大僧正天海 (160)
【鎖国令】
「(寛永十年正月廿一日)今暁関東大地震す。こと更相州小田原一駅ことごとく破潰し、民屋一宇ものこらず、泥水湧出、箱根山より岩石くづれ落て、行人これがためにうたれ、死するもの多かりしとぞ。よて稲葉丹後守正勝に、速に道路の修治を加ふべしと命ぜらる。」(「大猷院殿御實紀」)
崇伝が息を引き取った翌日の寛永10年(1633年)1月21日早朝、相模湾北西部を震源とする寛永小田原地震が発生した。 推定マグニチュードはM7.1前後とされる。
小田原の宿場は悉く灰塵と帰し、土石流や泥水で多くの人命が失われた。小田原城主・稲葉正勝は直ちに街道の復旧を命じたのであった。
破損した小田原城は、作事奉行に酒井忠智、普請奉行に黒川盛至をあて、公費で賄われた。
その日は、終日余震が続いたため、諸大名は驚いて登城し、将軍の御気色を伺った。
さらに22日にも、大きな余震が続けて発生したのである。
「また大僧正天海日光山より参府しければ、太田備中守資宗もてねぎらはせる。」(「同上」)
崇伝の重篤を聞いて、天海は日光山から江戸に入っていた。
天海を労ったのは太田資宗である。資宗は、英勝院の甥にあたり、太田家を継承していた。
太田道灌のひ孫である太田康資は、北条家重臣であったが、離反して里見氏についた。その正室・法性院は遠山綱景の娘である。
このため康資の子・重正は、英勝院(お梶)とともに、武蔵遠山家で育てられたという。その重正の子が資宗である。
その後、英勝院は家康の側室「お勝の方」となり、水戸徳川家の祖・徳川頼房の養母となった。英勝院は重正の死後、その子・資宗を養子とし、太田家を再興させた。明知遠山家出身の天海にとって資宗は身内のようなものである。
「ひどい地震であったようだな。」と天海が問うと、
「はい、現在もまだ揺れが続いております。特に小田原辺りが大変なことになっているようです。」と資宗が答えた。
小田原城は春日局の子である老中・稲葉正勝の封地である。老中は殊の外激務で、この度の地震はさらに大きな負担になるであろう。
「ご無理をなさらねば良いが…。」と天海は呟く。
この日もまだ余震が続いている。被災者は増えるばかりであろう。
「廿四日、御小祥にて三縁山 霊廟に詣たまふ。御束帯にて御轅にめさる。」(「同上」)
「御小祥」とは、一周忌に行われる追善供養の儀式のことである。そして増上寺は山号を「三縁山広度院」という。
つまり徳川家の菩提寺・増上寺で秀忠の一周忌が取り行われたのである。
家康は天海により「天台宗」に帰依した。しかし、徳川家の菩提寺は、浄土宗増上寺で変わりなかった。
この辺は、少しややこしい。秀忠は、天海と親しかったが、個人として天台宗には帰依していない。だから徳川家が代々信仰する浄土宗増上寺に葬られ、そこに「台徳院霊廟」が建てられたのである。
小田原城(江戸初期)
小田原市 編『小田原市史』別編 城郭,
小田原市,1995.10.
国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/pid/13177052 (参照 2026-01-10)
