大僧正天海 ㉙

 

 

 

【広島城収公】

 

 正則津軽に転封するという事は、津軽藩の津軽信枚も国替えになるという事である。この内示に信枚は仰天した。信濃国川中島10万石に転封するというのである。

 

 幕閣は、津軽のような寒冷で辺鄙な土地より、加増の上、信濃国移封であれば、喜ぶであろうと考えていたようだ。しかし信枚にとって津軽は生まれ育った故郷である。それに津軽藩は、表高こそ四万五千石であるが、新田開発が進んでいて、実高は10万石以上であった。

 

 「これは大変なことになった。国替の費用も莫大にかかるうえ、実質減封では敵わん。」と頭を抱えたのである。

 

 信枚は家督相続の際、何かと助力を受けた天海に帰依し、天台宗に改宗している。

 津軽騒動でも改易の危機を助けてもらい、さらに北方警備を名目に幕府の特別な許可を得て、五層の天守を持つ弘前城を建築している。

 また、徳川家と接近するために慶長18年(1613年)に、松平忠良の娘を家康の養女・満天姫として正室に向かえている。このとき嫁ぎ先に信枚を推挙したのも、やはり天海であった。

 

 「こうなっては、もはや大僧正におすがりする他あるまい。」と信枚と考え、天海のもとを訪れたのである。

 

 「既に内示が出ておりますか。」と天海は難しい顔をした。

 幕府の面子をつぶさぬようにするには、知恵が必要だ。正室・満天姫からも要望を出させているが、搦め手からも工作が必要である。

 

 「取り敢えず、しっかりと転封の準備をしつつ、幕府の沙汰を待つほかないでしょう。」と天海は言った。信枚は、止むを得ず移転費用を佐竹家から借りる算段をしたのである。

 

 天海は、秀忠に対し「左衛門大夫殿は、騒ぎも起こさず、素直に国替えに応じられました。ただ、津軽の地は余りにも僻遠で寒冷地であれば、お年を考えると哀れでなりません。」というと、秀忠も同意した。

 

 「私たちもかなりの反発があるものと覚悟していた。しかし、こうなるとさすがに老将に津軽に行けというのは、可哀そうであるか。」と頷いた。

 

 「大僧正は確か、津軽家とは親しかったな。」と秀忠がいうので、

 「はい。」と頷くと、「公命と有れば、すでに家中を挙げて転封のご準備をなさっておられますが、何分先祖代々の地であれば、家臣は心の中で涙しているようです。」と天海は言う。

 秀忠は、少し難しい顔をしたが、「うむ、大僧正の願いと有れば、一度諮ってみよう。」といった。

 

 「是月(六月)幕府、陸奥弘前城主津軽信枚ヲ信濃川中島ニ移サントス、尋デ、信枚ノ内願ニ依リ、其命ヲ停ム。

 (七月)二日、幕府前命ヲ停メ、前安芸広島城主福島正則ヲ信濃川中島ニ移シ、四万五千石ヲ與ヘ、高井野村ニ蟄居セシム。」(「史料綜覧」)

 

 7月2日、福島家に対して、「陸奥国津軽はあまりに遠いので、信濃国川中島に変更する。」との奉書が発せられた。井忠世、本多正純、土井利勝の連署である。御使として寺沢広高、牧野忠成、花房正成が派遣された。

 領国は越後魚沼二万五千石、信濃川中島二万石で併せて四万五千石である。但し、正則と嫡子・忠勝は高井野村で蟄居となったのであった。

 

 「(六月)廿日、芸備両州の御使にさされたる安藤対馬守重信、永井右近大夫直勝へ老臣連署の下知状を授く。」(「台徳院殿御實紀」)

 

 老中・安藤重信永井直勝、戸川達安安芸・備後国収公のため、広島城に派遣された。重信忠隣改易の時、小田原城の受取りの担当していた。

 

 

弘前城