南光坊天海 (209)
「内々竹千代様御元服之儀ニ、勅使も可在之かの様ニ冣前被思召候ツル、しかれども、先代将軍家御元服之時も勅使之沙汰ニ不及候躰、東鑑ニも見へ申候故、其をくニ被成、以後御官位之時ハ勅使被立候。」(「本光国師日記」)
9日家康は、わざわざ江戸にやって来て、竹千代の元服について、京都で行うよう土井利勝に命じていた。
19日には、もう駿府に戻ったようで、崇伝に対しても内々に元服の段取りを調べさせている。さらに崇伝と羅山に「群書治要」の印刷も命じている。
「元和二年正月廿一日駿河の田中に放鷹あり。」(「東照宮御実紀」)
家康は、その二日後には、駿河国田中で鷹狩をしている。田中城は、駿府城から西南に四里程下がったところにあり、現在の藤枝市内にある。
鷹狩を終えて、旅館で寛いでいると、京都から茶屋四郎次郎が参謁にやって来た。この人物は、本能寺で急を告げた初代・清延から数えて三代目の清次である。
家康は四郎次郎から京都の様子を詳しく聞いた。四郎次郎は御用商人であるとともに、京都における情報網の元締めでもあった。
「それで近頃、上方で何か珍しい話はないのか。」と家康は尋ねた。
四郎次郎は少し考えると、「そうですね。」と天を仰いだ。
「そういえば、近頃京阪では、鯛をかやの油で揚げて、その上に薤(ニラ)を磨り潰して載せた『付揚げ』を食べることが流行しております。某も食しましたが、風味があり大層おいしかったです。」というのである。
「折しも榊原内記清久より能浜の鯛を献りければ、即ちそのごとく調理命ぜられてめし上られしに、その夜より御腹いたませ給へば、俄に駿城へ還御ありて御療養あり。」(「同上」)
「おお、そう言えば内記から鯛をもらったばかりであったな。すまぬがお前は台所の者に調理方法を教えてあげてくれ。」と家康は目を輝かした。
「お安い御用にございます。」というと四郎次郎は腕まくりをして、早速厨房に向かったのである。この頃のてんぷらは、油が貴重品であったため、「揚げる」というよりは「炒める」に近かったという。
家康がそわそわして待っていると、四郎次郎と給仕の者が大皿に鯛のてんぷらを載せてやって来た。部屋には美味しそうな香りが充満している。
待ち疲れていた家康はさっそく一口味見をした。
「おお、これは…。」というと目を丸くした。このような料理を食べたことがなかったのである。多少油っぽいものではあったが、薤の風味が何とも香ばしい。
普段、健康には人一倍気を使っている家康なのに、余りにも美味だったので不覚にも食べ過ぎてしまった。当然、揚げ物は胸やけがする。ましてや既に老齢となっていた家康には、なおさら堪えた。
その夜、家康は激しい腹痛に苛まれたのである。その症状は悪化するばかりで、尋常ではなかった。侍医・片山宗哲による投薬を受けたが、一向に改善しなかったのである。「これは大変なことになった。」と近習は、大いに慌てた。
22日になり、家康が田中の旅館で体調を崩したと聞き、駿府から大勢の家臣が馳せ参じた。老臣たちもすぐに江戸城に使者を立てた。
宗哲の投薬が効果を発揮したのであろうか、症状は次第に緩和し、24日には駿府城に帰還することになったのである。
鯛の天ぷら
