目標の様相(NO288

 

 今日、病院で注射の待ち時間に、私は、目標について考察していた。実は自転車に乗って自宅を出てからすぐ、私は目標について考えていた。目標が大好きな私はその目標を完遂したことはない。そこに、今もこうして目標への憧れがあるのだろう。できなかったことへの、郷愁がそこにあるのだろう。自分を慰める意味もそこにあるのだろう。生まれ変わったらこうしたいと思っても、私は生まれ変わっても同じ轍を踏んでいるという確信もあるほどに、意志が弱い。この意志の弱さは、反面自分の魅力のひとつなのではないかという逆説も最近は考える。

 

なぜ、そう考えるのか。強い人間は憧れられることも多いけど、面白くないだろう。弱い人間だから、人はその人に近づきたいお世話したいとも思うのではないか、と思うからだ。そういって弱さを装っているのではない。真底弱い人間なのだ。この歳になって、今さら自分の弱さの克服でもないような気もする。でもそれは他者の視点からの自己のこと。自分ではどうしてもこの弱さを克服したいと思うのだろう。そのためには目標が必須だ。目標を創るのは小さい頃から得意だ。創っているその間は、その、目標は実現したように思えるからだ。でも、実際はその目標は紙に書かれた文字にすぎず、いままで一度も達成されたことはない。

 

外的キャリアはもう卒業した。残るは内的キャリアだけだ。人自然芸術本との出逢いの中に、内的キャリアを成長させるものはあると確信している。内的キャリアの成長とは換言すると、魂の成長だ。なぜ、この四つが魂を成長させるのだろう。それは、「感性」が成長して鋭く敏感になるからだろう。一時流行った鈍感力はどうだろう。鈍感力も感性の進化に他ならない。感性は鋭敏化しても、鈍化しても、成長なのだ。いわゆるそこに止まっていなければどちらに動いても、感性は成長している。私の人生の多くの部分を占めた目標は受験だった。5科目の制覇は、残念ながら達成されなかった。そのことが今も未練として残っているから、私はまだ、目標を立てているような気がしている。孫の勉強を自分に転嫁して満足していこうというような魂胆もそこには、垣間見える。

 

目標は人生には必要不可欠なことだと私は思っている。でも、ここまで生きてくると、外的キャリアを構成する外的キャリアを助長する、目標はもう必要ない。というよりそれを実現する必要性ももうないから、目標は消える。一方で内的キャリアへの目標は前以上に大きくなっている。一言で内的キャリアに資する目標とはなんで、その、ゴールは何かを、私は病院の待ち時間で考えていたのだ。

 

まず、なぜ、内的キャリアを成長させたいのかというと、自分のために他ならない。それが、他者の評価に繋がって素敵な魅力ある人だと評価されればそれにこしたことはないが、他者よりも自己において、私は内的キャリアを成長させたい。それはなぜか。多分生きることへの豊かさや充実のためだろう。もっと言えば、死ぬことや病気になることや天変地異に逢うことや、事故に逢うことや、貧困や、孤独や、疎外から自分を守りたいからだろう。これは一言で言ったら、哲学ではないか。すでに、そのために私は哲学をしているではないか。なんのためにわざわざ今、目標などという、私にとっては、もう脱ぎ捨てた古い言葉が浮かんでくるのだろう。

 

それは、肯定的に考察すると、私は若くなったのかもしれない。歳を重ねると「無為自然」に生きたいと思う傾向がある。反対に目標を立ててその中に生きるということはどろどろした世界に戻るということだから若くなったのかもしれない。さっき、看護師さんと会話していて、「辻さんは若いね」、と誉められた。久しぶりに逢った看護師さんだったから、嬉しかった。「若いね」という意味は、外見ではない。話しの内容が若いと彼女が言ったのは明確だ。話の内容とはまずは、テーマなのだろう。そして表現なのだろう。蕁麻疹の注射だから、「最近はどうですか」、との問いに、「もう、一年半も出てない。蕁麻疹もリズムなんですね。ここで出るべきか出ないべきかを考えているんですね。蕁麻疹に出るべき機会を減らしてあげることなんですね」、と私は話した。そしたら、「辻さんは相変わらず若いね」、と言う言葉が返ってきた。そのあとは、「私も負けないで勉強しなくちゃ」と続いた。これは、とても、うれしい言葉だった。同時に、咄嗟のその看護師さんの言葉が驚きでもあった。なぜ、私のその発言から、「若い」と言う言葉が出てきたのだろうと思ったからだ。多分、蕁麻疹をそのようにとらえている私の想いが「若い」と、彼女は感じたのだろう。それは、私の中にある、「哲学的な視点」を彼女は感じてくれていると思えて、とてもうれしかった。

