「三つの素敵なもの」(NO294

 

 私の中に三つの本がざわざわと音を立てている。そのざわざわする音を言葉にしたい。文章にしたい。できるかなあ。やってみる。その本とは、国分功一郎「暇と退屈の倫理学」、ローティ「偶然性アイロニー連帯」(NHK100分で名著テキスト)、そして、三浦しをん「舟を編む」の三つだ。いずれも素敵な本だ。そこには限りない「ロマン」がある。そして、魂に響く「音」がある。知性と教養に溢れた世界もある。どのように紐解いていくか、それは私の力量次第だ。単純な解説ではない私自身の世界からそれらを紐解いてみたい。

 

国分功一郎は1974年千葉県生まれ。早稲田大学政治経済学部を卒業後、東京大学大学院総合文化研究科修士課程に入学。博士(学術)。専攻は哲学。現在、東京大学大学院総合文化研究科教授。2017年、『中動態の世界――意志と責任の考古学』(医学書院)で、第16回小林秀雄賞を受賞している。私と同様に早稲田の政経で学んだことで親近感がある。「暇と退屈の倫理学」は2022年 東大・京大で1番読まれた本と言われる。2022年1月~12月文庫ランキング(全国大学生協連調べ) で25万部突破のロングセラー。

「暇とは何か。人間はいつから退屈しているのだろうか。答えに辿り着けない人生の問いと対峙するとき、哲学は大きな助けとなる。 著者の導きでスピノザ、ルソー、ニーチェ、ハイデッガーなど先人たちの叡智を読み解けば、知の樹海で思索する喜びを発見するだろう。現代の消費社会において、気晴らしと退屈が抱える問題点を鋭く指摘したベストセラー」という本のコメントがある。退屈そのものの発生根拠と存在理由を追求している。400頁を超える小さい字は難解で簡単には読み進めない。でも何故か、その本を手放せない。そこにはロマンがあるからだろう。

 

「危機や不幸に対応するためには…ラディカルでなければならない。問題の根っこ(ラディクス)にまでさかのぼらなければならない。思想や歴史を学ぶこと、あるいは哲学を身に着けることは、その実践である」、「哲学は自然について考えること自然を発見することによって始まった。アリストテレスは最初の哲学者たちのことを『自然について語った人々』と呼び、『神々について語った人々』と区別することで彼らを定義している。…広い意味でも狭い意味でも、自然なるものにアプローチする新しい哲学が必要なのだ」と、別の著で国分は指摘している。この指摘は「暇とは何か」を追求する本著のベースに流れている。これがロマンなのだと私は想う。根っこへのアクセス、自然へのアクセス、アクセスする想いが即ちロマンなのだろう。

 

「何故人は退屈するのか」という大命題を、「人は刺激を避けるにもかかわらず刺激を求める」という矛盾に置き換えて、その矛盾を脳科学や経済的統計モデルやこれまでの哲学者たちの論調を複層導入して考察する、極めて難解だ。でも、難解でも著者の意欲と気持ちが伝わってくる。そしてとてもわかりやすい興味的な言葉で「人間というものはいったい誰かと一緒にいたいと願うものなのかそうでないのか、人間は誰かと一緒にいたいと願っているがバラバラに自由に生きたいとも願っている。いったいどちらが人間の本性なのか」と問う。その考察を人の個性や好みで一括せずに、あくまで客観的に立証的に学問的に考察している意気ごみは素敵だ。

 

最後には、人間の「本性」の概念では答えられないとして人間の「運命」の視点を持ち出してくる。このくだりは、私の哲学の原点となっていること、「人間は他者を想い他者を気遣う存在」なのに一方で、「自己の欲と業で他者を排斥し抑圧する」どちらが本当の人間なのか、という問いとシンクロする。この問いを突き詰めていくとこの世から戦争をなくす論理が生まれるかもしれないとも思う。逆にその考察の結論は人間にはやっぱり、戦争は必然と言う結論かもしれないけど…難解な分厚い本なのに素敵な本だと私が想う原点は、国分さんの探求と純粋さと真っ白な気持ちだろう。それは彼のロマンと一言で言える。一つ終わった。次はローティだ。

 

本質や普遍を追求するギリシア以来のこれまでの哲学を否定して、彼は「人間の中には客観的な統一的な本質や普遍性は存在しない」と言う。「それぞれの個性と価値観こそ大切なものでそれはその人の言葉という象徴的なものと繋がる。その言葉を絶えず磨いて、自分にとって重要な『終局の語彙』を絶えず改訂して行く環境こそ哲学の役割だ」と哲学の新しい概念を提唱する。 「思想の変遷を遂げ、自己理解を更新し続ける、その変遷過程こそ哲学の肝であり、社会正義と個人の欲望との矛盾を統一するべきではない。統一するというところに偽善がある。一人の人間の中にあるこの矛盾する概念をそのまま肯定して、お互いが会話をやめないことで、自分自身の価値観を保ったまま相手の価値観も理解できる方向に進める。自分とは異なる異見と遭遇することで、時間はかかっても、人は自分の『終局の語彙』を絶えず自分でも気がつくこともなく改訂して自己を改造していくことを皆が理解するべきだ」と彼は整理している。

