大僧正天海 (141)
大僧正天海 (141) 「(寛永九年正月)三日拝賀例の如し。金地院崇伝まうのぼり年筮を献ず。大御所年筮は御病中によりて奉らず。此のほど駿河大納言忠長卿はしばしば崇伝につきて、御勘気御免のことをこはれしとぞ。」(「大猷院殿御實紀」) 正月3日、例年通り、崇伝は年筮(占い)を行うために登城した。忠長は崇伝を通じて「御勘気御免」を願い出たが、これも認められなかった。 4日、将軍家光、尾張大納言義直、紀伊大納言頼宣、水戸中納言頼房がそろって西の丸の秀忠を見舞った。 7日には、御三家、井伊直孝、松平定行らが西の丸で秀忠に拝謁している。 10日、秀忠が朝食を摂られなかったと聞き、家光は急ぎ西の丸に訪れた。御三家もこれに続いたという。 驚いたことに、これほど病状が悪化しても秀忠は「天下大小の政事」を尋ねたという。家光は老臣に、「お体に障るようなことはお伝えするな。」といったが、秀忠は、「天下のことを一日でも聞かねば、かえって気がかりでならない。天下の主と言うものは、死に至るまで天下の事を気に懸けるものだ。それが本意である。」といった。 「一筆今啓達候。仍先日御案紙通書附、渡辺監物爲持進之候。可然様頼入存候。猶口上可申入候。 恐々謹言。 正月十日 駿河大納言忠長 判 天海大僧正 」(「大僧正天海」須藤光暉)) 忠長は天海に何度か書状を出している。渡辺監物に渡した「案文」のとおり書付け、上申したとの内容である。14日には、崇伝の元にも同じような書状が届いている。(「本光国師日記」) しかし、ついに忠長が許されることはなかった。 「大御所大漸に臨ませられし時、御所に向はせ給ひ、様様御遺托どもありしかば、御所にはひたすら御悲歎かぎりなく、御泪にのみ咽給ひしを御覧ぜられ、人生死は元より定命なれば、さまで歎かせらるるに及ばず、今より後は天下の者、御身を月とも日とも戴き仰ぐことなれば、よく天下大小の機務を勤め行れて、いささかも怠らせ給ふな。」(「台徳院殿御實紀」) 幼い頃、家光は父である秀忠を呪い続けた。子供にとっては最低の父親であった。 しかし、将軍になってから、秀忠のもう一つの顔を発見するのである。それは家康の偉業を引継ぎ、押し潰されそうになりながらも、懸命に抗う仕事人・秀忠の姿であった。 「自分は父には及ばない。」と自覚しつつも、老臣の力を借りながら、天下の主としての責任を果たそうとする姿に、家光は心を打たれた。 死期を自覚しながら、なおも政事に心を砕く秀忠を見て、家光は嗚咽が止まらない。よもや自分がこれほど狼狽え、悲しむとは思いもよらなかった。 そのような家光を見て秀忠は、 「人の生死は定められた運命である。それほど悲しむものではない。これからは御身が天下の主となり、多くの者に仰ぎ見られることであろう。だから、天下の出来事を大小にかかわらず、よく見て判断することだ。決して勤めを怠ってはならないぞ。 但し、当家は天下を治めてまだ日が浅く、これまでに定めた法令は全備していない。数年の内には改修せねばと思っていたのに、不幸にして未完のままになりそうだ。 私がいなくなったら、御身はいささかも憚ることなく、これを改正して欲しい。これが私の志を継ぐことであり、孝道と心得よ。」と告げたのである。 德川秀忠像 東京 伯爵 松平直富氏藏森末義彰, 谷信一 編『国史肖像集成』第2輯,目黒書店,1941.国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1903657 (参照 2025-12-09)