奈良の紹介
どうも、西川兄弟です。
和歌山と奈良、京都を結ぶ、京奈和道がかなり開通した結果、奈良県に行きやすくなりました。
花の季節は、和歌山も綺麗なのですが、隣接する奈良県も相当綺麗な場所が多いので、紹介したいと思います。
まずは、久米寺。創建は、聖徳太子の次弟とされる久米皇子。平群氏=>葛城氏=>大伴氏=>蘇我氏と続く古代豪族の権勢を防ぐため、初めての皇族大将軍として、西征のため、夫人らをひきつれて、九州に向かいましたが、その途中に、病死してしまいます。毒殺説もあります。
聖徳太子は、用命天皇の第一皇子です。久米皇子は第二皇子で、それ相応の巣晴らしい彫刻が寺に施されています。

また、ここは、久米仙人も祀っており、紫陽花の季節は、かなり綺麗なようです。

ここ久米寺は、大伴氏が率いた久米軍団の長、大久米命が賜った、久米邑にあります。
その久米氏の祖先神を祀る、久米大縣神社が、久米寺に隣接しています。
残念なのですが、宮司さんがおらず、今は廃れているようです。年に一度のお祭りは今でも続いているようなので、今度はそれを見てみたいものです。

久米寺から少し北上して郡山に行くと、大和郡山城があります。側用人として権勢を誇った柳沢氏の城です。桜の季節に訪れると本当に綺麗です。屋台のおじさん、おばさんも、すごく親切で気持ちよくなります。

久米寺から南に少し行けば、當麻寺があります。これまた聖徳太子の弟で、久米皇子亡き跡の将軍職を継いだ第三皇子當麻皇子が創建したため、當麻寺といいます。
聖徳太子は、弟の久米皇子の死にもめげず、さらに皇族将軍を置き、蘇我氏の影響下にあった大伴氏を牽制しました。もちろん、物部氏に対してもです。
古代では、この二族のいずれかを将軍にしていたので、皇族が将軍になることで、曽我氏を筆頭とする古代豪族の影響を排除しようとしたのです。
しかし、結局、聖徳太子は心半ばで政治の中枢から外され、早逝してしまいます。
その後、直径の子孫たちは、蘇我氏によって滅亡させられます。
その後、曽我氏本宗家も藤原氏の陰謀により滅亡。
平安時代には、藤原氏に対抗できる豪族はいつの間にか、大伴氏のみになっていました。
歴史を見ると、大伴氏は私利のために動かず、愚直に、軍事氏族としての責務を全うしようと
している気がします。
そのためか、藤原鎌足の息子不比等とその息子の四兄弟は、時の、大伴氏の氏長者であった大伴旅人を大事な朝議を行いたい際には、大宰府防衛のためと称して、将軍として大宰府に向かわせ、都から遠ざけています。
天皇を守ってきた最後の豪族だった大伴氏も独自の軍事力を奪われていた結果、次第に力を失い、旅人の子、家持の死後、家持陰謀説を持って子孫が失脚した事によって、藤原氏の一人がちとなっていきます。
後の世では、藤原氏と天皇の皇子から出た皇族系豪族以外は、中央には残っていきません。 明治維新の時には、藤原氏の一族と、源氏の一部のみが、高官になれる家として残っていました。
なお、相撲の始まりの場所でもあります。ここは、牡丹が本当に見事です。この凄さは驚きます。必見でしょう。




近鉄奈良駅から歩いて数分で、鹿や東大寺、興福寺、春日大社が並ぶ奈良公園があります。
ここは超広大。ちょっと立ち寄るつもりだと、すべて見て回れないほどです。
鹿は、しかせんべいを買うと、危ないので、注意です。あまり長らくもってると手をかまれます。せんべいを買ったら、すぐにいくつか放り投げて、手渡しは少しだけにしましょう。
我々は足とか手とか普通に噛まれました。せんべいをはやくよこせと言う催促です。
ちなみに、巨大で、180cm以上なので、お子様は要注意。

奈良と大阪の県境の石切には物部氏系の石切剣箭神社があります。腫れ物の神様」として親しまれ、本殿前と神社入り口にある百度石の間を行き来するお百度参りが全国的に有名です。
なお、主祭神は、物部氏の祖先神である可美真手命です。門が見事です。
実際には東大阪にあるのですが、大阪からより、奈良からの方がアクセスが良い気がしましたので、ここで紹介しておきます。

追記ですが、奈良は、現状では、車の交通事情が最悪です。なので、電車とバス、タクシーでの旅をお勧めします。
和歌山と奈良、京都を結ぶ、京奈和道がかなり開通した結果、奈良県に行きやすくなりました。
花の季節は、和歌山も綺麗なのですが、隣接する奈良県も相当綺麗な場所が多いので、紹介したいと思います。
まずは、久米寺。創建は、聖徳太子の次弟とされる久米皇子。平群氏=>葛城氏=>大伴氏=>蘇我氏と続く古代豪族の権勢を防ぐため、初めての皇族大将軍として、西征のため、夫人らをひきつれて、九州に向かいましたが、その途中に、病死してしまいます。毒殺説もあります。
聖徳太子は、用命天皇の第一皇子です。久米皇子は第二皇子で、それ相応の巣晴らしい彫刻が寺に施されています。

また、ここは、久米仙人も祀っており、紫陽花の季節は、かなり綺麗なようです。

ここ久米寺は、大伴氏が率いた久米軍団の長、大久米命が賜った、久米邑にあります。
その久米氏の祖先神を祀る、久米大縣神社が、久米寺に隣接しています。
残念なのですが、宮司さんがおらず、今は廃れているようです。年に一度のお祭りは今でも続いているようなので、今度はそれを見てみたいものです。

久米寺から少し北上して郡山に行くと、大和郡山城があります。側用人として権勢を誇った柳沢氏の城です。桜の季節に訪れると本当に綺麗です。屋台のおじさん、おばさんも、すごく親切で気持ちよくなります。

久米寺から南に少し行けば、當麻寺があります。これまた聖徳太子の弟で、久米皇子亡き跡の将軍職を継いだ第三皇子當麻皇子が創建したため、當麻寺といいます。
聖徳太子は、弟の久米皇子の死にもめげず、さらに皇族将軍を置き、蘇我氏の影響下にあった大伴氏を牽制しました。もちろん、物部氏に対してもです。
古代では、この二族のいずれかを将軍にしていたので、皇族が将軍になることで、曽我氏を筆頭とする古代豪族の影響を排除しようとしたのです。
しかし、結局、聖徳太子は心半ばで政治の中枢から外され、早逝してしまいます。
その後、直径の子孫たちは、蘇我氏によって滅亡させられます。
その後、曽我氏本宗家も藤原氏の陰謀により滅亡。
平安時代には、藤原氏に対抗できる豪族はいつの間にか、大伴氏のみになっていました。
歴史を見ると、大伴氏は私利のために動かず、愚直に、軍事氏族としての責務を全うしようと
している気がします。
そのためか、藤原鎌足の息子不比等とその息子の四兄弟は、時の、大伴氏の氏長者であった大伴旅人を大事な朝議を行いたい際には、大宰府防衛のためと称して、将軍として大宰府に向かわせ、都から遠ざけています。
天皇を守ってきた最後の豪族だった大伴氏も独自の軍事力を奪われていた結果、次第に力を失い、旅人の子、家持の死後、家持陰謀説を持って子孫が失脚した事によって、藤原氏の一人がちとなっていきます。
後の世では、藤原氏と天皇の皇子から出た皇族系豪族以外は、中央には残っていきません。 明治維新の時には、藤原氏の一族と、源氏の一部のみが、高官になれる家として残っていました。
なお、相撲の始まりの場所でもあります。ここは、牡丹が本当に見事です。この凄さは驚きます。必見でしょう。




近鉄奈良駅から歩いて数分で、鹿や東大寺、興福寺、春日大社が並ぶ奈良公園があります。
ここは超広大。ちょっと立ち寄るつもりだと、すべて見て回れないほどです。
鹿は、しかせんべいを買うと、危ないので、注意です。あまり長らくもってると手をかまれます。せんべいを買ったら、すぐにいくつか放り投げて、手渡しは少しだけにしましょう。
我々は足とか手とか普通に噛まれました。せんべいをはやくよこせと言う催促です。
ちなみに、巨大で、180cm以上なので、お子様は要注意。

奈良と大阪の県境の石切には物部氏系の石切剣箭神社があります。腫れ物の神様」として親しまれ、本殿前と神社入り口にある百度石の間を行き来するお百度参りが全国的に有名です。
なお、主祭神は、物部氏の祖先神である可美真手命です。門が見事です。
実際には東大阪にあるのですが、大阪からより、奈良からの方がアクセスが良い気がしましたので、ここで紹介しておきます。

追記ですが、奈良は、現状では、車の交通事情が最悪です。なので、電車とバス、タクシーでの旅をお勧めします。
大阪の紹介
西川兄弟です。
最近、更新が滞ってます。楽しみにしてくれている方、すいません。
超がつくくらい多忙なんです。
写真はたまってますので、ゆっくり更新していきます。つなぎに、大阪の紹介をしたいと思います。
大阪の観光と言えば、大阪城や通天閣など大阪市が有名なのですが、少し別の場所に足をのばせば、また違うものもあります。
歴史好きなら、岸和田がお勧めです。
岸和田には、岸和田城が残ります。江戸時代の城主は岡部氏。元は駿河の今川義元(戦国時代)今川了俊(室町時代)で有名な、今川氏の宿老であった、岡部正綱の子孫です。岡部氏は、その後武田信玄に仕え、武田氏が滅亡時に、徳川家康の家臣となりました。
実は、少年時代の正綱は人質として駿府に連れてこられた徳川家康と仲良くなり、岡部家は日常生活面で助力するなど家康に対して今川家の重臣の中では最も好意的な態度をとっていた事がわかっています。
それだけではありませんが、いくつかの手柄の結果、岡部氏は和泉岸和田藩主となるのです。
岸和田城は、和歌山の雑賀衆/根来衆を中心とした軍 対 豊臣秀吉の軍 との戦いの最前線でもありました。 雑賀衆が鉄砲隊をもって城にこもっています。
城内に、そのときの模様がパネルで示されています。小さな城ですが、内部の展示もおもしろいです。


次に、城の近くにですが、だんじり会館があります。だんじり祭りが開催されていない時でも、
多少の体験ができるようになっています。
もちろん、本物の方が迫力満点なので、だんじり祭りと抱き合わせに行くのが良いかもしれませんね。
次に、大阪は本町にある、摂津一宮の坐間神社。紫陽花の季節はきれいな神社です。ちょうど今が見ごろかも!神武天皇が即位されたときに御神勅があったらしく、その時を起源としています。大阪のど真ん中にある神社です。御神紋は白鷺です。
ちなみに、”いかすり”神社と読みます。御主印も格好良い印章でした!

そして、枚岡神社。こちらは河内一宮。近鉄線の枚岡駅下車すぐです。こちらは梅が有名。
枚岡神社は、中臣氏の氏神です。中臣氏の内、藤原氏に改姓した藤原鎌足の一族は春日大社を別途氏神としましたが、こちらが、古代から続く本家本元でしょう。
由緒正しい神社だけあって、中も広く、何か荘厳な感じがします。


ここは、天王寺公園の中です。天王寺動物園や、市立美術館があります。
市立美術館、以外に良い企画展が入ってたりしますし、この公園内も落ち着く場所なので、
ちょっと立ち寄るのには良いかもしれません。

以下は、大仙公園内の堺市立博物館からの風景です。大仙公園は、仁徳天皇綾の前に位置しており、中に小さな陵墓もあります。 ピクニックしても良いし、運動もできるし、博物館では、
天皇陵からの出土物なども見れます。 今は、南海ホークス展もやってるはず。
ここ、昔住んでた懐かしい土地なんですよね。第二の故郷とも言えるので、ちょくちょくお邪魔しています。
最近では、めったに知り合いやかつての友人にも出くわさなくなりました。
と思っていたら、とある同級生の女性と、25年ぶりにつながりをもてました。かつての仲間と長い時間を越えて話ができるのは幸せなものです。先日も、近所に住んでいた小学校時代の幼馴染の男性とつながりをもてましたし、ちょっとした幸せな気分を味わっています。
別に、ここで出会ったわけではないのですが、かつての場所を訪れて、そのときのことを考えていると、脳もそちらを向くのか、運勢がそっちに流れてくれるのかもしれません。
不思議なことです。

そして、ちょっとマニアックなのですが、梅の季節ならば、道明寺天満宮がお勧めです。
近鉄道明寺駅からすぐにあります。
道明寺付近は、古くは、古代豪族土師氏の本拠地でした。土師氏出身で一番出世したのは、あの有名な菅原道真です。なので、もともと、土師神社があったところに、拡張されて、道明寺天満宮が建立されました。その中に、もともとの本社である土師神社があるようになっています。
ここは旧い土地らしく、近くには、同じく古代豪族である大伴氏の伴林神社があります。道真の母君が、大伴氏の出身であり、道真を大伴氏も後見したようです。
大伴氏は、藤原氏に対抗できる最後の古代勢力でしたので、道真は代理戦争の渦中にいたのかもしれません。ついでですが、大伴氏は、藤原氏全盛の世に適合しようと、藤原氏との政略結婚を繰り返しますが、伴善男大納言が失脚したあとは、中堅貴族化し、最後には中央から姿を消してしまいます。藤原氏以外の古代から続く豪族の全ては中央から姿を消し、地方に残った血が、戦国時代を生き抜きました。
町並みなどを見ても、雰囲気が良い場所です。なお、道明寺天満宮の、宝物殿もすばらしいものがおいてありました。梅の季節に、再び訪れたいなと思います。


