この理不尽不合理を問うても答えはない。そこにある答えは、人の中にある「時間」がその人のこの人生の長さを決めているに過ぎないということだ。運命論となるが、どんなに予防しても、病気や天変地異や事故や犯罪等はある日突然に襲ってくる。その時よし来たか、とたじろうことなく、それら悲しみと困難に向っていく力が人間には不可欠だ。その為には全ての悲しみや困難を受止めて受け入れていく力量と、日々の今ある健やかな瞬間への感謝で生きることしかなくて、一瞬先の未来への危惧や心配や悲観や、過去への自分の判断への後悔は成り立たない。結論として未来を恐れず過去を悔やまず「今こここの時この瞬間しか人生には存在しない、その瞬間に感謝して豊かに生きる」ということになる。

 

私はかつて、「生かされていることに気がついたなら無限の杞憂溶けて消えゆく」という心境になり、そのことを言葉にして書き留めた。これにより、私の中にある生来の「悲観」はかなりな程度抑制された。

 

「生かされている」ということを実感するということは、何かの力がそこに作用しているということも実感することになる。それは前述した、その人の中にある「時間」なのであろう。時計が電池がなくなったら止まることとこれは同じだ。その電池にあたるものは一体何だろう…科学や医学の視点ではそれは人間の身体の物理的機能とみなして、その機能をとっかえひっかえして時間を伸ばそうとする。でも病気は治っても天変地異や事故や犯罪にあったらその時間は消える。治療で日々の穏やかな瞬間を犠牲にして長生きしても、それはなんだか正解ではないような気もしてくる。今ある健やかな瞬間を大切にすることの方がかけがえのないことのようにも思えてくる。

 

「死によって人間は完成する」というフランクルの言葉は勇気をくれる。だから自分の中にある時間に逆らわないことが肝要となる。死は人間にとって終わりではないからだ。新しい出発だからだ。それでは死で完成した人間は死後一体どこへ行くのだろう…

 

これについては仏教では浄土(悲しみや困難のない穏やかな豊かな世界)という世界を創っている。キリスト教においても、死は「終わり」ではなく、神の愛のもとへ帰る「祝福された出発点(帰天)」であり、永遠の命への入り口ととらえられている。両者とも、地上の苦しみから解放され、天国で神とともに安らかに過ごすという希望が中心にあり、死は「再会への始まり」と見なされている。これはどんな善人でも極悪人でも同様に死をもって完成して、穏やかな世界に平等に行けるのだろう…悪人正機説で親鸞(浄土真宗)も言っている。

 

こう整理してくると、人間は物質的なものではなく精神的なものだという視点が浮かび上がってくる。即ち形而下から形而上への大転換だ。精神世界は死後も永遠と繋がっている。そこに人間の魂は永遠に生きて存在する。これはシュタイナーもアカシックレコードという概念で主張している。だから、この人生の悲しみや困難は一時的な修行の範疇であり、病気も天変地異も事故も犯罪も貧困も、皆、理不尽ではなく不合理でもなく、人間が完成へ向かって歩く道程ととらえると、この人生を超えていけそうだ。

 

人はその精神世界を「神」と呼んだり「宇宙」と呼んだり「万物」と呼んだりする。壮大な体系と理由づけをしている、仏教やキリスト教やその他宗教世界を覗いてみることは、今のこの人生を有意義に豊かにそして瞬間を生きる覚悟を養うためにはとても意味がある。哲学も有史以来人間が構築してきた膨大な知恵がそこにある。 (2026年1月23日 衆議院解散の日 に記)

「時の流れ」(NO330)

 

 今日も一日暮れた。何をしてもしなくても、どんなことがあってもなかっても、一日は静かに過ぎていく。時の流れは、人間の営みの全てを見通しながら、たんたんと、ある時は温情豊かに、ある時は、とても、冷たく、知らんぷりをしながら、時は過ぎていく。その時の流れに左右されることなく、「主体」は人間にあり、時(とき)は「客体」であることを肝に命じて生きていきたい。時の流れに身を任せるけれども、しっかり時(とき)をコントロールしながら、生きていきたい!奥の細道の冒頭にも「月日は百代の過客」と書いてある…

 

