南光坊天海 (205)
南光坊天海 (205)【最期の放鷹】 「廿六日、江戸より御使として土井大炊頭利勝駿府に参り、御密談数刻に及ぶ。」(「台徳院殿御實紀」) 江戸から土井利勝が遣わされた。人払いをして、密談に及んだのであるが、何の話かは明らかである。 「大御所様のこの度のご決断、誠に御尤もと存じます。ただ御所様は、越後高田は、越前と並び加賀候に備える要衝でありませば、このまま越後を忠輝公に任せしてよろしいのか、御懸念しております。やはり、いずれ改易か減封は避けられぬのであるまいか、と存じます。」 利勝は慎重に言葉を選びながらも、処分が甘いことを指摘してきた。確かに越前中将・松平忠直68万石と越後少将・松平忠輝45万石は、加賀少将・前田利常130万石を東西から押さえる要衝の地である。そこを司るのが、大御所から勘当された大名では、何かと支障を来すであろう。秀忠のいう事はもっともである。 「うむ、分かっておる。ただ直ぐに改易だ、減封だといえば、あれは腹を切りかねない。時間をかけて納得させる外あるまい。この件は、御所と直に話そうと思う。」と言い、近々江戸に入府すると約束したのであった。 「廿七日、金地院崇伝京より参り、河内国八尾の眞観寺住職のこと聞えあぐる。」(「駿府記」) 京都から崇伝がやって来た。 「この度の大坂の御陣で、八尾にある真観寺の伽藍が戦火で焼き落ちました。この寺の住職は、代々金地院の長老が勤めることになっております。百年を超える由緒正しき寺院でありますので、何とか再建いたしたく思います。」という。 家康は、「良いだろう。」といって頷くと次のような処置を命じた。 『真観寺境内の山林は守護不入の地とする。この中では鉄砲を撃つことや鷹狩をするなどの、一切の殺生は禁止とする。被官である農民は耕作に励み、怠慢せぬこと、そして無頼の輩に宿を貸してはならない。守護不入の地と定めた以上、誰も課役を命じてはいけない。』 崇伝が礼を言うと、家康は「旧事紀」「古事記」「續日本紀」「文徳實録」「律令」等の書物を搬送し、江戸で新写するように命じたのである。 「廿九日、駿府より大御所関東に赴かせたまふとて、本多上野守正純、松平右衛門大夫正綱、秋元但馬守泰朝、板倉内膳正重昌等供奉し、申刻清水へつかせ給ふ。」(「台徳院殿御實紀」) 9月29日、家康は駿府城を出立した。本多正純、松平正綱、秋元泰朝、板倉重昌ら側近が同行した。 10月朔日、家康は善徳寺に着いた。とくに急ぐ旅でもなく、所々で鷹狩をしている。翌日も善徳寺に延留しているところから、獲物が豊富であったのかもしれない。 家康が三島まで来ると、秀忠は、江戸から歓迎の御使として安藤重信を小田原城番・近藤秀用のもとに遣わした。 大好きな鷹狩を楽しみながらの気楽な道中である。歓迎の準備はとうにできているのに、なかなか到着しない家康に、秀忠は痺れを切らしていた。 4日になると、重信と秀用が小田原から箱根まで迎いに出た。今晩は小田原に泊まるというので、まずは一安心である。すると江戸から酒井忠世が御使としてやって来て、御機嫌を伺った。 5日、ついに家康は相模国中原御殿に着いた。ここは川があり、良い狩場である。夜半に雨が降り、それから6、7日と連泊となった。8日になって、家康一行はようやく藤澤に着いた。9日、神奈川に入ると、何と秀忠自らがお迎えに立ったのであった。「鷹狩図」『新画苑』(4),山田芸草堂,1900-04.国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1566403 (参照 2025-06-28)