Gold mt Eggs NLPトレーナー 西川兄弟による 旅と歴史のブログ -6ページ目

徳島の旅~吉野川ラフティング~

徳島県と言えば、平家の落ち武者、三好一族が有名である。先だってのブログで平家の落ち武者の話を書いたため、ここでは、三好一族について、少し、触れておこう。

阿波の三好氏は清和源氏小笠原一族と言うのが定説であるが、
真の出自は、伊予から来住の久米氏族の後裔で、阿波の久米氏との同族であったことが論考「三好長慶の先祖」で記述されている。これに関連する系譜史料として、板野郡七条村(現板野郡上板町七条)に居た七条氏についての、東大史料編纂所所蔵七条氏系図、七条氏家系考証、七条氏本支録、などの七条安次郎・同安太郎氏の原蔵文書に記載されている。

これによると、鎌倉末期~南北朝初期頃に、三好氏と分岐した七条氏や高志氏がすでに、阿波に存在したことが記載され、そこから、三好氏の先祖はその頃までに阿波に入国していたことが明白である。そして、これら諸氏が藤原姓を称していたことでも、三好一族の本来の出自が清和源氏小笠原一族ではなかったと言う証明になる。

それゆえ、天孫降臨以来の名族、久米歌で有名な久米氏の子孫と考えるのが妥当である。
三好氏は、三好長慶の頃全盛を迎えた。彼は、1552年、足利義輝を京都に迎え細川氏綱を管領職とし幕政の実権を掌握した。

その頃、三好家は長兄の長慶が摂津国・河内国・和泉国の兵を、次兄の三好義賢が阿波衆を、三男の安宅冬康が淡路衆を、四男の十河一存が讃岐衆を率いるという体制で各地を転戦している。

しかし、三好家家老の松永久秀の策動から、長慶の兄弟は順番に死に行き、ついには、実権を松永久秀に握られ、三好氏は没落していくのである。

その徳島から高知にかけて、綺麗な川が流れており、景観も抜群の場所がある。

大歩危・小歩危(おおぼけ・こぼけ)である。
「ほき、ほけ」は断崖を意味する古語であり、そこから付いたという説と、
、「大股で歩くと危ない」という意味で「大歩危」、「小股で歩いても危ない」という意味で「小歩危」という説がある。

いずれにせよ、大歩危峡の断崖絶壁は見る者を圧倒し、小歩危峡は日本一の激流と呼ばれ、共にラフティングの名所としても全国的に知られている。

今回、我々は、小歩危ラフティングに挑もうと思っていたが、水量の関係から、大歩危ラフティングに挑む事となった。

以下は大歩危峡ラフティングの模様である。付近には休憩時に飛込みができる岩などもあり、わざと転覆させたり、落ちたときの救出を楽しんだり、半日~一日楽しめる。終わったら強力な筋肉痛。汗; 大歩危は、水が多く、”波”が楽しい。

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小歩危峡 展望場から。こっちは激流。ラフティング時には転覆が多いと言う。また別の楽しみのようだ。
次回は、小歩危峡にチャレンジしようと思っている。8月一杯までやっているようなので、また来年のお楽しみだ。

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和歌山の紹介~新宮編~

今回は、久々に和歌山南端に向かう。

熊野川流域は、先日、洪水被害のあった場所、我々も寄付したり、復興を支援したが、その爪痕は未だ深く残っている。

どれだけ、復興されたのか?そして、被災した土地で、金銭を使うことが、復興への一番の近道と考え、我々は一路熊野を目指す。

下記は、新宮へ向かう熊野川沿いの道。対岸の道は未だ土砂に埋もれ、
そして、元々なかった滝が出現までしている。

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先のブログでも紹介したように、和歌山は旧い所が多い。

神話の時代、大和盆地に向けて進出した大和朝廷は、紀ノ川流域を拠点にしていたようである。
日本書紀、古事記に、紀ノ川流域の地名が数多く残るからだ。

794年に都が京都に移り、その後、江戸時代の御三家まで、忘れられた感があるが、
一方で、新宮・熊野は、遠く、平安時代においても、熊野詣が盛んに行われた我々和歌山出身のものでも、非常に遠く、実は、和歌山市から、京都に行くよりも、和歌山市から新宮に行くほうが距離的にも遠いし、時間も倍以上かかる。歩いていたかつての人は、本当に一大事の旅であったろう。