妻に初期に近い癌が見つかって手術は無事に終えた。術後の抗がん剤治療をめぐって担当医と議論になった。治療ガイドラインに沿って当然のように抗がん剤治療を薦める担当医に、私は、「人生の豊かさとはなんだろう」という疑問を書いて担当医に渡した。妻は溶血性貧血(赤血球が溶ける病気)の持病があり、抗がん剤で癌を消してもその副作用で穏やかな健康は戻ってこないのではないかという危惧である。医学は命の長さを求める。一方、哲学的には「人生は長さではなく瞬間の輝きにある」と私は整理する。A4一枚に書いた私の想いを、その聖路加の担当医は読んで笑みを浮かべながらこう言った。「わかりました経過観察で行きましょう。でも抗がん剤投与をしないという、ガイドラインを逸脱する処置は、私一人で判断するには荷が重い、セカンドオピニオンをして、がん専門医の見解も聴いてから決めましょう」という言葉に私は感動した。

 

高校同期にも安倍首相の主治医等、名医はたくさんいる。名医とは治療ガイドラインを遵守することが名医ではない。人生の豊かさや幸せの視点から、病気を治すことを超えて「瞬間の輝き」を担保する生き方を探せる医者だろう。人生の豊かさや幸せは人それぞれ違う。死生観もそうだ。千差万別な患者の想いに寄り添う気持ちこそ肝要なのであろう。2月に癌研有明病院でセカンドオピニオンを受ける。ガイドラインに沿った治療優先なら、当然に抗がん剤投与を薦められるであろう。でもその時でも「1年は少なくとも再発しないなら今の穏やかな健康を維持しながら瞬間を豊かに生きていきたい」と私は思っている。もとより、結論は本人の意向を100%尊重する。でも、本人に結論を投げることは酷なことだ。結論が見いだせない時、精神を病む。結論があれば人間はそこに邁進できる。結論が見いだせない葛藤が一番つらい。その辛さを半分引き取って、一緒に考えていく。牧師の土佐高同期から二つの丁寧な彼の「説教」が届いた。彼の愛を感じて涙がこぼれた。

 

久米宏が逝った。彼は早稲田の政経で3年上の同窓だ。2年間は大学側のロックアウトでキャンパスには入れなかったから、当然に大学構内では出くわしてはいないだろう。でも、彼も多分、大隈銅像から望む大隈講堂の時計台を眺めながら自分の人生や日本世界のことを考えていたに違いない。ザベストテンとニュースステーションの中で輝いていた彼の想いはずっと私達の世代には生きている。辛口で真っ直ぐの彼の言いようは、時の政権からは距離を置かれたが、彼の想いは我々世代全員に永遠に残る。これこそが生きている意味なのではないか。芸術家は早くこの世を去ることが多い。もう少し生きていたら、と後に残された人々は想うけれど、彼らは瞬間の輝きをしてとても豊かな人生だったのだと、ある時から気がついた。長さではなく瞬間の豊かさを大切にして生きていきたい。

 

「時の過ぎゆくままにこの身をまかせ…」という沢田研二の歌は落ちてゆく男と女を歌った。「時の流れに身をまかせ…」はテレサテンの歌。一度の人生を捨ててもあなたの色に染められながらあなたを愛し続けたい…そんな歌だ。そこには限りない瞬間の輝きがある。昭和の男と女の歌では、そんな切ない歌が多かった。もう一度そんな歌が流行って欲しい。自分の人生を思うのならば、「時の流れに身を任せるけれども、しっかりときをコントロールしながら、生きていきたい!」そして、どんな状況境遇にあっても、謙虚な気持ちで穏やかな日々を送れるといい、決して長さではない。

 

今日は宮中の歌会始めだった。それを視聴した余韻で一句私も詠んだ。

「生きること、その不可思議をかみしめる 自分の中の 時間(とき)に微笑む」

 

(2026年1月14日記 辻俊行)

「希望と絶望と…」(NO329)

 

  妻の病気に私の心が揺れている。抗がん剤の副作用で身体を痛めてまで治療するか、それとも、癌の気配を残しながらも健やかな身体で日々をおくるか、の選択に揺れている。勿論その決定は妻本人が持っているのだが、当人とて簡単には決められない難題だ。この事態になって、私は自分が神様から試されているような気がしてならない。「人生はその人の中を流れる時間が決める」だから、どんな選択肢を採用しても自分の期待する結果は、その選択の延長線上にはない。「自分の中を流れている時間」が決めるからだ。

 

