大僧正天海 (120)
大僧正天海 (120)【家光大病】 「(寛永七年七月)御不予によて星夕の賀なし。尾水両卿御けしき伺はれて後、西城にのぼり拝謁せらる。」(「大猷院殿御實紀」) 家光はまたしても体調を崩し、星夕の賀(七夕)が中止となっている。 将軍家は、毎年庭先に祭壇を設け、梶の葉に和歌を書きつけて星に供えるという七夕の行事が行われていた。また、七夕の祝膳には、素麺が出され、これを食べると病気にかからないといわれていた。 尾張大納言義直と水戸中納言頼房がお見舞いに訪れ、その後、西の丸の秀忠に拝謁した。 「(八月)二日、主上内々御譲位の事思召立給ふ。権大納言の局まで、大御所御手書をつかはさる。その御趣旨は、いまだ春秋に富せ給ふよしとぞ聞こえし。」(「同上」) 8月2日、後水尾天皇は内々に譲位の意向を示した。「内々」というが、権大納言の局(徳川和子の侍女)を通じて秀忠に書状を渡している。譲位の理由としては「在位が随分と長くなった。」からだという。 秀忠は「猶今しばらく御在位の事を、こひねがひ給ふ。」と答えた。 また、3日には家光にも同じ内容の書状を渡したため、「御譲位の事をとどめさせ給ふ事」を伝えたのである。 後水尾天皇の譲位の経緯は複雑である。 幕府は、紫衣事件において、天皇が発した綸旨を無効にした。これは、帝にとって、この上もない恥辱であった。激怒した帝は、幕府に譲位をほのめかしたのである。 ところが、幕府はそれを意に介さず、帝のために仙洞御所(退位後の住居)の建設を始めたのである。(後に板倉重昌が上洛の時に建設の進捗状況を確認している。) 秀忠は、帝が譲位した後には、中宮・和子が生んだ高仁親王を立てるつもりであった。徳川将軍家の血を引く天皇が即位することは願ってもない事だったのである。 「(寛永五年六月十六日)京にて親王薨ぜられしかば、葬埋の作法はすべて陽光院の時、豊臣太閤さだめられしに本づき、猶斟酌してはからふべき旨、京職板倉周防守重宗のもとへ奉書をつかはされ、両伝奏のもとにも、御吊る慰の奉書をつかはさし給ふ。」(同上) ところが寛永5年(1628年)6月11日、高仁親王は僅か3歳で薨去するのである。これに幕府は衝撃を受けた。そして帝の再度の譲位の意向に、今度は慰留して皇位にとどまるように要請したのであった。 「(寛永六年二月)この月下旬より痘瘡をなやませ給ふ。御幼稚のとき水痘をわづらはせ給ひしを、御めのとだち御痘なりと思ひしかば、医員等も伺ひあやまりて、御治療いささかたがひ、御見點おそく御なやみおもし。よてはじめは岡道琢孝賀、久志本右馬之助常淳御薬を奉りしが、後に武田道安信重をめし、今大路延壽院正紹、岡本啓迪院諸品等ともに会議して御薬献じければ快く発し、御なやみうすらぎて、衆人皆安心せしとぞ。」(「同上」) 病気がちの家光が、ついに重篤になり、生死を彷徨う事態となった。 まず、「痘瘡」とは、天然痘のことである。天然痘は、致死率の高い(この時代は50%以上)ウイルス感染症のことで、痘瘡ウイルスによって引き起こされた。感染力が非常に強く、治癒しても、顔などに「あばた」が残ったり、失明したりすることがあった、怖ろしい病気である。和泉成之 著『症候上より見たる小児科学』,鳳鳴堂,昭11.国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1047350 (参照 2025-11-16)