大僧正天海 ㊼
「津市史」によると、この時高虎は大坂城にいた。
「よろしいのですか、石垣の補修など、わざわざ殿に御足労いただくまでもありません。」と吉親は、心配そうに問うた。
「今更だな。」と高虎は淡泊に答える。
秀忠からも、『先導』するよう頼まれたが、眼が不如意で断ったという。
「おめでたい御入内の日に、先頭で落馬でもしたらどうする。」と高虎は笑いながら話す。
「まさか、でございましょう。」と吉親はあきれたように答えた。
藤堂家は、大坂城普請で6か所の石垣補修を担当していた。なかでも、京口の高石垣は難工事で、高虎も苦戦していたのである。そこで、伊藤吉左衛門ら60名を警護として京都に派遣したものの、本人はついに行かず仕舞いであった。
『あれほど苦労した入内を一目見なくて良いのだろうか。』と吉親は、どうにも納得がいかない。
「ああいう馬揃えは、直孝や重宗といった若い大名の方が見栄えがいい。オレのような爺の出る幕ではない。」というのだ。
『不思議なお方だ。普通なら自分の手柄を誇示したがるものであるが、あくまでも裏方でいたいようだ。これが大御所様からご信頼された理由なのであろう。』と吉親は思うのである。
高虎は、満身創痍で字も碌に欠けない。右手の指の先端が欠落しているのだ。爪がないのに槍を握るので、指先には硬いタコができている。これで槍は握れるようになったが、筆を持つのは苦手である。
『これまで生きておられるのが不思議なほどである。』と吉親は感嘆した。
「廿五日武家の輩とりどり御祝物ささぐ。酒井雅樂頭忠世、土井大炊頭利勝はじめ、内にも、女御の御方にも刀給はり。女御の御方よりも、金に御衣そへてかづけられ、女院よりも時服下さる。」(「台徳院殿御實紀」)
この豪華な輿入れにかかった費用は、70万石といわれている。秀忠の脳裏には「千姫」の輿入れがあったはずで、「豊臣家」を上回る必要があったのであろう。
一つの逸話がある。和子を乗せた二疋引きの牛車が御所の門に入ったとき、女官たちが現れ、「先例により車中を拝見いたします。」といって、牛車に近づいてきた。すると、護衛の侍が馬上から大音声で怒鳴りつけた。
「何人も牛車に近づいてはならぬ。女御様の御車は、このまま禁中に入られる。強いて申すならこの場で斬り捨てる。」といって、太刀に手を掛けた、という。女官たちは震え上がり、退いた。
この侍が「藤堂高虎」だというのだ。しかし、先に記したように、高虎は大坂城にいて、上洛していないので人違いであろう。似たような事実があったのかも知れないが、その侍は高虎ではない。
さて、後水尾天皇は、初めて和子を見て驚いた。
「関東からやってくるというから、どのような、むくつけき女子かと思いきや、これほど美しい姫であったとは。」と瞠目したという。
考えてみればわかる話であろう。徳川和子は、戦国一の美女といわれた「お市の方」の孫娘である。お江は、東国風を嫌い、京都から侍女、女中を集めた。お福も三条西家の猶子で行儀作法を身に着けていた。
入内すると和子は、名の読みを(カズコ)から(マサコ)に変えた。宮中は名前につく「濁音」を嫌うからだという。
男とは勝手なもので、帝は可憐にして、清楚、賢明なこの女性を愛して、二男四女をもうけている。何とも哀れなのは於与津局ばかりである。
ひな祭りの牛車