また、「人生はこの瞬間しか存在しない」だから、今あるこの瞬間の健やかさをあえて壊してまでの治療は、日々のその瞬間の穏やかさを消してしまう、という疑問がある。「人生は、今こここの時この瞬間しか存在しない」のだから、未来のことなど考えることなく、今この瞬間のかけがえのない健やかさに感謝して一日一日を生きるべきではないか。抗がん剤で癌は消えることはあっても、正常な細胞が痛められて今ある健やかな日々は消えてしまう。それでいいのだろうか、という葛藤である。上記の「」内の私の整理が本当に私の信じる整理なのかどうかを今、神は私に問いただして私を試しているのではないかとさえ思う。とても難しい局面だ。

 

「絶望」は人生の豊かさは創らない、「希望」こそ人生の豊かさを創造する。だから、希望の中に生きることが人生の大きなキーだ。でも、希望は自分が選択した道が未来に明るさを灯すと確信できなくては得られない。逡巡して真逆の選択をしたとしても同様だ。それは希望の陰に絶望が垣間見えて、本当の希望ではないからだ。自分の選択が文字通りの希望になるにはどうしたらいいのだろう。

 

私の人生の整理上の視点からは、今ある健やかな一日一日を余計なことをしてあえて壊すことは間違いという結論になる。でもそれで、癌と共生して一日一日ある穏やかな日々で満足できるか否か、やっぱり未来が気になるという危惧を同時に持っている限り、全面的な希望ではなく「希望時々絶望」という心の様相となる。「晴れ時々曇り」という人生は果たして幸せな豊かな人生なのか、という整理が決断の上には不可欠となる。

 

「人生は長さではない瞬間の輝き豊かさである」という整理も私はしている。医学は幸せや豊かさは命の長さにあるという前提から医療を考えている。果たしてそれでいいのだろうかという疑問がある。NHKの「100分で名著」でおりしもキューブラー・ロスの「死ぬ瞬間」を先週までやっていた。医者でありながらセラピストと自認する彼女は、終末期患者200人の面談結果からその心理的経過を記録してこの本を書いた。そこには、医学と「医学を超える人の尊厳」との葛藤の中で患者に向き合う姿勢を書いていて出色だ。誰もが等しく通るそして訪れる「最期」の在り方を考えて問題提起している。

 

考えてみれば、この人生は一瞬先はわからない。神戸の地震、東日本大震災、能登の地震、がそれを物語る。今健康な人も明日癌宣告が下される可能性がある。生まれた瞬間死へ向かって全員が歩き始めている。人生は悲しみと困難に溢れている。病気、天変地異、事故、犯罪、貧困は私達の中で背中合わせに存在している。でもそれを危惧して生きたのならこの人生は意味はない。一方、それらを排して生きることが幸せで豊かなことなのだろうか。自分とは関係のないことと思ってもある日突然一定の確率でそれは自分にやってくる。不安や危惧を排するのではなくそれらと遭遇するという「覚悟」が大切なのだろう。「覚悟」は不安や危惧の上位に位置して、覚悟することで不安と危惧は一蹴できる。

 

その意味では、そういう困難に遭遇した人が不幸で豊かでないということは言えなくなる。全員、今健やかに暮らしている人もたちまちのうちに、その困難に遭遇するからだ。一瞬先は見えないという人生の鉄則だ。そう考えると、病気も天変地異も事故も犯罪も貧困も、今この瞬間には遭遇していないかもしれないけれど、次の瞬間に遭遇する確率が極めて高い。大事なのはその困難に見舞われた時に、どう考えどう行動するかということだろう。それは、自分に舞い降りてきたその困難を受止め受入れてその困難に向っていく力こそ大切なのだろう。その力こそが真の人間力であり、人間の魅力なのだろう。

 

その力はどうしたら身につくのか。それはその困難に遭遇することで考え悩み葛藤して、その中から創造されるものなのだろう。その力を人間に付与するために神様は、この人生を悲しみと困難に溢れたものにしているに違いないと整理した。もう一歩進んで考えると、困難に向うというよりも、その困難に「感謝」できる器量を養いたい。それはどんな状況にあっても、「希望」を持つ力なのだろう。絶望からは決して何も生まれない。希望がある限り、人生を豊かに生きることができると確信する。

 

