「季節はまわる」(NO290)

 

  能登の大地震で始まった1月が漸く終わった。私的にも多忙だった1月はとても長く感じた。季節は2月へ。玄関のドアを開けると春の佇まいを最近感じていた。「何だろう、この春の佇まいは」、と思っていたら気がついた。庭の梅の木に白い花が満載でそこから仄かな梅の香りが漂ってきているのだ。椿の小さい蕾が膨らんで赤い色がちょこんとその蕾の先についている。山茶花は12月から咲き誇ってまだ咲いている。枝を切らなかった分、いつもより花の数が多くて壮観だ。沈丁花も早く咲きたいと用意万端だ。早春の庭がやがて来る。季節は人間の心と繋がっている。人間の哀しみを季節は見ている。そしてその悲しみをそっと、自然の中に表現する。

 

ずっと昔、左遷された菅原道真が九州の大宰府で京の都を想い読んだ句が、梅の花を見ているといつも自然と口をつく。「東風(こち)吹(ふ)かば匂(にほ)ひおこせよ梅の花あるじなしとて春な忘れそ」。わが家の梅の花よ、東風が吹いたら、私のいる大宰府まで匂いを届けておくれ、主人がいないからと言って、春を忘れてはならないよ。My ume tree, could you please send your scent on the east wind? Don't forget to bloom in spring even if I'm not here.

 

遅々とした能登半島地震の対策にいらいらしながら1ヶ月が過ぎた。神戸の震災の時は、社会党の村山首相の指揮の遅さに立腹した。東日本震災の時は民主党政権の対応に凍りつくような危機を感じた。国会では今、野党は自民党政府の対策の遅さを攻撃している。自分達の時の遅さは棚に上げている。批判することよりも、一緒に対策していくことが急務だ。政治と金の問題も政治とは裏金は必須のものだということは企業を経験した者なら誰でもわかる。私は勤労係長の時、お前の仕事は裏金を作ることだと、上司に言われて呆然とした。

 

政治とは国会議員の世界が政治だけではない。企業も官僚も組織があるところに政治は必ずついてまわる。きれいごとでは組織や社会を改善してよりよく成長させていくことはできないということを皆知っている。自分の私腹を肥やすためだけの裏金であれば当然に糾弾される。でも、物事を動かして前に進めるには裏の政治力は不可欠である。その為に使うお金は裏金でなければ使えないのならその裏金はそれに使われれば当然に生きたお金だ。だから、ここぞとばかり、揚げ足を取るのではなく、社会のためにどうあるべきかという大所に立って野党も考察して欲しい。私も一票入れて過去に成立した民主党政権はこの自民党的な老獪な政治運営ができなくて表面のきれいごとに終始して立ち往生した。それは頭でっかちの経験不足の民主党の限界がそこにあった。長い自民党政権は既得権勢力と癒着する。これは歴史の常道だ。絶えずそのことを反省しながら綺麗な裏金を「私」ではなく「公」に使って欲しい。

 

前置きが長くなった。今日書きたかったことは次のことだ。

 

私は今、「日々を生きる」ということから、「今日一日を生きる」、という心境になっている。過去もない、未来もない、あるのはこの「今日一日」だけ。そのこの今日一日に感謝して、しっかり生きる、そんな整理ができつつある。日々を生きるということをずっと考えて来たが、日々という言葉には、明日が必ず来るという想定がある。そうではなくて、今日のこの一日しかないという覚悟で生きて行きたいと、ほんのこの前に思った。今日この一日しか存在しないという覚悟は、死への恐怖も、天変地異への恐怖も、大きな事故への恐怖も、重篤な病への恐怖も、お金がなくなる恐怖も、そして、かけがえのない人との別れ(死を含む)も、みんな、乗り越えていくことができる覚悟だ。

 

それは何故か、それは、明日に期待することなく、自分に与えられたこの、今日という一日しか自分にはない、存在しない、という覚悟がそこにあるから。今日一日しかないのは、自分だけにないのではなく、人間の人生がそういうものだと思う。すると、その一日に無限の感謝ができる。その感謝は、例え、その一日が、身体が動かなくても、目が見えなくても、耳が聴こえなくても、天変地異がこようとも、大きな事故に逢おうとも、お金がなくなろうとも、かけがえのない人との別れ(死を含む)があろうとも、そして、自らがこの世を去ろうとも、そんなことには執着することなく、自分の前に今ある、この一日を豊かに生きようとする力を創造する。それをつきつめると、「今こここの時この瞬間」を生きる、という哲学に収斂する。そして、そこをさらに掘っていくと、釈迦が到達した、「空」や「無」の境地が見えてくる。いわゆる「『私』からの卒業脱却」がそこにある。

