高知の旅
今回は、高知初上陸!
まず、向かったのは、長宗我部元親の初陣時に御参りしたと伝わる若宮神社。
元親の銅像と、元親の長男で、九州で戦死してしまった信親と共に戦死した武将の名前が刻まれている。
元親は、姫若子と呼ばれていたが、初陣を期に、鬼若子と呼ばれ、土佐を統一。そして、弟であり勇将の誉れ高かった吉良親貞と、知将として有名な、香宗我部親泰の助けもあり、四国を
統一。その直後、豊臣秀吉の四国征伐が始まり、10万の大軍と、装備の違いになす術も無く敗退。土佐一国に削られる。
その後、島津征伐のため、九州に出陣。
九州出陣時、この若宮神社参拝で、軍旗が折れ、不吉として出陣を見合わせる話が行われたが、元親は、吉兆として出陣。信親は戦死。跡継ぎを失った元親は、能力の高かった次男の香川親和をさしおいて、四男の盛親を家督に指名。
それによって家は乱れ、弟である吉良親貞の嫡男であり、それまで功のあった吉良親実をはじめ、多くの粛清者を出してしまう。あげくに、勇将でもあった次男、香川親和は、餓死。三男の津野親忠は幽閉される。
四国では有名な妖怪・怪異である「七人みさき」はこの親実とその主従の無念の死がモデルであるとも言われる。
そして、四男、盛親は、西軍につき、土佐に逃げ帰る。その際、兄の津野親忠は、旧知の藤堂高虎から井伊直政を通じて徳川家康に謝罪し、本領安堵をしてもらうように取り付けようとしていた。
しかし、側近であった久武親直が「親忠が藤堂高虎と謀って土佐の半国を支配しようとしている」と讒言したため、暗殺された。親忠を殺したことにより、盛親は「兄殺し」として家康に咎められ長宗我部氏は改易されてしまう。
久武親直は、その兄でもあり、南伊予方面の軍を担当する総指揮権(伊予軍代)の久武親信から、常々危惧を抱かれており、
岡本城攻防戦で討死する直前、長宗我部元親に向けて「弟の彦七(親直)は腹黒き男ゆえ、お取立て召されるな」と言い残したと言われている。「自分が戦死しても、御家の害になるので弟に後を継がせないように」と言う意味だ。
結局、この弟は、その後、肥後の加藤清正に仕えたが、その変節ぶりを激しく非難されている。
ここに翻る長宗我部の旗と、信親の慰霊碑は何を思って見つめているだろうか。
結局、その後入府してきた山内一豊の政策により、土佐は、全国から見て著しい厳しい身分差別
が行われ、長宗我部滅亡が、長宗我部遺臣たちの子孫による幕末の討幕につながってしまったのであった。


若宮神社の近くに、桂浜がある。
桂浜には、坂本竜馬館と、銅像もあり、また、闘犬博物館で実際に土佐闘犬を見ることもできる。浜自体も美しく、大きな公園となっている。


坂本竜馬を語るには、まず、吉田東洋と言う人物を語らねばなるまい。
吉田東洋は、参政として強力に藩政改革を主導した。法律書「海南政典」を定め、門閥打破・殖産興業・軍制改革・開国貿易など、富国強兵を目的とした改革を遂行する。
また、高知郊外に私塾(少林塾)を開き、後藤象二郎や福岡孝悌、岩崎弥太郎などの若手藩士に教授している。
彼は公武合体派であった。そのため、尊皇攘夷の土佐勤王党によって暗殺されてしまう。
吉田東洋が何故公武合体であったのか。それは、政治を知っている人間が幕府であり、朝廷や勤皇を進める派の方々だけで政治を行うことの危うさを良く認知していたからであると思う。
生まれが貧しいものは、歴史を見ている限り、どうも、過激な発想に進みがちだ。
ゆったりとしていない。時としてその情熱が国家を揺るがしてしまう。
世間では、土佐勤王党をいわゆる”良いもの”として扱う場合が多いように思えるのだが、我々に言わせれば、視野が狭く、過激で、政治を知らぬ情熱だけで進んだ方々であったと見ている。土佐勤王党自体、岩倉具視の私的な野望の前に、利用されたのであろう。
同じく、公武合体派であった坂本竜馬は、暗殺されている。彼も、周囲を広く見る目があったのであろう。惜しまれることだ。
そして、明治維新において、幾つかの遠回りと、現在の日本に至る道が出来てしまったのは悔やまれてならぬ。政治が一度途切れてしまい、その能力や見識が引き継がれなくなって、現在の政治状態になってしまっている。
子供の頃から政治を意識しておらず、苦しみを味わってないものに、政治は難しすぎるのではないだろうか?

次は高知城。山内一豊が、その象徴として築いた城だ。
長宗我部氏の遺臣たちが残る土佐では、常に不穏な空気がただよっていた。
それを一新するために、建築したとされる。


城の上では、アイスクリーム屋の屋台が出ている。結構美味しい。
そして、岡豊城跡 歴史民俗資料館に向かう。ここでは、長宗我部氏の資料が並ぶ。
一度滅んでいるだけあって、その資料は少数であるが、見所は満載である。岡豊城は長宗我部氏の居城であった。

そして、土佐一宮の土佐神社。

祭神は味鋤高彦根神、一言主神であり、古来より賀茂氏により祀られていた神。
賀茂氏の同族が土佐国造に任ぜられたことから当地で祀られることになったものとみられている。
社伝では、祭神は古くは高鴨神と呼ばれており、元は大和の葛城山に坐していた。その後雄略天皇の怒りに触れて土佐に流され、はじめは幡多郡の賀茂社、そののち土佐神社へ移ったとされる。
とすれば、古代豪族の葛城氏の系統と言うことになる。葛城氏は、一言主神を当時祀っており、武内宿禰の子孫とされている。
余談を言うと、
古代の葛城氏は、葛城襲津彦の時代に全盛を迎え、
襲津彦の娘の磐之媛は仁徳天皇の皇后となり、履中・反正・允恭の3天皇を生み、葛城葦田の娘、黒媛は履中天皇の妃となり、市辺押磐皇子などを生んだ。押磐皇子の妃で、顕宗天皇・仁賢天皇の母である荑媛は、葛城蟻臣の娘とされ、さらに大臣として権勢を誇った葛城円の娘、韓媛は雄略天皇の妃として、清寧天皇を儲けている。仁徳より仁賢に至る9天皇のうち、安康天皇を除いた8天皇が葛城氏の娘を后妃か母としている。
雄略天皇により、葛城円の大臣が滅ぼされるまで、その隆盛が続いた。
さて、余談が過ぎたが、土佐と言えば、カツオなどが有名だが、実は、うなぎが美味。
焼き方が違うようだ。皮をぱりっとするまで焼き上げ、身はふっくらしている。
早速、うなぎの食べれる店を探す。
我々が行ったのは、「うなぎ 北本」と言うお店。良心的な値段で、言われるように美味しいうなぎを食する事ができた。


そして、日本三大鍾乳洞である龍河洞へ向かう。
あとの二つは、山口の秋芳洞と、岩手の龍泉洞だ。両方行った事があるので、ついに、日本三大鍾乳洞を制覇!
中は涼しく、探検気分。古代人が住んでいた跡として、弥生式土器が埋まっているところもある。


最後に、室戸岬へ。
あの台風情報で中継されるのはここである!上から見える景色は美しく、海岸線も見所がある。
ここには、中岡慎太郎の銅像があったりもする。
彼は、坂本竜馬のNo2として、活躍した人物である。
ここに到着したのは18:30.さぁ、帰ろうと言ったのは19:10頃である。
ここへは友人が一緒であり、彼は終電が、岡山に22:00と言う。
香川県の坂出なら、21:20頃。ここ室戸岬から、坂出まで、120キロ。しかも、一般道で高知付近まで30キロ、その後、高速で90キロある。その後どうなったかは御想像にお任せしたい。


