南光坊天海 (192)

 

 

 

 

 「七月七日、伏見城に諸大名を召して、本多佐渡守正信武家の法令を仰出さるる旨を伝へ、金地院崇伝これを読む。」(「台徳院殿御實紀」)

 

 7月2日、金地院崇伝が新しい法令の草案を家康・秀忠の前で披露した。何度も推敲を重ねた最終案であり、両御所に異論はなかった。あとは諸大名の前で公表するのみである。

 

 崇伝にしても「やっとここまで来た。」との安堵感はあるが、まだ手始めでしかない。この後にもっと大きな仕事が待っているのだ。

 

 この日は、天海二条城に上り、天台法問の相伝を授けている。この日以降、天台・真言の法論が続くのである。

 

 7月7日、秀忠伏見城諸大名を集め、正信から「武家の新たな法令」を発布する旨の発言があり、崇伝がその条文・全十三条を読み上げた。

 

 一、文武弓馬ノ道、専ラ相嗜ムヘキ事、左文右武ハ古法ナリ

 一、群飲佚游ヲ制スヘキ事、令條ニ載、厳制殊ニ甚シ所、是亡国ノ基ナリ

 一、法度ヲ背ク輩、国々ニ隠シ置クヘカラサル事、法是礼節ノ基ナリ

 一、国々ノ大名、小名并ヒニ諸給人ハ、各々相抱ウルノ士卒、反逆ヲナシ殺害ノ告有ラバ、速ヤカニ追出スヘキ事ナリ

 一、自今以後、国人ノ外、他国ノ者ヲ交置スヘカラサル事、佞媚之萌ナリ

 一、諸国ノ居城、修補ヲナスト雖、必ス言上スヘシ。況ンヤ新儀ノ構営堅ク停止セシムル事、峻塁浚隍大乱之本ナリ

 一、隣国ノ於テ新儀ヲ企テ徒党ヲ結フ者之バ、早速ニ言上致スヘキ事、旧例ヲ守ラズ、何カ新儀ヲ企テ呼

 一、私ニ婚姻を締フヘカラサル事、夫婚合者陰陽和同之道ナリ

 一、諸大名参勤作法ノ事、其分限隨可キ事

 一、衣装ノ品、混雑スヘカラサル事、綾羅錦繍等之服飾、甚ダ古法ニアラズ

 一、雑人、恣ニ乗輿スヘカラサル事、但公家門跡幷諸出家之衆制限ニアラズ

 一、諸国ノ諸侍、倹約ヲ用イラルヘキ事、厳制ニ令スル所ナリ

 一、国主ハ政務ノ器用ヲ撰フヘキ事、此旨相守ルベキ者ナリ

(各条一部のみ掲載)

 

 法令は、発布しただけでは効果はない。これを守らせ、破ったものには罰を与えなければ、意味がないのである。秀忠という人物は、誠にこれに適した将軍であった。この後、連日のように祝賀の猿楽が催された。

 

 9日、二条城崇伝、天海、勝重が召された。

 家康は、先に後水尾天皇からの勅許により、豊国大明神の神号を廃して、大仏殿の後ろに秀吉の墳墓(五輪石塔)を営み、法号を「国泰院殿雲山俊龍大居士」を贈り、釈法によって供養すべきと命じていた。

 

 一説によると、別当の照高院興意秀頼の密命を受け、両御所を呪詛していたと伝わっている。これが事実であれば、当然死罪である。

 家康は、豊国神社を廃して大仏殿の裏に移し、照高院興意聖護院に遷すこととし、後妙法院門跡常胤法親王大仏殿の住職にした。あらためて寺領千石を与えることにした。この処置に意見を求められた崇伝と天海は、穏便な処置に賛同した。

 

 社殿高台院のたっての願いで残されたが、修理を禁じられ、朽ちるに任せられた。照高院興意も、後年に罪を赦され、白川に照高院を建立し、寺領千石を賜っているので、明白な罪状があったわけではないのであろう。

 

 「五月廿八日、従禁中改元日取之事被仰出候、六月中ニト仰也」(「土御門泰重卿記」)

 

 豊臣家が滅亡すると、家康は朝廷に対して改元を申し入れた。そこで後水尾天皇は6月中の改元を命じたのであった。

 

 

豊国神社