和歌山で有力だった豪族は、大王の伴(友の意)と言われた事から姓を授かった大伴氏、そして、紀氏。大伴氏は大連を輩出し、中央政権で主に親衛隊を率いた。同じように軍事氏族であった物部氏は、外征軍と言う役割分担だったとされる。紀氏は、在地豪族として、国造であり、大伴氏の部下として活躍した久米歌で有名な勇壮な久米氏は、直と言う”かばね”である。

彼らは、熊野から北へ向かい、奈良へ入ったとされる。熊野付近で道に迷った時、彼らを導いたのが三本足のカラスであり、これが、八咫烏(やたがらす)である。
なので、熊野三山の紋章は八咫烏なのだ。

熊野から北へと軍を進めた初代の神武天皇軍は、次兄の稲氷尊と、三兄の三毛入野尊を、嵐で失う。日本書紀や古事記では死んだとされているが、三兄の三毛入野尊は、その後、高千穂に帰りついたようだ。高千穂に行くと、帰り着いた三毛入野尊の話が多々残っており、その子孫は三田井氏として、戦国時代に、三田井城が落城するまで高千穂近辺を支配した。

次兄は、朝鮮半島に渡り、在地で王となったと言う他説がある。古代朝鮮半島で日本と同盟関係にあった高句麗の旗印は三足烏であるから、何かしらのつながりがあったのだと思う。

余談だが、長兄の彦五瀬尊は、現在の和歌山市にて戦死するが、
いわば、この熊野は、現在まで連錦と続く天皇家の最初の土地であった。


それだけ、旧い歴史を持つ、この土地を何とか守りたいと思う気持ちから、あまり有名ではないであろうところを今回紹介したい。

まず、阿須賀神社だ。ここには、歴史資料館がある。新宮城から近くではあるが、少しわかりにくい。ただ、そこに存在する社宝等は貴重なものばかりであるので、一度行ってみる事をお勧めする。


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ここは、第五代の孝昭天皇の代の創建で、熊野神社の中ではもっとも旧い。
平安時代後期から12世紀前半までの中世熊野参詣では、阿須賀神社に参詣することが常であった。

熊野事解男之命を主神とし、彼は、黄泉国で伊邪那岐命が妻の伊邪那美命と出会い、 交わした言葉から生まれた神とされている。


そして、この神社近くにある新宮城。
ここは、江戸時代、紀州55万石の付け家老、水野家の新宮領3万5千石の居城であった。
紀州藩には、こうした付け家老が、二人居た。田辺領の、安藤氏と、ここ新宮領の水野氏である。一国一城令のいわば例外であった。

幕藩体制のもとでは、身分はあくまで紀州徳川家の家臣であり、大名としては扱われなかった。水野家は代々家老として藩政に重きを成した。

余談ではあるが、幕末の第二次長州征伐において、田辺領の安藤家軍が、真っ先に退却。そのため、紀州勢含め、総軍総崩れとなる失態があり、その後、日本全国初めての徴兵制が紀州藩でなりたった。津田出(つだいずる)による藩政改革である。
ちなみに、新宮藩兵は、頑強に戦ったとされる。

鳥羽伏見の戦いのさなか、徴兵制を施行し西洋式軍団に生まれ変わった精強な紀州藩は徳川家救援のため、出陣するが、到着前に、将軍徳川慶喜は江戸へと密かに脱出してしまったため、
戦う意義を失い退却。その後、地勢的に孤立する事になるため、新政府軍へ降伏を余儀なくされたのである。

歴史にIfは無いが、鳥羽伏見の戦いに、紀州藩が間に合っていれば、あるいは、新撰組の切り開いた勝機に全軍突撃していれば、今のような政治も知らない人が政治家になって、政権闘争にあけくれ、国が乱れるような事も防げていたのではないか?とも考えてしまう。

ちなみに、和歌山にも黒船が出現した。プチャーン提督率いるロシア船ディアナ号である。
長崎で、幕府との「日露間の条約締結」の直接交渉に失敗し、今回は朝廷や幕府を威嚇することで交渉を進めようとした。