最近、更新が滞ってます。楽しみにしてくれている方、すいません。
超がつくくらい多忙なんです。
写真はたまってますので、ゆっくり更新していきます。つなぎに、大阪の紹介をしたいと思います。
大阪の観光と言えば、大阪城や通天閣など大阪市が有名なのですが、少し別の場所に足をのばせば、また違うものもあります。
歴史好きなら、岸和田がお勧めです。
岸和田には、岸和田城が残ります。江戸時代の城主は岡部氏。元は駿河の今川義元(戦国時代)今川了俊(室町時代)で有名な、今川氏の宿老であった、岡部正綱の子孫です。岡部氏は、その後武田信玄に仕え、武田氏が滅亡時に、徳川家康の家臣となりました。
実は、少年時代の正綱は人質として駿府に連れてこられた徳川家康と仲良くなり、岡部家は日常生活面で助力するなど家康に対して今川家の重臣の中では最も好意的な態度をとっていた事がわかっています。
それだけではありませんが、いくつかの手柄の結果、岡部氏は和泉岸和田藩主となるのです。
岸和田城は、和歌山の雑賀衆/根来衆を中心とした軍 対 豊臣秀吉の軍 との戦いの最前線でもありました。 雑賀衆が鉄砲隊をもって城にこもっています。
城内に、そのときの模様がパネルで示されています。小さな城ですが、内部の展示もおもしろいです。


次に、城の近くにですが、だんじり会館があります。だんじり祭りが開催されていない時でも、
多少の体験ができるようになっています。
もちろん、本物の方が迫力満点なので、だんじり祭りと抱き合わせに行くのが良いかもしれませんね。
次に、大阪は本町にある、摂津一宮の坐間神社。紫陽花の季節はきれいな神社です。ちょうど今が見ごろかも!神武天皇が即位されたときに御神勅があったらしく、その時を起源としています。大阪のど真ん中にある神社です。御神紋は白鷺です。
ちなみに、”いかすり”神社と読みます。御主印も格好良い印章でした!

そして、枚岡神社。こちらは河内一宮。近鉄線の枚岡駅下車すぐです。こちらは梅が有名。
枚岡神社は、中臣氏の氏神です。中臣氏の内、藤原氏に改姓した藤原鎌足の一族は春日大社を別途氏神としましたが、こちらが、古代から続く本家本元でしょう。
由緒正しい神社だけあって、中も広く、何か荘厳な感じがします。


ここは、天王寺公園の中です。天王寺動物園や、市立美術館があります。
市立美術館、以外に良い企画展が入ってたりしますし、この公園内も落ち着く場所なので、
ちょっと立ち寄るのには良いかもしれません。

以下は、大仙公園内の堺市立博物館からの風景です。大仙公園は、仁徳天皇綾の前に位置しており、中に小さな陵墓もあります。 ピクニックしても良いし、運動もできるし、博物館では、
天皇陵からの出土物なども見れます。 今は、南海ホークス展もやってるはず。
ここ、昔住んでた懐かしい土地なんですよね。第二の故郷とも言えるので、ちょくちょくお邪魔しています。
最近では、めったに知り合いやかつての友人にも出くわさなくなりました。
と思っていたら、とある同級生の女性と、25年ぶりにつながりをもてました。かつての仲間と長い時間を越えて話ができるのは幸せなものです。先日も、近所に住んでいた小学校時代の幼馴染の男性とつながりをもてましたし、ちょっとした幸せな気分を味わっています。
別に、ここで出会ったわけではないのですが、かつての場所を訪れて、そのときのことを考えていると、脳もそちらを向くのか、運勢がそっちに流れてくれるのかもしれません。
不思議なことです。

そして、ちょっとマニアックなのですが、梅の季節ならば、道明寺天満宮がお勧めです。
近鉄道明寺駅からすぐにあります。
道明寺付近は、古くは、古代豪族土師氏の本拠地でした。土師氏出身で一番出世したのは、あの有名な菅原道真です。なので、もともと、土師神社があったところに、拡張されて、道明寺天満宮が建立されました。その中に、もともとの本社である土師神社があるようになっています。
ここは旧い土地らしく、近くには、同じく古代豪族である大伴氏の伴林神社があります。道真の母君が、大伴氏の出身であり、道真を大伴氏も後見したようです。
大伴氏は、藤原氏に対抗できる最後の古代勢力でしたので、道真は代理戦争の渦中にいたのかもしれません。ついでですが、大伴氏は、藤原氏全盛の世に適合しようと、藤原氏との政略結婚を繰り返しますが、伴善男大納言が失脚したあとは、中堅貴族化し、最後には中央から姿を消してしまいます。藤原氏以外の古代から続く豪族の全ては中央から姿を消し、地方に残った血が、戦国時代を生き抜きました。
町並みなどを見ても、雰囲気が良い場所です。なお、道明寺天満宮の、宝物殿もすばらしいものがおいてありました。梅の季節に、再び訪れたいなと思います。


鳥取県の旅~三徳山 三仏寺 投入堂 編~
三仏寺投入堂(三徳山)へ行ってみた。
実は、以前冬に来て、閉山していたので、リベンジだった。お堂への道は4月から開山しているようである。
麓にあるお堂の裏の方から投入堂への道は続いて・・・いなかった。
投入堂への道のりは、始まってすぐ、足と手を使って登ることになる。
太い木の根っこをつかんだり、足場を探したり、急斜面を写したのが、下の2枚の写真だ。
ただの登山を想像してた我々は、いきなり考えが甘かったのである。
※危険なので、山へ登るときは十分下調べしてください。


ロッククライマーにでもなった気分だった。さすが、修行の現場!

ところどころつかむところがなかったり、
大岩を登るようなところは、綱が張られてたりします。

中継点の鐘楼堂で、大きな鐘を突く。
既にへろへろで、投入堂までの道のりは半分ぐらいだと思っていたが、
まだ、1/3程度だったように思う。

途中、朽ちて枯れてしまった太い幹から新しい生命が誕生しているのを見て、
元気を少しわけてもらう。

そして、一歩一歩進みながら大きなお堂の下にたどり着く。
写真に見える鎖を頼りに登っていくのだった。

登り切ったところで着いた~っと思ったが、ここも中継点だった。
ここから眺める景色は素晴らしかった。

気力を振り絞ってなんとか投入堂までたどり着く。

そして、現地の食材を使った食事。道の駅にて。
その後、せっかく因幡に来たと言う事で、白兎神社に行く。あの有名な、大黒さんが兎さんをがまの穂で癒してあげた、因幡の白ウサギで有名な伝説の地である!
因幡の白ウサギは有名すぎるので、物語は割愛するが、余談がある。実は、白ウサギの話は、因幡の国の八上姫に求婚に行く時の話であり、大国主命は、この美しい姫を奥方に据える事になる。しばらく、因幡の国で幸せな結婚生活を送っており、木俣神(御井命)と言う長男を得る。
大国主命が贈り物をつめた袋を捨てた千代川の河原が「袋河原」、恋文を書いたところが「倭文(しどり)」伯耆の国一宮倭文神社にもその名前が残る。
だが、大国主には正妻で超嫉妬深い須勢理毘売(素戔嗚尊の末娘)がおり、八上姫はこの正妻を恐れ、子供を置いて因幡へと帰ってしまうのである。
後世には、源頼朝の妻、北条政子が、頼朝の側室の家に火をつけたり、夫婦げんかに巻き込まれた配下の武士が切腹させられたりと言う例があるが、やはり、素戔嗚尊の娘である事からも、後ろ盾もある上、気性も荒そうである。感情的になった須勢理毘売はよほど怖かったのだろうと推察する。

さて、白兎神社の横には、道の駅があり、そこで、新鮮な烏賊(いか)を食べる事が出来る。

ここまで来たならと、鳥取砂丘に最近できた砂美術を見に行く。
なかなか壮観である。


そして、伯耆の国一宮の倭文神社。山の中であり、午後16:00にも関わらず、すでに、閉まっている。が~ん。御朱印はまた次回にしよう。
倭文神=建葉槌命が主祭神で、日本書紀に記述がある葦原中國平定で、最後まで従わなかった星の神を征伐した神である。機織りの神様でもある。
配神には、大国主命の息子で、迦毛大御神(かものおおかみ)で知られる阿遅須枳高日子命(味耜高彦根命:あぢすきたかひこね と読む)と、その妹の下照姫とその夫の天稚彦命、それに、大国主の命の他の息子である建御名方命と事代主命、さらには、国造りに協力した少彦名命が祀られている。古事記文中において、大御神と記されるのは、天照大御神と、この迦毛大御神しかいない。賀茂氏(鴨氏)の先祖と考えられており、奈良の高鴨神社の主祭神。賀茂氏は後に、京都の上賀茂社、下鴨社を祀るが、ここでは、賀茂別雷命が主祭神となっている。後世、神話などが錯綜したのか、つながりはよく分からない。が、しかし、相当な力を継承したのであろう。


神社自体は山あいにひっそりと、また厳かに鎮座していた。



で、久々に山陰に来たので、安くてうまい、松江で泊まる事にする。
久々の生レバー。”生”レバー”焼き”:本当は生で食べられるほど新しいから、本当にもったいないけど、我慢して焼いて食べて下さい。本当にもったいないけど。と書かれてある。笑
そして、せっかく来たので、再び、素戔嗚尊が奇稲田姫と新婚生活を送った八重垣神社を参拝。


余談ではあるが、素戔嗚尊の長男の家系である大国主とは別に、素戔嗚尊の次男の五十猛命(いそたけるみこと/いたけるのみこと)は、和歌山の伊太祈曽(いだきそ)神社など西日本を中心に多岐に渡って祀られている 。伊太祈曽を並び替えると、”いそたき”になる。五十猛命は征戦の末、最後は和歌山にいたのであろうと思われる。共に祀られているのは異母妹二名でおそらくは五十猛命の妻であろうと思われる。当時は、血をより濃く残すためか、異母妹を妻にする王族は珍しくない。
また、素戔嗚尊の三男と言われる大歳命は、奈良にある葛木御歳神社を総本社として特に西日本を中心とした各地に祀られている。
嵯峨天皇などは、実は素戔嗚尊ことそが皇祖と言い、都を守る四つの牛頭天王社(牛頭天王=素戔嗚尊)を祀っている。少なくとも、五十猛命と大歳命とは、征戦の道を近畿にまで拡げていたのであろう。長男の系統が出雲、因幡、伯耆など中国地方よりであり、おそらくは、長男は留守を守っていたのだと考えれば合点がいく。大国主尊が正妻とした素戔嗚尊の末娘との出会いは、根之堅州國と言う、少なくとも旅先であるから、素戔嗚尊はその時はすでにどこかで楽隠居を決め込んでいたのかもしれない。
大歳命には、庭を照らす日の意味を持つ、庭津日尊(にはつひ みこと)と言う息子がいるが、”にぎはやひ みこと”と音が似てはしまいか? もしかすると、大歳の神の直系が天皇家なのかもしれない、などと考えてしまう。 今に伝わる神話は、天武、持統朝において、色々な改竄やこじつけなどが加えられている。諸説あった紀を統一したのが、両朝であるからだ。
以前のブログに、天照は男神だろうと書いた。その説では、卑弥呼勢力を統合する際に、正当性をもたせる意味で、おそらくは、別紀という形で、天照はある時は男性神、またあるときは、女性神、または両性具有、と言う形を取り、持統天皇期に、持統天皇の政権安定(つまるところ藤原氏の政権)のため、天照を完全に女神にしてしまったと考えている。
第一に、天の岩戸開きの際、天宇受賣命(あまのうずめ のみこと)の記述にはこうある。「槽伏(うけふ)せて踏み轟こし、神懸かりして胸乳かきいで裳緒(もひも)を陰(ほと=女陰)に押し垂れき。」
つまり、女性神が一糸まとわぬ姿で踊ったのを見て、宴会が盛り上がったのを、お、楽しそうじゃないか?!と、のぞき見した所を一気に開けたのだ。
女性が裸で踊っている所を楽しそうと思うのは、女性だろうか?
もっとも、古代人の価値観だと、女性にも楽しい事だったのかもしれないが。(女性の風俗や文化、価値観は現代と全く異なるので、今の人の感覚は通用しないのは事実である。)
第二に、天皇家発祥とされる宮崎県の高千穂神社の神楽に登場する天照が男神である点。
第三に、天皇家が男系であるのに、女神からの起源では理屈に合わない点。
第四に、上記時代背景。持統天皇期は危険な時代だったのと、おそらくは女系の国だった卑弥呼の邪馬台国との関係。
これらから、そう考えてたのだが、実は、天照大御神のモデルとなった(元々の天照と習合したかもしれないが、)姫が居て、素戔嗚尊と結婚し、その子孫が天皇家なのだと考えさせるための記述と言う見方もありえる。
素戔嗚尊には、丁度、男神が五人と女神が三人の子供がいる。天照と素戔嗚が、身の潔白をかけて勝負した時の神話では、ちょうど、女神が三神、男神が五神、産まれ出でている。
まぁ、そもそも、素戔嗚には奥方が他にもいるので、全てが天照との子と言うわけではないだろうが、色々な説話の混同として解釈すると、多少強引だが、そう考えるのも面白い。
それらを完全に立証する術はもはや存在しない。だから、沢山の説があり、それぞれに、ある種の論がある。歴史とは、事実とそれをどう解釈するか、の二種類があるが、どう解釈するのかは一意ではないのだ。
この一意ではない所を考える事こそが、学習になるのだ。ただ覚えるだけでは、ほとんど意味がない。
覚えたことが、有機的につながる状態にまで至らないと、学習したことは人生にあまり寄与しないだろう。皆さんはどうでしょうか?
実は、以前冬に来て、閉山していたので、リベンジだった。お堂への道は4月から開山しているようである。
麓にあるお堂の裏の方から投入堂への道は続いて・・・いなかった。
投入堂への道のりは、始まってすぐ、足と手を使って登ることになる。
太い木の根っこをつかんだり、足場を探したり、急斜面を写したのが、下の2枚の写真だ。
ただの登山を想像してた我々は、いきなり考えが甘かったのである。
※危険なので、山へ登るときは十分下調べしてください。


ロッククライマーにでもなった気分だった。さすが、修行の現場!

