南光坊天海 (223)
南光坊天海 (223) 恐らくこれに近い事実はあったのであろう。ただ徳川家は昔から、このような芝居がかったことが好きなのである。 周到な天海という人物が、何の根回しもせず、将軍の前でただ不満を爆発させることなどあり得ない。将軍の側近たちには事前に崇伝の行った儀式が唯一神道のもので、神仏習合ではないことを訴えていたはずである。 だからこの論争を遮ったのは、正純なのである。秀忠側近は最初からこうなる事を知っていたのであろう。 この背景には、江戸幕府の官僚たちと駿府の老臣たちの権力闘争があったと思う。秀忠らは駿府政権を解体し、権力の二重構造を終わらせる必要があった。その象徴が崇伝と正純であったのだ。 二人は秀忠に報告はしたが、幕閣に諮ることはなかった。「家康が生きている」かのように、どんどん葬儀を主導していったのである。 幕閣の者はそれに不満を感じていたはずで、天海の主張を聞き、初めてその手続きの瑕疵に気づいたのである。 宗教家同士の議論という体裁で表沙汰にし、正純が介入して議論は終わったが、恐らく孤立していたのは崇伝と正純であったことだろう。 だから、始めから正純に「天海に遠島を申し付ける。」権限などないのである。それは幕閣で決めることであり、正純が独断できることではない。天海に処分が下されなかっただけでも、正純の面目は失われたのである。 「一、拙老儀当地に罷有、御城へも節々出仕申候、公方様悉上意共、御年寄衆何も御懇意之儀候間、御心安可被思召候、併爰元ういうい数万無案内に御座候故、何事もひかへ申在之事候。此比むさと気相悪敷御座候而、むねのいたみも指出、散々体にて罷居候、此体に御座候者今迄のことく御奉公は難成存事に候、 五月十一日 金地院 細川越州様 尊報 」(「本光国師日記」) これは崇伝が細川忠利に宛てた手紙の一部である。江戸城に登城したが、勝手がわからず、体調不良を来したようである。この原因が天海との論争にあったことは明らかであった。 「相国様御ゆいこんの旨に而、久能に納、神にいわわせられ、吉田代に先神龍院在府故、作法共申沙汰被仕候、御神号は重而勅使可在之通に御座候キ、然所に南光坊何角存分之儀御座候而、少々出入共御座候ツル、拙老は神ならは、吉田可在儀と申し候を、南光坊神道をも存知之様に被申候ツル、一圓我等はかまい不申候。」(「同上」) これは5月12日、板倉勝重に宛てた書状の一部である。 「たまたま梵舜が在府だったから作法を任せたのだが、南光坊と意見の相違があった。南光坊は神道も詳しいそうだから、今後の事は、我らは一切知らない。この事をからかう者もいると聞くが、この度とは関係ないことだ。」と言っている。 「六月十一日、幕府、板倉重昌・武蔵仙波ノ南光坊天海・林永喜ヲ遣シテ、家康ノ爲メニ神号ヲ奏請セシム、是日、重昌等、江戸ヲ発ス。」(「史料綜覧」) 5月26日、秀忠は天海を江戸城に招いた。そして神号を「大権現」に決定したことを知らせた。ここで秀忠は、天海に上洛を命じている。 6月11日、天海は板倉重昌、林永喜とともに、京都に出立したのである。因みにこの林永喜とは、羅山の弟である。児玉幸多, [斎藤忠], 久野健 編『日本史図録』第3 (江戸時代),吉川弘文館,1961.国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/2971771(参照 2025-07-16)