紀州藩領海を、いったりきたりして威嚇しつづけたため、当時の紀州藩は、武士階級6000、農民徴兵兵4000を海岸線に展開、幕府は、下田で交渉する旨を返事したので、「加太浦」に寄港した後、下田に向けて出港したため、戦闘は行われなかったようである。

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登ってみると分かるが、非常に立派な城である。
上から見ると、熊野川や湾が一望できる。



そして、浮島の森。ここ浮島はその名の通りに水に浮かび、1945年(昭和20年)頃までは、台風や荒天などで大風が吹いたり、島の地表で強く足踏みするなどすると、島全体が揺れ動いたという。

中に入ってみると、危険を防ぐため、遊歩道が整備され、下には決して下りるなと書かれている。

島には「おいの伝説」と呼ばれる伝説がのこされており、
この島の付近に、おいのという娘が住んでいた。ある日、おいのは、父親とともに薪採りに島に渡った。昼飯時に弁当を開いた父娘だったが、箸を忘れてきたことに気がついた。おいのは、アカメガシワの枝を折りとって箸の代わりにしようと、森の奥深くに入っていったが、なかなかもどってこない。怪しんだ父親が探しに行くと、まさに娘が大蛇に飲み込まれようとしているところであった、驚いた父親が助けようとしたが、娘は蛇の棲む底なしの井戸についに引き込まれてしまった。
浮島内には「蛇の穴」と呼ばれる沼があり、伝説の井戸であると言われている。

注目すべきは、寒地暖地両方の植物が混在するだけでなく、温暖な南国のそれも都市の真っ只中にある低湿地に高原性の植物まで見られるという、植物学的に極めて珍しい混成群落をなしているばかりか、島の上に天然スギを優占種とする森林が構成されている。

植物が好きな方にはお勧めの場所である。分からない人は、見ても、多分、ただの森だとしか思えないかもしれないが。。。

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さて、新宮付近には、もう一つ重要な神社がある。熊野速玉神社である。
熊野三山である。神社には宝物殿もあり、主に室町時代の貴重な品を見ることができる。

今回、ここ新宮に来た一つの目的は、新宮の花火大会を見るためだった。
新宮の花火大会は、約5000発もの花火があがり、しかし、5万人程度と、さほど混みあわない。

一区切り毎に、資金を寄付した企業の名が読み上げられ、一区切り毎に花火群にテーマがあり、まったく飽きない。それぞれの区切りで盛り上がりがあるのだ。

ここ新宮には、秦の徐福が始皇帝の命により、不老長寿の薬を求めて東海へ船出し、ここに漂着したとする伝承がある。実際、熊野速玉神社の花火大会は、熊野徐福万燈祭と言う。

徐福と、熊野のつながりが深く、特に、阿須賀神社裏に蓬莱山と言う名がつけられている事からも、前246年頃が、実際には、この神社の創建で第五代孝昭天皇の治世であったのかもしれない。と思うのは単なる感傷であろうか。。


花火の模様は以下である。新宮はさほど広くなく、一日もあれば回れる。花火前について、色々観光し、次の日は、近くの那智勝浦町や、熊野本宮町、串本、太地、北山村などを訪れるのも良いかもしれない。

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京都の紹介

今回は、京都のちょっとしたスポットの紹介である。

兄、西川知希トレーナーは、京都大学出身。京都は、故郷和歌山、育った大阪の堺同様に第三の故郷とも言える。

実はお勧めなのが、サントリー山崎蒸留所である。工場見学に申し込むと無料試飲も出き、有料試飲では、珍しいウイスキーが堪能できる。

我々も何度も足を運んだのだが、何度行っても、季節によってまた別の味がある。
ウイスキーは格別。和製のみならず、スコッチやアイリッシュなども置いていて、味比べが面白い。

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そして、8/16と言えば、大文字焼きで有名な五山の送り火である。五山の送り火は、全部を見るのはなかなか難しい。船岡山公園からは、鳥居以外の全ての文字が一望できるが、鳥居が見えない。鳥居を見るためには、嵯峨にある広沢池に行く必要がある。