ところどころつかむところがなかったり、
大岩を登るようなところは、綱が張られてたりします。

中継点の鐘楼堂で、大きな鐘を突く。
既にへろへろで、投入堂までの道のりは半分ぐらいだと思っていたが、
まだ、1/3程度だったように思う。

途中、朽ちて枯れてしまった太い幹から新しい生命が誕生しているのを見て、
元気を少しわけてもらう。

そして、一歩一歩進みながら大きなお堂の下にたどり着く。
写真に見える鎖を頼りに登っていくのだった。

登り切ったところで着いた~っと思ったが、ここも中継点だった。
ここから眺める景色は素晴らしかった。

気力を振り絞ってなんとか投入堂までたどり着く。

そして、現地の食材を使った食事。道の駅にて。
その後、せっかく因幡に来たと言う事で、白兎神社に行く。あの有名な、大黒さんが兎さんをがまの穂で癒してあげた、因幡の白ウサギで有名な伝説の地である!
因幡の白ウサギは有名すぎるので、物語は割愛するが、余談がある。実は、白ウサギの話は、因幡の国の八上姫に求婚に行く時の話であり、大国主命は、この美しい姫を奥方に据える事になる。しばらく、因幡の国で幸せな結婚生活を送っており、木俣神(御井命)と言う長男を得る。
大国主命が贈り物をつめた袋を捨てた千代川の河原が「袋河原」、恋文を書いたところが「倭文(しどり)」伯耆の国一宮倭文神社にもその名前が残る。
だが、大国主には正妻で超嫉妬深い須勢理毘売(素戔嗚尊の末娘)がおり、八上姫はこの正妻を恐れ、子供を置いて因幡へと帰ってしまうのである。
後世には、源頼朝の妻、北条政子が、頼朝の側室の家に火をつけたり、夫婦げんかに巻き込まれた配下の武士が切腹させられたりと言う例があるが、やはり、素戔嗚尊の娘である事からも、後ろ盾もある上、気性も荒そうである。感情的になった須勢理毘売はよほど怖かったのだろうと推察する。

さて、白兎神社の横には、道の駅があり、そこで、新鮮な烏賊(いか)を食べる事が出来る。

ここまで来たならと、鳥取砂丘に最近できた砂美術を見に行く。
なかなか壮観である。


そして、伯耆の国一宮の倭文神社。山の中であり、午後16:00にも関わらず、すでに、閉まっている。が~ん。御朱印はまた次回にしよう。
倭文神=建葉槌命が主祭神で、日本書紀に記述がある葦原中國平定で、最後まで従わなかった星の神を征伐した神である。機織りの神様でもある。
配神には、大国主命の息子で、迦毛大御神(かものおおかみ)で知られる阿遅須枳高日子命(味耜高彦根命:あぢすきたかひこね と読む)と、その妹の下照姫とその夫の天稚彦命、それに、大国主の命の他の息子である建御名方命と事代主命、さらには、国造りに協力した少彦名命が祀られている。古事記文中において、大御神と記されるのは、天照大御神と、この迦毛大御神しかいない。賀茂氏(鴨氏)の先祖と考えられており、奈良の高鴨神社の主祭神。賀茂氏は後に、京都の上賀茂社、下鴨社を祀るが、ここでは、賀茂別雷命が主祭神となっている。後世、神話などが錯綜したのか、つながりはよく分からない。が、しかし、相当な力を継承したのであろう。


神社自体は山あいにひっそりと、また厳かに鎮座していた。



で、久々に山陰に来たので、安くてうまい、松江で泊まる事にする。
久々の生レバー。”生”レバー”焼き”:本当は生で食べられるほど新しいから、本当にもったいないけど、我慢して焼いて食べて下さい。本当にもったいないけど。と書かれてある。笑
そして、せっかく来たので、再び、素戔嗚尊が奇稲田姫と新婚生活を送った八重垣神社を参拝。


余談ではあるが、素戔嗚尊の長男の家系である大国主とは別に、素戔嗚尊の次男の五十猛命(いそたけるみこと/いたけるのみこと)は、和歌山の伊太祈曽(いだきそ)神社など西日本を中心に多岐に渡って祀られている 。伊太祈曽を並び替えると、”いそたき”になる。五十猛命は征戦の末、最後は和歌山にいたのであろうと思われる。共に祀られているのは異母妹二名でおそらくは五十猛命の妻であろうと思われる。当時は、血をより濃く残すためか、異母妹を妻にする王族は珍しくない。
また、素戔嗚尊の三男と言われる大歳命は、奈良にある葛木御歳神社を総本社として特に西日本を中心とした各地に祀られている。
嵯峨天皇などは、実は素戔嗚尊ことそが皇祖と言い、都を守る四つの牛頭天王社(牛頭天王=素戔嗚尊)を祀っている。少なくとも、五十猛命と大歳命とは、征戦の道を近畿にまで拡げていたのであろう。長男の系統が出雲、因幡、伯耆など中国地方よりであり、おそらくは、長男は留守を守っていたのだと考えれば合点がいく。大国主尊が正妻とした素戔嗚尊の末娘との出会いは、根之堅州國と言う、少なくとも旅先であるから、素戔嗚尊はその時はすでにどこかで楽隠居を決め込んでいたのかもしれない。
大歳命には、庭を照らす日の意味を持つ、庭津日尊(にはつひ みこと)と言う息子がいるが、”にぎはやひ みこと”と音が似てはしまいか? もしかすると、大歳の神の直系が天皇家なのかもしれない、などと考えてしまう。 今に伝わる神話は、天武、持統朝において、色々な改竄やこじつけなどが加えられている。諸説あった紀を統一したのが、両朝であるからだ。
以前のブログに、天照は男神だろうと書いた。その説では、卑弥呼勢力を統合する際に、正当性をもたせる意味で、おそらくは、別紀という形で、天照はある時は男性神、またあるときは、女性神、または両性具有、と言う形を取り、持統天皇期に、持統天皇の政権安定(つまるところ藤原氏の政権)のため、天照を完全に女神にしてしまったと考えている。
第一に、天の岩戸開きの際、天宇受賣命(あまのうずめ のみこと)の記述にはこうある。「槽伏(うけふ)せて踏み轟こし、神懸かりして胸乳かきいで裳緒(もひも)を陰(ほと=女陰)に押し垂れき。」
つまり、女性神が一糸まとわぬ姿で踊ったのを見て、宴会が盛り上がったのを、お、楽しそうじゃないか?!と、のぞき見した所を一気に開けたのだ。
女性が裸で踊っている所を楽しそうと思うのは、女性だろうか?
もっとも、古代人の価値観だと、女性にも楽しい事だったのかもしれないが。(女性の風俗や文化、価値観は現代と全く異なるので、今の人の感覚は通用しないのは事実である。)
第二に、天皇家発祥とされる宮崎県の高千穂神社の神楽に登場する天照が男神である点。
第三に、天皇家が男系であるのに、女神からの起源では理屈に合わない点。
第四に、上記時代背景。持統天皇期は危険な時代だったのと、おそらくは女系の国だった卑弥呼の邪馬台国との関係。
これらから、そう考えてたのだが、実は、天照大御神のモデルとなった(元々の天照と習合したかもしれないが、)姫が居て、素戔嗚尊と結婚し、その子孫が天皇家なのだと考えさせるための記述と言う見方もありえる。
素戔嗚尊には、丁度、男神が五人と女神が三人の子供がいる。天照と素戔嗚が、身の潔白をかけて勝負した時の神話では、ちょうど、女神が三神、男神が五神、産まれ出でている。
まぁ、そもそも、素戔嗚には奥方が他にもいるので、全てが天照との子と言うわけではないだろうが、色々な説話の混同として解釈すると、多少強引だが、そう考えるのも面白い。
それらを完全に立証する術はもはや存在しない。だから、沢山の説があり、それぞれに、ある種の論がある。歴史とは、事実とそれをどう解釈するか、の二種類があるが、どう解釈するのかは一意ではないのだ。
この一意ではない所を考える事こそが、学習になるのだ。ただ覚えるだけでは、ほとんど意味がない。
覚えたことが、有機的につながる状態にまで至らないと、学習したことは人生にあまり寄与しないだろう。皆さんはどうでしょうか?
長崎の旅~平戸、長崎、雲仙、島原~
ついに、長崎に上陸。これで、日本全国で旅したことがないのは、佐賀県だけになった。
#今年中に、佐賀県も訪れようと思う。
長崎は広く、短い期間で、どこを訪れるか、非常に悩ましい。
今回は、まず、平戸に行くことにした。
旅をする際、常に、一宮ははずさないのだが、長崎県内の一宮は、対馬と壱岐。今回は諦める。また、次回、対馬と壱岐を目指すことにする。
平戸にいくには、長崎からは、高速が途中までしかない。あとは国道をひたすら北上する。
車は結構多く、少々時間がかかる。
しかし、平戸にくると、出迎えてくれるのは、こんな絶景!


まずは、松浦氏の資料館を目指す! 長崎の大名で有名なのは、少弐氏、対馬の宗氏、平戸の松浦氏、大村の大村氏、有馬氏など。
その多くは、元寇のときに活躍、地元を守った武士団の末裔である。
松浦氏は、嵯峨源氏で、名前は一文字の人が多い。この地域を中心に松浦党と呼ばれる一大勢力をつくり、戦国時代には、松浦隆信、鎮信の父子が出て、平戸を守りきった。この平戸にある松浦資料館は、お宝の宝庫だ。


松浦資料館から平戸城を見る。なんと美しい景観か!
松浦資料館内の保存物抜粋。特に写真禁止とはかかれていない。もちろん、フラッシュはOFFにして取得!

事跡的に、武人ではなく、政治家のイメージが強い松浦鎮信なのだが、飾られている甲冑を見ると、なんと威厳に満ちていることか!

資料館前のティールーム。なかなか雰囲気が良い。


オランダの食事を日本風にアレンジした軽めの昼食をティールームで食す。


スープは美味しい。ハムエッグはちょっと食べにくいが美味。

そして、平戸城。松浦氏の先祖を祀る亀岡神社が併設されている。この旅行唯一いただいた朱印となった。長崎は、隠れキリシタンの多い土地だけあって、神社が少ないのも事実だが、風景が綺麗で、神社を探そうと言う気分が減ってしまう。
日本全国、こんな美しい土地は、なかなかないだろうと思う。

平戸城は、松浦鎮信の居城。もともと豊臣方であった松浦鎮信は、嫡男久信を西軍に加え、伏見城攻めと伊勢国安濃津城攻めに参陣させた。しかし、その後、東軍に加わることを決めたため、徳川家からにらまれることとなる。
そのため、所領安堵の朱印状をもらえず、嫡男久信はどうやら切腹したらしい。(表向きは急死とだけ伝わるようだ。)
そして、完成したばかりの居城を松浦鎮信が自ら放火し焼き払うなどしている。
その結果、所領安堵の朱印状をようやく得たものの、嫡孫の隆信が従五位下に叙任されたが、「松浦鎮信」とあるべき宛名は「豊臣鎮信」と書かれるなど、幕府による嫌がらせというか、釘刺しが、しつこく行われている。
これほど疑われると、広島の福島正成や熊本の加藤清正の家など、お家取り潰しの憂き目に会うのが世の常だが、松浦氏は連錦と明治時代まで平戸を守り抜いた。松浦鎮信はなかなかの政治力を要していたのだろう。
平戸藩では、四代目の松浦鎮信(二世)が軍学者の山鹿素行をいち早く登用し、山鹿流兵学にもとづいた軍制改革も行っている。山鹿素行の弟子に、赤穂浪士を率いた大石内蔵助がおり、山鹿流には「実戦的な軍学」という評判が立っていたようであるし、なかなか洞察力にすぐれた家系だったのかもしれない。
家系というのは、遺伝子だけではなく、親が受けた教育を子に受け継ぐと言う意味もかねている。我々は脳の使い方を教えると言う視点で活動している、他と比べるとちょっと風変わりな?NLPトレーナーだが、親のパターンを当たり前として育った子は、当然、親のもつパターンのいくつかを身につける。しかし、そのパターンを知らずに育ったほかの家では、そのパターンは継承されないのだ。その意味で家系なのである。

ここは平戸のオランダ商館。オランダとの正式国交が開けた時に平戸に設置され、以後、鎖国体制が作られるまで、海外との通商を担った。
館内には、おもしろい展示品がいくつかある。その中の一つを紹介したい。
クイズ!この宝箱のような箱、どこに鍵穴があるでしょうか?