まず、向かったのは、長宗我部元親の初陣時に御参りしたと伝わる若宮神社。
元親の銅像と、元親の長男で、九州で戦死してしまった信親と共に戦死した武将の名前が刻まれている。
元親は、姫若子と呼ばれていたが、初陣を期に、鬼若子と呼ばれ、土佐を統一。そして、弟であり勇将の誉れ高かった吉良親貞と、知将として有名な、香宗我部親泰の助けもあり、四国を
統一。その直後、豊臣秀吉の四国征伐が始まり、10万の大軍と、装備の違いになす術も無く敗退。土佐一国に削られる。
その後、島津征伐のため、九州に出陣。
九州出陣時、この若宮神社参拝で、軍旗が折れ、不吉として出陣を見合わせる話が行われたが、元親は、吉兆として出陣。信親は戦死。跡継ぎを失った元親は、能力の高かった次男の香川親和をさしおいて、四男の盛親を家督に指名。
それによって家は乱れ、弟である吉良親貞の嫡男であり、それまで功のあった吉良親実をはじめ、多くの粛清者を出してしまう。あげくに、勇将でもあった次男、香川親和は、餓死。三男の津野親忠は幽閉される。
四国では有名な妖怪・怪異である「七人みさき」はこの親実とその主従の無念の死がモデルであるとも言われる。
そして、四男、盛親は、西軍につき、土佐に逃げ帰る。その際、兄の津野親忠は、旧知の藤堂高虎から井伊直政を通じて徳川家康に謝罪し、本領安堵をしてもらうように取り付けようとしていた。
しかし、側近であった久武親直が「親忠が藤堂高虎と謀って土佐の半国を支配しようとしている」と讒言したため、暗殺された。親忠を殺したことにより、盛親は「兄殺し」として家康に咎められ長宗我部氏は改易されてしまう。
久武親直は、その兄でもあり、南伊予方面の軍を担当する総指揮権(伊予軍代)の久武親信から、常々危惧を抱かれており、
岡本城攻防戦で討死する直前、長宗我部元親に向けて「弟の彦七(親直)は腹黒き男ゆえ、お取立て召されるな」と言い残したと言われている。「自分が戦死しても、御家の害になるので弟に後を継がせないように」と言う意味だ。
結局、この弟は、その後、肥後の加藤清正に仕えたが、その変節ぶりを激しく非難されている。
ここに翻る長宗我部の旗と、信親の慰霊碑は何を思って見つめているだろうか。
結局、その後入府してきた山内一豊の政策により、土佐は、全国から見て著しい厳しい身分差別
が行われ、長宗我部滅亡が、長宗我部遺臣たちの子孫による幕末の討幕につながってしまったのであった。


若宮神社の近くに、桂浜がある。
桂浜には、坂本竜馬館と、銅像もあり、また、闘犬博物館で実際に土佐闘犬を見ることもできる。浜自体も美しく、大きな公園となっている。


坂本竜馬を語るには、まず、吉田東洋と言う人物を語らねばなるまい。
吉田東洋は、参政として強力に藩政改革を主導した。法律書「海南政典」を定め、門閥打破・殖産興業・軍制改革・開国貿易など、富国強兵を目的とした改革を遂行する。
また、高知郊外に私塾(少林塾)を開き、後藤象二郎や福岡孝悌、岩崎弥太郎などの若手藩士に教授している。
彼は公武合体派であった。そのため、尊皇攘夷の土佐勤王党によって暗殺されてしまう。
吉田東洋が何故公武合体であったのか。それは、政治を知っている人間が幕府であり、朝廷や勤皇を進める派の方々だけで政治を行うことの危うさを良く認知していたからであると思う。
生まれが貧しいものは、歴史を見ている限り、どうも、過激な発想に進みがちだ。
ゆったりとしていない。時としてその情熱が国家を揺るがしてしまう。
世間では、土佐勤王党をいわゆる”良いもの”として扱う場合が多いように思えるのだが、我々に言わせれば、視野が狭く、過激で、政治を知らぬ情熱だけで進んだ方々であったと見ている。土佐勤王党自体、岩倉具視の私的な野望の前に、利用されたのであろう。
同じく、公武合体派であった坂本竜馬は、暗殺されている。彼も、周囲を広く見る目があったのであろう。惜しまれることだ。
そして、明治維新において、幾つかの遠回りと、現在の日本に至る道が出来てしまったのは悔やまれてならぬ。政治が一度途切れてしまい、その能力や見識が引き継がれなくなって、現在の政治状態になってしまっている。
子供の頃から政治を意識しておらず、苦しみを味わってないものに、政治は難しすぎるのではないだろうか?

次は高知城。山内一豊が、その象徴として築いた城だ。
長宗我部氏の遺臣たちが残る土佐では、常に不穏な空気がただよっていた。
それを一新するために、建築したとされる。


城の上では、アイスクリーム屋の屋台が出ている。結構美味しい。
そして、岡豊城跡 歴史民俗資料館に向かう。ここでは、長宗我部氏の資料が並ぶ。
一度滅んでいるだけあって、その資料は少数であるが、見所は満載である。岡豊城は長宗我部氏の居城であった。

そして、土佐一宮の土佐神社。

祭神は味鋤高彦根神、一言主神であり、古来より賀茂氏により祀られていた神。
賀茂氏の同族が土佐国造に任ぜられたことから当地で祀られることになったものとみられている。
社伝では、祭神は古くは高鴨神と呼ばれており、元は大和の葛城山に坐していた。その後雄略天皇の怒りに触れて土佐に流され、はじめは幡多郡の賀茂社、そののち土佐神社へ移ったとされる。
とすれば、古代豪族の葛城氏の系統と言うことになる。葛城氏は、一言主神を当時祀っており、武内宿禰の子孫とされている。
余談を言うと、
古代の葛城氏は、葛城襲津彦の時代に全盛を迎え、
襲津彦の娘の磐之媛は仁徳天皇の皇后となり、履中・反正・允恭の3天皇を生み、葛城葦田の娘、黒媛は履中天皇の妃となり、市辺押磐皇子などを生んだ。押磐皇子の妃で、顕宗天皇・仁賢天皇の母である荑媛は、葛城蟻臣の娘とされ、さらに大臣として権勢を誇った葛城円の娘、韓媛は雄略天皇の妃として、清寧天皇を儲けている。仁徳より仁賢に至る9天皇のうち、安康天皇を除いた8天皇が葛城氏の娘を后妃か母としている。
雄略天皇により、葛城円の大臣が滅ぼされるまで、その隆盛が続いた。
さて、余談が過ぎたが、土佐と言えば、カツオなどが有名だが、実は、うなぎが美味。
焼き方が違うようだ。皮をぱりっとするまで焼き上げ、身はふっくらしている。
早速、うなぎの食べれる店を探す。
我々が行ったのは、「うなぎ 北本」と言うお店。良心的な値段で、言われるように美味しいうなぎを食する事ができた。


そして、日本三大鍾乳洞である龍河洞へ向かう。
あとの二つは、山口の秋芳洞と、岩手の龍泉洞だ。両方行った事があるので、ついに、日本三大鍾乳洞を制覇!
中は涼しく、探検気分。古代人が住んでいた跡として、弥生式土器が埋まっているところもある。


最後に、室戸岬へ。
あの台風情報で中継されるのはここである!上から見える景色は美しく、海岸線も見所がある。
ここには、中岡慎太郎の銅像があったりもする。
彼は、坂本竜馬のNo2として、活躍した人物である。
ここに到着したのは18:30.さぁ、帰ろうと言ったのは19:10頃である。
ここへは友人が一緒であり、彼は終電が、岡山に22:00と言う。
香川県の坂出なら、21:20頃。ここ室戸岬から、坂出まで、120キロ。しかも、一般道で高知付近まで30キロ、その後、高速で90キロある。その後どうなったかは御想像にお任せしたい。


滋賀の旅
滋賀県は、旧く、近江朝廷が置かれ、源義仲が敗走した際に北国へ逃れるために使った土地でもあり、安土城が築かれるなど、交通の要衝であった。
また、近江商人(西川家:ただし我々とは別の流れ。)が栄えた土地でもある。
その土地で現在でも有名なのが、彦根城。ここは徳川四天王、井伊家が治めた土地である。
その話は、http://ameblo.jp/boxster/entry-11193544519.htmlに掲載している。
近江朝廷や、源義仲の話はまた次回にしようと思う。
彦根城近くには、千成亭伽羅と言う近江牛の店がある。近江牛肉 鉄火丼御膳を早速頂く。

そして、我々が向かったのは、多賀の河内風穴だ。
多賀には、多賀大社があり、お参りもすませていく。
洞窟の出入り口は高さ1m程度で我々は頭上を気にしないと入れないほど小さいが、内部は4層に分かれていて広大。探検気分で、更に、とても涼しい。
涼みに行くのなら最適だ。
その昔、地元の村人が洞内に犬4頭を放して洞口を閉ざしたところ、1頭は死に、残りの3頭は鈴鹿山脈の向こう側の伊勢に現れたとの口伝が残っているようだ。
総延長はどのくらいなのか、想像もつかない。我々が立ち入れる場所はさほど長くはないが、それでも、結構広い。




また、近江商人(西川家:ただし我々とは別の流れ。)が栄えた土地でもある。
その土地で現在でも有名なのが、彦根城。ここは徳川四天王、井伊家が治めた土地である。
その話は、http://ameblo.jp/boxster/entry-11193544519.htmlに掲載している。
近江朝廷や、源義仲の話はまた次回にしようと思う。
彦根城近くには、千成亭伽羅と言う近江牛の店がある。近江牛肉 鉄火丼御膳を早速頂く。

