創作のような何か(コロナ禍で生きるということ) | 木島亭年代記

木島亭年代記

東北在住。
最近は映画も見てなきゃ本も読んでない。
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朝8時半に店に入る。雪が積もっている。冬の東北は朝から肉体労働がつきものだ。男はガムを口に放り込む。寝起きに噛んだやつから数えて、本日5つ目。ニコチン含有の禁煙ガムの摂取量としては異常だ。もくもくと雪かきをする。手の感覚がない。息が白く、降りしきる雪と凍てつく風に身が震える。不意に吐き気が込み上げる。トイレに駆け込み、数回嘔吐する。ニコチンの作用だろうと男は思う。朝飯はすべてトイレの水面に浮かんだ。ろくでもない一日の始まり。そしていつもの一日の始まり。

 

12月は繁忙期だ。忙しい。人間寒くなると体調を壊すもので、普段病院とは無縁な若者も、師走の冷酷な気候には耐えられないらしい。何やかんやで12年はこの仕事をやっているが、いつだって12月は大変だ。いや、ここ2年はかえって落ち着いていたかもしれない。新興感染症の影響で受診抑制がかかっていたからだ。とはいえ、それも新しいフェーズに入っており、むしろ発熱外来の影響で3年前と比べると同等か、むしろ悪化している。悪化している――というより、余計な仕事が増えてる分、作業量が増加しているからだ。陽性もしくは陽性疑い、あるいは陽性者の家族との薬のやり取りは、店舗内に入れないので駐車場でやるから手間がかかるし、それに加え医薬品の供給が滞っているからだ。

 

薬が足りなくなったのはいつからだろうか。コロナが広まって、「カモスタット」や「とある喘息吸入薬」が治療に有効だと巷を賑わせたころか。それとも某企業の不祥事で行政措置を受けた時からか。あるいは北の方で戦争が始めり、原料の輸入が滞った時からか。もしくは隣国でロックダウンが始まった時からか。いずれにせよどんどん良くないことが連なり、いまや薬を揃えるのが非常に困難な状況である。薬が足りなくなったのは今回が初めてではない。かの大震災の時も薬の供給が止まったことはある。が、これほどの品目数が次から次へとドミノ倒しのように止まっていくのははじめての経験だ。

 

薬のない薬屋なんて一体全体何の価値があるのだろうか。

 

うんざりするような激務の中で、頭を抱えながら過ごす12月の半ば――男は翌日に控えた久々の飲み会のことを考えながら、家路についた。ここ数年は大手を振るって飲み会はできなかったが、今年は許可をもらえばいいと会社からお達しが来ていた。家には妻と幼い子供が二人いる。妻に二人の子供の面倒を丸投げし、飲み会行くのは気が引けるので、明日から北海道の義母が家に来ることになっていた。飲み会のためだけに義母を遠方から呼びつけたわけではない。妻がワクチンを接種するため念のため来る予定にあわせて、飲み会のスケジュールを組んだのだ。

 

妻の調子が悪いのは2~3日前からだった。とはいえ熱も高くても37.5℃で、それ以外の症状も軽かったので、大したことはないだろうと思いつつ、少し不安になったので抗原検査キットでチェックすることにした。すでに何度もやっているので使い方は慣れたものだった。液体を細長いチューブに入れ、鼻に綿棒のようなものを突っ込み両方で5回ずつ回転させる。最後にチューブに採った検体をいれ、検査ボードの所定の場所に5滴たらす。それだけだ。

 

結果から言うと妻は陽性だった。くっきりと二本の線が表示されていた。「なにも飲み会の前日に」という思いも男の頭をよぎったが、すぐに現実に引き戻された。妻を隔離しなくてはいけないということは、自分が二人の子供の面倒を見なくてはいけないし、濃厚接触者だからしばらく仕事も休まないといけない。そして仕事はまさに混雑のピークを迎えようとしていた。

 

男には抱えている在宅の患者も複数人いて、担当している施設もある。1年目の新人にある程度内容は伝えてあるが、なかなか厳しい状況だ。上長に連絡をとり応援の手配を行う。部下に連絡し、飲み会のキャンセルをお願いする。新人に連絡し進行中の状況を再度説明する。それから、家の中でこれからどうするか妻と話し合う。

 

こんなことになろうとは、と男は独り言ちた。その独り言には意味はなかった。ただ言いたいだけだった。人は言葉にしないとやるせない現実に向かいうあうことができないこともあるのだ。

 

義母はとりあえず翌日から家に来てくれた。妻は部屋に隔離し、男がメインで子供たちの世話をした。2歳と0歳の面倒を同時に見るのはかなり骨が折れた。毎日ではないが妻に任せっきりにしている事に罪悪感を覚えた。子供たちのうち2歳の男の子は母親に会えないことで不安定になった。泣いたり叫んだり、暴れたり悪戯を繰り返した。男は寝貸し付けが不得手だったが、四の五の言ってる場合ではなく、無理やりにでも寝かした。2歳にもなると体重は10kgを超えていて、長時間抱っこし続けるのはかなり骨が折れた。翌日には体中の筋肉が悲鳴を上げた。0歳児は放置していても寝てくれるタイプの子だったので楽だったが、2歳児がちょっかいをかけて寝ている子を起こしてしまうこともあった。

 

数日が経ち、義母が帰った日。男は朝からのどの調子がおかしいことに気が付いた。熱はない。だが、その呪いのような病からは逃れられないことを知っていた。検査をしてみると自分自身も陽性になっていた。今度は男が隔離される番になった。

 

母親は既定の日数は立っていなかったが、比較的ましだろうとなり子供たちの面倒を見ることになった。もはや家じゅうがウィルスに汚染されているような気がした。隔離の意味もないような気がしたが、症状があるうちは隔離しておいた方が良いだろうとなった。2歳児は、隔離しきれない隙間から男を見て泣き叫んだ。男の胸は痛んだ。

 

この流行性の感染症が男にもたらせたものは、というより男から奪ったものは多かった。

そもそも男はこの流行のせいで結婚式も上げられず(キャンセル料で100万円を失った)、横浜の旧友たちとも会えず、子供たちはろくに祖父祖母とも会えていなかった。仕事にも悪い影響が出た。それから、その病は、日常的な生活そのものまで奪いに来たのだ。

 

男はワクチンを4回受けていたし、症状も軽かったが、それとは別にそこに生まれた社会的な歪みが、生きていること自体に悪い影響を与え続け、蝕まれた。いつかは終わるだろうと思いながらも、見えない終わりに男は不安を募らせる。今回はこの程度で済んだんだと思えばいいのだろうか。

 

男は気持ち悪くなった。吐きそうだった。これはきっと過量服用しているガムのせいだろうと男は思うことにした。