そう、普通に見えている鍵穴は、実はダミー。真の鍵穴は以下のように隠されているのだ。

1641年、長崎の出島に商館ができると、ここは閉鎖され、約30年の歴史に幕を閉じた。
俗に言う、鎖国体制である。この鎖国体制のおかげで、かつての日本は、多様適な考え方を調整できる、世界とは独自の文化を保つことができたのだ。
排他的で一神教のキリスト教が広まっていたら、今よりももっとひどい、一つの価値観偏重傾向がもっと昔に導入され、帝国主義はもっとひどい結末を迎えていたかもしれない。
江戸幕府は、”流動的な”身分制度と、能力主義をベースに、血による安定政権という政治的バランスをとりつつ、権力者階層=武士と、金銭=商人を切り離していたため、一部を除き、一個人の私的な欲望からなる搾取から無縁でいられたのだといえる。
現在の世の中ならば、結局は、金=力になってしまう。そして、政治の専門家としての見識を持たない人間が政治家になってしまう。 明治維新は、良い側面だけではなく、志の暴走と言う側面がある事を忘れてはならない。
民主主義という土壌がない中、急激な民主主義により、責任が分散した結果が太平洋戦争なのだ。
その当時の事は、
http://ameblo.jp/boxster/entry-11276156713.html
で述べているので、割愛させて頂く。
さて、旅は、佐世保バーガーで有名な、佐世保へ。ここにはハウステンボスがある。
一度いってみたかったところだ。
まずは、マスコットのゆるキャラがお出迎え!


色々なパビリオンとかがあって、そこそこ楽しめる。16:00ごろに到着したので、ナイトチケットを買う。これ、お得。夕方から行くのが良いかもしれない。
ただし、敷地は広大であり、多すぎるので、採算が取れない気がする。
個人的には、もう少しだけ規模を縮小して、食事やお土産だけでも立ち寄れるような場所にした方が人がくるのではないか?とおもう。
チーズ専門店で、大きなチーズを買う。アルプスの少女ハイジのような食べ方ができる、つまり、ちょっと切って焼いたら少しとろけるやつってどれ?と聞いて購入。
帰ってから食すと、かなり美味しかった。大正解!

テディベアの博物館。いろんなテディベアがあり、作られたヒストリーなどが記載されている。ここはデートで利用したらいいんじゃないかな?
さて、他にも色々遊べるのだが、いつのまにか、暗くなる。暗くなると、ライトアップとパレードがある。なかなか楽しい雰囲気だ。


この広場では何かの催し物がある。みんなが踊っている。ゾンビ対ポリスにいる人たちが分かれて何かをするようだ。


名残惜しいが、稲佐山の長崎の夜景を見たいので、ロープウェーに間に合うように、長崎市に向かう。


普通のデジカメじゃ難しいが、さすがに、日本三大夜景。新世界三大夜景に選ばれているだけの事はある。美しい! 余談だが、新じゃない方の世界三大夜景には、これまた日本三大夜景の函館がランクインしている。
やはり、長崎は美しい街だ。坂もあって風情が他の地方とは異なる。ここ、何回も訪れたいと思う。この地でNLPを教えたりできないかな。。。。ご飯も美味しいし、真剣にそう思ってしまう。
夜景を堪能したところで、ダッシュで宿泊地の雲仙へと向かう。食事は全速力で洋食をゲット。
時間が遅いと、しまってしまう店が多すぎるので、長崎で食事するなら、早めに食べましょう!
ともかく、ホテルに到着がかなり遅くなるので、全速力!で移動するのだった。
そう、あの有名な雲仙普賢岳の雲仙。泉質最高! ひっそりとした山間の温泉地って感じ。
そして、次の日・・・・。
雲仙の地獄にて。電気不要の、地熱のこたつだ。みかん一つ三十円で売ってるので、食べる。
こたつにみかん、まさか、こんなところで。。。。


次に、ガラス館へ。 初めて、ウラングラスを拝見。備え付けの紫外線ランプをつけると、光っている。なかなかお洒落なグラスだ。あまり置いているところをみないので、必見かも。
写真禁止と書かれてないので、シャッターを押す。

ほら、光るさま、ご覧いただけるだろうか?

ガラスにウランを混ぜることで、真っ暗闇の中で紫外線ランプで照らすと緑色に妖しく輝き蛍光を発する。これは、夜明け前の空が青色のときには空には紫外線が満ちているので、この時にウランガラスが蛍光を放つ事によりこの特徴が知られる様になったのを利用しているのだ。
放射線は、ごく微量(人体に自然的に存在するカリウム程度のようだ)であるため、人体に対する放射線の影響はほとんどないらしい。
雲仙をあとにし、島原に向かう。そう、あの有名な島原の乱の場所である。
島原の乱は、松倉家が領する島原藩のある肥前島原半島と、寺沢家が領する唐津藩の飛地・肥後天草諸島の領民が、百姓の酷使や過重な年貢負担に窮し、これに藩によるキリシタン(カトリック信徒)の迫害、更に飢饉の被害まで加わり、両藩に対して起こした反乱であり、これに、口ぶちがなくなった浪人たちや、元来の土着領主である天草氏・志岐氏の与党なども加わり、領主だけでは鎮圧できなくなった。
事の起こりは、松倉家の苛政にある。松倉重昌、勝家父子は、禄高4万3千石でありながら10万石以上の大名の城に匹敵する分不相応な規模の城を築いたり、領内の石高を実勢の倍近くに見積もり、更には、禄高に見合わない規模の江戸城改築の公儀普請役を請け負い、領民の限界を超える税を取り立てたとされている。
その際、税(年貢)を払えなかった見せしめとして、庄屋や領民の娘を裸にし、そこに蓑を着せ、火をつける蓑踊りと言う処刑や、雲仙地獄で熱湯を使ったキリシタンの拷問・処刑を行うなど、キリシタンや年貢を納められない農民に対し残忍な拷問・処刑を行った。
更には、リシタン弾圧への取り組みを幕府に対しアピールするため、キリシタンの根拠地であるルソンの攻略を幕府に申し出て、その戦費調達のため、更に年貢を取り立てた。出兵実施の矢先に急死。あまりの悪政を見かねた幕府による毒殺といううわさすらある。
領民たちが一揆を起こすのは当然の帰結だったと言えよう。
島原の乱の開始は、口の津村の庄屋の妻は身重のまま人質にとられ、冷たい水牢に裸で入れられた。庄屋宅では人々が何とか年貢を納める方法を話し合ったが、もう納めるものは何もなかった。庄屋の妻は6日間苦しみ、水中で出産した子供と共に絶命した。領民はついに蜂起し、代官を殺害したのが直接の契機となっている。
一方で、これら領民たちは、ひそかに武士身分から百姓身分に転じて地域の指導的な立場に立っていた旧有馬氏の家臣の下に組織化されつつあった。肥後天草でも小西行長・佐々成政・加藤忠広の改易により大量に発生していた浪人を中心にして一揆が組織されていた。島原・天草の一揆の首謀者たちは、キリシタンの間でカリスマ的な人気を得ていた当時16歳の少年天草四郎を一揆軍の総大将とし決起することを決めていた。
島原藩は直ちに討伐軍を繰り出し戦ったが、島原城に籠城して防備を固める他なくなる。島原藩は一揆に加わっていない領民に武器を与えて一揆鎮圧を行おうとしたが、その武器を手にして逆に一揆軍に加わる者も多かったようだ。
当たり前である。一揆軍はその後原城に立てこもる。一説には、キリスト教国からの援軍を期待したようである。
当初、幕府は、一地方の一揆と考え、わずか1万5千石の板倉重昌に鎮圧の指揮を任せる。しかし、板倉では、戦国時代を生き抜いてきた大身の鍋島藩などの諸藩は言うことを聞かず、
ついには、責任を感じて、討ち死にしてしまう。
これに慌てた幕府は、当時の家臣最高位であった老中松平信綱を総大将に12万の軍勢を組織。
しかし、戦国時代の生き残りである戦闘のプロ集団によって組織化された一揆勢は手ごわく、兵糧攻めと心理戦に持ち込むのだ。
心理攻めという意味で、当時のオランダ商館長は、船砲を陸揚げして幕府軍に提供し、さらにオランダ艦艇を島原に派遣し、海から城内に艦砲射撃を行ったりもしている。
一揆軍はいつかキリスト教国からの援軍が来てくれると信じていたのを、キリスト教国であるオランダが発砲すると言う事実を持って、信念を揺るがす作戦だった。
この結果、兵糧弾薬もつきかけていた原城は、落城する。
天草四郎の母親は、切られた12歳前後の子供の首を一つ一つ見せられ、ある一つの、天然痘の後の残る顔の前で泣き崩れたと言う逸話を、島原城内のボランティアの人が語ってくれた。
そびえたつ島原城。わが故郷の55万石を誇る和歌山城より、城郭が立派だ。
反乱軍のかたがたに冥福を祈り、黙祷をひそかにささげる。
ちなみに、松倉家は改易。藩主は斬首。嫡男は切腹。となったようだ。武家のしかも大名が切腹を許されず斬首になると言うことは、幕府はよほど事を重く見ていたと言うことである。
余談だが、以後、悪政をしいた領主はほとんどが改易されているため、幕府の政治は領民を向いていた事がわかっている。
島原の乱は、単に一地方の反乱にとどまらず、キリスト教という宗教、そして、戦国時代が終わり、改易された家の浪人たちの最後の戦いの場としての意味もあり、相当いろんな思惑が渦巻いた反乱であった。全国から浪人たちがあつまっていたため、一揆軍側も、幕府軍側も、石高から考えられる兵数よりも、相当多い人数同士で戦っていた事がわかっている。
島原を後にし、長崎へ再び向かう。
次の目的地は出島。
出島のあとは、大浦天主協会。この協会はすごい!
着目点は、内部の天井とステンドグラスである。
幕末から明治の頃、時のローマ教皇ピウス9世は、かつて、ここ長崎で殉教した26人を聖人に列っし、ここを聖地と定めた。そして、その聖地に協会を立てようと、フランスからプチジャン神父とピューレ神父を派遣するのだが、彼らの文化では西洋のゴシック様式、つまり石組みで建てられている協会に対して、日本の大工はそのような見地を持たず、木で作らなければならなかった。もちろん、作業ははかどらない。ピューレ神父は心労のため、発病してフランスに帰国するほどであったようだ。
それでも、日本の大工はすばらしかった。天井の優雅な曲線。それは、長崎の大工の棟梁であった小山秀率いる大工集団の技術の結晶。なんと、竹の曲がりを利用しつつ、土壁の技術を応用して出来ているらしい。そう、この協会は、西洋建築ではなく、まぎれもない日本建築なのである。
ステンドグラスの枠は、鉛線ではなく、木枠。ステンドグラスのガラス自体には継ぎ目がある。ひび割れではない。当時高価だった部材の切れ端を利用した結果だと言う。
日本の職人はすごい。
なお、外から見る概観は、創建当時のものとは異なる。なんと、度重なる台風で破壊され、そのため、建て増しされているのだ。しかし、創建当時の部材はどこかに使われている。
また、内装はほぼ創建当時のままであるらしい。
プチジャン神父の墓も協会内部にある。協会が造成し終えたとき、数名の長崎人隠れキリシタンが、250年間信仰を守ってきたことを述べた。これは、バチカンに伝えられ、奇跡とされた。
信仰が途絶えていたはずと思われていたからである。この告白が行われたそぐ傍に、プチジャン神父は眠っているのだ。
大浦天主教に入ったら、そういうところに着目してみると、この天主教会がどうして国宝なのかが、更に理解できるのかもしれない。

そして、その横にあるグラバー邸へと足を運ぶ。
グラバー邸からみえる、景色は絶景。昔はもっと綺麗だったろう。
グラバーは、武器商人として幕末の日本で活躍した。日本で鉄道が開始されるよりも前に蒸気機関車の試走を行ったり、長崎に西洋式ドックを建設し造船の街としての礎を築くなど日本の近代化に大きな役割を果たした人である。
ついでに、日本産ビールの育ての親でもある。息子は、「倉場 富三郎」さんと完全に日本人化した。グラバーさんが、くらばさんになったのだ。だが、子供を残さずに亡くなった。第二次世界大戦でスパイ容疑がかかり、妻には先立たれ、最後は長崎に原子爆弾が投下された後、自殺された。残念である。 ちなみに、この息子は、長崎汽船漁業会社を興している。
彼らのグラバー邸は、広大な敷地にかつての建物がたくさん。庭も綺麗で、落ち着く場所だ。
坂から見える景色はまさに絶景。
長崎、どこに行っても、美しいなぁ。と感嘆する。