そして、我々が向かったのは、多賀の河内風穴だ。
多賀には、多賀大社があり、お参りもすませていく。
洞窟の出入り口は高さ1m程度で我々は頭上を気にしないと入れないほど小さいが、内部は4層に分かれていて広大。探検気分で、更に、とても涼しい。
涼みに行くのなら最適だ。
その昔、地元の村人が洞内に犬4頭を放して洞口を閉ざしたところ、1頭は死に、残りの3頭は鈴鹿山脈の向こう側の伊勢に現れたとの口伝が残っているようだ。
総延長はどのくらいなのか、想像もつかない。我々が立ち入れる場所はさほど長くはないが、それでも、結構広い。




福井の旅
福井県は、古くは越の国の一部であり、敦賀の氣比神宮から船出し日本海を北上して、羽咋の気多大社を経て、さらに弥彦神社がある弥彦山を右手に見るまでを一つの地域として「越」と呼んだようである。
継体天皇が治めていた領国でもあり、紀元前の孝元天皇の第1皇子、四道将軍の大彦命に平定される前の「越」は阿彦王国とも言われ豪族阿彦に支配されていたとされている。
7世紀末に越前の国となった。室町時代には、管領斯波氏の領国となる。その後、戦国時代の争乱から、朝倉氏が台頭。越前を実行支配する。
朝倉氏というと、織田信長との戦いで有名な、朝倉義景であるが、彼の人生は、生まれてきた時代と家が悪かったと思えるばかりである。
その朝倉氏の居城が一乗谷だ。今は以下のように遺跡として公開されている。


朝倉義景の一生は、戦いの連続だった。しかも、事跡からは、彼の性格には不向きであったと思われる。
前半生は、一向一揆との戦いの日々であった。
特に永正三年(1506年)の一向一揆では、絶対絶命のピンチを迎える。
加賀国・越中・能登の一向宗門徒が越前で起こった一向一揆に加勢するため越前甲斐氏の牢人衆らと合流し越前へと侵攻を開始した。これを迎え討つため、朝倉宗滴を総大将とする朝倉・他門徒の連合軍が九頭竜川一帯で対峙した。
これは九頭竜川の戦いと言われる。この時一向宗勢力は30万を上回る勢力で、朝倉軍は全軍あわせても1万1000ほどであった。最終的には朝倉宗滴の活躍もあり、朝倉軍は勝利を収めた。
この後も、一向一揆との戦いは続き、1567年にようやく、和睦がなったのである。
しかし、その平和は長く続かなかった。
1568年、織田信長は、将軍足利義秋の名で、朝倉氏に上洛を要請した。
しかし、これを義景は拒否する。義景が信長に従うことを嫌ったためと言う側面もあるが、それよりもむしろ上洛することで朝倉軍が長期間に渡って本国・越前を留守にする不安から拒否したとされている。当然であろう。
しかし、織田領である美濃と京都間に突き出された槍という位置から義景を服属させる必要があった信長にとって、これは好都合であった。これが政治である。
ついに、1570年、朝倉義景はに叛意ありとして越前出兵され、朝倉義景は織田信長・徳川家康の連合軍に攻められることとなる。
朝倉義景は、愛息の相次ぐ死に、領国経営のやる気をなくし、家臣の信頼を損ねていた。
愛妾の小少将とほとんどの時間を過ごしていたと言う。
しかも、自領が攻撃されたとき、浅井氏が朝倉方に加わったことで、一時的に難を逃れるも、
危機感に乏しく、浅井氏と共に戦った、姉川の戦いでは、朝倉軍の総大将は義景ではなく、一族の朝倉景健であり、兵力も8000人と全力で戦ってはいない。浅井・朝倉軍は1100余の損害を出したが、損害自体は軽微であったが、浅井氏の支城を多く失い、戦略的にかなり不利になってしまった。勇将で佐和山城にこもっていた磯野員昌も降伏するなど、有力家臣を失った。
朝倉氏単体で考えたら、特に痛手ではなかったように思えたかもしれないが、浅井氏にとっては苦しいものになり、それはつまり、全体としてかなり不利になった事を意味した。
戦略上の失敗は、戦術ではぬぐいきれないのである。
三ヵ月後、浅井軍と共同し、織田本軍が石山本願寺に出向いている隙をついて、近江坂本に侵攻し、信長の弟・織田信治と信長の重臣・森可成を敗死に追い込んだ。さらに大津で焼き働きするなどしているが、少し遅い。
しかも、甲斐の武田信玄が西上作戦を開始し、織田包囲網が築かれた際、これからと言う時に、勝手に撤兵し、武田信玄から叱り飛ばされ、再出兵を求められている。
そこで、武田軍が停滞。武田信玄は本願寺を通じて、再出兵を促すも朝倉義景は動かず、武田信玄は陣中で病死、武田軍は甲斐に引き揚げる事になる。このため、信長は織田軍の主力を浅井家、朝倉家に向けることになる。
1573年、織田信長は3万で近江に侵攻。朝倉義景は朝倉全軍を率いて出陣しようとするが、数々の失態を犯し重ねてきた義景は家臣の信頼を失いつつあり、重臣の朝倉景鏡、魚住景固らが出陣命令を拒否。このため、義景は、2万の軍勢を率いて出陣した。
しかし、信長の電撃的な奇襲により、朝倉軍は大敗して守備していた砦からあっさり追われてしまい、朝倉義景は浅井長政と連携を取り合うことが不可能になってしまった。
このため、義景は越前への撤兵を決断。しかし、その行動は信長に予測されていたため、朝倉軍は織田軍の追撃を受け壊滅に追い込まれた。
そして、最後は、一門でもあり、出陣拒否した朝倉景鏡のだまし討ちに会い、自害する。
辞世の句は以下。
「七転八倒 四十年中 無他無自 四大本空」
寂しいものではないか。 人生ずっと戦い続けた40年。結局何も残らなかった。なんと空虚な。と言うような意味か。
さて、この一乗谷から、15分ほどで、鎌倉時代に、曹洞宗を開いた道元の総本山永平寺がある。
現在では、永平寺は観光しやすく配備されている。ゴマ豆腐が有名なので、買って帰る。
道元の禅は、実は、NLPや気功とも関係が深い。この話はまたセミナーなどでお伝えしていきたいので、ここでは割愛しようと思う。



永平寺から、今度は少し南下。
越前一宮である気比神宮が敦賀にある。
この神社が、歴史に出てくるのは日本書紀で、神功皇后が息子の誉田別命(応神天皇)と武内宿禰を参拝せしめた記事からである。
が、もっと古くから鎮座していたようで、当宮に行幸した仲哀天皇が自ら神前に三韓征伐を祈願し、征伐にあたっても皇后に玉妃命・武内宿禰を伴って当宮に戦勝を祈願させ、その時気比大神が玉妃命に神懸かりして勝利を予言したといわれている。
敦賀といえば、豊臣秀吉の隠し子の噂もある大谷吉継が城主となった土地でもある。
何故隠し子の噂があるかと言うと、彼はらい病であった。当時、らい病は人にうつると信じられており、茶会で、ある出来事が起きてしまう。
茶会では、基本回しのみをするのだが、大谷吉継が立てた茶に、皮膚がどろっと茶の中に落ちてしまったのだ。作法的に進退きわまった吉継に対して、秀吉は、なんと、その茶を自分が飲み干したと言われている。 親でもなければ、そんな事できないだろう。と言うわけだ。
確かに、そうかもしれない。秀吉の正室、北の政所は、非常に嫉妬深かったらしく、秀吉の子を毒殺した疑いがあり、そのため、隠されたのだとも言われている。大谷吉継の母は、北の政所の筆頭女中であり、父は誰か判然としないからだ。
いずれにせよ、大谷吉継は名将であり、関が原の合戦時、石田三成を止め、翻意しないと悟るや、三成に対して、「毛利や宇喜多を前面にたて、自らは黒子に徹せよ。おぬしは、
小早川秀秋の裏切りを予想し、塹壕を掘って対策していた。しかし、彼の目をもってしても、
秀秋の裏切りに備えて配置していた脇坂・赤座・小川・朽木の4隊4200人が東軍に寝返りまでは予想できず、最期を迎えるのである。
その後、福井には、結城秀康が入府。彼の子孫は、別格の親藩として栄えることになる。

さて、敦賀から越前海岸を北上。ホテルは、越前海岸沿いの温泉。この海岸線の道は、景勝地が多く、楽しいが、日暮れまでにホテルに着こうとがんばって運転。


次の日、越前海岸を更に北上し、能登に近いところまで行くと、東尋坊がある。
新鮮な魚介類も食べれるし、何よりも、絶景。落ちないよう要注意だが、素晴らしい景観である。