あの、アウシュヴィッツのホロコーストの「絶望」を生き延びた人は「希望」を捨てなかった人達だとフランクルは「夜と霧」で書いている。そこで一緒に過ごし、死の宣告が今日か明日かという日々の中でも生きる希望を彼は捨てなかった。フロムが言うように、「欲望はHaving、希望はBeing」だ。心の中で精神の力で希望は創造できる。それこそ人間が試されている瞬間だ。「希望」を持つ力こそあれば、決断に悩む人生の選択肢でどの選択をしたとしても、そこには「豊かさ」しかない。だから、自分が選択したことに後悔は存在しない。その時の自分の想いで難しいことも軽い気持ちで選択していけばいい…

 

(2026年1月4日記 新しい年もはや4日経過した…)           

「人生」(NO328

 

日曜日、冷たい雨が細く降っている。私の心を癒し慰めてくれる慈雨だ。

人生は一筋縄ではいかない。山あり谷あり、悲しみと困難の連続だ。ほんの少し、喜びと嬉しさがあり、こんなに大変な人生を皆よく生きているとしみじみと想う。それでも、人生は人間に与えられたかけがえのないもの。人間に必要だから、人生はあるのだろう。

 

妻が手術をして、6泊7日の入院をして、今日、やっと、帰宅した。腹腔鏡手術の全容を担当医が、早回しのビデオで流してくれて、1時間程みた。目眩がしそうな衝撃を受けた。医者には到底なれない、いや、なりたくないと心底から思った。医者に限らず、看護師達も、ずっと病人の側での仕事だ。病気と常時向き合う仕事は偉大な仕事だが、瀬戸際にある命と向き合う仕事は、仕事を離れた時でも、職場にあるその緊張と葛藤は気分転換含めて、とても大変なことであることをあらためて思った。

聖路加病院には教会があり6階の病室から臨める青空に天を突くその素敵な凛とした佇まいにとても励まされた。7日間、毎日訪れた聖路加。築地駅を出て、少し歩くと、そのチャペルの塔が、朝な夕なに、「今日もお疲れさま」と見守ってくれた。天に向けて聳えているそのチャペルの塔の十字架は、いつも微笑みかけてくれた。

人間は神や仏を信じる。それに頼らなければ、この大変な人生は歩いていけないからだ。人間知では到底及ばない、たくさんの悲しみと困難がこの人生には溢れているからだ。その筆頭は病気であり天変地異であり貧困である。でも、いずれは人間はこの大変な人生を卒業していくことができる。そう考えると「死」というものは、まんざら避けることでもない。穏やかな痛みもない、病気もない、天変地異もない、浄土へと、旅立てることは、無上の喜びのような気もしてくる。

 

でも、そこへたどり着くまで、過酷な悲しみと困難の中に人間は放り出されている。これは何のためだろう。恐らく、繰り返し襲来してくる、悲しみと困難にたじろぐことなく、それを受け止め受け入れて、それに向かっていく力を、養うためなのだろう。その力こそ、真の人間力であり、人間の魅力なのだろう。病気と対峙すると、様々な日頃は見えないことが外面にも内面にも見えてくる。大きな気付きがそこにある。願わくば、病気や天変地異を経験しなくても、たくさんのことに気付くことができる力をつけたい。

どんなに過酷な人生でも、必ず終わる。それまで、歯をくいしばって歩いていく、それが人生なのか。大変だなと、ため息も出てくる。しかし、人生における瞬間を豊かに創造することは力(精神力)こそあればできるような気もする。「シンプルに瞬間を豊かに生きる」、「今こここの時この瞬間しか存在しない」、という整理と覚悟だ。

 

安穏の中のその瞬間はたちまちのうちに、暗黒の瞬間に塗りつぶされるかもしれない。しかし、その安穏な瞬間をしっかり噛み締められる力を持ちたい。そしてそれが暗黒に塗り替えられたときには、その暗黒を受け止め受け入れて、それに向かい、光がまた見えるまで頑張れる力をつけたい。人生はだから面白いのだろう。大変な人生だけれど、悲観を排して楽観で生きていきたい。(妻の退院の日に記)

大谷ロス(NO327

 

 3 月からずっと毎日、大谷の試合をみてきた。NHKは驚異的に大谷の全試合を生放送していた。それを毎日録画して今日までみてきた。今日はまだ昨日の歴史的なワールドシリーズの激戦の余韻一色でテレビは大谷を伝えている。でも、明日からは、大谷と逢えないと思うと、とても寂しい。でもまた、来年の4月から、半年間、彼と逢えるから、それまでは、こちらもそして大谷もまた、成長すればいい。