時間差で点灯していき、鳥居が一番最後なので、以前は、船岡山で見た後、愛車のユーノスロードスターで全速力で広沢池に飛ばし他ものの、消えた直後であった。燃え残りが少し見えたが。

京都大学の屋上からは、全てが何とか見える場所もあるのだが、基本立ち入り禁止。

今回は、鳥居+灯篭流しについて紹介する。

五山の送り火は

「大文字」(大文字山(如意ヶ嶽):20時00分点火)
「松ヶ崎妙法」(西山及び東山:20時10分点火)
「舟形万灯籠」(船山:20時15分点火)
「左大文字」(左大文字山:20時15分点火)
「鳥居形松明」(曼陀羅山:20時20分点火)
以上の五山で炎が上がり、お精霊と呼ばれる死者の霊をあの世へ送り届けるとされる。

妙の字と法の字は、二文字で一つとみなされ、五山なのだが、実際には六文字あり、六山であったりする。

鳥居を綺麗に見ることが出来る広沢池では、灯篭流しが行われる。

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せっかくだから灯篭流しの受付しようと進むと、「はい、戒名書いて下さい。一戒名につき千円で一基出ます。」と言われる。

我々は祖父を弔おうと頭の記憶から必死に戒名を引きずり出す。
NLPトレーナーだから脳をうまく使っているため出来るのかもしれないが、バッチリ。
NLPとは脳科学を利用した「成功するために脳をどのように使うか」を一般人が使えるように体系化されたもので、我々はそのトレーナーなのである!

ちなみに、「法雲院 春岳文徳居士」と「寿光院 完空赫道光徳居士」である。
普通の人には覚えてられないだろうし、かつての我々だと出せなかったに違いない。
ラッキー?である。

灯篭流しの模様は以下だ。

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そろそろ鳥居が点灯。あいにくカメラが起動できず、携帯からなので、画質は悪いが、灯篭流しの上に鳥居が光っているのが見えるだろうか・・・・。

船岡山に比べると混まないが、車が通ったり、警備しているおまわりさんの声がちょっと邪魔だったりするのがもったいない。でも、良い雰囲気である。

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静岡の旅~熱海編~


今回は熱海の紹介。熱海は歴史的にも古い温泉であり、約1500年前の仁賢天皇の時代、海中から熱湯が噴き出し、魚が爛れ死ぬのを近郷の者が発見、以来「熱い海」であることから、熱海と名付けられたとされている旧い土地。

ちなみに、仁賢天皇は、雄略天皇と、天皇位を争い、もっとも天皇位に近かったとされる市辺押磐皇子の第一皇子である。市辺押磐皇子は、殺害され、その皇子の億計王と弘計王は、殺害の手から逃れるため、牧童として隠れていた。

雄略天皇は、自らが皇位につくため、近親の皇子を殺害しまくったため、皇統が尽きたため、探し出された。

なお、その際に、弟の弘計王が、勇気を出して自らの姓名を明かす。それにより、兄の億計王は、弘計王が皇位につくべきだと述べ、そのため、先に弟の弘計王が、顕宗天皇として即位。兄の億計王が皇太子となった。

顕宗天皇は皇子なくして早くに世を去り、結果、兄の億計王が即位。これが仁賢天皇である。しかし、この系統も断絶し、応神天皇の五代の孫である継体天皇が迎えられ、また日本は騒乱の時期に入るのであるが、また別のときのこの話をするとしよう。

いずれにせよ、そのくらい、旧い時代の話であるということである。




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ここは、伊豆山神社。源頼朝が北条政子と恋仲になったところだ。

源頼朝には、実は北条政子の前に、恋人が居た。八重姫という。この八重姫の父は平家方であり、父親不在時に、子供も生まれてしまったのだが、帰ってきた父が激怒し、赤子を水に沈めて殺し、仲を引き裂いてしまった。その後に出会ったのが北条政子である。

北条政子については、気の強い人間らしいエピソードがある。ある日、政子の妹が夢を見て、姉である政子に相談をした。政子はそれを聞いて、良い夢であると判断したのだが、妹にそれは言わず、その夢は悪夢だから、姉である私が夢の交換をしてさしあげましょうと言い、夢を買い取った。その後、頼朝と結ばれ、天下人の妻となった。

