大僧正天海 (75)
大僧正天海 (75)【三代将軍】 「(元和九年四月)十三日 大納言殿日光山御参首途あり。 十六日 大納言殿日光山につかせ給ふ。 十七日 大納言殿日光山 御宮詣給ふ。 十九日 大納言殿日光山を御発輿あり。 廿二日 大納言殿西城に還御あり。」(「台徳院殿御實紀」) 元和9年(1623年)4月17日、東照大権現神忌にあたり、天海は日光山にのぼり、祭祀法要を行った。この時、近衛大将・権大納言となっていた徳川家光が初めて神廟に参ったのである。家光も既に20歳となっていた。 もし、お福が本当にただの乳母であったなら、家光の成長とともに、お福は解雇されるはずである。ところが、お福は、乳母からいつの間にか、家光の養育係となり、いつしか奥向きで権力を掌握していったのである。 例えば、お福の元夫である稲葉正成は、越後糸魚川で2万石の大名になり、松平忠昌の附家老になっている。さらに、長男・正勝は、小姓から書院番頭(1千500石)となっているのである。 また、堀田正則は、前夫・正勝の前妻の娘の子である。つまり、お福とは直接血の繋がりがないにもかかわらず、家光の小姓として抜擢されている。正則は後に老中にまで出世するのである。 これが、一介の乳母にできることであろうか。「(元和九年五月)十二日、江戸城を御首途、神奈川に御やどりあり。松平主殿頭忠房御駕籠にて先立て上洛す。」(「同上」) 秀忠は、5月12日、上洛のため江戸城を発った。この度の上洛は、家光を三代将軍とするためのものである。このため、後を追うように家光も上洛の途に就くはずであった。 「十八日、大納言殿御不例なり。」(「同上」) ところが、この頃の家光は病弱で、体調を崩すことが多かったのである。将軍宣下を控えた大切な時期に、またしても病に伏したのであった。 家光は幼い頃にも、天然痘に罹患し、お福の献身的な看病で回復したことがあった。この時の詳しい症状は不明であるが、家康の後継指名がなければ、本当に廃嫡されたかもしれない。 6月朔日、三河国吉田城を旅館とした秀忠は、2日には岡崎に、3日には名古屋、4日には岐阜、5日には亀山に入った。 6月8日には、秀忠は上洛していた。特に記録はないが、肝心の家光が上洛できないことに、内心苛立っていたのではあるまいか。 25日、秀忠は、土井利勝・井上正就を連れ参内している。後は、主役の登場を待つばかりであった。 この頃、家光の病は漸く癒えて、6月28日、ついに上洛の途についたのである。 7月3日には、久能山に入り、御宮に参詣している。家光が苦しいときに頼るのは、いつも神となった家康の御霊である。 こうして家光が、伏見城に入ったのは、7月13日のことであった。大坂城を視察していた秀忠は、この13日に二条城に帰還している。 15日、輿に乗った家光は、伏見城から二条城に上っていった。輿の左右を徒歩で護衛するのは、井伊直孝、板倉重宗である。 やがて、二条城において御長袴で正装した父子は、対面したのであった。 井筒雅風 著『原色日本服飾史』,光琳社出版,1982.7.国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/12169204 (参照 2025-10-04)