東尋坊から東に高速に向かう所には、丸岡城がある。
織田信長の筆頭家老で、豊臣秀吉と戦って敗死した柴田勝家の先鋒、柴田勝豊の築いた城である。かなり旧く、階段はかなり急。昔のままのようである。小さい城だが、行って見て損はない。
柴田勝家は、賤ヶ岳の戦いで、先鋒であった猛将佐久間盛政の独断戦闘により、豊臣秀吉軍の
攻勢を呼び込んでしまい、前田利家などが戦闘に参加しなかった影響もあり、兵の逃亡に歯止めがかからなくなって、敗走。北の症城で、自害した。
勝里、勝忠と言う庶子がいたが、彼らのその後はどうなったのかわからない。
この丸岡城の柴田勝豊は、従兄にもあたる佐久間盛政と仲が悪いことなどもあって、前述の大谷吉継の調略を受けて、当時居城としていた長浜城ごと羽柴方に寝返っている。
なんとも寂しいものである。




旅の最後に、うまい水を飲んで帰ろうと、若狭にある瓜割の滝の寄り道する。
ここの水は美味しい。ポリ容器を買って好きなだけもってかえることもできる。
瓜割の由来は、水が冷たくて、瓜を冷やしていると割れてしまう。と言うところからきているらしい。確かに、冷たくて、気持ちが良いのだ。

継体天皇が治めていた領国でもあり、紀元前の孝元天皇の第1皇子、四道将軍の大彦命に平定される前の「越」は阿彦王国とも言われ豪族阿彦に支配されていたとされている。
7世紀末に越前の国となった。室町時代には、管領斯波氏の領国となる。その後、戦国時代の争乱から、朝倉氏が台頭。越前を実行支配する。
朝倉氏というと、織田信長との戦いで有名な、朝倉義景であるが、彼の人生は、生まれてきた時代と家が悪かったと思えるばかりである。
その朝倉氏の居城が一乗谷だ。今は以下のように遺跡として公開されている。


朝倉義景の一生は、戦いの連続だった。しかも、事跡からは、彼の性格には不向きであったと思われる。
前半生は、一向一揆との戦いの日々であった。
特に永正三年(1506年)の一向一揆では、絶対絶命のピンチを迎える。
加賀国・越中・能登の一向宗門徒が越前で起こった一向一揆に加勢するため越前甲斐氏の牢人衆らと合流し越前へと侵攻を開始した。これを迎え討つため、朝倉宗滴を総大将とする朝倉・他門徒の連合軍が九頭竜川一帯で対峙した。
これは九頭竜川の戦いと言われる。この時一向宗勢力は30万を上回る勢力で、朝倉軍は全軍あわせても1万1000ほどであった。最終的には朝倉宗滴の活躍もあり、朝倉軍は勝利を収めた。
この後も、一向一揆との戦いは続き、1567年にようやく、和睦がなったのである。
しかし、その平和は長く続かなかった。
1568年、織田信長は、将軍足利義秋の名で、朝倉氏に上洛を要請した。
しかし、これを義景は拒否する。義景が信長に従うことを嫌ったためと言う側面もあるが、それよりもむしろ上洛することで朝倉軍が長期間に渡って本国・越前を留守にする不安から拒否したとされている。当然であろう。
しかし、織田領である美濃と京都間に突き出された槍という位置から義景を服属させる必要があった信長にとって、これは好都合であった。これが政治である。
ついに、1570年、朝倉義景はに叛意ありとして越前出兵され、朝倉義景は織田信長・徳川家康の連合軍に攻められることとなる。
朝倉義景は、愛息の相次ぐ死に、領国経営のやる気をなくし、家臣の信頼を損ねていた。
愛妾の小少将とほとんどの時間を過ごしていたと言う。
しかも、自領が攻撃されたとき、浅井氏が朝倉方に加わったことで、一時的に難を逃れるも、
危機感に乏しく、浅井氏と共に戦った、姉川の戦いでは、朝倉軍の総大将は義景ではなく、一族の朝倉景健であり、兵力も8000人と全力で戦ってはいない。浅井・朝倉軍は1100余の損害を出したが、損害自体は軽微であったが、浅井氏の支城を多く失い、戦略的にかなり不利になってしまった。勇将で佐和山城にこもっていた磯野員昌も降伏するなど、有力家臣を失った。
朝倉氏単体で考えたら、特に痛手ではなかったように思えたかもしれないが、浅井氏にとっては苦しいものになり、それはつまり、全体としてかなり不利になった事を意味した。
戦略上の失敗は、戦術ではぬぐいきれないのである。
三ヵ月後、浅井軍と共同し、織田本軍が石山本願寺に出向いている隙をついて、近江坂本に侵攻し、信長の弟・織田信治と信長の重臣・森可成を敗死に追い込んだ。さらに大津で焼き働きするなどしているが、少し遅い。
しかも、甲斐の武田信玄が西上作戦を開始し、織田包囲網が築かれた際、これからと言う時に、勝手に撤兵し、武田信玄から叱り飛ばされ、再出兵を求められている。
そこで、武田軍が停滞。武田信玄は本願寺を通じて、再出兵を促すも朝倉義景は動かず、武田信玄は陣中で病死、武田軍は甲斐に引き揚げる事になる。このため、信長は織田軍の主力を浅井家、朝倉家に向けることになる。
1573年、織田信長は3万で近江に侵攻。朝倉義景は朝倉全軍を率いて出陣しようとするが、数々の失態を犯し重ねてきた義景は家臣の信頼を失いつつあり、重臣の朝倉景鏡、魚住景固らが出陣命令を拒否。このため、義景は、2万の軍勢を率いて出陣した。
しかし、信長の電撃的な奇襲により、朝倉軍は大敗して守備していた砦からあっさり追われてしまい、朝倉義景は浅井長政と連携を取り合うことが不可能になってしまった。
このため、義景は越前への撤兵を決断。しかし、その行動は信長に予測されていたため、朝倉軍は織田軍の追撃を受け壊滅に追い込まれた。
そして、最後は、一門でもあり、出陣拒否した朝倉景鏡のだまし討ちに会い、自害する。
辞世の句は以下。
「七転八倒 四十年中 無他無自 四大本空」
寂しいものではないか。 人生ずっと戦い続けた40年。結局何も残らなかった。なんと空虚な。と言うような意味か。
さて、この一乗谷から、15分ほどで、鎌倉時代に、曹洞宗を開いた道元の総本山永平寺がある。
現在では、永平寺は観光しやすく配備されている。ゴマ豆腐が有名なので、買って帰る。
道元の禅は、実は、NLPや気功とも関係が深い。この話はまたセミナーなどでお伝えしていきたいので、ここでは割愛しようと思う。



永平寺から、今度は少し南下。
越前一宮である気比神宮が敦賀にある。
この神社が、歴史に出てくるのは日本書紀で、神功皇后が息子の誉田別命(応神天皇)と武内宿禰を参拝せしめた記事からである。
が、もっと古くから鎮座していたようで、当宮に行幸した仲哀天皇が自ら神前に三韓征伐を祈願し、征伐にあたっても皇后に玉妃命・武内宿禰を伴って当宮に戦勝を祈願させ、その時気比大神が玉妃命に神懸かりして勝利を予言したといわれている。
敦賀といえば、豊臣秀吉の隠し子の噂もある大谷吉継が城主となった土地でもある。
何故隠し子の噂があるかと言うと、彼はらい病であった。当時、らい病は人にうつると信じられており、茶会で、ある出来事が起きてしまう。
茶会では、基本回しのみをするのだが、大谷吉継が立てた茶に、皮膚がどろっと茶の中に落ちてしまったのだ。作法的に進退きわまった吉継に対して、秀吉は、なんと、その茶を自分が飲み干したと言われている。 親でもなければ、そんな事できないだろう。と言うわけだ。
確かに、そうかもしれない。秀吉の正室、北の政所は、非常に嫉妬深かったらしく、秀吉の子を毒殺した疑いがあり、そのため、隠されたのだとも言われている。大谷吉継の母は、北の政所の筆頭女中であり、父は誰か判然としないからだ。
いずれにせよ、大谷吉継は名将であり、関が原の合戦時、石田三成を止め、翻意しないと悟るや、三成に対して、「毛利や宇喜多を前面にたて、自らは黒子に徹せよ。おぬしは、
小早川秀秋の裏切りを予想し、塹壕を掘って対策していた。しかし、彼の目をもってしても、
秀秋の裏切りに備えて配置していた脇坂・赤座・小川・朽木の4隊4200人が東軍に寝返りまでは予想できず、最期を迎えるのである。
その後、福井には、結城秀康が入府。彼の子孫は、別格の親藩として栄えることになる。

さて、敦賀から越前海岸を北上。ホテルは、越前海岸沿いの温泉。この海岸線の道は、景勝地が多く、楽しいが、日暮れまでにホテルに着こうとがんばって運転。


次の日、越前海岸を更に北上し、能登に近いところまで行くと、東尋坊がある。
新鮮な魚介類も食べれるし、何よりも、絶景。落ちないよう要注意だが、素晴らしい景観である。






