大僧正天海 ㉓

 

 

 

 

 「上野介殿も同席となれば、最早申し開きも詮無いことである。こうなれば、某は腹を切る他ないでしょう。御両人も一旦お帰り頂き、正則も申す事をお伝えください。御両人にはご存じの新兵衛聞き届け役としてお付けいたしますので、ご老中の前に差し出しください。」というのだ。

 

 この新兵衛が何者なのか分からない。ただ皆が「御存じ」なので、正則は相当近しい人物なのであろう。

 

 上使の二人は、新兵衛を伴って本丸に戻り、4名の老中に報告をした。

 「上意の中身をつぶさに申し渡しましたところ、上野介殿はいらしたか、と申されます。上野介殿も同席したと申すと、しからば正則切腹する他ありません、間違いなくお伝えするように聞き届け役として、この新兵衛をつけるので、同席させてほしいとのことでございます。」

 

 さて、これを聞いた老中たちは、互いに顔を見合せたまま、一言もない。やがて土井利勝が、「大夫殿も、何かしらの受け答えがあっても良かろうに。」といった。

 

 新兵衛は邸に戻ると、この事を正則に告げた。正則は『そのうち沙汰があるだろう。』と放っておいたのであるが、3~4日しても何の沙汰もなかったのである。

 

 老中たちはすぐに秀忠にこの事を報告した。正純の怠惰でこの事件が起きたのであれば、秀忠は正純を叱るであろうが、その様な痕跡はない。つまり秀忠も了解の上で事は進んでいたのである。

 

 広島藩は西国の大藩である。いきなり正則切腹では、幕府の体制に動揺を生じかねない。よって老中四人は処分に慎重であった。

 

 実は、正則を最も排除したかったのは、外ならぬ秀忠であった。秀忠は、この「戦国の申し子」ともいえる正則を嫌悪していて、危険視していた。いずれこの者を取り除くことで、家康との合意していたのである。

 

 正則は、関ケ原の戦いで大きな功績を挙げた。正則の働きがなければ、家康は天下をとれなかったであろう。ところが、正則はその功を盾に取り無理を通そうとするところがあった。中でも有名なのは「伊奈事件」である。

 

 慶長5年(1600年)、関ケ原の戦いの後、伊奈昭綱山城国日岡の関を守備していた。そこへ、正則の家臣の佐久間嘉右衛門伏見城への使者として関所を超えようとしたのである。ところが、佐久間が通行証を持っていなかったため、関所の守衛は通過を認めなかった。これに佐久間が抗議をしたため、守衛は佐久間を杖で打ち据えたのである。面目を失った佐久間は、帰陣すると正則にこの事を報告し、自害したのであった。

 

 これに正則は激怒した。家康佐久間の首を送り付けると、当事者の処分を求めたのである。

家康は、昭綱の家臣を処刑すると、その首を正則に送り届けたのであるが、正則はこれに納得しなかった。なんと責任者である昭綱の切腹を要求してきたのである。

 昭綱はこの件で何度も正則に謝罪していた。しかし正則の怒りは収まらなかったのである。すると昭綱は、「ここに至っては、致し方ありません。」といって、潔く切腹したのである。

 

 正則は、家臣の名誉を守り、満足であったかも知れない。だが、家康はどうであったか、自分の大切な家臣を守ることができなかったのである。昭綱には子がいなかったため、伊奈家は断絶となった。この時の家康の無念さが、正則には理解できなかったのであろう。

 

福島正則