新型コロナの影響で、周辺もいささか物寂しい。飲み会何てご法度だし、ミーティングもWebがほとんどで、職場ですら決まりきった人たちとしか会わない。映画館に行くこともままならないし、ライブや演劇は余計にハードルが高い。とは言え、話題の「鬼滅の刃」は観に行ったし、チケットがキャンセルできなかった劇団四季の舞台も観に行った。けれど、そう言ったものを観に行ったことをだれかに言うのが憚れるし、少々の罪悪感すらある。厭な世の中だ。
今年映画館で見たのは、先述した「鬼滅の刃」とアカデミー賞を獲った「パラサイト」の二本だけだ。コロナの影響も大きいが、年齢の影響もある。物語を消費する欲求がかなり薄れてきているのだ。昔はどうしてあんなに夢中になれたのだろうか。また小説に関してもこれといったものはほとんど読んでいない。ただ、2つだけ長編漫画を読んだ。ひとつはさっきから何度もあげている「鬼滅の刃」で、もうひとつは「約束のネバーランド」という漫画だ。
昔、宇野某が書いた評論で、「バトルロイアル」以降、物語は残酷な世界でサバイバルする若者が主役になると言うような(ずいぶん昔に読んだので正確には覚えてない)事が書いてあったが、今あげた2作品はまさにそれで、前者は「鬼」よって世界を壊された子供たちが命を賭けて残酷な戦いに送り込まれる物語だし、後者は「鬼」の餌になるため養殖されていた子供たちがそこから逃げ出自由を勝ち取るお話だ。両者ともに残酷であり、描写もなかなかハードだ。
コロナ以前から、子供たちは、守られるべき存在を放棄され、自ら過酷な世界を戦って生きなくてはならないという物語にシンパシーを感じるようになっていた訳だが、ここに来て更にその状況は悪化しているように見える。自助という政府、自己責任論の蔓延、所謂正しさというのは失われ、代わりに損得が異常に幅をきかせ、矜持みたいなものを掲げると馬鹿にされてしまう。物事は数字にコントロールされ、曖昧なものは避けられる。弱者より強者にスポットが集まる。
昔からそうだったのかもしれないが、国をはじめそれを隠そうもしなくなり、それによって状況は更に悪化している。まあ、そっちが正しいという人たちが増えているから、彼ら彼女らにとっては、状況は改善しているわけだが。
こっから先、強さを求められていく傾向は更に増していくんだろうと思うと、気が滅入る。漫画の残酷な表現はもはや眉をひそめるような蓋を閉めて隠蔽しとくべきものではなく、堂々と「これが現実の比喩」と遠慮なく大勢で享受すべきものになっているのかもしれない。
かつて、暴力表現について、「目を背けてはいけない。これが現実のある種の側面なんだ」って世間の批判に対して噛みついていた人々は、私を含めてこの現状をどう感じてるのだろうか。もはや暴かれたところで誰も痛痒すら感じなくなっている様に見える。