東尋坊から東に高速に向かう所には、丸岡城がある。
織田信長の筆頭家老で、豊臣秀吉と戦って敗死した柴田勝家の先鋒、柴田勝豊の築いた城である。かなり旧く、階段はかなり急。昔のままのようである。小さい城だが、行って見て損はない。
柴田勝家は、賤ヶ岳の戦いで、先鋒であった猛将佐久間盛政の独断戦闘により、豊臣秀吉軍の
攻勢を呼び込んでしまい、前田利家などが戦闘に参加しなかった影響もあり、兵の逃亡に歯止めがかからなくなって、敗走。北の症城で、自害した。
勝里、勝忠と言う庶子がいたが、彼らのその後はどうなったのかわからない。
この丸岡城の柴田勝豊は、従兄にもあたる佐久間盛政と仲が悪いことなどもあって、前述の大谷吉継の調略を受けて、当時居城としていた長浜城ごと羽柴方に寝返っている。
なんとも寂しいものである。




旅の最後に、うまい水を飲んで帰ろうと、若狭にある瓜割の滝の寄り道する。
ここの水は美味しい。ポリ容器を買って好きなだけもってかえることもできる。
瓜割の由来は、水が冷たくて、瓜を冷やしていると割れてしまう。と言うところからきているらしい。確かに、冷たくて、気持ちが良いのだ。

香川の旅~丸亀城、八十場~
筆者兄弟が椎間板ヘルニアになってしまい、ブログ更新が非常に遅れてしまった。
読者の方々には、深くお詫びをしたい。
また再び、ブログを再開するので、良かったら見に来てください。
さて、今回は、香川の旅。
香川県は、実は、崇徳上皇と縁が深い。
崇徳上皇は鳥羽天皇の中宮・藤原璋子(待賢門院)の第一皇子として生まれ、崇徳上皇の曽祖父である白河法皇の意向により、第75代天皇として即位された天皇である。
実は、崇徳上皇には噂があり、藤原璋子は、曽祖父の白河法皇と不倫の末、生まれた子であるとされ、鳥羽は崇徳を「叔父子」と呼んで忌み嫌っていたようである。
藤原璋子は、藤原公実の娘であったが、父の急死により、白河法皇の養女とされ育った。
この白河法皇が璋子を自分のものにしてしまったようであり、鳥羽天皇の女御にあがってからもしばらくその関係は続いたと言う噂もある。
実際、摂関家の嫡男・藤原忠通との縁談が持ち上がったが、璋子に噂があったため忠通の父・忠実は固辞し、白河法皇の不興を買っている。
こうした結果、鳥羽法皇が病に倒れ、崩御した際、崇徳上皇は臨終の直前に見舞いに訪れたが、対面はできなかった。古事談によれば、法皇は側近の葉室惟方に自身の遺体を崇徳院に見せないよう言い残したとすら記載されているようだ。
そして、政変がおきる。法皇が崩御してすぐに、「上皇左府同心して軍を発し、国家を傾け奉らんと欲す」という噂が流され、それを受けて、弟の後白河天皇の綸旨により、朝敵扱いされてしまうのだ。これが、保元の乱である。天皇方の先制攻撃に対して、上皇方は、側近である源為義と為義の三男~九男・平忠正とその息子四人などの武士が集結するも、機先を制された崇徳上皇方に参じた兵力は甚だ弱小であり、亡き平忠盛が重仁親王の後見だったことから、忠盛の子・清盛が味方になることに一縷の望みをかけた。
しかし、結果は平清盛は勝ち馬に乗ってしまい、惨敗。崇徳上皇は、ここ讃岐の国に配流されるのである。
その後の崇徳上皇は、仏教を篤く信仰し、経典の写本作りに専念し、戦死者の供養等に、鳥羽法皇の命日に、完成した写本を京の寺に収めてほしいと朝廷に差し出した。
しかし、後白河上皇はこれを拒否し、写本を破いた上送り返してきたようである。
これに激しく怒った崇徳院は、舌を噛み切り、写本に
「我、日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん」
「この経を魔道に回向す」と血で書き込み、海に飛び込んで自殺されたと言われている。
後白河上皇は、讃岐国で崩御した際も、その死を無視した。
しかし、その死からすぐ、延暦寺の強訴、安元の大火、鹿ケ谷の陰謀が立て続けに起こり、後白河や忠通に近い人々が相次いで死去、天皇の朝廷から武家に政権が渡り、明治維新まで、武士が権力を握る時代へとなったことから、崇徳上皇の怨霊伝説が始まる。
明治天皇は、即位してまずはじめにやったことは、勅使を讃岐に遣わし、崇徳天皇の御霊を京都へ帰還させて白峯神宮を創建し、崇徳天皇に侘びをいれ、昭和天皇も、、香川県にある崇徳天皇陵に勅使を遣わして式年祭を執り行わせている。
その崇徳天皇稜近くに、八十場と言うところがある。
皇の崩御後、遺体を当地の清水に浸しておいたところ神光が輝き、全く腐敗しなかったたことから、二条天皇の宣旨を受け造営されたと伝わる白峰宮がある所だ。
ここに、ところてんで有名な、清水屋というのがある。以下のような感じだ。




水は、八十蘇場の清水と言われ、古代から有名のようだ。
泉の脇には弥蘇場地蔵堂があり、本尊は地蔵菩薩で四国八十八箇所番外札所にもなっている。
ヤマトタケルノミコトの父第12代景行天皇の時代、南海で暴れていた悪魚を退治に向かった讃留霊皇子と80人(88人)の勇者が悪魚の毒に苦しんだ。この泉の水を汲んだ童子が勇者達に水を飲ませると、たちまち蘇った。そこで八十蘇場の清水と呼ばれるようになったと言う。
四国巡錫中の空海(弘法大師)が八十蘇場の清水を訪れ、十一面観音・阿弥陀如来・愛染明王を刻んで仏堂を建てて安置し、また、薬師如来を刻んで泉を閼伽井としたという伝承もある。
崇徳上皇への御参りをしてから、この澄んだ水で出されるところてんを頂くのは、なんとも言えない。
そして、讃岐と言えば、やはり、讃岐うどん。幾つも下記のような場所がある。
これは、他のホームページにたくさん紹介されているので、説明などは割愛する。
付近にたくさんのこうしたうどん屋さんがある。


そして、丸亀城。結構きつい坂だが、美しい山城。生駒親正が讃岐17万石を与えられ築城したと言う。その後、京極氏の居城となって明治まで続く。

夜は、讃岐の鳥の有名店である一鶴にて、親鳥と雛鳥を食す。親鳥は、堅めの筋肉でしっかりとした歯ごたえであり、雛鳥は本当に柔らかくとろけてしまいそうな感じ。
本当に美味。かなり混んでいるが回転が速いので、思ったよりは並ぶ時間は少なかった。



読者の方々には、深くお詫びをしたい。
また再び、ブログを再開するので、良かったら見に来てください。
さて、今回は、香川の旅。
香川県は、実は、崇徳上皇と縁が深い。
崇徳上皇は鳥羽天皇の中宮・藤原璋子(待賢門院)の第一皇子として生まれ、崇徳上皇の曽祖父である白河法皇の意向により、第75代天皇として即位された天皇である。
実は、崇徳上皇には噂があり、藤原璋子は、曽祖父の白河法皇と不倫の末、生まれた子であるとされ、鳥羽は崇徳を「叔父子」と呼んで忌み嫌っていたようである。
藤原璋子は、藤原公実の娘であったが、父の急死により、白河法皇の養女とされ育った。
この白河法皇が璋子を自分のものにしてしまったようであり、鳥羽天皇の女御にあがってからもしばらくその関係は続いたと言う噂もある。
実際、摂関家の嫡男・藤原忠通との縁談が持ち上がったが、璋子に噂があったため忠通の父・忠実は固辞し、白河法皇の不興を買っている。
こうした結果、鳥羽法皇が病に倒れ、崩御した際、崇徳上皇は臨終の直前に見舞いに訪れたが、対面はできなかった。古事談によれば、法皇は側近の葉室惟方に自身の遺体を崇徳院に見せないよう言い残したとすら記載されているようだ。
そして、政変がおきる。法皇が崩御してすぐに、「上皇左府同心して軍を発し、国家を傾け奉らんと欲す」という噂が流され、それを受けて、弟の後白河天皇の綸旨により、朝敵扱いされてしまうのだ。これが、保元の乱である。天皇方の先制攻撃に対して、上皇方は、側近である源為義と為義の三男~九男・平忠正とその息子四人などの武士が集結するも、機先を制された崇徳上皇方に参じた兵力は甚だ弱小であり、亡き平忠盛が重仁親王の後見だったことから、忠盛の子・清盛が味方になることに一縷の望みをかけた。
しかし、結果は平清盛は勝ち馬に乗ってしまい、惨敗。崇徳上皇は、ここ讃岐の国に配流されるのである。
その後の崇徳上皇は、仏教を篤く信仰し、経典の写本作りに専念し、戦死者の供養等に、鳥羽法皇の命日に、完成した写本を京の寺に収めてほしいと朝廷に差し出した。
しかし、後白河上皇はこれを拒否し、写本を破いた上送り返してきたようである。
これに激しく怒った崇徳院は、舌を噛み切り、写本に
「我、日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん」
「この経を魔道に回向す」と血で書き込み、海に飛び込んで自殺されたと言われている。
後白河上皇は、讃岐国で崩御した際も、その死を無視した。
しかし、その死からすぐ、延暦寺の強訴、安元の大火、鹿ケ谷の陰謀が立て続けに起こり、後白河や忠通に近い人々が相次いで死去、天皇の朝廷から武家に政権が渡り、明治維新まで、武士が権力を握る時代へとなったことから、崇徳上皇の怨霊伝説が始まる。
明治天皇は、即位してまずはじめにやったことは、勅使を讃岐に遣わし、崇徳天皇の御霊を京都へ帰還させて白峯神宮を創建し、崇徳天皇に侘びをいれ、昭和天皇も、、香川県にある崇徳天皇陵に勅使を遣わして式年祭を執り行わせている。
その崇徳天皇稜近くに、八十場と言うところがある。
皇の崩御後、遺体を当地の清水に浸しておいたところ神光が輝き、全く腐敗しなかったたことから、二条天皇の宣旨を受け造営されたと伝わる白峰宮がある所だ。
ここに、ところてんで有名な、清水屋というのがある。以下のような感じだ。




