木島亭年代記 -2ページ目

木島亭年代記

東北在住。
最近は映画も見てなきゃ本も読んでない。
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色々あって、配信見た。


いやー陰鬱。まじ話が暗い。天草四朗時貞の話なんだけど、島原の乱で農民をはじめとした貧しい人々3万人が虐殺されると言う話で、救いはない。


そもそもこのシリーズの刀剣男子と言う存在は実在の刀を擬人化したもの(実在してない刀もあるが)で、存在意義は、謎のテロリスト時間塑行軍から歴史を守るって言うものなんだけど、歴史を守るってことは逆に言うと、人間の歴史を肯定する存在なわけだ。それって結構陰鬱な役回りで、なぜって人間の歴史なんてものは概ね陰惨だから。それをただただ愚直に支持しないといけない存在なわけ。彼らは選択のできない存在でただただ歴史が歴史通り動くことを手助けする役割でしかない。どんだけ醜悪でも彼らは歴史を変えちゃいけないのだ。要するに彼らに自由もなければ、思想や価値観というものが求められていないの。しかしそれでいて感情だけはある。彼らはいつも任務で人間というものに傷つけられる存在だ。ひどく残酷な立ち位置で存在しなきゃならん。


物語上それなりに救済らしき描写はあるものの、それって慣れるってことであって本質的な解放ではない。一方で一見思想や意識のない泥人形の様な無個性な時間塑行軍は、ある意味で自由だ。彼らは人間の都合には関係なく動く。歴史を変えさえできれば良いから、急にさっきまで敵側だった存在に加担したって良い。なんでも良いのだ。極めてアナーキーな立場だ。人間っぽさのある刀剣男子に自由がなく、人間っぽさが海無な時間塑行軍に自由があると言うのも皮肉だ。


刀剣男子は、文字通り磨り減って行く存在で、主に叩かれて存在意義を見いだす。ここでこの世界の中心である主という存在を考えると、なかなか興味深い。主は抽象的で、いわばシステムそのもののような存在と考えられる。


今日はこの辺で。


友人が大人買いしたんで、1~33巻をまとめてお借りして読んだ。昔、2巻まで読んでたが、その後は劇場版しか見ていない。


いやはや、全然想像と違う展開で正直驚いた。

これは凄い。凄いとしか言えない。人類史そのものを描いているといっても良いんじゃないか?大袈裟かもしらんが。


人類のあらゆる負の面が直接的、比喩的に描かれてる。あまりに情報量が多く短期間に一気読みしただけなのでまだ全然消化できてないが…。


漠然となんかロシア文学みたいだと思ったりもしたので、ググってみたところ、カラマーゾフの兄弟のエピソードを彷彿とさせるシーンを指摘するブログなんか見つけたりした。まあ、そういうパートの部分の類似というより、もっと漠然とした印象なのだが。


誰が悪いとかじゃなくて、みんな悪いし、みんな正しいと言うような、完全に救いのない話で、解決策しようのない問題を容赦なく登場人物たちに突きつけていくこの作品は、従来の暴力を描いた漫画が誤魔化してきた物を陽のもとにさらけ出していて、ホントに読んでてしんどい。誰もが幸せになるなんて言うのは、絵空事なんだと突きつけられる。そしてそれはこの我々、世界でもずっと起きていることでもある。


まあ最終巻でたらもうちょっとまともに感想書こう。


追記

当時実写版がメチャクチャdisられてたが、そのときはそこまでdisりますか?単にアンチ町山なだけでは?とか思ってたが、原作読むと、やはりあまりの格の差に愕然としてしまう。なんか生まれて始めて実写版に対する原作ファンの不快感と言うものを理解したきがする。まあ、っても、実写は実写で別物ナンだからどうでも良いんだけど

完全に世代なのだが、当時、愚かな私は、アニメを馬鹿にしていた為、リアルタイムでは見ていない。結局見始めたのは新劇場版からである。


とは言え、見終わった感想は、一言でいうと大変満足でなもので、ある意味予想通りだったものの、そこの着地点から更に大きな終わり方になっていて、とても良かった。


以上

今年も終わろうとしている。誰にとっても厳しく辛い冬のような一年だった。そしてそれは来年も下手をすれば数年も続きそうである。それどころか、終わりはあるのだろうか。先の見えない、濃密な闇のような時代が始まった。終わりの見えない地獄と言うのは、ただの地獄より、きつく重い。そうはいっても、と言うより、他に選択肢はないから、我々はそれでも生きていかなきゃならないし、日々を一日一日消化していく他ない。よくよく考えれば、ずっと昔から、何があっても、大きな事件がなくても、そうやってやっていったのだから、大筋は同じだ。