グラバー邸から、海の方を見て。

最後に、空港近くの大村公園でぶらぶらする。ここは、大村純忠の城。
彼は因果な星に生まれたようだ。有馬晴純の次男で、大村純前の婿養子となり、家督を継いだ。
大村純前には当時嫡男がいなかったためだが、純前には実子・又八郎が後に生まれる。(後の後藤貴明)
しかし、隣国の有馬氏の力を恐れ、すでに成されていた養子縁組のために、貴明は武雄に本拠を置いていた嫡男が不在だった後藤氏に養子に出された。このような経緯から貴明は純忠に恨みを抱き、一方の純忠も「嫡男をおしのけて家督を継いだ」というプレッシャーを一生感じ続けることになった。境遇的には吉川元春などと同様の境遇である。
純忠に恨みを持つ貴明は、純忠に不満を持つ大村家の家臣団と呼応したり、松浦氏らの援軍を得た貴明の軍勢1500が居城である三城を急襲するなどしている。このとき、城内には女子供も含めて約80名しかいなかったが、大村純忠は援軍が来るまで持ち堪え、これを撤退に追い込んでいる。
そして、江戸時代には大村藩として残ったのである。中々の苦労人だといえる。
一方で、本来の大村氏嫡男で後藤氏に養子に出された後藤貴明の方だが、最終的には龍造寺隆信に降伏。隆信の弟を婿養子に迎えさせられ後藤氏をまたしても乗っ取られる。自身の嫡男は、龍造寺家均となった。
龍造寺家均の息子は後藤茂富と言う。彼の子は、龍造寺四家の多久家(21000石)に養子に行き、その孫は、姉川鍋島家(5000石)に養子にと、どんどん名前を変える事となったが、佐賀藩重臣の立場で血筋を保持したようである。
こういう相続は、お互いに心を蝕む。さぞ疲れたことだろう。

今は、大村神社が、本丸のあった付近にひっそりと鎮座する。
これで、初の長崎の旅を終える。次回は、対馬や壱岐にも行きたいし、ぜひ、ゆっくりと、長崎に滞在したいものだ。そう思うほど、美しく、多くの歴史もあり、住んでいる人たちもよく、そして、御飯も美味しい国だった。
#今年中に、佐賀県も訪れようと思う。
長崎は広く、短い期間で、どこを訪れるか、非常に悩ましい。
今回は、まず、平戸に行くことにした。
旅をする際、常に、一宮ははずさないのだが、長崎県内の一宮は、対馬と壱岐。今回は諦める。また、次回、対馬と壱岐を目指すことにする。
平戸にいくには、長崎からは、高速が途中までしかない。あとは国道をひたすら北上する。
車は結構多く、少々時間がかかる。
しかし、平戸にくると、出迎えてくれるのは、こんな絶景!


まずは、松浦氏の資料館を目指す! 長崎の大名で有名なのは、少弐氏、対馬の宗氏、平戸の松浦氏、大村の大村氏、有馬氏など。
その多くは、元寇のときに活躍、地元を守った武士団の末裔である。
松浦氏は、嵯峨源氏で、名前は一文字の人が多い。この地域を中心に松浦党と呼ばれる一大勢力をつくり、戦国時代には、松浦隆信、鎮信の父子が出て、平戸を守りきった。この平戸にある松浦資料館は、お宝の宝庫だ。


松浦資料館から平戸城を見る。なんと美しい景観か!
松浦資料館内の保存物抜粋。特に写真禁止とはかかれていない。もちろん、フラッシュはOFFにして取得!

事跡的に、武人ではなく、政治家のイメージが強い松浦鎮信なのだが、飾られている甲冑を見ると、なんと威厳に満ちていることか!

資料館前のティールーム。なかなか雰囲気が良い。


オランダの食事を日本風にアレンジした軽めの昼食をティールームで食す。


スープは美味しい。ハムエッグはちょっと食べにくいが美味。

そして、平戸城。松浦氏の先祖を祀る亀岡神社が併設されている。この旅行唯一いただいた朱印となった。長崎は、隠れキリシタンの多い土地だけあって、神社が少ないのも事実だが、風景が綺麗で、神社を探そうと言う気分が減ってしまう。
日本全国、こんな美しい土地は、なかなかないだろうと思う。

平戸城は、松浦鎮信の居城。もともと豊臣方であった松浦鎮信は、嫡男久信を西軍に加え、伏見城攻めと伊勢国安濃津城攻めに参陣させた。しかし、その後、東軍に加わることを決めたため、徳川家からにらまれることとなる。
そのため、所領安堵の朱印状をもらえず、嫡男久信はどうやら切腹したらしい。(表向きは急死とだけ伝わるようだ。)
そして、完成したばかりの居城を松浦鎮信が自ら放火し焼き払うなどしている。
その結果、所領安堵の朱印状をようやく得たものの、嫡孫の隆信が従五位下に叙任されたが、「松浦鎮信」とあるべき宛名は「豊臣鎮信」と書かれるなど、幕府による嫌がらせというか、釘刺しが、しつこく行われている。
これほど疑われると、広島の福島正成や熊本の加藤清正の家など、お家取り潰しの憂き目に会うのが世の常だが、松浦氏は連錦と明治時代まで平戸を守り抜いた。松浦鎮信はなかなかの政治力を要していたのだろう。
平戸藩では、四代目の松浦鎮信(二世)が軍学者の山鹿素行をいち早く登用し、山鹿流兵学にもとづいた軍制改革も行っている。山鹿素行の弟子に、赤穂浪士を率いた大石内蔵助がおり、山鹿流には「実戦的な軍学」という評判が立っていたようであるし、なかなか洞察力にすぐれた家系だったのかもしれない。
家系というのは、遺伝子だけではなく、親が受けた教育を子に受け継ぐと言う意味もかねている。我々は脳の使い方を教えると言う視点で活動している、他と比べるとちょっと風変わりな?NLPトレーナーだが、親のパターンを当たり前として育った子は、当然、親のもつパターンのいくつかを身につける。しかし、そのパターンを知らずに育ったほかの家では、そのパターンは継承されないのだ。その意味で家系なのである。

ここは平戸のオランダ商館。オランダとの正式国交が開けた時に平戸に設置され、以後、鎖国体制が作られるまで、海外との通商を担った。
館内には、おもしろい展示品がいくつかある。その中の一つを紹介したい。
クイズ!この宝箱のような箱、どこに鍵穴があるでしょうか?

そう、普通に見えている鍵穴は、実はダミー。真の鍵穴は以下のように隠されているのだ。

1641年、長崎の出島に商館ができると、ここは閉鎖され、約30年の歴史に幕を閉じた。
俗に言う、鎖国体制である。この鎖国体制のおかげで、かつての日本は、多様適な考え方を調整できる、世界とは独自の文化を保つことができたのだ。
排他的で一神教のキリスト教が広まっていたら、今よりももっとひどい、一つの価値観偏重傾向がもっと昔に導入され、帝国主義はもっとひどい結末を迎えていたかもしれない。
江戸幕府は、”流動的な”身分制度と、能力主義をベースに、血による安定政権という政治的バランスをとりつつ、権力者階層=武士と、金銭=商人を切り離していたため、一部を除き、一個人の私的な欲望からなる搾取から無縁でいられたのだといえる。
現在の世の中ならば、結局は、金=力になってしまう。そして、政治の専門家としての見識を持たない人間が政治家になってしまう。 明治維新は、良い側面だけではなく、志の暴走と言う側面がある事を忘れてはならない。
民主主義という土壌がない中、急激な民主主義により、責任が分散した結果が太平洋戦争なのだ。
その当時の事は、
http://ameblo.jp/boxster/entry-11276156713.html
で述べているので、割愛させて頂く。
さて、旅は、佐世保バーガーで有名な、佐世保へ。ここにはハウステンボスがある。
一度いってみたかったところだ。
まずは、マスコットのゆるキャラがお出迎え!


色々なパビリオンとかがあって、そこそこ楽しめる。16:00ごろに到着したので、ナイトチケットを買う。これ、お得。夕方から行くのが良いかもしれない。
ただし、敷地は広大であり、多すぎるので、採算が取れない気がする。
個人的には、もう少しだけ規模を縮小して、食事やお土産だけでも立ち寄れるような場所にした方が人がくるのではないか?とおもう。
チーズ専門店で、大きなチーズを買う。アルプスの少女ハイジのような食べ方ができる、つまり、ちょっと切って焼いたら少しとろけるやつってどれ?と聞いて購入。
帰ってから食すと、かなり美味しかった。大正解!

テディベアの博物館。いろんなテディベアがあり、作られたヒストリーなどが記載されている。ここはデートで利用したらいいんじゃないかな?
さて、他にも色々遊べるのだが、いつのまにか、暗くなる。暗くなると、ライトアップとパレードがある。なかなか楽しい雰囲気だ。


この広場では何かの催し物がある。みんなが踊っている。ゾンビ対ポリスにいる人たちが分かれて何かをするようだ。


名残惜しいが、稲佐山の長崎の夜景を見たいので、ロープウェーに間に合うように、長崎市に向かう。


普通のデジカメじゃ難しいが、さすがに、日本三大夜景。新世界三大夜景に選ばれているだけの事はある。美しい! 余談だが、新じゃない方の世界三大夜景には、これまた日本三大夜景の函館がランクインしている。
やはり、長崎は美しい街だ。坂もあって風情が他の地方とは異なる。ここ、何回も訪れたいと思う。この地でNLPを教えたりできないかな。。。。ご飯も美味しいし、真剣にそう思ってしまう。
夜景を堪能したところで、ダッシュで宿泊地の雲仙へと向かう。食事は全速力で洋食をゲット。
時間が遅いと、しまってしまう店が多すぎるので、長崎で食事するなら、早めに食べましょう!
ともかく、ホテルに到着がかなり遅くなるので、全速力!で移動するのだった。
そう、あの有名な雲仙普賢岳の雲仙。泉質最高! ひっそりとした山間の温泉地って感じ。
そして、次の日・・・・。
雲仙の地獄にて。電気不要の、地熱のこたつだ。みかん一つ三十円で売ってるので、食べる。
こたつにみかん、まさか、こんなところで。。。。


次に、ガラス館へ。 初めて、ウラングラスを拝見。備え付けの紫外線ランプをつけると、光っている。なかなかお洒落なグラスだ。あまり置いているところをみないので、必見かも。
写真禁止と書かれてないので、シャッターを押す。

ほら、光るさま、ご覧いただけるだろうか?