水は、八十蘇場の清水と言われ、古代から有名のようだ。
泉の脇には弥蘇場地蔵堂があり、本尊は地蔵菩薩で四国八十八箇所番外札所にもなっている。
ヤマトタケルノミコトの父第12代景行天皇の時代、南海で暴れていた悪魚を退治に向かった讃留霊皇子と80人(88人)の勇者が悪魚の毒に苦しんだ。この泉の水を汲んだ童子が勇者達に水を飲ませると、たちまち蘇った。そこで八十蘇場の清水と呼ばれるようになったと言う。
四国巡錫中の空海(弘法大師)が八十蘇場の清水を訪れ、十一面観音・阿弥陀如来・愛染明王を刻んで仏堂を建てて安置し、また、薬師如来を刻んで泉を閼伽井としたという伝承もある。
崇徳上皇への御参りをしてから、この澄んだ水で出されるところてんを頂くのは、なんとも言えない。
そして、讃岐と言えば、やはり、讃岐うどん。幾つも下記のような場所がある。
これは、他のホームページにたくさん紹介されているので、説明などは割愛する。
付近にたくさんのこうしたうどん屋さんがある。


そして、丸亀城。結構きつい坂だが、美しい山城。生駒親正が讃岐17万石を与えられ築城したと言う。その後、京極氏の居城となって明治まで続く。

夜は、讃岐の鳥の有名店である一鶴にて、親鳥と雛鳥を食す。親鳥は、堅めの筋肉でしっかりとした歯ごたえであり、雛鳥は本当に柔らかくとろけてしまいそうな感じ。
本当に美味。かなり混んでいるが回転が速いので、思ったよりは並ぶ時間は少なかった。



愛媛の旅~松山城、宇和島~
今日は愛媛県の紹介だ。今回、我々は松山と宇和島を回った。四国はなかなか交通の便が悪く、電車だとかなり時間がかかる。車も、高速が一車線区間が多いので、なかなか進まない。
それゆえに、ゆるりと回ることにした。
ここ愛媛は、関西/東京からはもっとも行きにくいかもしれない。それだけに貴重であり、満喫させて頂いた。
日本神話の伊邪那岐・伊邪那美の国産みに出て来る伊予之二名島の神のうち伊予国にあたる神が、愛比売で、可愛い媛(娘)がたくさん住んでいる事からつけられたとされる。
愛媛と言えば、まずは松山である。
松山は、ぼっちゃんで有名な夏目漱石や、正岡子規、そして、なんと言っても、日露戦争で大活躍した、秋山兄弟の故郷である。、司馬遼太郎の長編歴史小説である坂の上の雲と言うドラマにもなった小説があるので、彼らの関係性はそちらを見ると面白いと思う。
秋山兄弟は、兄:好古:陸軍大将、弟:真之:海軍中将、まで登った。
弟の秋山真之は、当時、海軍中佐。東郷平八郎連合艦隊司令長官の作戦参謀である。日本海海戦の作戦は全てこの秋山中佐が立てたものである。
東郷平八郎と日本海海戦による海軍の活躍は、あまりにも有名なので、ここでは割愛しようと思う。
今回は、そこまで触れられてはいない兄の方に焦点をあてるとしよう。
秋山好古は、日露戦争時は、陸軍少将。立見尚文中将と共に、日露戦争の勝敗分岐点と言われる
黒溝台の戦いで、劣勢ながら、ロシア軍を退却に追い込む働きを見せる。
日本陸軍は旅順攻略までの砲弾の大量消耗により極端な砲弾不足に陥っており、このままではロシア陸軍に打撃を与えるどころか次の会戦も実行できないような状態が続いていた。
ロシア首脳部は退却ばかりを行い、一向に日本軍を駆逐しようとしない将軍に業を煮やし、満州陸軍の部隊指揮にグリッペンベルク大将を送り込んだ。
日本軍は東西方向に大きく翼を広げたような格好で陣地を構築していたが、場所によっては厚さにムラがあった。特に、秋山好古少将率いる秋山支隊(騎兵隊)はこれらに比べ陣が薄く、防御も弱かった。
秋山支隊は40km余りの戦線に対し、わずか8,000人程度の人員しか配置されていなかった。
秋山支隊のような兵力で40kmという広範囲を守ることは通常不可能であった。
このため秋山少将は、拠点防御方式という騎兵としては相容れない考えの戦術を採用した。秋山少将は塹壕を掘り穴ぐらに馬ごと潜ってしまい、そこから機関銃などの兵器で攻撃するものであった。この戦術では騎兵の機動力は生かされないが、防御体制を何とか構築することに成功した。
グリッペンベルク大将は総勢10万人の大兵力を率いて攻勢を開始したが、満州軍総司令部はこの時点でもまだ威力偵察程度に考えていた。一応手当てとして立見尚文中将率いる第8師団を応援に送る程度であった。兵力的には2万人程度のものである。
日本軍の参加兵力は約5万3千人、死傷約9千3百余人であり、それに対してロシア軍の参加兵力は約10万人、死傷約1万人である。
日本軍側は、立見中将の第8師団が死傷5割程度で全滅に等しい状態で踏みとどまり、秋山少将のも左翼を抜かせない。ロシア軍はまだ健全な兵力がおおよそ9万人もあり、退却する必要性はなかったが、内部での不明瞭な決定によって戦闘を終了してしまった。
これにりょいロシア軍自体もこの作戦での負けを認めたこととなり、これはロシア国内に蔓延していた厭戦気分に大きく影響することになった。その後の影響として、ロシア軍側が主導して大会戦を行うことはなく、このため、この会戦が日露戦争の流れを変える分水嶺になった。
秋山好古は、後に、元帥杖を授与されると言う話もあったが、それを固辞し、故郷松山に戻り、校長先生として後進の指導にあたったと言われている。
立派な人物だ。 弟の方は、体を壊して早逝してしまう。日本海海戦で全てを使い切ったのかもしれない。
その二人の出自は、松山藩士。松山は、賤ヶ岳の七本槍の一人、加藤 嘉明によって築城された。
彼は、徳川譜代家臣の加藤教明の嫡男である。生まれた年の三河一向一揆で、父の教明が一揆側に属して徳川家康に背き、流浪の身となったため、嘉明も放浪することになった。
そして、尾張にて、羽柴秀吉に見出され、七本槍となったのである。
「人間万事塞翁が馬」である。
松山は、残念ながら、加藤家によって続いたのではなく、最終的には、久松松平家の城となり、明治まで続く。久松松平家と言えば、NHKその時歴史は動いたで有名な、松平定知さんも、その家の出身と聞く。
さて、松山には、以前一度言ったことがあるが、松山城の天守閣はすでに時間が過ぎていたので、初登城である。
松山城は、加藤 嘉明が築いたとされるだけに、とても、堅固な城のようで、ロープウェーで行かないと辛い。

これは、物見櫓の前。天守閣ではない。なんと、ラッキーな事に、天守閣等が現存しているのだ!旧き姿を見ることが出来る。

ここを曲がると天守閣。

天守閣の中は、やはり、木の作り。中には、加藤 嘉明の使ったとされる甲冑も存在している!

