大僧正天海 ㊱
大僧正天海 ㊱ 高虎は、京都所司代・板倉勝重のもとを訪れた。西国に睨みを利かせてきた老将も既に75歳になっていた。往年の活躍を知っている高虎は、その年老いた姿に驚きを隠せなかったのである。 「大御所様が亡くなられてから、衰えが著しい。そろそろ御隠居された方が良いかも知れぬ。」と内心思った。 「和泉守殿は於与津局の件は御存知か?」と勝重は尋ねた。 「はて、正直申し上げ、全く存じ上げません。」と高虎が答えると、勝重は苦々しい顔で話始めた。 「拙者も最近知ったのだが、帝の寵姫であるという。長く皇室では男子が元服すると、同衾する女性が宛がわれるらしい。添い寝をしながら…つまりその…皇嗣を得る手解きを受けるのだという。」と謹厳実直な勝重は、少し気まずそうに説明した。 「於与津局というのは、四辻大納言の妹で典侍の四辻与津子のことであり、帝のお手付きとなってから、寵愛を受けるようになったというのだ。」 「つまり、その於与津という女が、宛がいの女房であったという事ですか。」と高虎は尋ねた。 「まぁ、おそらくは。」と勝重は言う。 「その四辻与津子という典侍は、実はあの猪熊教利の妹でな。」 「あの猪熊事件の猪熊ですか。」と高虎は驚きを隠せない。 武家では、親族が罪を犯せば、一族にも類が及ぶ。どうやら「四辻家」は無事だったようである。 『もっとも、帝もすでに24歳である。寵姫の一人位いても不思議ではあるまい。』と高虎は考えた。 ところが、勝重が「実は、昨年の秋に男児が生まれ…。」というので、高虎は跳びあがった。 「な、何ですと。第一皇子がおられるというか。その事、幕府にお届けしておられるのか。」と高虎が大きな声を上げた。 「それを和泉守殿とご相談しようと…。」と勝重がいう。 『これは大変なことになった。幕府にも知らせず、密かに皇子を産んだとあっては、将軍家の面子を潰すことになる。それにしても、これがかつて名奉行と称えられた板倉殿の成れの果てか。』と高虎は思わざるを得ない。 「その事、私が報告しても良いが、何かと差し障りがあるであろう。ここはやはり、所司代として報告したほうが良いであろう。」と高虎が言うと、 「左様心得た。」と勝重は力なく言った。 板倉勝重は、三河国小美村の出身で、幼少にして出家し寺で育った。ところが板倉家の者が次々戦死したため、還俗し家督を相続することになった。 このため勝重は、武将というより行政官として、家康に重用されるようになる。関東代官、江戸町奉行を経て、関ケ原の戦いの後、京都奉行(京都所司代)に任命された。以降、京都の治安と朝廷対策、西国大名の監視と多岐にわたり活躍した。 慶長8年(1603年)従五位下・伊賀守に叙任され、慶長14年(1609年)には1万6千石で大名に列したのである。 勝重には、重宗(6千石)という優秀な後継者がいて、書院番頭を務めている。また次男に重昌(5千石)もいて、家康・秀忠の側近として活躍している。 勝重は、清廉潔白な人物で、賄賂などは一切受け付けず、裁判は公平であった。名奉行といわれた勝重とその子の重宗、孫の重矩(重昌の子)の三代は、「板倉政要」という判例集にまとめられている。板倉勝重『富岡鉄斎作品総目録』粉本・器玩・書簡編 清荒神清澄寺所蔵,清荒神清澄寺,1983.11.国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/12426229 (参照 2025-08-25)