南光坊天海 (190)
天正10年(1582年)、織部は利休と出会う。その後、織部が茶会記に初めて記録されたのは、天正11年(1583年)のことであった。つまり茶人としての活動を始めるのは、40歳以降のことなのである。あるいは武人なのに、茶の湯に明け暮れる実父・勘阿弥に反発していたのかも知れない。
織部は、天正6年(1578年)荒木村重謀反の時に、茨木城に赴き、義兄の中川清秀を織田方に寝返らせた。信長は「摂津を鎮定できたのは、ひとえに重然の判断のおかげだ」と激賞したという。
本能寺の変後は秀吉に属し、賤ケ岳の戦いの功績で、従五位下織部助に叙任している。秀吉が関白となった天正13年(1585年)には西ケ岡に3万5千石の所領を授かっている。
そして秀吉死後は、家康に接近し、関ケ原の戦いでは東軍に付き、2代将軍秀忠の茶道指南役になった。
茶人としては、「利休七哲」の一人であり、「武家茶道」の後継者として「織部流」を確立した。
利休が秀吉の勘気に触れ、堺に蟄居を命じられた時、淀の船着き場まで、師匠を見送ったのは、細川忠興と織部の二人であった。多くの弟子は秀吉を恐れたのである。織部はその後も、秀吉に助命を嘆願したが、利休は切腹させられている。
左右対称を良しとした利休に対し、歪みに美を見出した織部の美的感覚は、一世を風靡した。こうして、織部は秀吉の茶頭となり、豪華絢爛たる桃山文化の担い手となったのであった。
織部は、美濃の釜で「織部焼」を造らせ、ひずんだ形や奇抜な「へうげたる(剽げた、奇抜な)」器の一大ブームを起こした。
「静謐」の利休に対して、織部は、「破調の美」を追求し、織部流といわれた将軍・大名の茶の湯の式法を確立したのであった。
慶長4年(1599年)には、「織部ト云茶湯名人」(「多聞院日記」)といわれ、「数寄者の随一」と称されるようになる。その一方で、忠興は作意に満ちた織部の茶の湯を厳しく批判している。
秀忠の茶頭であった織部は、徳川家の繁栄を願うべきであった。しかし、織部は徳川家と豊臣家の共存を望んだのである。
夏の陣に参戦した織部は、秀頼母子が自害した5月7日に捕らえられた。
去る3月30日、織部の茶堂・木村宗喜や薩摩島津家の連歌師が京都所司代に捕らえられていた。宗喜らは、家康らが大坂に出陣したら、二条城に放火する計画があったことを自白していた。
6月11日、織部と息子たちは切腹を命じられた。しかし織部が本気で家康を討とうとしていたとは、どうにも思えないのだ。
「かくなるうえは入り組み難きゆえ、さしたる申し開き、もなし。」
織部は師匠である利休を思い出したことであろう。
「であるならば、天下の宗匠として同じ運命をたどるのも、止むを得まい。」こうして、一言の弁明もなく織部は腹を切った。享年七十三。
12月27日には嗣子の重広も江戸本誓寺で斬首となり、古田家は断絶したのである。
大名としての古田家は途絶えたが、織部の見出した茶道の教え・美意識は現在まで続いている。
渡辺輝人 著『やきもの製作の実際』,
理工学社,1986.5.
国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/pid/12424867 (参照 2025-06-10)