大リーグを見出してから、日本のプロ野球は全くみなくなった。冗長なかったるい大リーグはどちらかというと好きではなかったが、ピッチロックが導入され、牽制回数が制限されて、大リーグの試合運びは見違えるようにきびきびと速くなった。大改革である。

大リーグの魅力の一番は、大リーガーの技術の高さである。投げる打つ守るそして走る。この技術は、日本のプロ野球とはやはり一味違う。勝敗を気にして見るよりも、大リーガー達のその、一挙手一投足が私を虜にした。

その、日本とは数段上の技術集団に入って、大谷はそのトップに君臨している。日本記録を出しても決勝に進めない陸上競技等、体力の格差や力量や技術はスポーツにおいて、まだまだ日本は外国選手と比し数段劣る。その格差を乗り越えて、彼らの頂上に立っている大谷の力はまさに歴史的だ。大谷だけではなく、山本や佐々木やその他の日本選手も、外国選手を凌駕する活躍をみせている。凄いことだ。

大谷はどこまで進化するのだろう。NHK特集で「大谷の異次元の進化」と題して昨日、大谷特集をやっていた。野球の申し子はいまや、野球で世界を結ぶだけでなく、人の心の中にまで入っていって、感動という人にとって一番大切なものを人の心に創造している。ずっとずっと応援していきたい。来年の4月にまた彼に逢えるのを楽しみにしながらこの大谷ロスを克服して行きたい。

奇跡とは二度と起こらないことが二度出現した時に使われる言葉だ。あるいは決して起こらないと100%思われていることが起こるとき使われる。

大谷はその奇跡的なことを、何度も実現する。これはもう、漫画の世界、いや漫画さえも超越した、アンビリーバブルな世界だ。しかし大谷も人間だ。人間はとても弱い存在だ。だから、大谷もとても弱いはずだ。その弱さを、奇跡を何回も起こす歴史的な強い男にしたものはなんなんだろう。

将来、大谷は多分、学校の教科書に載るだろう。それは、人間が持っている、弱さの裏面に強さがあることの象徴として載るのだろう。野球の神様と称されるベーブ・ルースを超えた大谷。大谷は神様を超えるほどの偉業を成し遂げ続けている。でも、彼に逢ってみるとおそらく彼はどこにでもいるお茶目でシャイな普通の若者なんだろう。

大リーグの歴史を塗りかえていく歴史的な人物である大谷が生きて活躍する時代に、一緒に生きて、こうして、毎日、彼をみられることがとても嬉しい。それは人生最高の豊かさの一つでもある。そんな彼に感謝したい。

 

ロサンジェルスでのドジャースの優勝パレードまで、あと10時間を切った。今回のドジャーズとブルージェイズとのワールドカードの死闘は、後世に必ず語り伝えられるであろう。スポーツは人間を感動させる凄い力をもっていることに驚く。そのかけがえのない感動の中に日本人選手が主役で3人も入っていたことに誇りを感じる。

日本は30年間沈んでいた。高市さんは絶望と不安を希望と期待に変えると私たちに告げている。与党も野党も様々な価値観やイデオロギーの相違を乗り越えて、皆で高市さんを支えて、日本を元気に再生して欲しい。大谷達は海の向こうであんなに頑張っているのだから--

(2025年11月3日 記)

命の不可思議(NO326

 

 人間の生涯は「命」との伴奏だ。命が尽きる時人間の生涯も終わる。でも、命が尽きなければその生涯は永遠である。命とは一体何だろう…

 

命を考える時、形而下と形而上という二つの世界の考察が必須だ。前者は科学や医学の世界であり人間の五感が感じる世界だ。一方、後者は人間の五感を超えて感じる世界だ。前者は証明の世界であり後者は信じるか否かという世界とも言える。形而下の科学や医学や文化は時代と共に発見と発明を繰り返して発展進化してきた。一方で、形而上の世界は紀元前の今から2000年以上も前の時代から発展進化はしていない。

 

ギリシア哲学やソクラテスやプラトンやアリストテレス達が整理したことがこの2025年の世の中にも凛として生きている。哲学というジャンルと並んでそれは宗教という世界でも人間の中に君臨している。哲学も科学等と同様に時代と共に発展進化してきたともいえるが、それは概ね「存在」をめぐる議論でありとても難解になってきているだけで、基本はソクラテスやプラトンやアリストテレス達が整理したことが脈々と続いている。

