愛知の旅
西川(兄)です。
最近、新規事業展開などで、やたら忙しく、更新が滞っています。
久々に更新です。
今回は、愛知県、尾張の国。
尾張の国は非常に古く、古代には、天皇家と縁戚になった尾張氏が開いた国である。
日本武の尊の妻の一人も尾張氏の娘。古代では、相当力の持っていた国でもあった。

ここは、尾張国総社である、立派な神社だ。

ここも、尾張国総社。「はだか祭り」で有名である。もちろん、全裸ではない。

ここは、一宮真清田神社。草薙の剣を御神体とする熱田神宮が一宮と思いきや、実は、ここが一宮。家紋は九枚笹。我が家の五瓜に九枚笹に似ている。
神武天皇33年にこの地を「尾張」と名づけ開拓した天香山命の父神が祀られている。古代豪族尾張氏系の神社である。

一宮大神神社も、一宮とされている。、大和国から移り住んだ人々が創始したともされる。他に、天火明命(尾張氏の祖神)の十世の孫である大美和都禰命が祭神であったとする説もある。神紋は桜井市の大神神社と同じ三杉。
ここは廃れており、神職の方は、二代天皇の綏靖天皇の子孫を祭る大神社の神職が兼ねておられる。

三宮熱田神宮近くのひつま蒸しの有名店。熱田神宮もはずせないが、ここに来たらよりたい、有名店がある。ひつマムシ、すごく美味しい。しかし、並ぶのも激しいので注意が必要。

熱田までくれば、名古屋城はもう近い。尾張名古屋は城で持つといわれたとおり、おそらくは、日本全国で一番巨大な城。
ここは必見である。天下普請だけあって、本当にすごい迫力の天守閣。同じ御三家でも、紀州藩のそれよりもすごい。
尾張家の男子直系は、家老の家でながられたが、結局は、直系の血筋が途絶え、紀州家の直系が養子として尾張藩主になってしまっている。
まあ、Y遺伝子は家康のだから、一緒なので、まだ良いのだが。

名古屋城から北上し、犬山に向かう途中には、二宮大縣神社がある。
ここは、古代の風習を今に残す祭りが有名だ。
御神体として、担がれるのは、女陰、つまり、女性器である。
昭和初期に至るまでは、もろだしの女性器そのものだったのだが、近年の風潮によって、
おたふくの口に、女性器が描かれたものが担がれるようになった。
人そのものではない偶像であれば、古代の風習を残した方が良いのにと思ってしまう。
しかも、実は、おたふくの口に存在する方が、なんとなく卑猥に見えてしまうのは、感覚の違いからかもしれない。
古代、女性器は、聖なるものとされ、魔を祓うものであった。
だからこそ、古事記で、天照の岩戸隠れの際、天のうずめは、女性器をむき出しにして、踊り狂ったのである。
こうした神話は、世界各地に存在しる。日本でも、沖縄では、鬼となった兄を退治するために、妹が女性器を見せ付けるというシーンがあるし、小野小町は、暴漢に襲われた際に、自分の女性器を相手に見せ付けたという話が伝わっている。
子が神からの授かりモノと考えられていたため、子が生まれてくる女性器は聖なるものであったのである。
社伝によれば「垂仁天皇27年(紀元前3年)に、本宮山の山頂から現在地に移転した」とある。
祭神の大縣大神は、国狭槌尊とする説、天津彦根命(大縣主の祖神)とする説、少彦名命とする説、大荒田命(日本武尊の三世孫で迩波縣君の祖)とする説、武恵賀前命(神八井耳命の孫)とする説などがあり、はっきりしないが、大縣大神は、尾張国開拓の祖神である」とされており、尾張で最大の古墳がすぐ傍にある。
なお、田縣神社は、ここに対して、男根を御神体として担ぐ。
田縣神社では、スサノオの三男である大歳尊の息子の御歳尊神と玉姫で、五穀豊穣と子宝の神である。社伝によれば、当地は大荒田命の邸の一部で、邸内で五穀豊穣の神である御歳神を祀っていた。玉姫は大荒田命の娘で、夫が亡くなった後に実家に帰り、父を助けて当地を開拓したので、その功を讃えて神として祀られるようになったといわれている。

