大僧正天海 ㊳
「家康、殊の外六ケ敷入組みたる公事を能(わざ)と拵させ、勝重の子重宗及び其弟重昌を召し、其席にて判断を申付しに、重昌は承はると直ぐに、理非分明に箇様々々と捌を申し退出せり。重宗は久しく思案の體にて、重ねて理非の落着申上ぐべしと申て退出し、後二三日ありて登城し、右捌を申ししに、重昌申ける趣と同理なり。人々兄に勝る内膳なりとぞ取沙汰しける。」(「名将言行録」)
ある日、家康はわざわざ複雑に入り組んだ公事を拵えて、勝重の長男・重宗と次男・重昌に理非を判断させた。重昌は立ちどころに理非を分別し、すぐに捌きを下したのである。
ところが、重宗はしばらく考え込み、2~3日猶予をもらって、再び登城すると、始めて理非を明らかにした。これが重昌と同じような内容であったので、「兄より弟が勝る。」と人々は口にした。
勝重が京都から江戸に下り、家康からこの話を聞いた。
すると勝重は、「内膳正(重昌)は、若気にて分別なき奴であります。周防守(重宗)の方が御用に役立つでしょう。」と答えた。
家康が理由を尋ねると、「公事を捌くとは仕置の一条にして、仕置は至極大切なものにございます。その一言で下々数千人に迷惑をかけることになります。仮初にも粗忽があってはなりません。周防守は繰り返し分別を極め、慎重に判断を下したのでございます。それに比べ、内膳正は己が才覚を人に見せつけようしたまでで、これでは何の御用も勤まりません。」と勝重は言った。
「重宗父に代はるべき旨命ぜられ、勝重は望みの如く免されたり、重宗頻りに固辞すと雖も、子を知るは父に若かずと云ふこあり。汝が父の薦めなれば辞すること有間敷と言はる。重宗力なく御請して父に対面し、重宗如何でか此任に当たるべき、情けなくも御推挙に預り候もの哉と恨めしかば、父打ち笑ひて、汝はしらずや、世の諺に爆火を子に払ふと云ふことは、此事にて候とこたへしとぞ。」(「同上」)
重宗は秀忠に召されると、「父・勝重に代わり京都所司代に就くよう。」に命じられた。重宗は大いに驚き、「私ごときは父に遠く及びません。何とぞご容赦願います。」と固辞した。
「何を言うか、お前の父の推挙だぞ。親は子を知るものだ。父の推挙を固持するとは、有るまじきことであるぞ。」と秀忠に叱られ、重宗は泣く泣く了承した。
重宗はすぐに父・勝重に面会を求め、「何故、私を御推挙されたのですか。情けない話ですが、何をどうして良いのか、全く分かりません。理由をお聞かせください。」と嚙みついた。
すると勝重は笑いながら、「お前は『爆火を子に払う』という諺を知らんのか。」と聞く。
「さて何のことでしょう。」と重宗が首を傾げると、
「オレはもうすぐ隠居するが、オレの元には、今にも爆発しそうな案件が山のようにあってな。それを預けられるのは、我が子しかおらんのだ。」というと呵々と笑ったのであった。
「重宗、父勝重に代り職務勤むべき由命を蒙りし時、勝重、国光の刀を重宗に贈る。」(「同上」)
勝重は所司代就任にあたり、名刀「国光」を与えた。
「良いか周防守、人を斬るのも、人に斬られるのも、我身を守るのも、人の身を守るのも、刀の徳である。しかしながら、狂人がこれを用いれば、この刀も狂うことになる。決して狂人にこれを与えてはならぬ。
その方はこの刀を側に置き、職務に当たっては慎み深く、この刀を決して狂人に与えぬよう心して、政事を捌くようにせよ。」と申し添えた。この刀とはすなわち「権力」である。
板倉重昌