 

ギリシア哲学の頃、科学や医学は哲学の範疇にあった。世界はなんだろう、宇宙とは何だろう、人間とは何だろう、というテーマで日々考えていた。こうして今私が考察して書いている今日のテーマの「命の不可思議」が彼らのまさに考察の肝だった。「命とは何だろう」この結論は形而下では明らかにされている。しかし形而上では有史以来ずっと人間は考察し続けて未だに結論はない。それは科学や医学と違って、信じるか信じないかという形而上の世界にその疑問があるからだ。

 

何故私はこの命に対する疑問を抱くのだろう。それはこの人生が悲しみと困難に溢れているという矛盾を解決するためだからだ。生きているというこんなに素晴らしい素敵な世界が何故、悲しみと困難に満ち溢れているのかが、どうしても大きな矛盾として私の中にほぼ80年間も居座っているからだ。時には忘れているこの疑問が、病気や老化や事故や犯罪や天変地異や貧困等が、自分や身近な人に覆いかぶさって来た時、私はいつも「どうして、何故なの?」と神様に問う。そして問うだけではなく自分自身でその整理をしようとする。

 

神様という概念は宇宙と言ってもいい。絶対的なものであり、弱い人間の対極に存在している。宗教は様々な神を創造して、その絶対の神への忠誠を強いる。だから宗教はいつの時代もうさん臭く思われる。しかし、哲学とて50歩100歩だ。ニーチェは「神は死んだ」と説いて、哲学を宗教や神から解放したが、哲学には基本的に神は生きている。何故なら、形而上の世界を考察してそこに生きる限り、神という宇宙という絶対的な概念は不可欠だからだ。これは自然の帰結であり、形而上の世界での考察はそうしたものなのだろう…

 

今日のテーマの「命」は「魂」と言い換えてもいい。あるいは「心」と言い換えてもいい。形而下の命は有限だからいつか朽ち果てる。人間はその朽ち果てる命を生きている。生まれた瞬間に余命70年とか80年とかという死刑宣告を背負って、それを気にするなら絶望の人生を人間は生きていることになる。癌が見つかって余命1年です3年ですと宣告されたら人は改めて絶望の淵に沈むけど、そんなことは生まれた瞬間にわかっていることだ。何故なら自分の命には必ず限りがあるという形而下の価値観の中に生きるからだ。その絶望を希望に変えるためにはどうしても、形而下ではなく形而上の世界に行かなくてはいけない。形而上では命は永遠であり肉体が滅んでも命は永遠に生きると信じられるからだ。

 

私の今の行きついた整理は、「シンプルに瞬間を豊かに生きる」「今こここの時この瞬間しか人生は存在しない、過去も未来も存在しない」「周到なリスク管理は必要だがそのリスクは自分と背中合わせにあり、必ず自分に運命として訪れるから、それが訪れた時、リスクよこんにちわと言える、胆力を養っておきたい」というものだ。病気や老化や事故や犯罪や天変地異や貧困等は人の生涯には必ず訪れる。それを避けていては人間の生涯は絶望の中にしかない。それらリスクを受止め受入れてそれらに向かっていく力こそ人間力であり人間の魅力だろう。

 

その力は形而下の概念に縛られている限り生まれない。発想を形而上に移して、命は形而下で物理的に終了しても、形而上では永遠に生きていて、この形而下のことも全部認知できて、変わらぬ日常がおくれると信じることにしかない。絶望を希望に変える力が人間の生涯には不可欠なことだ。それは論理療法でいうビリーフの転換だ。どうしたらそれができるか。

 

それは、信じている自分の基準を変えるだけだ。人間の生涯は希望と喜びと豊かさに溢れているべきだ。絶望と不安にさいなまれて過ごす生涯は意味はない。どんな絶望と不安が襲って来ようとも、その絶望と不安の中の瞬間だけなら、その瞬間を豊かに生きることは可能なような気がしている。中学高校の頃からずっと悲観で過ごした私は、この、瞬間を豊かに生きる、創造する、ということに気がついて、ようやっと、生来の悲観を超えることができるような気がしている。

 

命は不思議なものだ。その命に感謝しながらどんな形の命でもそれを受入れてそれを愛してその命の中で瞬間に感謝して豊かさを創造したい。そしてその命は永遠に不滅であることを確信して生きていきたい。瞬間は全ての絶望を超えて豊かに輝いているという自覚だ。