まぁ、たまたまかもしれないが、頼朝の死後に権勢を振るった政子らしいエピソードではある。


さて、以下は、走り湯といって、間欠泉である。少し小さな洞窟の入り口から奥へ入ると、ぼこぼこと湯気を立てて、沸騰した温泉がわく。写真をとっても、湯気で以下のようになってしまう。

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次に、七湯めぐり。七湯とは、この熱海市に古くからあった湯のなごりで、その一部では、温泉卵を作れたりもする。街角の板にエピソードがかかれてあり、のんびりまわってみるのも面白い。

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これが、温泉卵つくってるところである。




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そして、来宮神社。ここには、本当に大きな楠木がある。楠木を一周すると、寿命が一年のびるとか、願いがかなうとか、色々な言い伝えがある。しかし、見事な大楠木である。一度見てみることをお勧めする。

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神奈川の旅~箱根、小田原、鎌倉編~

今回は、アジサイ時期の箱根を紹介しよう。

箱根は江戸時代は箱根の関所が築かれた難所。中世では、源頼朝が挙兵した石橋山の合戦が有名である。石橋山では、源頼朝は、三浦一族が間に合わず、舅の北条時政の長男北条宗時が戦死してしまうなど、多くの痛手をこうむり、離散する。良識派と言われていた宗時が生きていれば、
利己主義的な北条時政や尼将軍といわれた北条政子の専横もなく、もう少し安定した政権になっていたかもしれないと考えるのは、個人的感傷か。

さて、箱根では、現在、ヴェネチア ビーズ展が、箱根ガラス美術館で公開中だ。

ヴェネチアでは、中世、ガラス工芸が発達。しかし、大航海時代と共に、ヴェネチア商人の優位性が失われつつあったことから、ガラス工業を門外不出にしようと、全てのガラス職人をとある島に移住し、厳しく統制した。そのため、今でも、その技術は一級品である。

以下に、それらを紹介しよう。




まず、箱根ガラス館前。アジサイの季節らしく、非常に美しい景観。

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下記のようなものが多々展示されている。

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美術館内は、庭も落ち着いた雰囲気でのんびりするのも良い。


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そして、箱根登山鉄道からの風景。駅舎にもあじさいがあるが、登山鉄道の景色はあじさいで一杯である。



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箱根登山鉄道からは、小田原が近い。天下の名城、小田原城へ。
小田原城は天下の堅城といわれ、上杉謙信に10万の軍勢で囲まれても落ちなかった城である。

小田原城についてのエピソードを一つ紹介したい。

天正18年。豊臣秀吉の北条攻めで、海陸両方から20万の大軍に囲まれても、力攻めでは落ちなかった。

当時の情勢では、農民は高い税率を科され、5公5民=つまり、税率50%であったが、
北条氏は、北条早雲以来、4公6民という、当時としては、民を慈しむ税率であった。

しかし、豊臣秀吉は、6公4民という政策であり、北条氏としては、自らの理念に反する豊臣氏の軍門に下るわけにはいかず、伊達氏、徳川氏の援軍と挟み撃ちにするという作戦のため、小田原にて籠城するのだ。

その際、城付近のみならず、町全体を城郭、堀で囲み、近隣の農民なども含め、城へと保護したといわれる。
今も、付近には、その当時の塁の跡が残っている。

しかし、頼みの綱の援軍は来ず、籠城を主張したはずの家老からも裏切りがでるなど、北条氏5代の北条氏直は、これ以上籠城しても、民を苦しめるだけであると、単身降伏。

この降伏については、早すぎた降伏など批判される事も多く、確かに、そのまま籠城していれば、兵糧が尽きたのではないか?などの議論もあるにはあるが、我々は、この精神には感服したいと考える。 どのみち押し込まれるなら、自らの家のことより、民の労苦を減らす。そのような考えを今のどの人間が持てるであろうか?