ガラスにウランを混ぜることで、真っ暗闇の中で紫外線ランプで照らすと緑色に妖しく輝き蛍光を発する。これは、夜明け前の空が青色のときには空には紫外線が満ちているので、この時にウランガラスが蛍光を放つ事によりこの特徴が知られる様になったのを利用しているのだ。
放射線は、ごく微量(人体に自然的に存在するカリウム程度のようだ)であるため、人体に対する放射線の影響はほとんどないらしい。
雲仙をあとにし、島原に向かう。そう、あの有名な島原の乱の場所である。
島原の乱は、松倉家が領する島原藩のある肥前島原半島と、寺沢家が領する唐津藩の飛地・肥後天草諸島の領民が、百姓の酷使や過重な年貢負担に窮し、これに藩によるキリシタン(カトリック信徒)の迫害、更に飢饉の被害まで加わり、両藩に対して起こした反乱であり、これに、口ぶちがなくなった浪人たちや、元来の土着領主である天草氏・志岐氏の与党なども加わり、領主だけでは鎮圧できなくなった。
事の起こりは、松倉家の苛政にある。松倉重昌、勝家父子は、禄高4万3千石でありながら10万石以上の大名の城に匹敵する分不相応な規模の城を築いたり、領内の石高を実勢の倍近くに見積もり、更には、禄高に見合わない規模の江戸城改築の公儀普請役を請け負い、領民の限界を超える税を取り立てたとされている。
その際、税(年貢)を払えなかった見せしめとして、庄屋や領民の娘を裸にし、そこに蓑を着せ、火をつける蓑踊りと言う処刑や、雲仙地獄で熱湯を使ったキリシタンの拷問・処刑を行うなど、キリシタンや年貢を納められない農民に対し残忍な拷問・処刑を行った。
更には、リシタン弾圧への取り組みを幕府に対しアピールするため、キリシタンの根拠地であるルソンの攻略を幕府に申し出て、その戦費調達のため、更に年貢を取り立てた。出兵実施の矢先に急死。あまりの悪政を見かねた幕府による毒殺といううわさすらある。
領民たちが一揆を起こすのは当然の帰結だったと言えよう。
島原の乱の開始は、口の津村の庄屋の妻は身重のまま人質にとられ、冷たい水牢に裸で入れられた。庄屋宅では人々が何とか年貢を納める方法を話し合ったが、もう納めるものは何もなかった。庄屋の妻は6日間苦しみ、水中で出産した子供と共に絶命した。領民はついに蜂起し、代官を殺害したのが直接の契機となっている。
一方で、これら領民たちは、ひそかに武士身分から百姓身分に転じて地域の指導的な立場に立っていた旧有馬氏の家臣の下に組織化されつつあった。肥後天草でも小西行長・佐々成政・加藤忠広の改易により大量に発生していた浪人を中心にして一揆が組織されていた。島原・天草の一揆の首謀者たちは、キリシタンの間でカリスマ的な人気を得ていた当時16歳の少年天草四郎を一揆軍の総大将とし決起することを決めていた。
島原藩は直ちに討伐軍を繰り出し戦ったが、島原城に籠城して防備を固める他なくなる。島原藩は一揆に加わっていない領民に武器を与えて一揆鎮圧を行おうとしたが、その武器を手にして逆に一揆軍に加わる者も多かったようだ。
当たり前である。一揆軍はその後原城に立てこもる。一説には、キリスト教国からの援軍を期待したようである。
当初、幕府は、一地方の一揆と考え、わずか1万5千石の板倉重昌に鎮圧の指揮を任せる。しかし、板倉では、戦国時代を生き抜いてきた大身の鍋島藩などの諸藩は言うことを聞かず、
ついには、責任を感じて、討ち死にしてしまう。
これに慌てた幕府は、当時の家臣最高位であった老中松平信綱を総大将に12万の軍勢を組織。
しかし、戦国時代の生き残りである戦闘のプロ集団によって組織化された一揆勢は手ごわく、兵糧攻めと心理戦に持ち込むのだ。
心理攻めという意味で、当時のオランダ商館長は、船砲を陸揚げして幕府軍に提供し、さらにオランダ艦艇を島原に派遣し、海から城内に艦砲射撃を行ったりもしている。
一揆軍はいつかキリスト教国からの援軍が来てくれると信じていたのを、キリスト教国であるオランダが発砲すると言う事実を持って、信念を揺るがす作戦だった。
この結果、兵糧弾薬もつきかけていた原城は、落城する。
天草四郎の母親は、切られた12歳前後の子供の首を一つ一つ見せられ、ある一つの、天然痘の後の残る顔の前で泣き崩れたと言う逸話を、島原城内のボランティアの人が語ってくれた。
そびえたつ島原城。わが故郷の55万石を誇る和歌山城より、城郭が立派だ。
反乱軍のかたがたに冥福を祈り、黙祷をひそかにささげる。
ちなみに、松倉家は改易。藩主は斬首。嫡男は切腹。となったようだ。武家のしかも大名が切腹を許されず斬首になると言うことは、幕府はよほど事を重く見ていたと言うことである。
余談だが、以後、悪政をしいた領主はほとんどが改易されているため、幕府の政治は領民を向いていた事がわかっている。
島原の乱は、単に一地方の反乱にとどまらず、キリスト教という宗教、そして、戦国時代が終わり、改易された家の浪人たちの最後の戦いの場としての意味もあり、相当いろんな思惑が渦巻いた反乱であった。全国から浪人たちがあつまっていたため、一揆軍側も、幕府軍側も、石高から考えられる兵数よりも、相当多い人数同士で戦っていた事がわかっている。
島原を後にし、長崎へ再び向かう。
次の目的地は出島。
出島のあとは、大浦天主協会。この協会はすごい!
着目点は、内部の天井とステンドグラスである。
幕末から明治の頃、時のローマ教皇ピウス9世は、かつて、ここ長崎で殉教した26人を聖人に列っし、ここを聖地と定めた。そして、その聖地に協会を立てようと、フランスからプチジャン神父とピューレ神父を派遣するのだが、彼らの文化では西洋のゴシック様式、つまり石組みで建てられている協会に対して、日本の大工はそのような見地を持たず、木で作らなければならなかった。もちろん、作業ははかどらない。ピューレ神父は心労のため、発病してフランスに帰国するほどであったようだ。
それでも、日本の大工はすばらしかった。天井の優雅な曲線。それは、長崎の大工の棟梁であった小山秀率いる大工集団の技術の結晶。なんと、竹の曲がりを利用しつつ、土壁の技術を応用して出来ているらしい。そう、この協会は、西洋建築ではなく、まぎれもない日本建築なのである。
ステンドグラスの枠は、鉛線ではなく、木枠。ステンドグラスのガラス自体には継ぎ目がある。ひび割れではない。当時高価だった部材の切れ端を利用した結果だと言う。
日本の職人はすごい。
なお、外から見る概観は、創建当時のものとは異なる。なんと、度重なる台風で破壊され、そのため、建て増しされているのだ。しかし、創建当時の部材はどこかに使われている。
また、内装はほぼ創建当時のままであるらしい。
プチジャン神父の墓も協会内部にある。協会が造成し終えたとき、数名の長崎人隠れキリシタンが、250年間信仰を守ってきたことを述べた。これは、バチカンに伝えられ、奇跡とされた。
信仰が途絶えていたはずと思われていたからである。この告白が行われたそぐ傍に、プチジャン神父は眠っているのだ。
大浦天主教に入ったら、そういうところに着目してみると、この天主教会がどうして国宝なのかが、更に理解できるのかもしれない。

そして、その横にあるグラバー邸へと足を運ぶ。
グラバー邸からみえる、景色は絶景。昔はもっと綺麗だったろう。
グラバーは、武器商人として幕末の日本で活躍した。日本で鉄道が開始されるよりも前に蒸気機関車の試走を行ったり、長崎に西洋式ドックを建設し造船の街としての礎を築くなど日本の近代化に大きな役割を果たした人である。
ついでに、日本産ビールの育ての親でもある。息子は、「倉場 富三郎」さんと完全に日本人化した。グラバーさんが、くらばさんになったのだ。だが、子供を残さずに亡くなった。第二次世界大戦でスパイ容疑がかかり、妻には先立たれ、最後は長崎に原子爆弾が投下された後、自殺された。残念である。 ちなみに、この息子は、長崎汽船漁業会社を興している。
彼らのグラバー邸は、広大な敷地にかつての建物がたくさん。庭も綺麗で、落ち着く場所だ。
坂から見える景色はまさに絶景。
長崎、どこに行っても、美しいなぁ。と感嘆する。


グラバー邸から、海の方を見て。

最後に、空港近くの大村公園でぶらぶらする。ここは、大村純忠の城。
彼は因果な星に生まれたようだ。有馬晴純の次男で、大村純前の婿養子となり、家督を継いだ。
大村純前には当時嫡男がいなかったためだが、純前には実子・又八郎が後に生まれる。(後の後藤貴明)
しかし、隣国の有馬氏の力を恐れ、すでに成されていた養子縁組のために、貴明は武雄に本拠を置いていた嫡男が不在だった後藤氏に養子に出された。このような経緯から貴明は純忠に恨みを抱き、一方の純忠も「嫡男をおしのけて家督を継いだ」というプレッシャーを一生感じ続けることになった。境遇的には吉川元春などと同様の境遇である。
純忠に恨みを持つ貴明は、純忠に不満を持つ大村家の家臣団と呼応したり、松浦氏らの援軍を得た貴明の軍勢1500が居城である三城を急襲するなどしている。このとき、城内には女子供も含めて約80名しかいなかったが、大村純忠は援軍が来るまで持ち堪え、これを撤退に追い込んでいる。
そして、江戸時代には大村藩として残ったのである。中々の苦労人だといえる。
一方で、本来の大村氏嫡男で後藤氏に養子に出された後藤貴明の方だが、最終的には龍造寺隆信に降伏。隆信の弟を婿養子に迎えさせられ後藤氏をまたしても乗っ取られる。自身の嫡男は、龍造寺家均となった。
龍造寺家均の息子は後藤茂富と言う。彼の子は、龍造寺四家の多久家(21000石)に養子に行き、その孫は、姉川鍋島家(5000石)に養子にと、どんどん名前を変える事となったが、佐賀藩重臣の立場で血筋を保持したようである。
こういう相続は、お互いに心を蝕む。さぞ疲れたことだろう。

今は、大村神社が、本丸のあった付近にひっそりと鎮座する。
これで、初の長崎の旅を終える。次回は、対馬や壱岐にも行きたいし、ぜひ、ゆっくりと、長崎に滞在したいものだ。そう思うほど、美しく、多くの歴史もあり、住んでいる人たちもよく、そして、御飯も美味しい国だった。
兵庫の旅 ~北部編~
しばらく多忙のため、ブログの更新が遅れてしまった。
読者の皆さんには申し訳ありませんでした。
今回の紹介は、兵庫県北部。中国地方の東方や近畿圏から車で行くには最適なコース。
近畿以外の方だとちょっと行きにくいかもしれない。
古代は但馬国と呼ばれた地域が今回の旅のメインである。
但馬国で、まず立ち寄りたいのは、やはり、一宮がある出石と朝来だ。
一宮と言っても、二つ以上ある地域は実は珍しくない。時代によって勢力が強い地域が異なる場合があるのと、国府の中心も異なる可能性があるためである。だが、一宮を称する神社は、かなり由緒があり旧い事だけは事実であり、由緒を見ると、あまり知られていない事実を感じたりする事が出来るので、是非、地方を回る際には、一宮を訪れて御朱印を頂く事をお奨めしたい。
朝来市にあるのは、但馬国一宮の「粟鹿神社」である。


粟鹿神社は、彦火々出見命(ひこほほでみのみこと と読む) と 開化天皇の第3皇子である日子坐王(ひこいますのみこ と読む) と、阿米美佐利命(あめのみさりのみこと と読む)を主祭神として祀っている。かなり聞き慣れない方が多いかも知れないが、個人的には嬉しい発見である。
彦火々出見命は、神武天皇の祖父とされている「海幸彦、山幸彦」の物語で知られる山幸彦であり、
日子坐王は、四道将軍(崇神天皇によって日本掌握のために派遣された)の一人丹波道主王の父であり、
更には、有名?な狭穂彦王、狭穂姫の父でもある。
狭穂姫は垂仁天皇の皇后であったが、兄である狭穂彦王が謀反を起こした時、「お前は兄と夫どちらが愛しいか?」と問いかけられ、寝所にて天皇暗殺をしかけるも失敗。狭穂彦王の館に入るも、
天皇は狭穂姫を深く愛しており、姫の腹には天皇の子がすくすくと育っていた。姫も息子を道連れにするのが忍びなく天皇に息子を引き取るように頼んだ。
天皇は敏捷な兵士を差し向けて息子を渡しに来た姫を奪還させようとするが、姫の決意は固く、炎に包まれた稲城の中で、狭穂毘売は兄に殉じてしまった。と言われている。
開化天皇や垂仁天皇は実在を疑う学説も存在しているが、我々は、こういったかなり生々しい話もある上、数は少ない(少ないからこそただの伝説ではないと思えるのだが・・)が、全国ではない”とある地方に偏った”神社に祀られている事などから、実在を信じている。中央政界の創作にしては出来すぎで不自然だからだ。
ちなみに、この王、神宮皇后の四代前の祖父とも言われており、反逆者は出すわ、日本の国を創った将軍を出すわ、伝説の皇后が子孫にいるわ、超重要人物なのである。
さらに、もう一柱、主祭神が座している。天美佐利命(あめのみさりのみこと と読む)大国主命の御子である。
皇祖神の山幸彦と日子坐王が共に祀られているのは分かるが、どちらかと言うと、大和ではない出雲系の天美佐利命が共に祀られているところが、探求心をそそる。
天美佐利命は『元記』によれば、「垂仁天皇の御代、粟鹿の嶺に坐せし荒振神、
すなわち天美佐利命の神状を朝廷に申出で、幣帛を給わって鎮め祭らしむ」
と書かれており、更に、和銅元年(708年)に上申された『粟鹿大明神元記』には、
第十代崇神天皇の御代に、太多彦命の肩書きに、
「但馬国朝来郡粟鹿神部直」とある。太多彦命は大国主命の十一代目の孫にあたるようだ。
大国主自身は謎が多いが、建速須佐之男命(素戔嗚尊:すさのおのみこと)の長子であり、奇稲田姫の息子の八島士奴美尊の五代先の孫でもあり、須佐之男命の末娘である須勢理毘売の夫でもある。当時は14くらいでも子を成していた(女性でも12くらいで出産の記録もある)ので、14x4=56歳と、あり得ない話ではない。
1835年生まれの松方正義(元日本の総理大臣)の末娘は1903年産まれであるから、68歳でも子を成せるわけで、多くの伝説に名を残す須佐之男命ならば、まったく可能であったかもしれない。
大国主と言えば、安彦良和氏の漫画、「ナムジ」などは結構好きな漫画だ。古代史に興味がある人は見てみると良いかもしれない。と思う。
ただ私は一点だけ異論を持っている。
実は漫画の中では、末子の須勢理毘売が跡継ぎで、大国主が養子に入ったと書かれているが、これは間違いではないだろうか。当時の風習は末子相続にあり、男子がいない場合、女子の相続もあったが、男子の本能は、自分がてっぺんに立つ事になってくるため、男子がいるのに、女子を跡継ぎにすると必ず反乱なり分裂が起こる事は容易にわかる。今より昔はもっとその度合いは強いだろう。(実際、末子相続によって、天皇家も年長の兄皇子による反乱があとを立たなかった。)
それに、どこの馬の骨とも分からない人間を急に当主にとは、当時の男子皇族ならば誰も従えないであろうし、そんな風習が出来るはずもないし、もし、出来たとしても、長続きするはずがない。男の権力を欲する本能は、それほどまでに強いと言う事を忘れている気がするのだ。
話が脱線したが、この三柱の神が共に祀られていると言う事は、出雲系と大和朝廷がこの地点で融和を図っている形跡があること、それぞれの伝説が本当らしき事の一つの証明材料であると言う点である。
皆さんはどうだろうか? 言ってみると、本当に風情のある、それでいて、威厳の感じられる神社であった。
そして、朝来には、最近有名になった、竹田城がある。今回の旅の目的の一つ。

三月では、まだ雪に覆われていて、普段の倍近く登城にかかるが絶景だ。
天空の城と呼ばれるのも分かる。これだけの絶景、歴史を語りたいが、少し野暮な気もするので、控えておく。山名氏の出城だった。とだけ述べておこう。

登城に一時間くらいかかっている(雪道、ほぼ登山)ので、城郭が徐々に見えてくると感動もの。上からの景色は本当に絶景である。



麓の休憩所に戻って食事を取った時、地元のおじさん、おばさんから、「お客さんラッキーでしたね。昨日だと、上に登っても霧で何も見えなかったんですよ。何組かの御家族が登られてたけど、それはもう寒くて震えてて可愛そうでした。上に登っても何も見えないし・・・。」
と言われる。
皆さん、雪のある時に、竹田城に行くと、本当に空いていて良いけれど、かなり下の方にしか車ではいけないため、相当歩く事になるし、雪で見えない事もあるようなので、天候には充分注意して行きましょう!

