大僧正天海 ①

 

【大僧正授任】

 

 

 「7月26日、青蓮院尊純、大僧正ヲ辞ス、武蔵仙波喜多院ノ南光坊天海ヲ之ニ任ズ。」(「史料綜覧」)

 

 天海の上洛を板倉勝重が出迎えた。

 「僧正の言う通り、梵舜の身の回りを調べたが、証拠といえるものは出てこなかった。ただ、方々で願掛けをしていることや、豊国神社での揉め事を思うと確かに潔白とは言い切れない。」と勝重は言う。

 

 京都所司代勝重も既に70歳を超えた。息子たちもそれぞれに活躍しているが、京都では勝重に代わり得る人材などいない。豊国神社の接収にも深く関わっているので、梵舜の不満は良く分かっていたのである。

 

 「うむ、取り敢えず大御所様の儀礼から外したので、まずは一安心だ。伊賀殿にも世話になった。」というと、勝重は頷いた。

 「伝和尚もこの度は迂闊であったな。相当痛い目を見たようだ。」とあまり好意的ではない評価をして、笑ったのである。

 

 とりあえず、二人は関白である二条昭実のところに出向いた。神号の勅許を頂かねばならない。朝廷とは実はなかなか面倒なところで、日頃天海と交流するのはこのためである。

 

 さて、朝廷には殿上人(堂上家)の外に地下家と呼ばれる家系がある。この地下家の筆頭格に押小路家壬生家があった。

 このうち、「官務」と呼ばれる「太政官辨官局」の最高位・左大史が壬生家の生業である。このため「壬生官務家」とも呼ばれた。

 

 彼らの仕事は諸記録を司る事であった。前例主義である朝廷で過去の事例を記録することは重要な職務で、太政官の下級官吏を統率する重要な役職なのである。

 天海勝重は、その壬生孝亮と面談し、遷宮における旧記先例を考証してもらうことにした。

 

 ここまでの手配を終えると、天海は院に赴き、先帝・後陽成上皇のご機嫌を伺った。

 「よう来た、僧正待ちかねたぞ。」と上皇は上機嫌である。

 「例の神号の件、本当に権現が良いのかとの議論もあり、相変わらず話がまとまらん。この際、菩薩名にしてはどうかといい出す始末だ。」というとカラカラ笑うのである。

 「菩薩ですか。」とさすがの天海も面食らった。

 「なんの、なんの、外ならぬ僧正の奏請だ。必ず両部習合の権現神号に落ち着くであろう。」というと満足そうに頷いた。

 「実は先帝(正親町)第二十五回忌があって、来たる正月五日なれど、今その準備に頭を悩ませているのだ。近く僧正にも話があるから良しなに頼むぞ。」というのである。

 

 結局、遷宮先が日光であり、日光権現もあることから、奏上のとおり「権現」が良いであろうとなった。もちろん院の後ろ盾があってのことである。

 ついては両部習合に関する旧記を下賜され、神寶ならびに法具を、中原職忠を通じて辯備させた。

 

 7月27日、天海は御所に召され、大僧正に任ぜられた。使者は上卿として廣橋大納言兼勝職事頭として右大辨廣橋兼賢であった。そして、「先朝正親町天皇第二十五回聖忌」を行うよう命じられたのである。

 

 「翌年正月の大僧正上洛は至難であろうから、御叡念ありて、八月五日に定められた。聖忌の道場は仙道御所である。」とのお達しである。

 「先帝聖忌御経供養大導師ですか。」と勝重も感嘆を隠せない。文字通り朝廷から天下随一の僧侶と認められたのである。

 

二条昭実