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小田原といえば、小田原藩と江戸幕府の素晴らしいエピソードを簡単に紹介したい。

1707年冬。富士山が大噴火した。富士山火口近くの村は壊滅。現在の御殿場市から小山町は特に深刻であり、水がせき止められ氾濫。田畑は火山灰でつかいものにならず、深刻な飢饉状態となる。しかし、小田原藩には民衆救済の余力なく、窮した小田原藩は、江戸幕府に救済を求めた。

時の藩主は、大久保忠増。しかし、江戸幕府の救済は江戸商人の不正により、費用の大半を別のことに使い込んだ結果としての手抜き工事のため、思うように進まなかった。
その上、もっとも被害の酷かった駿東郡足柄・御厨地方へ幕府の支援が一切行われず、59もの村が「亡所」とされ、放棄され飢餓に苦しむ者が続出。


時の関東郡代 兼 砂除川浚奉行(要は震災復興奉行) 伊奈忠順 は、独断で、幕府の米倉を開き、1万3000石を村々の飢民へ分配した。結果的にこの無断行為を咎められ、忠順は罷免。後に切腹を命じられたとされる。 幕府高官のような政府高官は、今の世界にいるだろうか?

しかし、この状態は、徳川吉宗が将軍に赴任してから一変する。
徳川吉宗は、一時的に、小田原藩領を幕府直轄とし、地方行政を直接批判した民間人の田中休愚に目を付け、彼を工事の責任者に抜擢、復興をすすめる。

吉宗は談合を厳しく取り締まり、田中休愚を助け、それにより、利益優先で手抜き工事をしていた江戸商人ではなく、地元の安価な商人によるしっかりと着実な工事で、着実に復興はすすむ。
また、村ごとの負担も公平感がでるようにし、ついに、復興はなった。

もちろん、復興は一朝一夕とは言わず、苦難の道である。

しかも、幕府は、復興がなった土地から、少しずつ、小田原藩に土地を返還し、復興がなったのは、100年も経過していたといわれる。

NHKその時歴史は動いたの富士山大噴火でも紹介されている話であるので、詳しくはそちらをごらんになれば良いと思う。(#注:伊奈忠順の話はでてこない。)



小田原城では、歴史を感じることができる。上記はあまり載ってないエピソードなので紹介しておく。


小田原を後にすると、今度は、江ノ電で湘南を走るとすぐに、鎌倉は意外に近いので、抱き合わせで楽しむことができる。


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すると、鎌倉に着く。ここは鶴岡八幡宮。源氏の氏神さまである。
現在、平清盛という大河ドラマがあるが、脚色が入りすぎていて、興をそぐ。

ただ、源氏が肉親で血で血を洗う争いが多かったのは事実であり、有名な源義家ですら、最悪の兄弟げんかを続けた。

次男の賀茂次郎義綱、三男の新羅三郎義光と、長男のこの義家は、常に対立状態にあった。

後三年の役、では、領土割譲などをもって、次男の義綱と和解し、協調して出兵。それでも、厳しかったため、三男とも和解の上、ようやく勝利を得たとされる。

その後、義綱が先立って死去すると、義綱の息子たちに、義光は戦争をふっかけ、ほぼ全滅させてしまう。義光は武田氏の先祖である。義家の子孫も、その抗争を続けた。

有名な、鎌倉幕府の初代将軍、源頼朝は三男であるが、長男の義平、次男の朝長、四男の義門は、平治の乱で死亡。五男の希義は、頼朝挙兵と同時に抹殺。六男の範頼、九男の義経は、頼朝によって殺害され、七男の全成 は頼朝の跡継ぎ頼家によって殺害。八男の義円は、戦死。

ちなみに、頼朝の息子である頼家は北条氏によって暗殺。実朝も北条氏にそそのかされた頼家の長男に暗殺され、源氏の直系は滅亡してしまうのだ。



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鶴岡八幡宮には、かつて、大銀杏があったが、落雷によって焼け落ちた。しかし、奇跡的に復旧し、現在に至っている。


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さいごに、鎌倉の大仏。昔は立派な大仏殿があったとされるが、津波によって流され、今のような野ざらし状態になっているようだ。

観光客で一杯。大仏鑑賞への道すがら、たくさんのお店があるので、買い食いを楽しむ。


一泊二日くらいで、充分にまわれる距離なので、この組み合わせで遊んで見るのはいかがでしょう?歴史も感じられるし、気持ち良い旅であった。