但馬と言えば、出石そば。こんな感じで出される。一皿づつが少ないので、ぺろりといけるが、
食べ過ぎに注意!こしがあって、さっぱりもしていて美味しい。

出石の町並み。シンボルとなっている。鼓楼。

そして、忘れてはならないのが、ここは、中世、室町時代には、応仁の乱で有名な山名宗全の居城有子山城があった所だ。有子山の麓に、その後出石城が築かれて近世まで続くことになった。
有子山は、山名氏の本城である。
山名宗全といえば、悪名高き日野富子と結託し、応仁の乱を引き起こした人物である。
日野富子は、足利義政の正室であり、嫡男に恵まれなかった義政は、平和のために、弟の一人を還俗させ将軍後継者とした。しかし、その後、嫡男義尚が富子との間に出来てしまう。
義政は、公私は別と、混乱を避けるために弟を将軍に押し、その後見を、時の管領細川勝元に依頼するが、日野富子の方は、山名宗全に愛息の後見を依頼した事と、それぞれの利害が対立に対立を呼び、応仁の乱が勃発する。
富子は、東西両軍の大名に多額の金銭を貸し付け、米の投機も行うなどして一時は現在の価値にして60億円も稼ぎ出したり、自分の子が夭折したのを義政の乳母が呪いを掛けたせいだとして、乳母を流罪とし(本人は途中で自刃)、同時に義政の側室4人も追放したりした。
それだけではなく、京都七口関を設置。設置目的は内裏の修復費、諸祭礼の費用であったが、富子はほとんどその資金を懐に入れた。これに激高した民衆が一揆を起こして関所を破壊したが、富子は財産を守るために弾圧に乗りだすが、民衆だけでなく公家の怨嗟の的ともなっている。
その中、せっかく無理矢理あとをついでいた息子が病死する。
そんな中、富子のせいで将軍になれなかった義政の弟と自分の妹の間に生まれた足利義材(後の義稙)を将軍に擁立するよう画策し、義材が10代将軍となった。そこで後見人となった義政の弟の義視は権力を持ち続ける富子と争い、富子の邸宅小河邸を破壊し領地を差し押さえたりしている。また、翌年の義視の死後、親政を開始した義材もまた富子と敵対している。
わがまま勝手な自分だけ良かったら良いと言うお局さまに政治を壟断されてはたまったものじゃないだろう。
しかし、富子は、義材が河内に出征している間に富子は細川政元と共にクーデターを起こして義材を廃し、義政の甥で堀越公方足利政知の子足利義澄を11代将軍に就け、更に権力を握ろうとした(明応の政変)
その3年後、明応5年(1496年)に57歳で平和に死亡したが、足利家のみならず、日本全国に争乱が拡がっていくのである。
自分だけが良いと考えたこの女性は、私利私欲で国家を傾かせた後始末もつけず、自分だけ普通に死んでしまうわけであり、利に狂った女は無茶苦茶するので誰よりもたちが悪くなると巷で良く耳にするが、確かに、現在でも遺産相続などの裁判などを勉強しているとそう思える事も多々起こっている。
「自分だけが損をしたくない」と言う考えは周囲含めて回り回って不幸にする良い教訓ではないだろうか? 気をつけたいものだ。

実は、山名宗全には、早逝した長兄と、廃嫡された次兄がいるが、次兄が、惣領になれなかったことを恨んで挙兵したり、その後一族の反乱離反があり、山名氏は、この応仁の乱の後、急激に没落。戦国時代、すでにこの本城有子山を失っていた鳥取城主の山名豊国が家臣に放逐されて滅亡してしまうのだ。鳥取城は、吉川経家が入り、羽柴秀吉と対峙する事になる。
そして、出石神社。

なぜか、付近の住民は「いっきゅうさん」と呼んでいる。
天日槍命と出石八前大神を祀る。天日槍命は新羅の王子であったが、八種の神宝を持って渡来し、但馬国に定住したと伝える。この八種神宝が八前大神である。
ちなみに、天日槍命の子孫は、田道間守である。田道間守は、御菓子の神様であり、
垂仁天皇の時代、天皇の命により、非時香菓(ときじくのかぐのこのみ と読む:要は御菓子)を求めて常世の国に渡った。10年かかって橘の木を岡山県あたりで発見し、持ち帰ってきたが、帰朝した時、垂仁天皇はすでに亡くなっていた。彼は、悲しみのあまり泣き叫びながら亡くなったという人物で、彼の子孫は、和歌山県の粉河町にある、橘本神社の宮司家に伝わっている。
実は筆者の友達に、この御子孫の橘本氏がいる。橘本神社が和歌山にある理由は、この時代は、和歌山の紀ノ川の水運がとても大事であり、力のある豪族諸家は紀ノ川水域に在していたからである。
ひょんな事から、故郷和歌山県とのつながりを見つけて少し嬉しく思う。



夜は、湯村温泉 佳泉郷 井づつや と言うホテルに泊まる。なんと、今上天皇陛下も御宿泊されたホテルで、食事もかなり豪勢、風呂も行き届いている。手が抜かれている事もある男性用風呂も、さすがに天皇陛下が宿泊される宿だけあって、しっかりしているので、本当にくつろげる良い宿だ。しかも、べらぼうに高いわけでもない。また行きたいと思う。
次の日は湯村温泉の町並みを少し散歩。さほど広くないので、すぐに見て回れる。


近くの売店で卵を買って、温泉卵を自分でつくる!


夢千代館では昔の風俗を知る。


近代に至るまで、風呂は混浴が基本。江戸時代だと、男性は、風呂用のふんどしを締めて入浴し、女性は、風呂用の襦袢をつけるか、何もつけずに入浴する。洗い場には、女性の体を洗ってくれるお気に入りの三助さん(男性)が常駐している。男性の体を洗うのは、湯女と言われ、春をひさいでいた。風俗の女性は当時は、一家を助けた者として尊敬された時代である。彼女たちはいつしか足を洗って良い人の奥方になる日を夢見たと言う。致死率も高かったが、大旦那の奥方におさまる例も多々あった。
そのためか、風呂屋の二階には、大商人のたまり場があり、そこからは、女湯をのぞく除き穴も存在していた。女性たちもそれを知りつつ、自分を自慢しあったのかもしれない。
こう書くと、差別に聞こえるかもしれないが、当時と今では文化も風習も違う。少なくとも、江戸時代の女性は人前で裸になる事にさしたる抵抗を感じていないのだ。長屋暮らしでも普通に諸肌脱ぎで化粧をしているし、姫君は、自分でトイレにすら行けないのだから。
また、今回は長く書きすぎたため、別の記事で紹介したいと思うが、女性たちは、現在よりも、おおらかで今より活き活きと生きる事ができていたと思われる。
今の文化は、福沢諭吉が明治に嘆いた「15歳で村に処女は一人もいない」と言う嘆きから、昭和初期、女性は人を誘惑したりなんかすると、はしたないと教育され、同時に、おしとやかにする事を強いられた。その反動もあって、今の世の中に繋がっている。
この明治維新から昭和初期からくる偏見からか、一部の方は、過去の一側面だけを見て女性差別がひどかったから女性は生きにくかったなどのような偏見をもたれているが、知れば知るほど、江戸の世の方が、今の世の中より多くの民衆が楽しくおかしく、活き活きと生活しているさまも感じ取れる。
今の価値観で見るのではなく、色んな事実を興味を持って見れば、今の世の中も、誰かの価値観だけを当たり前として右に倣えして出来てしまったのだと言う事がよくわかる。
人と共に文化は移り変わる。絶対じゃないんだな。と。
しかし、移り変わっても、人の手によって奪ってはいけないものもある気がしている。
それは自然である。
但馬には、コウノトリ公園がある。コウノトリはかつては日本全国に見られた鳥だが、
近年、絶滅の危機に瀕している。
ここでは、数百羽にまでなったコウノトリが暮らしている。生で見るのは初めてだ!


優雅に飛ぶコウノトリ!野生に戻ったコウノトリが舞っているのを見るのは嬉しい。
こうした取り組みで、他の絶滅危惧種もなんとか、野生にもどっていければなと思う。
もちろん、そのためには、我々の努力が不可欠で、環境に本当に気をつけねばならない。
ささやかながら、寄付をお渡しして、この場を後にする。

次に向かうのは、玄武洞。ここは鉱物の発掘現場だ。
形が、亀の甲羅に似てる事からつけられた。近くに、青龍、白虎、朱雀の各洞がある。


そして、一路朝来に戻って、生野鉱山へ。


銀山内は遊歩道もあり、博物館もあり、勉強になる。
銀を掘って形が変わってしまった山肌も見ることが出来る。
かつて欧米諸国に銀の国と歌われた日本の鉱物資源を支えた鉱山は、今、厳かに我々を見守ってくれているかのようだ。と考えるのは人間目線で都合が良いかもしれない。
このように、兵庫北部を巡る旅は、見所が多い。 夏場が移動しやすくていいのかもしれないが、風情は冬の方が良いと個人的には思う。
いずれにせよ、機会があったら訪れてみてはいかがだろうか?
読者の皆さんには申し訳ありませんでした。
今回の紹介は、兵庫県北部。中国地方の東方や近畿圏から車で行くには最適なコース。
近畿以外の方だとちょっと行きにくいかもしれない。
古代は但馬国と呼ばれた地域が今回の旅のメインである。
但馬国で、まず立ち寄りたいのは、やはり、一宮がある出石と朝来だ。
一宮と言っても、二つ以上ある地域は実は珍しくない。時代によって勢力が強い地域が異なる場合があるのと、国府の中心も異なる可能性があるためである。だが、一宮を称する神社は、かなり由緒があり旧い事だけは事実であり、由緒を見ると、あまり知られていない事実を感じたりする事が出来るので、是非、地方を回る際には、一宮を訪れて御朱印を頂く事をお奨めしたい。
朝来市にあるのは、但馬国一宮の「粟鹿神社」である。


