大僧正天海 (80)

 

 

 

【鷹司孝子】

 

 

 「(元和九年十月廿四日)また、筑前国福岡城主松平筑前守長政の遺領四十三万三千百石余を、長子右衛門佐忠之につがしめ、三男勘解由長興に五万石、四男勘兵衛高政に四万石わかち給ふ。」(「大猷院殿御實紀」)

 

 元和9年(1623年)8月4日、黒田長政が亡くなった。遺領は嫡男・忠之が43万石、三男・長興に5万石、四男・高政に4万石が与えられた。

 

 長政の生涯を語ると、些か長くなるので、簡潔に説明する。

 長政は、永禄11年(1568年)の生まれで、父は有名な黒田勘兵衛孝高である。織田家の人質として秀吉に預けられ、有岡城の戦いでは一度死にかけている。

 山崎の戦い以降は、秀吉の家臣となり、天正15年(1587年)には父とともに豊前国中津で12万5千石を与えられている。

 

 朝鮮役では、5千の兵を率いて渡海している。数々の武功を挙げながら、秀吉の叱責を受けるなどして、秀吉側近で文治派の石田三成や小西行長と対立した。このため、秀吉の死後は、家康の養女を娶るなどして、積極的に家康の味方をした。

 

 関ケ原の戦いでは、本戦のみならず、調略でも活躍し、家康から最大の功労者として、筑前国名島(のち福岡)に52万3千石を与えられている。

 大坂冬の陣では江戸城留守居となったが、夏の陣では秀忠隊に属し、加藤嘉明とともに豊臣軍と戦った。

 

 元和9年8月4日、家光将軍宣下に参加するため、先遣として上洛していたが、報恩寺の寝所にて息を引き取ったのである。56歳であった。

 

 後継となった忠之の性格は、自由奔放我儘であった。生前、長政は嫡男・忠之の器量に不安を覚え、廃嫡も考えたという。その予感は的中し、福岡藩は後に「黒田騒動」を引き起こすことになる。

 

 「(元和九年十一月)十九日、皇女興子御生誕、女一宮ト称シ給フ。」(「史料綜覧」)

 

 天海は、後陽成天皇の第六皇子・堯然法親王に招かれ、上洛した。

 この年、親王二品(親王の階位・一品から四品まである。)となり、大僧正から「伝法灌頂」を授かることになったのである。

 

 すると、後水尾天皇の母である中和門院から「往生の素懐を遂げたい。」との申し出があり、天海は自ら戒師となり、法身の尼僧と成した。そして、11月16日には、妙法院において堯然法親王伝法灌頂を行ったのである。

 

 12月となり、京都を発った天海名古屋にいたると、「女御(和子)御安産、女一宮と称す。」との一報を受けた。そこで急ぎ「賀詞」を奉ることにしたのである。

 

 折しも、将軍家からの祝いの御使として吉良上野介義彌(吉良上野介義央の祖父)らと出会ったので、これを託すことができた。

 

 後水尾天皇には、以前に四辻与津子との間に、賀茂宮(男子夭折)、文智女王(梅宮)をもうけている。梅宮は皇女でありながら、内親王にはなれなかったのであった。

 

 「(元和九年十二月)廿六日、前関白鷹司信房ノ女孝子ヲ娶り、婚儀ヲ行フ。」(「同上」)

 

 元和9年(1623年)8月、家光が上洛して新将軍になると、9月には摂家の一つである前関白・鷹司信房の娘・孝子が江戸に下った。

 孝子お江の猶子となり、家光と祝言を行うことになっていたのである。孝子家光より、一つか二つ年長であったと思われる。

 

 

堯然法親王