大僧正天海 (66)

 

 

 

 

 

 「さて、山形城請取に本多上野介正純、永井右近大夫直勝命ぜられ、松平(蒲生)下野守忠郷よりは、これに先立て士卒三千餘人出さしめられ、渡辺半四郎宗綱、庄田小左衛門安照は別に仰奉はり、松平(伊達)陸奥守政宗が人数三千餘を引きつれむかはしめ、内藤佐馬助政長、丹羽五郎左衛門長重、戸澤右京亮政以下の奥羽諸大名は、一左右次第河崎まで罷出て、御使を待合すべしと命ぜらる。是皆最上家人等もし命を拒む事あらば、直にその城を攻落さんがためとぞ。」(「台徳院殿御實紀」)

 

 山形城の請取りは、本多正純、永井直勝が担当した。

 福島家改易の様に、留守居の家老が請取りに抵抗することがある。このため、上使が支障なく、城の請取りができるように、会津藩主・蒲生忠郷が3千余、伊達政宗も3千余の兵を出した。

 外にも内藤政長(陸奥磐城平7万石)、丹羽長重(陸奥国棚倉5万石)、戸澤亮政(出羽新庄藩6万石)らが、出兵し、抵抗する城があれば、攻め落とす覚悟であったという。

 

 8月23日、正純最上家の家臣から、何事もなく山形城の請取りを済ませることができた。

 一方、永井直勝は二日遅れで山形城にやって来たので、正純は城の外郭にあった旧上山兵部宅に引き上げ、本城直勝に譲ったのである。そして二人は旧上山宅で、城請取りを無事終えたことを祝い、酒宴を開いていた。

 

 直勝の後を追うように、伊丹康勝、高木正次山形城に上使として訪れた。そして、正純11か条に及ぶ糺問書を読み上げたのである。この11か条がどのような内容であったかは、はっきりとは分からない。

 恐らくは、新築した御殿に不審な仕掛けがある、宿舎の床を高くして、床下に忍び込めるようになっている、新築は深夜に行われた、先乗り部隊に行李を開かせず、湯も与えなかった家臣らが武装してい等と言ったことであろう。

 

 正純はこれらの疑問にすらすらと答えた。そもそも、城内は既に老中・井上正就によって調査されているし、その他の事も将軍警護のためであると申し開きをした。

 

 すると、康勝は懐から書付を出すと、「第一に、幕府に無断で大量の鉄砲を購入した事、第二に、二の丸・三の丸の修築は申し出たが、本丸の石垣も無断で改修していること、第三に、直参である根来衆を殺害したのに幕府に報告がないこと。」の三か条を詰問したのである。

 

 本多家3万3千石から15万5千石に膨れ上がったため、このままでは軍役が果たせなかったのである。

 軍令によると、1万石につき20挺の鉄砲が必要であった。となると250挺ほどの鉄砲が不足になる。そこで将軍警護のため大急ぎで鉄砲を発注したのであるが、確かに幕府の許可を得てはいなかった。

 さらに石垣の補修正則改易の要因にもなっていたため、幕府も神経質になっていた。別に高くしたわけではないが、補修したことは事実であった。

 根来衆の件は、命令に従わなかった根来衆に責任があるが、確かに幕臣である以上、報告すべきであったであろう。

 

 正純は、幕府の遣り口を熟知していた。この三点は既に調査済みであり、証拠を掴んでいるはずである。このため、迂闊な返答はできなかった。

 

 沈黙した正純を見届けると、正成は、「封地、下野国宇都宮城15万5千石を収公し、出羽国由利に配流する。ただし、長年の功績を斟酌し、厨料として5万5千石を与える。」と告げたのである。

 

 

宇都宮城