大僧正天海 ㊷
大僧正天海 ㊷【和子入内】 高虎のもとに帝の母である中和門院から書状が届いた。 家老の深井主膳吉親が、その手紙を高虎のために音読している。実は近ごろ高虎は目の具合が良くない。琵琶湖畔を移動中、砂塵をまともに受け、以来どうも目が霞むのである。 「つまり、帝の責任ではなく、側近に碌な者がいないと言う訳か。その碌でもない者を選んだのも、帝であろうが、…まぁ良い。」と高虎は、何やら不満げである。 「中和門院様もご体調が優れず、自らの監督不行届を詫びておられます。」と吉親は言う。 すると今度は、近衛信尋が深刻な顔で訪ねてきた。 「御譲位だと、何を仰せか。」と高虎は顔色を変えた。 「上様が、入内を願っておられるのは、天下の静謐のためでござる。公武が手を取り、天下を支えねばならぬというお気持ちである。それを肝心の帝がご譲位されては、これまでの上様のご労苦を無にすることになる。ただ事では済みませんぞ。」と恫喝した。 信尋は、「そのこと、私も申しました。こうなっては朝廷としても一大事にございます。何卒、和泉守殿のお力をお借りいたしたいのです。」と頭を下げた。右大臣に、こう下手に出られては、高虎も動かざるを得ない。 高虎は、勝重、重宗と打合せの上、覚悟を決めて参内したのである。 「オレが悪役になる他あるまい。」 高虎と勝重の二人は、参内すると直ぐに譲位の真意を尋ねた。 「朕も、先の将軍の馳走(奔走)により、皇位に就いたこと重々承知しておる。されど、朕にその器量なく、将軍の機嫌を損ねたのであるなら、譲位も致し方あるまい。今の宮中を思えば、公家諸法度違反を問われても仕方ないであろう。八年もの間、皇位についていながら、朕に力なく、不器用なれば、兄弟いずれかに即位させ、朕は山居せんと欲する。」という。 「お待ちくだされ、神君家康公は、御臨終の折、我手を取られ、『和子入内の事、くれぐれも頼む。』と言われました。神君は、乱世を繰り返さぬよう、生涯をかけて、天下の一統を成したのです。公武が互いに手を取り、天下の静謐を築く事を第一と考えておられました。 私は神君の思いを受け継ぎ、和子様の御入内を必ず実現いたします。もしこれができなければ、健礼門の前で腹を切る覚悟です。 但しその時、幕府は承久の変の如く、武力を以て宮中を一掃するでしょう。主上も山ではなく、隠岐の方に隠棲されることになるやも知れません。」と言った。 この無礼な物言いに、伺候する近衆らは色めきだった。 「和泉守よ、朕も天下の静謐を願う気持ちは変わらない。入内が延期され、将軍の面目を潰したのなら、このように詫びる。 朕も円満に事を修めたいのだ。和泉守、伊賀守、朕に力を貸してくれぬか。年内か翌年の春までには、何としても入内を成し遂げたい。」 「しかと承りました。この和泉守、命を懸けて入内をまとめ上げます。されど、ひとつだけ条件がございます。それは、於与津局とその御子を御出家させていただきます。まずは身辺を綺麗にされてから、入内の話を勧めたいと存じます。」と高虎はいった。 帝は、天を仰ぐと小声で「そうか。」と呟いた。そして高虎を見据えると、「分かった。」と頷いたのである。根津美術館, 恵観公山荘茶屋会 編『後水尾天皇とその周辺』,根津美術館,1965序.国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/3007259 (参照 2025-09-01)