とは言うものの、当たり前が当たり前でなくなると言うのはしんどい。やるのはやるけど、しんどい事に代わりはない。愚痴の一つや二つ、十や二十、なんなら千や二千、言いたくなるし、言わせてもらいたい。今年はいろんなことがおじゃんになったし、100万単位の損失もあったりしてかなりこたえた。良いこともあった。もちろん。生きてるだけで良いこともある。当たり前だ。

来年こそ良い年になんてとても楽観的には言えないが、祈るのは自由だ。人が人であるためには多分希望が必要だし、幸い希望はタダだ。だから、祈るだけ祈る。時折腹をたてながら、時々悲観しながら、良いことありますようにと、信じてもない神様に祈る。

こうやってポエム調の文章を吐き出せるのはブログの良いところであり悪いところでもある。

さて、今年は、ろくに映画も舞台も、見てないが、来年は頑張るかな

それでは良いお年を
 
新型コロナの影響で、周辺もいささか物寂しい。飲み会何てご法度だし、ミーティングもWebがほとんどで、職場ですら決まりきった人たちとしか会わない。映画館に行くこともままならないし、ライブや演劇は余計にハードルが高い。とは言え、話題の「鬼滅の刃」は観に行ったし、チケットがキャンセルできなかった劇団四季の舞台も観に行った。けれど、そう言ったものを観に行ったことをだれかに言うのが憚れるし、少々の罪悪感すらある。厭な世の中だ。

今年映画館で見たのは、先述した「鬼滅の刃」とアカデミー賞を獲った「パラサイト」の二本だけだ。コロナの影響も大きいが、年齢の影響もある。物語を消費する欲求がかなり薄れてきているのだ。昔はどうしてあんなに夢中になれたのだろうか。また小説に関してもこれといったものはほとんど読んでいない。ただ、2つだけ長編漫画を読んだ。ひとつはさっきから何度もあげている「鬼滅の刃」で、もうひとつは「約束のネバーランド」という漫画だ。

昔、宇野某が書いた評論で、「バトルロイアル」以降、物語は残酷な世界でサバイバルする若者が主役になると言うような(ずいぶん昔に読んだので正確には覚えてない)事が書いてあったが、今あげた2作品はまさにそれで、前者は「鬼」よって世界を壊された子供たちが命を賭けて残酷な戦いに送り込まれる物語だし、後者は「鬼」の餌になるため養殖されていた子供たちがそこから逃げ出自由を勝ち取るお話だ。両者ともに残酷であり、描写もなかなかハードだ。

コロナ以前から、子供たちは、守られるべき存在を放棄され、自ら過酷な世界を戦って生きなくてはならないという物語にシンパシーを感じるようになっていた訳だが、ここに来て更にその状況は悪化しているように見える。自助という政府、自己責任論の蔓延、所謂正しさというのは失われ、代わりに損得が異常に幅をきかせ、矜持みたいなものを掲げると馬鹿にされてしまう。物事は数字にコントロールされ、曖昧なものは避けられる。弱者より強者にスポットが集まる。

昔からそうだったのかもしれないが、国をはじめそれを隠そうもしなくなり、それによって状況は更に悪化している。まあ、そっちが正しいという人たちが増えているから、彼ら彼女らにとっては、状況は改善しているわけだが。

こっから先、強さを求められていく傾向は更に増していくんだろうと思うと、気が滅入る。漫画の残酷な表現はもはや眉をひそめるような蓋を閉めて隠蔽しとくべきものではなく、堂々と「これが現実の比喩」と遠慮なく大勢で享受すべきものになっているのかもしれない。

かつて、暴力表現について、「目を背けてはいけない。これが現実のある種の側面なんだ」って世間の批判に対して噛みついていた人々は、私を含めてこの現状をどう感じてるのだろうか。もはや暴かれたところで誰も痛痒すら感じなくなっている様に見える。