「幻」の考察 (NO289)   

 

  「何故生きるか」、という問いをやめて、「どう生きるか」という、人生から問われている問いに答えて生きよ、とフランクルは言う。でも、どう生きるかの前に、何故生きるかが分からないと、どう生きるかは見えてこないとも言える。生きることを前提にするか否かの問題だ。生きることは何故なのかという考察はやっぱり大切な必須なことのようにも思う。この問いは生きるための十分条件ではないけど、必要条件であるのではないか。

 

では改めて聴こう、何故生きるのか、と。死にたくないからという答えも一つである。だから、その死が周囲から已むおえず押し寄せてくるまでは死なないで生を続ける。これは人生では多くあることかもしれない。そうなら、その生は筋金のない緩んだバラバラのトタン屋根だ。あっちへ飛ばされこっちへ飛ばされ、まるで糸の切れた凧のように行く先も不明な転落しかかった、風まかせの行き先不明の列車となる。そこには魂や心はない。そんな人生でいいのか。決してよくはない。人生は主体性がなくては人生ではないだろう。その主体性はいったいどこから出て来るのか。

 

それは絶望と希望の狭間から醸成されるのではないか。絶望を潜り抜けるのは希望しかない。一方で、希望が絶望に変わるのは人生の常道。その意味で、人生は希望と絶望とまた希望とそして絶望が織りなす色彩なのだろう。仏教が教えるように、「無常」が人生、「常」ではないのだ。能登半島のあの元旦の大地震を誰が予想したか。3.11の東日本震災を誰が予想したか、神戸の震災、熊本地震を誰が予想したか。天変地異は全て誰も予測不可能で、ある日突然にやってくる。全てのものことを奪って被災した者は呆然と立ちつくす。

 

でも、人間はその絶望から歩き出す。その時希望を信じて歩き出す。歩くその先に絶望しかないことが確信されるなら、その歩みは決して始まらない。希望は「幻」かもしれない。でも、その幻を人は創造して前に進む。人生とはそういうものなんだろう。このために生きると決めても、不意に絶望が押し寄せる人生はそういうものだろう。この整理に行き着いてしまうと悲観で人生を送ることになる。でもその悲観に抗ってそこに、「幻」を創作して生きる力は楽観だ。生きているという現実は、生きている全ての人に意識するしないに係らず、この楽観があるのだろう。

 

私は「先天的悲観後天的楽観」だという自覚がある。その後天的な楽観は悲観を覆い隠すために自らが作り上げた「幻」かもしれない。それでも、その幻は生きる力をくれるのだ。人間はそういう意味で、絶望を希望に変える力を生来持っているのではないか。これは生きていてとてもうれしい力だ。どんな絶望の淵に沈もうとも希望の光を見つけようとする力が自分にはあるということだから…幻とは希望なのだろう。(2024年1月16日記)