 

実はほのかにその看護師さんを私は素敵な人だなあと思っていた。向こうも多分、その私の想いが届いて、好意をもってくれていて、それが、シンクロして、こういう会話が成立したのだろう。ほんの数分の短い会話の中に、溢れるような、「感性」が、交錯していて心地よかった。これは、自転車で、目標について考えている延長線上にあると、私は整理した。目標とは「若い」のである。年を重ねたら目標はもう、卒業して無為自然に生きるのだろうが、目標は再度、人生を引き戻す形で私に若さをくれるのかもしれない。そうなら、目標を立てることはとても今、大切なことだと思った。

 

生活を楽にするため、生活を豊かにするため、一瞬を輝かせるため、生きていることへの感謝を感じるため、具体的には、家族やかけがえのない人達の豊かさの創造のために、人は目標をたてるのだろう。自己の成長がその原点にあることはかなり年齢を重ねなければ出てこない視点だ。料理や園芸や断捨離やパソコンやスマホのネットワークの知識や税や社会保険の知識も目標の範疇だ。そうした、具体的な目標に私は叉、少し気持ちを引かれていて、自分でもビックリする。一方でやはり、内的キャリア、魂の成長という、目標は、でんとして私の前にある。これまでの未熟な未達成のリベンジとしての目標ではなく、いままでの総ての過程を肯定した立ち位置で、新たな目標を立てていくという視点が必要なのだろう。

 

目標の先にあるものは何か。それは、自己の充実に他ならない。その意味で目標は、生涯、年齢を超えて私達の前に存在している。今、突然、なぜ、人間は目標を立てるのか、という答えがわたしの中に出てきた。人間の豊かさや幸福について論じたものは、時代を超えてたくさんある。多くの思想家や哲学者達が幸福論を整理している。でも、私は難解な幸福論より、マズローの欲求五段階説が、一番だとずっと思っている。そのシンプルさが魅力的だ。

 

人間の欲求にはきりがない。その欲求は満たされたとたんに次の欲求が出現する。衣食住等の「生理的な欲求」が満たされさえすればそれでいいと思っても、それが、満たされれば人間は、その上の「安全」の欲求を願う。手に入れた生理的欲求を守りたいのだ。安全が担保されたら、今度は「社会的帰属の欲求」が出てきて、社会と交わりたいと思う。それが、実現したら今度は、社会に帰属しているだけでは満足せず、「称賛(誉められたい)」して欲しいと願う。称賛を勝ち得たら今度は、それでも、満足せず、「自己実現」という、自分が存在している意味を自分で感じなくては満足しなくなる。そして、最後はマズローが晩年到達した「自己超越の欲求」だ。欲が有る限り人間はそれが満たされるとその上を望むから、その欲を消してしまうことが、究極の人間の幸福であり豊かさだという結論だ。この自己超越の境地は釈迦が、到達した、空や無の世界と同じだろう。


このマズローのシンプルな整理は人間の幸福論豊かさ論の結論だと私は今思っている。「目標」は、人間の欲望の産物なのだろう。そしてその目標は人間を高め豊かにし幸福にする。でも、目標がある限り、人間は、最終的な豊かさや幸福は得られない。なぜなら、その目標を達成するために、困難や悲しみや葛藤と向き合うからだ。目標を卒業した時初めて人間は、豊かに幸福になる。これは、自己を超越したからだ。「私」というものを脱ぎ捨てられたからだ。「無為自然」に生きるとはこの境地だろう。いままた、目標に戻る私は、せっかく積み上げてきた無為自然から遠退くような気もする。でも、自己超越や空の世界は、目標を絵描き続けるなかで、やっと、到達できる世界なのだとも思う。いままた、目標に帰ろうとしている自分は、それでいいのだろう。その中から、いつか、自己超越の「無為自然」の境地にいけるのだろう。目標の様相は際限なく続く。

 

(2024年1月9日 記)