さて、次は宇和島に向かう。
宇和島城は、板島丸串城の跡に藤堂高虎によって築かれた城。
藤堂高虎は、何度も主君を変えた戦国武将として知られる。それは彼自身の「武士たるもの七度主君を変えねば武士とは言えぬ」という発言に表れているが、彼は苦労人であった。
藤堂氏は先祖代々在地の小領主であったが、戦国時代にあって次第に没落し、高虎が生まれた頃には禄高を持たない雇われ兵と変わらない状態になっていた。
浅井長政に仕え、一番やりの感状をもらうなど、活躍するも、なかなか禄高を得ることができず、各家を転々と回る。彼は、「自らの価値を、その価値どおりに見てくれない上司に対して、忠誠を尽くすのは無駄である。」と考えていたようである。
共感できるものがある。
浅井家臣の磯野員昌だったか、に仕えた時、ようやく、20石あたりの禄高を得る。しかし、数年で辞去。
織田信澄を経て、豊臣秀吉の弟である羽柴秀長に仕え、この時、家老にまで出世する。
彼は、優秀な豊臣家臣団で生き抜くには、槍だけではダメだと、築城術を学んだとされる。
その結果、なんと知行は二万石にまで登る。
しかし、豊臣秀吉が一旦は跡継ぎに定めた豊臣秀次が秀吉により切腹させられ、秀長の跡継ぎも変死(毒殺と言われている)すると、危険をいち早く察知し、二万石を返上し、あっさりと、高野山へ坊主となり仏門に入ってしまう。同僚の家老たちは、次々と切腹させられる中、藤堂高虎は生き残ったばかりか、その生き方を気に入られ、秀吉から誘いを受けるのだ。
そして、7万石になる。
秀吉が死んだ際、次の天下は、徳川家だと見抜き、あっさり豊臣家を離脱。最終的には20万石の大名として、明治維新まで続くのである。彼が辞去した家は、辞去する瞬間は隆盛であったとしても、全て数年後以内に滅んでいることも特徴にあげられる。
さて、その宇和島城だが、伊達政宗の長男、伊達秀宗が拝領して、明治維新まで続くことになる。


天守閣には、何も無く、近くにある伊達博物館に宝物や資料は全て移動させられているが、
ここも焼けていない。天守閣からは宇和島の町が一望でき、非常に心地よい場所である。
伊達秀宗が、何故、東北ではなく、四国に封じられたのか、考察を述べておきたい。
有名な伊達政宗は名前くらいは聞いたことがあるだろうが、山形県の米沢城主であった。
彼は、一代で、福島県の会津城まで攻め落とし、120万石くらいにまでなっていたが、豊臣秀吉の小田原攻めの際の遅参が原因で、米沢から仙台60万石に国替えまでさせられていた。
関が原の合戦の際、家康は、政宗にこうもちかける。「味方してくれたら、100万石の大名にしてやる。」政宗は、東軍に味方し、上杉軍と戦った。しかし、この時、同時に起きた、大崎一揆に影で加担して領土を更にかすめとろうとした事が、家康にばれてしまい、政宗は苦しい言い訳で難を逃れるが、約束を反故にされる。
政宗は面目丸つぶれになったため、家康に交渉する。
家康はこの時、政宗に、加増してやる。ただし、10万石だと言われ、政宗は喜び勇む。
しかし、加増の通達が来た時、それは、本領から遠く離れた宇和島だった。
家康は一石二鳥の手を打ったのだ。我々には家康の考えは以下のようなものであったと推察する。
①遠い場所に飛び地領土を与えると、そこに家臣団を派遣せねばならず、伊達軍は分断される。
②おそらくは、その飛び地に派遣されるのは、長男であるが、庶子であった秀宗である。秀宗は、徳川家に感謝する事だろう。しかも、仙台単独で反旗を翻した場合、10万石ごときで当然味方もいない宇和島は戦力外となる。息子を見捨てはしないだろう。=反乱の目が減る
③政宗の顔は立つ。しかも、家臣への面目もあり断れない。
これが政治である。
現在の場合、マスコミは、無責任な発言でかき乱す。これでは、政治はできないだろうと危惧する。現在の政治家は、政治を知らないし、投票する人も、政治を知らない人が多い気もする。
だから、世界情勢で外交で負けてばかりなのだ。
伊達秀宗は、どのように誕生したのか、面白いエピソードを最後に紹介しよう。
伊達政宗には、愛姫と言う、田村氏の娘が正室として嫁いでいた。しかし、数年来子供が出来なかった。それゆえ、戦乱の世、いつ死ぬとも限らぬ政宗の跡継ぎを作るため、側室がおかれ、そこで出来たのが、この秀宗である。
彼は、伊達政宗が秀吉に下ったあと、秀吉の猶子となり、秀吉のもとで元服し、秀吉から偏諱を受けて秀宗と名乗った。後に豊臣姓も授かり、豊臣秀頼の小姓として任官した。
政宗と正室、愛姫との間に待望の赤ちゃんが授かったのは、秀宗が生まれて後、三年後のこと。
政宗は、嫡男誕生と喜び、生まれてきた子が、女子であると夢にも思わず「五郎八」と書いた名前をもっていた。誕生した子が、娘であると見せられ、愛姫に、なんですか、その名前は!と言われ、とっさに、「これは、いろは」と読むのじゃ、と男子名である五郎八しか考えていなかった政宗が、そのまま五郎八姫にしてしまったと言う。
その後、次男、忠宗が、愛姫との間に生まれ、秀宗の心中は穏やかではなかった。
結果、政宗から秀宗につけられていた家老の山家公頼が対立していた桜田元親に襲撃され一族皆殺しにあった際、秀宗はこれを幕府や政宗に報告しなかったことから、激怒した父によって勘当される。
怒りの収まらない政宗は宇和島藩の返上を申し入れた(和霊騒動)が、老中土井利勝のとりなしで政宗は申し入れを取り下げ、政宗と秀宗は面会し、その場で秀宗は長男であるにもかかわらず仙台藩の家督を嗣げなかったことや、長期にわたって人質生活を送らされていたことから、政宗に対しかなりの恨みを持っていることを話した。
政宗もその秀宗の気持ちを理解し、勘当は解かれた。この件をきっかけとして親子の関係は良好になったとされる。
その宇和島には、天赦園と言う庭があり、それは見事なものだ。



ここの池に住む鯉は、非常に元気で、餌をあたえると、鯉同士が、餌を奪い合い、登ってくるほどである。
それゆえに、ゆるりと回ることにした。
ここ愛媛は、関西/東京からはもっとも行きにくいかもしれない。それだけに貴重であり、満喫させて頂いた。
日本神話の伊邪那岐・伊邪那美の国産みに出て来る伊予之二名島の神のうち伊予国にあたる神が、愛比売で、可愛い媛(娘)がたくさん住んでいる事からつけられたとされる。
愛媛と言えば、まずは松山である。
松山は、ぼっちゃんで有名な夏目漱石や、正岡子規、そして、なんと言っても、日露戦争で大活躍した、秋山兄弟の故郷である。、司馬遼太郎の長編歴史小説である坂の上の雲と言うドラマにもなった小説があるので、彼らの関係性はそちらを見ると面白いと思う。
秋山兄弟は、兄:好古:陸軍大将、弟:真之:海軍中将、まで登った。
弟の秋山真之は、当時、海軍中佐。東郷平八郎連合艦隊司令長官の作戦参謀である。日本海海戦の作戦は全てこの秋山中佐が立てたものである。
東郷平八郎と日本海海戦による海軍の活躍は、あまりにも有名なので、ここでは割愛しようと思う。
今回は、そこまで触れられてはいない兄の方に焦点をあてるとしよう。
秋山好古は、日露戦争時は、陸軍少将。立見尚文中将と共に、日露戦争の勝敗分岐点と言われる
黒溝台の戦いで、劣勢ながら、ロシア軍を退却に追い込む働きを見せる。
日本陸軍は旅順攻略までの砲弾の大量消耗により極端な砲弾不足に陥っており、このままではロシア陸軍に打撃を与えるどころか次の会戦も実行できないような状態が続いていた。
ロシア首脳部は退却ばかりを行い、一向に日本軍を駆逐しようとしない将軍に業を煮やし、満州陸軍の部隊指揮にグリッペンベルク大将を送り込んだ。
日本軍は東西方向に大きく翼を広げたような格好で陣地を構築していたが、場所によっては厚さにムラがあった。特に、秋山好古少将率いる秋山支隊(騎兵隊)はこれらに比べ陣が薄く、防御も弱かった。
秋山支隊は40km余りの戦線に対し、わずか8,000人程度の人員しか配置されていなかった。
秋山支隊のような兵力で40kmという広範囲を守ることは通常不可能であった。
このため秋山少将は、拠点防御方式という騎兵としては相容れない考えの戦術を採用した。秋山少将は塹壕を掘り穴ぐらに馬ごと潜ってしまい、そこから機関銃などの兵器で攻撃するものであった。この戦術では騎兵の機動力は生かされないが、防御体制を何とか構築することに成功した。
グリッペンベルク大将は総勢10万人の大兵力を率いて攻勢を開始したが、満州軍総司令部はこの時点でもまだ威力偵察程度に考えていた。一応手当てとして立見尚文中将率いる第8師団を応援に送る程度であった。兵力的には2万人程度のものである。
日本軍の参加兵力は約5万3千人、死傷約9千3百余人であり、それに対してロシア軍の参加兵力は約10万人、死傷約1万人である。
日本軍側は、立見中将の第8師団が死傷5割程度で全滅に等しい状態で踏みとどまり、秋山少将のも左翼を抜かせない。ロシア軍はまだ健全な兵力がおおよそ9万人もあり、退却する必要性はなかったが、内部での不明瞭な決定によって戦闘を終了してしまった。
これにりょいロシア軍自体もこの作戦での負けを認めたこととなり、これはロシア国内に蔓延していた厭戦気分に大きく影響することになった。その後の影響として、ロシア軍側が主導して大会戦を行うことはなく、このため、この会戦が日露戦争の流れを変える分水嶺になった。
秋山好古は、後に、元帥杖を授与されると言う話もあったが、それを固辞し、故郷松山に戻り、校長先生として後進の指導にあたったと言われている。
立派な人物だ。 弟の方は、体を壊して早逝してしまう。日本海海戦で全てを使い切ったのかもしれない。
その二人の出自は、松山藩士。松山は、賤ヶ岳の七本槍の一人、加藤 嘉明によって築城された。
彼は、徳川譜代家臣の加藤教明の嫡男である。生まれた年の三河一向一揆で、父の教明が一揆側に属して徳川家康に背き、流浪の身となったため、嘉明も放浪することになった。
そして、尾張にて、羽柴秀吉に見出され、七本槍となったのである。
「人間万事塞翁が馬」である。
松山は、残念ながら、加藤家によって続いたのではなく、最終的には、久松松平家の城となり、明治まで続く。久松松平家と言えば、NHKその時歴史は動いたで有名な、松平定知さんも、その家の出身と聞く。
さて、松山には、以前一度言ったことがあるが、松山城の天守閣はすでに時間が過ぎていたので、初登城である。
松山城は、加藤 嘉明が築いたとされるだけに、とても、堅固な城のようで、ロープウェーで行かないと辛い。

