大僧正天海 (74)
三宅重利は、明智秀満と倫子の子である。
重利は、叔母に当たる細川ガラシャを頼って細川家に仕官した。この時、ガラシャの影響で切支丹になったという。ガラシャの遺言によると、関が原の戦いまでは細川家にいたようである。
ガラシャの死後、細川家を去り、寺澤家に仕えた。理由は不明であるが、恐らく、信仰の関係ではないかと思う。
一般的には、寺澤家に仕官したのは、「光秀の家臣であった天野源右衛門(安田国継)」の縁である」といわれるが、どうにも嘘くさい。何故なら、この時すでに天野は死んでいるのである。
実は、寺澤広高の正室は「妻木貞徳の娘」であり、彼女は忠晴・堅高の母である。そして重利の正室は「妻木範煕の娘」だという。この妻木範煕とは、光秀の正室・煕子の父・妻木(明智)広忠のことであろう。するとこれでは、重利と世代が合わないのである。
寺澤家と妻木家は、明智家・三宅家との関係をあまり公にしたくなかったのであろうか。曖昧さは残るが、寺澤家と三宅家が、妻木家を介して縁戚であることは分かる。
仕官当初、300石であった重利は昇進を重ね、40歳にして富岡城代にまで出世し、天草一円の郡代を支配した。本人の石高は3千石、家臣を含めると7千石、与力衆を加えると、1万500石であったというから、ちょっとした大名並である。
「元和八年十一月三日小姓組を六隊として所属を分たしむ。」(「台徳院殿御實紀」)
秀忠は、小姓組を六隊に定め、その所属を明確にした。
〇 井上正就(老中)に属するもの
一隊 組頭 本多美作守忠相
〇 永井尚政(老中)に属するもの
二隊 組頭 酒井下総守忠正
〇 青山幸成(書院番頭・評定衆)に属するもの
三隊 組頭 秋山季次
〇 松平正綱(勘定方首座)に属するもの
四隊 組頭 太田采女正資宗
〇 板倉重昌(京都所司代)に属するもの
五隊 組頭 鳥居讃岐守忠頼
〇 秋元泰朝(近習)に属するもの
六隊 組頭 三浦山城守重次
「(元和九年二月十三日)この日、上杉中納言景勝卿の長子喜平治定勝、従四位下侍従に叙任し、弾正大弼に改む。」(「同上」)
会津120万石から米沢30万石に減封になった上杉家は、直臣は解雇しなかったため、極めて困窮した。(但し、浪人足軽軽卒などは解雇している。)
それでも、新たな土地の開墾や、青苧と呼ばれる衣料用繊維の開発で、実高50万石といわれるほど藩内を開発整備した。
慶長9年(1604年)には、待望の男子・玉丸(定勝)が誕生している。景勝49歳にして、ようやく父になったのであった。
慶長19年(1614年)には、大坂冬の陣で大功を挙げる。特に鴫野の戦いでは、武家の名門・上杉家の名を天下に知らしめたのであった。
「(元和九年五月)六日、出羽国米沢城主上杉中納言景勝卿卒しかば、長子・弾正大弼定勝に原封三十万石を襲しめらる。」(「同上」)
嫡男・玉丸を秀忠に謁見させ、上杉弾正大弼定勝と改めた。すると、安心したのであろうか、元和9年(1623年)3月20日、景勝は米沢城で逝去したのである。享年69であった。
遺領(米沢30万石)は定勝が継いだ。
