大僧正天海 ⑭
大僧正天海 ⑭ 「九月朔日金地院崇伝は、執政より朝鮮国曹参判尹壽民へ返簡の草案をつくりて御覧に備ふ。酒井雅樂頭忠世、本多上野介正純、土井大炊頭利勝、安藤対馬守重信、板倉伊賀守勝重の五人より答ふる所なり。かれより贈遺あれば、これよりも謝物をくるべきやと議せられしかど、答礼に及ぶべからざる旨に定らる。」(「台徳院殿御實紀」) 崇伝により草案された尹壽民への返書を幕閣の5人が審議した。贈り物が添えられていたので返礼すべきか議論となった。これについては「答礼」は不要という事で決した。 9月5日、本多正純と板倉勝重は、朝鮮国王に対する返簡を携えて大徳寺に入った。返簡は、蒔絵の箱に納めて唐織で包んでいた。 朝鮮国王に対する贈り物は、銀・一万五千両、金屏風・十五双、三使に対して銀・五千両、金屏風五双ずつを与え、通事官二人に銀・四千両ずつ、上官二人に銀・千両ずつ、その下諸員に銀・五百枚、従卒に青蚨(銭のこと)十万疋を授けた。 また、礼曹参判・尹壽民には次とおり回答した。 「この度の文禄の役で囚虜となった韓人には、まだ我国に残る者も多いのは事実です。これを帰国させることを求められていますが、帰国したいと思うものはお返しします。しかし、わが国で既に妻子を設け、長くとどまりたいと思うものは、その意志を尊重します。」 6日、秀忠は朝鮮国王から献上された鷹を伏見に在住していた諸大名に分け与えた。また、崇伝に帰途の日時を占わせている。 またこの日、春日神社・興福寺等に御朱印を下されている。 神供田・社家領として1,552石2斗、燈火料・禰宜了として1,651石8斗。一乗院領として1,490石2斗、大乗院領として951石7斗、喜多院領として280石、院家中領として290石、諸院諸坊として7,721石、五帥領・神宮領として3,475石9斗、さらに五帥には学問料として1000石を賜った。この他、五帥には様々の名目で2万1,119石を所管することになった。 ちなみに五帥とは、南都諸大寺などで寺務をつかさどった五人の役僧のことである。 9日には、南禅寺、金地院にも所領を与えられ、11日に、崇伝は伏見城に召され、銀50枚を賜っている。どうやら崇伝は、秀忠の信頼を取り戻したようである。 「大僧正は九月二十六日、般舟三昧院に於て行はるる、後陽成院天皇初月忌の御経供養を勤めたりき、当日は大僧正、之が御導師と爲り、名僧十口之に加はり、三條大納言實條、白河前左衛門督雅朝着座して、其儀最も慇懃鄭重を極めたりけり。」(「大僧正天海」須藤光暉) 崇伝が朝鮮通信使との外交で復権を果たしていたころ、天海は、後陽成上皇を弔い、読経の日々を過ごしていた。 9月26日、天海は後陽成上皇の初月の命日を迎えた。般舟三昧院にて、名僧10名を従えて導師となった天海は、厳かに儀式を取り仕切ったのである。 「大御所様につづき、上皇様までお亡くなりになられるとは…。」 なにやら、人の命の儚さを感じざるを得ない。しかし、その割に天海は80歳を超えても、大病もなく頗る元気である。どうやら儚いのは、自分以外の人間のようである。 崇伝が復権したことを、天海は自分のことのように喜んだ。まるで自分が蹴落としたようで後味が悪かったのだ。もともと崇伝と天海では住む世界が違うのである。 般舟院