粟鹿神社は、彦火々出見命(ひこほほでみのみこと と読む) と 開化天皇の第3皇子である日子坐王(ひこいますのみこ と読む) と、阿米美佐利命(あめのみさりのみこと と読む)を主祭神として祀っている。かなり聞き慣れない方が多いかも知れないが、個人的には嬉しい発見である。
彦火々出見命は、神武天皇の祖父とされている「海幸彦、山幸彦」の物語で知られる山幸彦であり、
日子坐王は、四道将軍(崇神天皇によって日本掌握のために派遣された)の一人丹波道主王の父であり、
更には、有名?な狭穂彦王、狭穂姫の父でもある。
狭穂姫は垂仁天皇の皇后であったが、兄である狭穂彦王が謀反を起こした時、「お前は兄と夫どちらが愛しいか?」と問いかけられ、寝所にて天皇暗殺をしかけるも失敗。狭穂彦王の館に入るも、
天皇は狭穂姫を深く愛しており、姫の腹には天皇の子がすくすくと育っていた。姫も息子を道連れにするのが忍びなく天皇に息子を引き取るように頼んだ。
天皇は敏捷な兵士を差し向けて息子を渡しに来た姫を奪還させようとするが、姫の決意は固く、炎に包まれた稲城の中で、狭穂毘売は兄に殉じてしまった。と言われている。
開化天皇や垂仁天皇は実在を疑う学説も存在しているが、我々は、こういったかなり生々しい話もある上、数は少ない(少ないからこそただの伝説ではないと思えるのだが・・)が、全国ではない”とある地方に偏った”神社に祀られている事などから、実在を信じている。中央政界の創作にしては出来すぎで不自然だからだ。
ちなみに、この王、神宮皇后の四代前の祖父とも言われており、反逆者は出すわ、日本の国を創った将軍を出すわ、伝説の皇后が子孫にいるわ、超重要人物なのである。
さらに、もう一柱、主祭神が座している。天美佐利命(あめのみさりのみこと と読む)大国主命の御子である。
皇祖神の山幸彦と日子坐王が共に祀られているのは分かるが、どちらかと言うと、大和ではない出雲系の天美佐利命が共に祀られているところが、探求心をそそる。
天美佐利命は『元記』によれば、「垂仁天皇の御代、粟鹿の嶺に坐せし荒振神、
すなわち天美佐利命の神状を朝廷に申出で、幣帛を給わって鎮め祭らしむ」
と書かれており、更に、和銅元年(708年)に上申された『粟鹿大明神元記』には、
第十代崇神天皇の御代に、太多彦命の肩書きに、
「但馬国朝来郡粟鹿神部直」とある。太多彦命は大国主命の十一代目の孫にあたるようだ。
大国主自身は謎が多いが、建速須佐之男命(素戔嗚尊:すさのおのみこと)の長子であり、奇稲田姫の息子の八島士奴美尊の五代先の孫でもあり、須佐之男命の末娘である須勢理毘売の夫でもある。当時は14くらいでも子を成していた(女性でも12くらいで出産の記録もある)ので、14x4=56歳と、あり得ない話ではない。
1835年生まれの松方正義(元日本の総理大臣)の末娘は1903年産まれであるから、68歳でも子を成せるわけで、多くの伝説に名を残す須佐之男命ならば、まったく可能であったかもしれない。
大国主と言えば、安彦良和氏の漫画、「ナムジ」などは結構好きな漫画だ。古代史に興味がある人は見てみると良いかもしれない。と思う。
ただ私は一点だけ異論を持っている。
実は漫画の中では、末子の須勢理毘売が跡継ぎで、大国主が養子に入ったと書かれているが、これは間違いではないだろうか。当時の風習は末子相続にあり、男子がいない場合、女子の相続もあったが、男子の本能は、自分がてっぺんに立つ事になってくるため、男子がいるのに、女子を跡継ぎにすると必ず反乱なり分裂が起こる事は容易にわかる。今より昔はもっとその度合いは強いだろう。(実際、末子相続によって、天皇家も年長の兄皇子による反乱があとを立たなかった。)
それに、どこの馬の骨とも分からない人間を急に当主にとは、当時の男子皇族ならば誰も従えないであろうし、そんな風習が出来るはずもないし、もし、出来たとしても、長続きするはずがない。男の権力を欲する本能は、それほどまでに強いと言う事を忘れている気がするのだ。
話が脱線したが、この三柱の神が共に祀られていると言う事は、出雲系と大和朝廷がこの地点で融和を図っている形跡があること、それぞれの伝説が本当らしき事の一つの証明材料であると言う点である。
皆さんはどうだろうか? 言ってみると、本当に風情のある、それでいて、威厳の感じられる神社であった。
そして、朝来には、最近有名になった、竹田城がある。今回の旅の目的の一つ。

三月では、まだ雪に覆われていて、普段の倍近く登城にかかるが絶景だ。
天空の城と呼ばれるのも分かる。これだけの絶景、歴史を語りたいが、少し野暮な気もするので、控えておく。山名氏の出城だった。とだけ述べておこう。

登城に一時間くらいかかっている(雪道、ほぼ登山)ので、城郭が徐々に見えてくると感動もの。上からの景色は本当に絶景である。



麓の休憩所に戻って食事を取った時、地元のおじさん、おばさんから、「お客さんラッキーでしたね。昨日だと、上に登っても霧で何も見えなかったんですよ。何組かの御家族が登られてたけど、それはもう寒くて震えてて可愛そうでした。上に登っても何も見えないし・・・。」
と言われる。
皆さん、雪のある時に、竹田城に行くと、本当に空いていて良いけれど、かなり下の方にしか車ではいけないため、相当歩く事になるし、雪で見えない事もあるようなので、天候には充分注意して行きましょう!

但馬と言えば、出石そば。こんな感じで出される。一皿づつが少ないので、ぺろりといけるが、
食べ過ぎに注意!こしがあって、さっぱりもしていて美味しい。

出石の町並み。シンボルとなっている。鼓楼。

そして、忘れてはならないのが、ここは、中世、室町時代には、応仁の乱で有名な山名宗全の居城有子山城があった所だ。有子山の麓に、その後出石城が築かれて近世まで続くことになった。
有子山は、山名氏の本城である。
山名宗全といえば、悪名高き日野富子と結託し、応仁の乱を引き起こした人物である。
日野富子は、足利義政の正室であり、嫡男に恵まれなかった義政は、平和のために、弟の一人を還俗させ将軍後継者とした。しかし、その後、嫡男義尚が富子との間に出来てしまう。
義政は、公私は別と、混乱を避けるために弟を将軍に押し、その後見を、時の管領細川勝元に依頼するが、日野富子の方は、山名宗全に愛息の後見を依頼した事と、それぞれの利害が対立に対立を呼び、応仁の乱が勃発する。
富子は、東西両軍の大名に多額の金銭を貸し付け、米の投機も行うなどして一時は現在の価値にして60億円も稼ぎ出したり、自分の子が夭折したのを義政の乳母が呪いを掛けたせいだとして、乳母を流罪とし(本人は途中で自刃)、同時に義政の側室4人も追放したりした。
それだけではなく、京都七口関を設置。設置目的は内裏の修復費、諸祭礼の費用であったが、富子はほとんどその資金を懐に入れた。これに激高した民衆が一揆を起こして関所を破壊したが、富子は財産を守るために弾圧に乗りだすが、民衆だけでなく公家の怨嗟の的ともなっている。
その中、せっかく無理矢理あとをついでいた息子が病死する。
そんな中、富子のせいで将軍になれなかった義政の弟と自分の妹の間に生まれた足利義材(後の義稙)を将軍に擁立するよう画策し、義材が10代将軍となった。そこで後見人となった義政の弟の義視は権力を持ち続ける富子と争い、富子の邸宅小河邸を破壊し領地を差し押さえたりしている。また、翌年の義視の死後、親政を開始した義材もまた富子と敵対している。
わがまま勝手な自分だけ良かったら良いと言うお局さまに政治を壟断されてはたまったものじゃないだろう。
しかし、富子は、義材が河内に出征している間に富子は細川政元と共にクーデターを起こして義材を廃し、義政の甥で堀越公方足利政知の子足利義澄を11代将軍に就け、更に権力を握ろうとした(明応の政変)
その3年後、明応5年(1496年)に57歳で平和に死亡したが、足利家のみならず、日本全国に争乱が拡がっていくのである。
自分だけが良いと考えたこの女性は、私利私欲で国家を傾かせた後始末もつけず、自分だけ普通に死んでしまうわけであり、利に狂った女は無茶苦茶するので誰よりもたちが悪くなると巷で良く耳にするが、確かに、現在でも遺産相続などの裁判などを勉強しているとそう思える事も多々起こっている。
「自分だけが損をしたくない」と言う考えは周囲含めて回り回って不幸にする良い教訓ではないだろうか? 気をつけたいものだ。

実は、山名宗全には、早逝した長兄と、廃嫡された次兄がいるが、次兄が、惣領になれなかったことを恨んで挙兵したり、その後一族の反乱離反があり、山名氏は、この応仁の乱の後、急激に没落。戦国時代、すでにこの本城有子山を失っていた鳥取城主の山名豊国が家臣に放逐されて滅亡してしまうのだ。鳥取城は、吉川経家が入り、羽柴秀吉と対峙する事になる。
そして、出石神社。

なぜか、付近の住民は「いっきゅうさん」と呼んでいる。
天日槍命と出石八前大神を祀る。天日槍命は新羅の王子であったが、八種の神宝を持って渡来し、但馬国に定住したと伝える。この八種神宝が八前大神である。
ちなみに、天日槍命の子孫は、田道間守である。田道間守は、御菓子の神様であり、
垂仁天皇の時代、天皇の命により、非時香菓(ときじくのかぐのこのみ と読む:要は御菓子)を求めて常世の国に渡った。10年かかって橘の木を岡山県あたりで発見し、持ち帰ってきたが、帰朝した時、垂仁天皇はすでに亡くなっていた。彼は、悲しみのあまり泣き叫びながら亡くなったという人物で、彼の子孫は、和歌山県の粉河町にある、橘本神社の宮司家に伝わっている。
実は筆者の友達に、この御子孫の橘本氏がいる。橘本神社が和歌山にある理由は、この時代は、和歌山の紀ノ川の水運がとても大事であり、力のある豪族諸家は紀ノ川水域に在していたからである。
ひょんな事から、故郷和歌山県とのつながりを見つけて少し嬉しく思う。



夜は、湯村温泉 佳泉郷 井づつや と言うホテルに泊まる。なんと、今上天皇陛下も御宿泊されたホテルで、食事もかなり豪勢、風呂も行き届いている。手が抜かれている事もある男性用風呂も、さすがに天皇陛下が宿泊される宿だけあって、しっかりしているので、本当にくつろげる良い宿だ。しかも、べらぼうに高いわけでもない。また行きたいと思う。
次の日は湯村温泉の町並みを少し散歩。さほど広くないので、すぐに見て回れる。


近くの売店で卵を買って、温泉卵を自分でつくる!


夢千代館では昔の風俗を知る。


近代に至るまで、風呂は混浴が基本。江戸時代だと、男性は、風呂用のふんどしを締めて入浴し、女性は、風呂用の襦袢をつけるか、何もつけずに入浴する。洗い場には、女性の体を洗ってくれるお気に入りの三助さん(男性)が常駐している。男性の体を洗うのは、湯女と言われ、春をひさいでいた。風俗の女性は当時は、一家を助けた者として尊敬された時代である。彼女たちはいつしか足を洗って良い人の奥方になる日を夢見たと言う。致死率も高かったが、大旦那の奥方におさまる例も多々あった。
そのためか、風呂屋の二階には、大商人のたまり場があり、そこからは、女湯をのぞく除き穴も存在していた。女性たちもそれを知りつつ、自分を自慢しあったのかもしれない。
こう書くと、差別に聞こえるかもしれないが、当時と今では文化も風習も違う。少なくとも、江戸時代の女性は人前で裸になる事にさしたる抵抗を感じていないのだ。長屋暮らしでも普通に諸肌脱ぎで化粧をしているし、姫君は、自分でトイレにすら行けないのだから。
また、今回は長く書きすぎたため、別の記事で紹介したいと思うが、女性たちは、現在よりも、おおらかで今より活き活きと生きる事ができていたと思われる。
今の文化は、福沢諭吉が明治に嘆いた「15歳で村に処女は一人もいない」と言う嘆きから、昭和初期、女性は人を誘惑したりなんかすると、はしたないと教育され、同時に、おしとやかにする事を強いられた。その反動もあって、今の世の中に繋がっている。
この明治維新から昭和初期からくる偏見からか、一部の方は、過去の一側面だけを見て女性差別がひどかったから女性は生きにくかったなどのような偏見をもたれているが、知れば知るほど、江戸の世の方が、今の世の中より多くの民衆が楽しくおかしく、活き活きと生活しているさまも感じ取れる。
今の価値観で見るのではなく、色んな事実を興味を持って見れば、今の世の中も、誰かの価値観だけを当たり前として右に倣えして出来てしまったのだと言う事がよくわかる。
人と共に文化は移り変わる。絶対じゃないんだな。と。
しかし、移り変わっても、人の手によって奪ってはいけないものもある気がしている。
それは自然である。
但馬には、コウノトリ公園がある。コウノトリはかつては日本全国に見られた鳥だが、
近年、絶滅の危機に瀕している。
ここでは、数百羽にまでなったコウノトリが暮らしている。生で見るのは初めてだ!


優雅に飛ぶコウノトリ!野生に戻ったコウノトリが舞っているのを見るのは嬉しい。
こうした取り組みで、他の絶滅危惧種もなんとか、野生にもどっていければなと思う。
もちろん、そのためには、我々の努力が不可欠で、環境に本当に気をつけねばならない。
ささやかながら、寄付をお渡しして、この場を後にする。

次に向かうのは、玄武洞。ここは鉱物の発掘現場だ。
形が、亀の甲羅に似てる事からつけられた。近くに、青龍、白虎、朱雀の各洞がある。


そして、一路朝来に戻って、生野鉱山へ。


銀山内は遊歩道もあり、博物館もあり、勉強になる。
銀を掘って形が変わってしまった山肌も見ることが出来る。
かつて欧米諸国に銀の国と歌われた日本の鉱物資源を支えた鉱山は、今、厳かに我々を見守ってくれているかのようだ。と考えるのは人間目線で都合が良いかもしれない。
このように、兵庫北部を巡る旅は、見所が多い。 夏場が移動しやすくていいのかもしれないが、風情は冬の方が良いと個人的には思う。
いずれにせよ、機会があったら訪れてみてはいかがだろうか?




