大僧正天海 (100)
大僧正天海 (100) 本能寺の変から4年後の天正14年(1586年)、家康の旗本として駿府に移り住んだ遠山利景のもとに旅僧が訪れる。驚いたことにそれは死んだはずの長兄・秀満であった。 秀満は「家康に会わせろ。」という。仲介した本多正信は「殿は本能寺の変の真相を知りたがっている。」として、秀満と引き合わせたのである。 家康と面談した秀満は、次に天下を取るのは家康しかいないと確信し、協力を申し出る。すると正信から、北条領内の上野国長楽寺に赴くよう依頼があった。さらに仙波不動院の豪海上人に師事し、その名を天海と改める。 遠山家では、一行が平沢峠で落命し、明智遠山家の嫡流が途絶えた。これ以降、利景が嫡流となる。 小田原征伐後、関東に入った家康に浅草寺の忠豪を引き合わせ、浅草寺を徳川家の祈願所にした。関ケ原の戦いでは、お福を介して小早川家附家老・稲葉正成を東軍に引き入れ、本戦では、家康本陣に入り参謀役を務め、小早川家の寝返りを見届ける。 その後、比叡山再興のため探題執行となり、無量寿寺喜多院を関東天台宗の総本山にした。家康大御所時代は駿府で側近の一人となり、大坂の陣では、方広寺鐘銘事件に関係し、主に朝廷工作を行ったが、本戦には参加していない。家康没後は、「東照大権現」として日光に祀り、家康を神格化することに成功する。そして話は家光の時代になり、天海もいよいよ「晩年」になるのだが、これからがまた長いのである。 さて、天海=秀満説にはいくつか根拠がある。特に有力な証拠は「家紋」であろう。この時代の高位者は理由もなく家紋を選んだりはしない。自らの出自を表す重要な代物だからだ。 よく知られているように天海の家紋は「二引両紋」と「輪宝紋」である。通説でいう「蘆名氏」は、元は三浦氏なので「三引両紋」であり、「船木氏」は、元は土岐氏なので「桔梗紋」である。 「二引両紋」は足利氏の家紋として有名で、このため天海は「将軍の御落胤」との噂が付きまとった。しかし、実は遠山氏もこの家紋であり、天海の人脈から考えると、恐らく遠山氏の出身であろう。 もう一つの「輪宝紋」は「三宅輪宝紋」と呼ばれ、三宅氏の家紋である。つまり天海は「遠山氏」であり、「三宅氏」である可能性が高いのである。 次に人脈である。天海の周辺には「明智氏」と「遠山氏」の人脈が多く、会津など東北に繋がる人物は皆無である。代表的なところでは浅草寺の忠豪(武蔵遠山氏)、斎藤福(明智家重臣の娘)、英勝院(武蔵遠山氏)等がいる。 一方、天海=光秀説では、天海と「明智家」との関わり合いが、数多く指摘されているが、これは別に光秀に限ったことではない。本来、明智氏である秀満にとっても同じである。 天海は、天文5年(1536年)生まれで、寛永20年(1643年)に108歳で亡くなっている。これは80歳の時、後陽成天皇から「鳩杖」(80歳以上の臣下に与える)を贈られているので、ほぼ間違いない。 一方、光秀は享禄元年(1516年)生まれである、といわれているので、天海より20年も年上である。すると没年も128歳となるので、ほぼあり得ない。 秀満の生年は、はっきりしていないが、一般的には天文5年の生まれと言われていて、天海と同年である。他にも幾つかあるが、大きなところではこんなところであろうか。南蛮胴具足(伝 明智光春所用)亀岡市文化資料館 編『明智光秀と丹波・亀岡』,亀岡市文化資料館,1990.11.国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/13301901 (参照 2025-10-29)