大僧正天海 (173)
大僧正天海 (173) さて、藤兵衛が富岡城番代(1000石)になった元和7年(1621年)には、ミカエル、カルヴリョ神父が日本に密航し、天草に潜伏している。幕府が禁教令を出し、弾圧を繰り返しても、宣教師たちは執拗に日本に渡航していた。天草地方はその拠点の一つであったのだ。 「先に島原撤去のもと有馬藩士松山外記、薩州阿久根の浪宅に、三歳の一子貞重を遺し、病没す。富岡番代三宅藤兵衛、縁有て松山外記の遺子貞重を母子共引取り、母は富岡町役人(後の町年寄)田中半右衛門に再嫁せしめ、貞重のみ手許に置き専ら養育す。」(「天草近年譜」) キリスト教側の史書では「悪鬼」のように描かれる藤兵衛であるが、日本側の史料では「慈愛に満ちた領主」とされる。 有馬家の旧家臣で、薩摩国阿久根で浪人暮らしをしていた松山外記が、病気で亡くなった。社会福祉などない時代であるから、母子は路頭に迷ったのであろう。藤兵衛は、母を再婚させ、その子を養育したと記録されている。 寛永元年(1624年)、またもやボール・ゾウノという神父が天草に侵入し、大矢野を地盤にして布教活動を行った。 既に将軍は家光の時代である。禁教令はますます厳しくなっていて、広高は富岡城番代の藤兵衛に取締りの強化を命じている。これにより藤兵衛は領内の切支丹を厳に取り締ったため、ルドーウイコ六左衛門夫妻らが殉教し、ボール・ゾウノ神父は肥後に逃れたという。(「天草近年譜」) 寛永2年(1625年)には広高(63歳)は隠居し、堅高(16歳)に家督を譲っている。藩政一新のため、藤兵衛は一旦唐津に戻った。 堅高から「番代永勤」に推挙され、藤兵衛は家族を連れて、再び富岡城に戻っている。恐らくこの時に、筆頭家老で知行3000石になったのであろう。 寛永3年(1626年)、竹中采女重義が長崎奉行となった。のちに水野河内守守信が加わり、長崎奉行は二人体制となったのである。 この年、重義は島原切支丹の大検挙に動いた。この重義は島原藩主・松倉重政とともに、切支丹に激しい弾圧を行った人物として知られる。特に雲仙地獄での拷問は、重政が初めて実施し、重義がこれを本格化させたという。 高温の温泉を利用したこの拷問は、切支丹に激しい肉体的苦痛を与え、棄教を迫るものであった。切支丹たちは、摂氏100度近くの高温の熱湯や噴気が激しく噴出する「地獄」と呼ばれる源泉に連行された。そして、信仰を捨てるまで熱湯の中に浸けられたのである。 この「地獄責め」は即時の処刑ではなく、極限の苦痛を与えることで信仰を放棄させ、棄教させることを主な目的としていたのである。 寛永5年(1628年)、幕府からまたしても禁教令が発出された。「長崎天主教徒処刑の事」をもう一人の長崎奉行・水野守信に命じている。 同年11月、藤兵衛は、唐津藩に呼び出される。内容は「切支丹禁壓方打合せ」であった。これに藤兵衛は追い詰められるのである。 その頃、耶蘇会の神父・ミカエル松田、ペテロ・カイスが天草に来て布教している。もはやキリスト教信仰はそれ自体が重大犯罪なのである。富岡番代として藤兵衛は、領内の切支丹弾圧を覚悟せねばならなかった。 唐津から長崎に立ち寄った藤兵衛は、長崎奉行と切支丹弾圧について打合せをする。最早一刻の猶予もまま成らなかったのである。 助野健太郎 著『島原の乱』,東出版,1967.国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/3013894 (参照 2026-01-24)