 

(2025年11月2日 大谷がワールドシリーズ二連覇達成の余韻の中で記)

「大谷翔平の偉大さ」(NO325

 

  毎日、感動をくれる世界陸上もあと3日となった。二日目の100mの準決と決勝を観に、新しくなった国立競技場に私は初めて行った。想定外の感動があった。100mは日本選手が皆予選で敗退して出場しなかったから、がっかりした気持ちで行ったのだが、ハード(競技場の美しさ)とソフト(観衆の熱気と声援)が織りなす、言葉には尽くせない感動がそこにあった。400m予選で中島が34年ぶりに出した日本新記録に立ち会うこともできた。彼は準決勝も勝ち進み決勝までコマを進め、見事6位入賞して高野進の7位入賞を超えた。

 

でも、大半は予選で敗退する日本選手をテレビでみているととても悔しい。日本記録を出しても、予選を通過できるか否かの水準であり、世界とのこの差は一体何なんだろうと虚しくなる。勿論体力的な差もあるだろう。でも、それだけではない何かを感じる。

 

この陸上競技の「世界との格差」を見せつけられるたびに、大リーグで活躍する大谷の偉業がますます燦然と輝いてくる。彼は昨日50号ホームランを打って、2年連続50本のホームランという偉業を成し遂げた。長い歴史のあるアメリカの大リーグで2年連続で50本を超えるホームランを打ったのはわずか6人しかいない。昨年は大リーグで誰もなし得なかった50-50(ホームラン50盗塁50)を記録した。前人未到の記録だ。彼は身体は大リーガーと遜色ないが、技術で野球の本場の強者どものトップに君臨する大谷の偉大さを、陸上と比べて私はひしひしと想った。

 

私は毎日10時ごろ起きて、録画してある大谷の試合を観る。大谷の全試合を生で中継しているNHKの覚悟も凄いが、その中継を一試合も残らず全て観ている私も凄い。朝ドラと大谷の試合と、TBSの恵の「ひるおび」を観ると、もう時刻は14時を超える。毎日こんな生活でいいのだろうかと日々反省しながら、でも、大谷の試合は必ず観る。朝は6時半に起床すると決めているのに、いつもだらだらと10時近くまで寝ている。そして録画してある3つの番組を見る。ドジャースが負けている時は早回しで観ることが多い。働きもせず、こんなふしだらな日々で暮らせるのは国の年金と企業の年金があるからだ。感謝に堪えない。

 

テレビは麻薬に似て依存性が強い。だから、テレビから脱却して日々を豊かに生きたいと思う。でも、大谷を応援することは私のとても豊かな時空でもあり、「シンプルに瞬間を豊かに生きる」という私の覚悟をはずれてはいない。大谷だけNHKは何故毎日放送するのか、大リーグで活躍する選手は他にもたくさんいるのに、という批判もNHKにはおそらく入っているのだろう。それでも意を決したように大谷だけを毎日放送するNHKは、彼がもう二度と輩出しない二刀流(打者と投手)の選手だからだろう。

 

私は毎日、世界に二度と輩出しない大谷という稀有な選手と逢っている。そして彼と一緒にいる。このことはとても素敵な豊かなことなのだろう。二度のトミージョン手術(右ひじの手術)を乗り越えて、そして水谷通訳の賭博(ギャンブル)での逮捕も乗り越えて、自力で英語で会話し、投げ打ち走り、人間的にも他チームの選手からもリスペクトされている、大リーグの最高の選手になった大谷翔平という人物はノーベル賞にも匹敵する偉業を毎日私達に魅せてくれている。テレビであってもその瞬間に立ち会えるだけでとてもこれは豊かで幸せな時空だ。そのことをNHKもわかっているのだろう。だから常識を超えて毎日彼の試合を生中継しているのだろう…陸上競技で苦戦する日本選手を観るたびに、彼の偉大さが際立ってくる。

 

ベーブルース以来の投打の二刀流を成し遂げた大谷、大谷を超える選手はもう二度と出てこない。だから一度は話してみたい、というまるでアイドルを追いかけるような大リーガー達の視線がそこにある。大谷の持つ人間的魅力がその偉業を更に高めている。いつの日か、大谷に匹敵する選手が陸上競技でも出てきて欲しい。

 

(2025年9月18日 記)