 

「自分自身の絶えざる再記述によって、自己創造し続ける人間、その手伝いを哲学はするべきで、本質論や普遍性を振りかざして、こうあるべきだと人間を規定したり、社会正義を定義したりすることは間違っている。一つの正しい主張へと読者を説得するのではなく、むしろそうした正しさを解体し自身にとって重要な『終極の語彙』を改訂へと開くことを促すべきだ。その為に哲学は人類の会話が途絶えることのないよう守るための学問である」と言う彼の整理は、私の哲学の原点である、人間の中にある矛盾を解決してくれる大きなヒントがそこにある。「他者を想い慈しむ心」と「自己の欲と業に任せて突き進む自分勝手な世界」は統合する必要はなくそれぞれが併存していい、と言ってくれているからだ。

 

本質や普遍性や社会正義が存在する、それを追求するのが哲学だ、という従来の哲学を真っ向からそんなものはないと批判した彼は哲学界から追放されたが、私にはとてもよく理解できる。そして上記の国分功一郎のロマンともシンクロする。ローティにも大きな素敵なロマンがあってそれを私は感じる。「常識を疑うロマン」そこに限りない懐の深さが彼にはあって素敵だ。

 

最後に、「舟を編む」だ。上の二つとこれが私の中で繋がるのは「言葉」という概念でだ。「舟を編む」という直木賞作家の「三浦しをん」の小説が今、NHKでドラマ化されていて、とても感動した。この本は本屋大賞も受賞し2013年には映画化もされている。私は不覚にも知らなかったが、ドラマに接してすぐ本を購入した。

 

「舟」とは辞書のことだ。その「舟」には「言葉」という、荷物をどっさり乗せている。その言葉一つ一つがまるで宝物のように想えてくることを、小説もドラマも映画も描きたかったことは紛れもないことだ。私は芸術を「芸」と「術」に分解して考えている。「芸」とは想いだ。「術」とはその想いを表現する「言葉」だ。想いを言葉に乗せる。その言葉は、音楽なら音であり、美術なら絵であり、文学なら文章である。そして人生は芸術そのものだと私は考えている。人生の芸は「想い」であり、言葉である術は「生き方」だと整理している。芸術は全て想いが先ずあって、それを様々な術である言葉で表現しているのだ。音も絵も文章も生き方も人に語りかける、だから感動と共感がそこに存在する。「言葉」の奥にあるものは「想い」だからその言葉を聴くとその言葉を見るとその言葉に接すると、その人(芸術家)の想いがわかる。魂がわかる。人の人生もその人の生き方を見ていると、その人の想いは明確に見えてくる。

 

舟を編む、というのは辞書に乗せる言葉を編むということ、その舟は言葉の入口でもあり出口でもある。人は辞書で言葉の入口と出口の両方を経験している。こんな想いで辞書を紐解くとそれまでは見えていなかった景色が見えてくる。辞書がまるで生き物のように私に語りかけてくるからだ。「初めに言葉ありき」とは聖書の言葉だが、言葉とはことほどさように、人間のこの世界の原点なのだろう。言葉なくしてこの世は始まらないことを聖書が言っているように、人間にとって言葉は命なんだろう。若松英輔の著書に「言葉を植えた人」と言う本がある。言葉を大切にして言葉こそ命だと思っている著者が、言い得て妙の題名をつけている。私は「舟を編む」というドラマを見て、原作を読んで、もう一度若松の「言葉を植えた人」を読みたくなった。彼が何故この本を書いたかが想定できたからだ。

 

「舟を編む」のストーリの解説とは程遠いことを今私は書いている。でもそれでいいんだと思う。何故なら、このブログの題材の「三つの素敵なもの」の正体を書いているからだ。その正体を言葉にすると、それは「ロマン」である。難解な哲学書である、国分功一郎の本にも、ローティの本にも、そして、三浦しをんの「舟を編む」にも、このロマンがあるからだ。何故なんだろう。それは、反骨信でもあり常識を破る気概でもあり、想いを真っ直ぐ伝えようとする勇気がそこにあるからだ。理屈ではなくそれはロマンの香りを私に届けるのだ。星空を見上げた時人はそこにロマンを感じて勇気と優しさと感謝をもらえる。芸術も同様に私達に想いを様々な言葉にして、私達にロマンをくれる。

 

人との出逢い、自然との出逢い、芸術との出逢い、本との出逢いが人を成長させその魂を磨いてくれると私は確信している。それは、それらとの出逢いの中に「ロマン」があるからだという確信が強くなった。「ロマン」を求めて、それらとの出逢いを一層強めて行きたい。

 

(2024年3月31日 明日から新年度の日に 記)