大僧正天海 (69)
真田信之が去った後の上田城には、仙石忠政(信濃国小諸5万石)が6万石で入った。
仙石の居城・小諸城(佐久郡等7万石)は、甲斐宰相・徳川忠長の所領となり、甲斐と合わせ30万石余となっている。また、水戸宰相・頼房には常陸国松岡3万石を加増し、28万石としている。
「酒井讃岐守忠勝、武蔵の国深谷の城主になされ、七千石加恩ありて1万石を給ふ。」(「台徳院殿御實紀」)
さて、前項で「酒井忠勝が、出羽国庄内で13万8千石を賜った。」と書いたが、ややこしいことに、もう一人、酒井忠勝がいる。
出羽国庄内藩の酒井宮内大輔忠勝は、酒井家次の長男で、徳川四天王・酒井忠次の孫である。この家は「左衛門尉家」といわれる。
もう一人の酒井讃岐守忠勝は、酒井忠利の子で「雅樂頭家」と呼ばれているのである。後に老中として活躍し、土井利勝とともに「大老」になるのは、こちらの忠勝である。
父の酒井忠利は武蔵川越藩(2万石)の初代藩主で、正室は鈴木重直の娘であった。足助城主・鈴木重直は「三河鈴木氏」で当初今川氏に属していたが、家康に攻められ徳川家に服属した。ところが、今度は武田信玄に攻められ、居城・足助城を追われるのである。その後、松平信康によって足助城は奪還され、再び重直が入城している。
この足助城は、遠山利景(美濃国明知城)の正室の実家で、戦いに敗れる度に逃げ落ちているのである。つまり、利景と忠利は、いずれも重直の娘を正室としているので、義兄弟である。
関ケ原の戦いが終わった直後の慶長6年(1601年)に、酒井重忠(忠利の兄)が川越から上野国厩橋(2万石)に転封している。これには天海の口添えがあったという。その後、川越は天領となり、慶長14年(1609年)に重宗の弟・忠利が2万石で入封している。
川越には「喜多院」があり、住職の天海は利景の兄なので、忠利とも義兄弟になる。家康が忠利を川越藩主にしたのは、決して偶然ではない。
この忠利の代に喜多院は、関東天台宗本山として大拡張工事を行っているのである。つまり、酒井雅樂頭家は天海ら明智一族と深い関係があったのだ。このため、忠勝も終生、家光を擁護し、忠長になびくことはなかった。
家光も殊の外、忠勝を信頼し、「我が右手は讃岐(忠勝)、我が左手は伊豆(松平信綱)」と述べたという。
忠勝はこの時、武蔵国深谷城主となり、はじめて旗本から1万石の大名となった。この後も加増を重ね、後年には若狭小浜12万3千石の国持大名になるのである。
正純とともに山形城の請取りに赴いた永井直勝(常陸国笠間5万石)は、下総国古河に移り、7万5千石となっている。
また、宇都宮城番を務めた浅野長重は常陸国真壁から同国笠間に移り、5万3千石余となっている。
この浅野長重は、豊臣政権下で奉行として活躍した、浅野長政の三男である。長政はその後失脚し、関東に流罪となったが、慶長11年(1606年)に家康の庇護の元、常陸国真壁5万石を与えられ、真壁藩を立藩した。
長重は、真壁は父・長政の墳墓の土地であるとして、笠間城に移封されても、真壁を領し続けた。
浅野長重
