南光坊天海 (187)
細川忠興の正室は、いうまでもなく細川ガラシャである。つまり、忠隆、興秋、忠利の三人は、いずれも光秀の孫になる。だから家康は、本気で助命したかったのかもしれない。
6月6日、家臣らが落涙する中、東林院で興秋は切腹した。介錯は松井昌永であった。首級が晒されることはなかったという。
もし、本当に興秋が、忠興の内命で大坂城に入ったとするならば、家名存続のためとはいえ、余りにも惨い話である。
「享和二年壬戌六月十五日、天草郡御領の大庄屋、長岡左衛門興道か求に応して、其家伝等を聞しままに書写せるものなり、
肥後高橋司市(町奉行)斎藤権之助(花押)
細川興秋朝臣七世孫長岡五郎左衛門 源興道謹撰之」
ところが、切腹して死んだはずの興秋には生存伝説がある。
天草に宗専という人物がいた。彼は死ぬ間際になって、「私は細川三斎(忠興)の次男・興秋である。」と名乗ったのである。
この宗専を祖とする中村家は、その後、代々大庄屋となり、九代興道の時、家名を「長岡」に改めた。そして上記のような家伝を記したのである。
ここまでなら、よくある生存伝説となるのであるが、ここで動かぬ証拠が出た。熊本美術館が所蔵している「細川忠利書状」の中に、長岡与五郎(興秋)に宛てた書状が存在しているという。日付は元和7年5月21日、つまり興秋の「死後」に書かれた手紙である
内容を大まかに言うと、どうやら興秋は脳梗塞のような病で、手足が一部不自由になったようである。その後、療養して回復したことを喜んでいる。しかし、人質の立場上、ゆっくり湯治させる事は難しいと言っているのだ。この「人質」という意味が良く分からないが、どうやら興秋が生存していたことは確かなようである。書状には、忠利の花押が押されていた。
武家にとって、体面は何より重要であった。このため、表向きの処分と異なる処置をすることが、しばしばあったのであろう。
興秋のような事例は、他にもあったに相違ない。だから「生存説」を無闇に笑い飛ばしてはいけないのである。
「五月廿四日、後藤庄三郎光次に、大坂の金銀を査検すべしと命ぜられ、大坂に遣はさる。」(「台徳院殿御實紀」)
5月24日、家康は後藤光次を大坂に派遣して、金銀を査算させた。6月2日には、光次から報告があり、金二万八千六十枚(金一枚を一両として約30億円)、銀二万四千枚(同じく約25億円)を没収した。
「五月廿七日、榊原遠江守康勝風毒をなやみて俄に卒す。両御所大に驚かせ給ふ。」(「台徳院殿御實紀」)
榊原康政の三男であった康勝は、慶長11年(1606年)に家督を継ぎ、上野館林藩10万石の藩主となった。大坂冬の陣では、鴫野・今福の戦いで、佐竹軍の後詰として活躍した。だが、この時、持病の腫物(痔)が悪化した。
夏の陣においても天王寺・岡山の戦いに参加し、本多忠朝、小笠原秀政ら戦死する激戦の中、奮戦し腫物が裂け、鞍壺に血が溜まったという。それでも戦い続け、京都に引き上げたが、恐らく感染症にでも冒されたか、26歳の若さで急逝した。
この戦いでは、忠勝の子・忠朝も戦死している。偉大な父を持つプレッシャーは大変なものだったのであろう。
康勝には庶子の勝政がいたが、幼少であったため、長兄・大須賀忠政の子・忠次が、榊原家を継いだ。
榊原忠次
