大僧正天海 (126)
大僧正天海 (126) この春日局という称号については「室町殿の例とて、春日の局といふ称号」との記載があり、出典があることが分かる。 足利三代将軍・義満の乳母が「春日局」であったという。お福は徳川三代将軍・家光の乳母であるから、確かに相応しい名前であろう。 「慈照院殿(足利義政)の時、春日の局と云う女あり。彼が所為にて、応仁の乱起り天下騒動す。近来の春日局の号ハ是を考すして然る歟。」(「老人雑話」) 上記のことから、「春日局」という称号は不吉で、忌まわしい名である、という説がある。一方で、この称号は平安時代から続く由緒ある称号である、という説もある。 これは、後水尾天皇が、お福を歓迎していたか、不快に思っていたかで解釈が分かれるようだ。 何にせよ、一介の乳母に過ぎなかったお福は、帝に拝謁し、「従三位春日局」の称号を手にして、天酌御盃を賜ったのである。やがてその権威は、幕閣を圧倒するようになる。 「無勿体事候、帝道民ノ塗炭ニ落候事候。(もったいなくも、皇国を治める天皇が、世俗の土民の塗炭に落とされてしましました。)」(「泰重卿記」土御門泰重) 帝にすれば、お福を「三條西家 藤原福子」として、拝謁を許したのであるから、「何の問題ない。」と判断したのであるが、幕府に批判的な公家衆から、大いなる反発を招いた。 伝統を重んずる公家にすれば、お福は関東の武家の乳母という下女に過ぎず、天皇に拝謁など許されるものではなかったのである。 とくに、重宗と實條が「猶妹」などという、聞きなれぬ資格を捏造して、無理やり「藤原」を名乗らせたことに怒りを爆発させた。この怒りは、幕府から帝に向かうのは当然である。 思い起こして欲しい。先代の後陽成天皇も、猪熊事件で自らの主張が、朝廷内で反対され、幕府の介入を招いている。朝廷内で孤立し、嫌気がさして譲位を決意しているのである。 後水尾天皇も「良かれ」と思い、朝幕関係の改善に取り組んだのに、結果として自分を支えてくれるはずの公家衆の大きな反発を招いたのである。これが後水尾天皇譲位の大きな動機ではあるまいか。 上記の日記の著者は、土御門泰重である。泰重は、後水尾天皇の信頼が厚く、天皇側近として活躍している。その泰重でさえ、春日局の参内には批判的であった。 また、「孝亮宿祢日次記」によると後水尾天皇は「痔」を患っていて、灸による治療を希望していたという。ところが、灸の治療は「玉体に傷がつく」として、公家衆に反対されていたのである。 後水尾天皇は15歳で皇位につき、すでに34歳になっていた。この不自由な生活に心底嫌気がさしたのであろう。「いまだ春秋に富せ給ふよし。」(在位が随分長くなったので。)という理由も、あながち嘘ではないのである。 「(寛永六年十一月)廿九日、女一宮興子ヲ内親王ト為シ、権大納言三條西實條ヲ内親王家別当ニ補ス、又、皇弟幸勝ヲ親王ト為シ、前関白故鷹司信尚ノ室清子内親王ヲ三宮ニ准ズ。」(「史料綜覧」) 後水尾天皇は、7歳の女一宮を内親王宣下し、興子内親王とした。この時、すでに譲位を決意していたのである。根津美術館, 恵観公山荘茶屋会 編『後水尾天皇とその周辺』,根津美術館,1965序.国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/3007259 (参照 2025-11-23)