これは、物見櫓の前。天守閣ではない。なんと、ラッキーな事に、天守閣等が現存しているのだ!旧き姿を見ることが出来る。

ここを曲がると天守閣。

天守閣の中は、やはり、木の作り。中には、加藤 嘉明の使ったとされる甲冑も存在している!

さて、次は宇和島に向かう。
宇和島城は、板島丸串城の跡に藤堂高虎によって築かれた城。
藤堂高虎は、何度も主君を変えた戦国武将として知られる。それは彼自身の「武士たるもの七度主君を変えねば武士とは言えぬ」という発言に表れているが、彼は苦労人であった。
藤堂氏は先祖代々在地の小領主であったが、戦国時代にあって次第に没落し、高虎が生まれた頃には禄高を持たない雇われ兵と変わらない状態になっていた。
浅井長政に仕え、一番やりの感状をもらうなど、活躍するも、なかなか禄高を得ることができず、各家を転々と回る。彼は、「自らの価値を、その価値どおりに見てくれない上司に対して、忠誠を尽くすのは無駄である。」と考えていたようである。
共感できるものがある。
浅井家臣の磯野員昌だったか、に仕えた時、ようやく、20石あたりの禄高を得る。しかし、数年で辞去。
織田信澄を経て、豊臣秀吉の弟である羽柴秀長に仕え、この時、家老にまで出世する。
彼は、優秀な豊臣家臣団で生き抜くには、槍だけではダメだと、築城術を学んだとされる。
その結果、なんと知行は二万石にまで登る。
しかし、豊臣秀吉が一旦は跡継ぎに定めた豊臣秀次が秀吉により切腹させられ、秀長の跡継ぎも変死(毒殺と言われている)すると、危険をいち早く察知し、二万石を返上し、あっさりと、高野山へ坊主となり仏門に入ってしまう。同僚の家老たちは、次々と切腹させられる中、藤堂高虎は生き残ったばかりか、その生き方を気に入られ、秀吉から誘いを受けるのだ。
そして、7万石になる。
秀吉が死んだ際、次の天下は、徳川家だと見抜き、あっさり豊臣家を離脱。最終的には20万石の大名として、明治維新まで続くのである。彼が辞去した家は、辞去する瞬間は隆盛であったとしても、全て数年後以内に滅んでいることも特徴にあげられる。
さて、その宇和島城だが、伊達政宗の長男、伊達秀宗が拝領して、明治維新まで続くことになる。


天守閣には、何も無く、近くにある伊達博物館に宝物や資料は全て移動させられているが、
ここも焼けていない。天守閣からは宇和島の町が一望でき、非常に心地よい場所である。
伊達秀宗が、何故、東北ではなく、四国に封じられたのか、考察を述べておきたい。
有名な伊達政宗は名前くらいは聞いたことがあるだろうが、山形県の米沢城主であった。
彼は、一代で、福島県の会津城まで攻め落とし、120万石くらいにまでなっていたが、豊臣秀吉の小田原攻めの際の遅参が原因で、米沢から仙台60万石に国替えまでさせられていた。
関が原の合戦の際、家康は、政宗にこうもちかける。「味方してくれたら、100万石の大名にしてやる。」政宗は、東軍に味方し、上杉軍と戦った。しかし、この時、同時に起きた、大崎一揆に影で加担して領土を更にかすめとろうとした事が、家康にばれてしまい、政宗は苦しい言い訳で難を逃れるが、約束を反故にされる。
政宗は面目丸つぶれになったため、家康に交渉する。
家康はこの時、政宗に、加増してやる。ただし、10万石だと言われ、政宗は喜び勇む。
しかし、加増の通達が来た時、それは、本領から遠く離れた宇和島だった。
家康は一石二鳥の手を打ったのだ。我々には家康の考えは以下のようなものであったと推察する。
①遠い場所に飛び地領土を与えると、そこに家臣団を派遣せねばならず、伊達軍は分断される。
②おそらくは、その飛び地に派遣されるのは、長男であるが、庶子であった秀宗である。秀宗は、徳川家に感謝する事だろう。しかも、仙台単独で反旗を翻した場合、10万石ごときで当然味方もいない宇和島は戦力外となる。息子を見捨てはしないだろう。=反乱の目が減る
③政宗の顔は立つ。しかも、家臣への面目もあり断れない。
これが政治である。
現在の場合、マスコミは、無責任な発言でかき乱す。これでは、政治はできないだろうと危惧する。現在の政治家は、政治を知らないし、投票する人も、政治を知らない人が多い気もする。
だから、世界情勢で外交で負けてばかりなのだ。
伊達秀宗は、どのように誕生したのか、面白いエピソードを最後に紹介しよう。
伊達政宗には、愛姫と言う、田村氏の娘が正室として嫁いでいた。しかし、数年来子供が出来なかった。それゆえ、戦乱の世、いつ死ぬとも限らぬ政宗の跡継ぎを作るため、側室がおかれ、そこで出来たのが、この秀宗である。
彼は、伊達政宗が秀吉に下ったあと、秀吉の猶子となり、秀吉のもとで元服し、秀吉から偏諱を受けて秀宗と名乗った。後に豊臣姓も授かり、豊臣秀頼の小姓として任官した。
政宗と正室、愛姫との間に待望の赤ちゃんが授かったのは、秀宗が生まれて後、三年後のこと。
政宗は、嫡男誕生と喜び、生まれてきた子が、女子であると夢にも思わず「五郎八」と書いた名前をもっていた。誕生した子が、娘であると見せられ、愛姫に、なんですか、その名前は!と言われ、とっさに、「これは、いろは」と読むのじゃ、と男子名である五郎八しか考えていなかった政宗が、そのまま五郎八姫にしてしまったと言う。
その後、次男、忠宗が、愛姫との間に生まれ、秀宗の心中は穏やかではなかった。
結果、政宗から秀宗につけられていた家老の山家公頼が対立していた桜田元親に襲撃され一族皆殺しにあった際、秀宗はこれを幕府や政宗に報告しなかったことから、激怒した父によって勘当される。
怒りの収まらない政宗は宇和島藩の返上を申し入れた(和霊騒動)が、老中土井利勝のとりなしで政宗は申し入れを取り下げ、政宗と秀宗は面会し、その場で秀宗は長男であるにもかかわらず仙台藩の家督を嗣げなかったことや、長期にわたって人質生活を送らされていたことから、政宗に対しかなりの恨みを持っていることを話した。
政宗もその秀宗の気持ちを理解し、勘当は解かれた。この件をきっかけとして親子の関係は良好になったとされる。
その宇和島には、天赦園と言う庭があり、それは見事なものだ。



ここの池に住む鯉は、非常に元気で、餌をあたえると、鯉同士が、餌を奪い合い、登ってくるほどである。