母は、見知らぬ土地、横浜で
父との生活をスタートさせます。
もともとあまり社交的ではなく、
父にも心を許していなかったので、
最初は辛かったそうですが、
24歳で私、27歳で弟が生まれると
大切に育ててくれました。
新しい土地にも慣れ、友人もできました。
洋服も、ご飯も、何もかも手作り。
いつも綺麗にしていて、完璧で、
素敵な誕生日パーティーも
開いてくれて、自慢の母でした。
田舎のしがらみで大変だった
母としては、精一杯、弟と私を
自由にのびのび育てたと
いつも話していました。
でも、弟と私にとっては、
しつけはとても厳しかったです。
門限があり、毎日の予定を
細かく話さないといけなかったし、
人様に見られても、
恥ずかしくない毎日を送りなさいと
ずっと言われてきました。
洋服や、アルバイトや
部活や習い事、すべての事が
母の思い通りにならないと
修正が入り、大変な事になるのです。
外泊なんてもってのほか。
友達の家に泊まりに行くことも
友達のお母さんに電話してもらっても
許可してもらえませんでした。
弟は真っ向から反抗していましたが、
私は、わりと素直で平和主義で
母の事が好きでしたから
争いは避け、優等生でいました。
父は、根はいい人でしたが、
昔気質で、男が外で働いて、
女は家を守るべきという考え。
ほとんど家にいなかったので、
私は小さい頃の父との思い出が
あまりありません。
行動が早く、短気で、すぐカーっとなり
母のおっとりしていたところに
よく腹をたてていました。
月~土は仕事や接待で午前様。
日曜日は寝るか、ゴルフで、
「会社と結婚したのよ」
母はいつも文句を言っていました。
毎日一人で奮闘して、
家事も子育ても完璧にやっているのに
ねぎらってもらえるわけでも、
気持ちを分かってもらえるわけでなく、
寂しかったんだろうと
今では理解できます。
「いつもありがとう、
おかげで助かっているよ」
父からその一言があったら、
家事が得意だった母なら、
満足できていたんじゃないかな。
でもそうではなかったから、
「専業主婦なんてつまらない、
手に職を持って自分で働きなさい。」
と私にいつも話していました。
男女機会均等法も制定され、
学校の先生も、テレビのニュースも
これからは女性の時代だと言うし、
勉強が好きで、わりと得意だった私は
ずっと働いていこうと心に決めました。
母が私に夢を託していることも
分かっていたので、
大学卒業後、好きな英語を使える
スイスユニオン銀行に入行しました。
「ずっと通わせてくれた
英語の勉強が役に立ったよ」と話したら、
母がとても喜んでくれたので
親孝行でき、嬉しかったです。
続きは、私の自己紹介③へ
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