 

研究会で昨年の12月私は1年間かけて書いた「素人が紐解く哲学」を発表した。この記述は、私に大きな力をくれた。考察が格段に進んで深まった。その余韻が「日々」を生きるのではなく、「今日この一日を生きる」という想いに私をさせたような気がする。亡くなった自分にとってかけがえのない人も、想えばそこに、いつもいて自分を見ているという境地になれる。孫が大きくなる頃は私はもういないという死への喪失感もなくなる。いま一緒にいるとかいないとか、死ぬとか死なないとかの、物理的な形而下の現象を卒業して、形而上で生きて行きたい。それは、哲学者の池田晶子が生きた宇宙の世界で生きるということと似ている。人は死んだらそれぞれ、宇宙にある番号のついた住所へ帰っていくことが、生まれた時から決まっている(アカシレコード)と、シュタイナーが言っていたこととも重なる。素人が紐解く哲学を書いて、シュタイナーがよく理解できるようになった。

 

シグナルの「20歳のめぐり逢い」が今、流れている。次はNSPの「面影橋」。母校の早稲田の裏を流れる神田川に枝垂桜が壮観だった。そこにひっそりと面影橋は佇んでいた。異なった環境や思想や価値観の中で人は育つ。その自分と異なる価値観や手法や生きる姿を非難攻撃するのはやめて、見解は異なるがその異なる見解を集めて人間のことを考えて行きたい。そうしたら、戦争はきっとなくなる、政治的対立ももっと建設的なものになる。「愛」という言葉がそこに必要だ。民主党政権の時、「政治は愛だ」と鳩山首相は言った。私はそうだと今でも思っている。でもその愛の裏に、組織を動かす裏があることも見落としてはならない。外国と渡り合っていくにはきれいごとだけではすまされない。老獪な裏の力もいる。それはけっして「愛」と反することではない。私は55歳という早い時期に企業から脱出したので、企業の臭いはかなり早く捨てられた。しかし企業で経験した裏の力は人間の社会の中で必須なことだと今も思っている。

 

自民党の派閥の領袖がしたことが、私の想う大切な裏の力の養成であることを願っている。「人生は上を見ればきりがない、下をみてもきりがない」自分の歩く人生が一番だと思うことが肝要だ。確かに一方で、お金がないとなにも始まらないことも事実だ。痩せ我慢で、おカネがなくても豊かな人生を創造するといっても、やっぱり難しい。先立つものはお金であることは万人が認めることで異論はない。今回の派閥のお金の問題を自分の問題として皆で考えたい。

 

自分を振り返ってみて、私はお金にはそんなに苦労しないでここまで生きてきた。お金のことを意識したのは小学校時代が一番だったように思う。医者の子供や漁師の元締めや、バス会社の社長や、銀行の支店長、等の同級生の家に遊びに行くと、その家の広さに圧倒された。そして、おやつで出てくる豪華なお菓子と飲み物に圧倒された。こんな家の子供に生まれたら良かったといつも羨ましかった。テレビがあり、自転車があり、おもちやが、部屋に溢れていた。美味しいものを食べて豪華なおもちゃで遊んで、その頃まだ一般的でなかった自転車を乗り回す同級生は、夢のように思えた。

 

私自身も、紅茶会社のお坊っちゃんといわれて、お金持ちの家の子供だと周囲には思われていたが、実際は、台所は火の車で、倹約した細々とした日常であったことを思い出す。でも、中学から子供3人とも、私立の中高一貫の進学校に入れ下宿までさせて、家計をやりくりした親の執念を今になってすごいことなんだと振り返る。上をみたらきりがない、下をみてもきりがない、という言葉がピッタリする。足摺岬の田舎の小学校は、ほとんどが漁師か、農家の子供で、一週間ずっと、同じ服を来ていた子供が多かった。貧しかったということだろう。先に私が羨んだ子供たちはほんの一握りの子供で、大半はその日の食事もままならない家計を切り盛りしていたのだろう。サラリーマンいわゆるホワイトカラーは皆無で、会社の社長である私の家の佇まいを、皆は羨ましがっていた。

 

そんなお金の問題は、だからずっとどんな時空にもある。例え裏のお金だとしてもそれが社会に役立つお金ならいい。鼠小僧が金持ちからお金を盗んで貧しい庶民に配った行為は、法律では罰せられるがこれは正しいことのようにも思う。人に迷惑をかけることはダメなことだけれど、お金を盗まれたその財産家の困窮度を考えると許される範囲とも言える。勿論法律を侵すことを正当化するつもりは毛頭ないが…

 

(2024年2月1日 記)