犬山城下。犬山は、実は城下町でちょっと遊べる。屋台村もあって、休憩にも良い。

国宝犬山城。つい最近まで、かつての城主が、なんとか地力で保持してきた城。
城内は、ちょっと寂しい。もう少し、家宝などを展示して、博物館っぽくすれば、良いのにと思ってしまう。
犬山城は、五月の連休など、人が集まりそうな時には絶対にいかない方が良い。狭い城のため、待ち時間が普通に1,2時間になる。
しかも、名古屋近郊は、信号機の効率がおそらくは日本全国で一番悪い。
わざと、車が止まっていくように計算されているようにも見える。
非常にたちの悪い連動の悪さで、大渋滞する。しかも、住民がまたのんびりした方が多く、右折するために、先頭から二番目で、三度も信号が青から赤に変わってしまうなどの経験もざら。
主観だが、車ではいかない事をおススメする。
車の運転で、ストレスが溜まった日本一の場所が、我々にとっては、この尾張名古屋だ。
ちなみに、二番は、奈良。三番は、福岡の博多。四番は和歌山の渋滞時、五番は鳥取。
どうしても車で行くならば、空いている道を、探していくべし。
熊本の旅
西川(兄)です。
今回は久々の更新。自社のホームページ大改修のため、かなり更新が遅れました。
久々の熊本です。
熊本は旧くは、菊池氏や相良氏が守り、島津家三男、島津歳久らによる相良氏攻略によって、島津歳久の勢力圏となります。その後、豊臣秀吉の時代には、佐々成政の所領となりますが、一揆が起こり、加藤清正と小西行長が肥後を分け合う形で、領しました。
秀吉発による朝鮮の役の際、島津歳久家中の多くが参加した北薩摩から肥後にかけての国人衆が一揆が再び起こるなど、不安定な土地柄でした。旧相良氏、島津氏の統治好く、反秀吉の機運が高かったのだと思います。それを見事に治めきったのが、加藤清正でした。
ですから、未だに、熊本城のシンボルとして、その後息子が改易され、細川氏が入ってきているにも関わらず、加藤清正の人気は絶大なのです。
関が原の合戦の時、その清正も大苦戦を強いられました。西軍に与した小西行長の留守を攻撃したものの、小西行長の弟、小西左京行景の奮戦により、宇土城を落とせなかったのです。
本軍が出払った弱兵をよく統率し、小西行景は耐えしのぎました。しかし、西軍の敗北と兄からの開城を促す書状を受け取った小西行景は、自らの切腹と引き換えに、城にこもった家臣の安堵を清正と交渉し、宇土に散ったのです。
戦後、清正は、この肥後一国をもらいうけ、宇土城の天守閣を、熊本城の一角にすえました。
今も、宇土城の天守は熊本城の櫓として健在です。

熊本城
さて、熊本でどこに宿泊するのが良いか、いつも悩むのですが、阿蘇山麓がおススメだと思います。どこも景色がよく、雄大な山々に囲まれた露天風呂は格別です。

阿蘇山

阿蘇山
阿蘇山麓にある阿蘇市には面白い神社があります。阿蘇一宮は随分前に紹介したのですが、
阿蘇一宮の近くにある、国造神社、ここは、元宮とされています。
すごい、巨木がある、すごく雰囲気のある神社でした。
元々、阿蘇氏は、国造家です。国造というのは、大和朝廷時代の、国を預かる古代豪族のことで、その国の支配を任されていました。言うなれば、古代の大名家といってもいいかもしれません。
ちなみに、最近、出雲の国造家と天皇家が婚姻しましたが、あの国造家も同じです。
もちろん、古代は、今とも江戸時代や戦国時代の国のような割られ方はしていませんので、
聞きなれない呼び方です。
肥後の国は、肥前もあわせ、「火の国」でした。その時代に創建されたとされる、この神社、巨木を見に行ってみてはいかがでしょうか?
残念ながら、巨木が折れてしまったようですが、以下のように保存されています。
株を見るだけでも、価値がありますよ!

国造神社

国造神社

国造神社

国造神社
今回は久々の更新。自社のホームページ大改修のため、かなり更新が遅れました。
久々の熊本です。
熊本は旧くは、菊池氏や相良氏が守り、島津家三男、島津歳久らによる相良氏攻略によって、島津歳久の勢力圏となります。その後、豊臣秀吉の時代には、佐々成政の所領となりますが、一揆が起こり、加藤清正と小西行長が肥後を分け合う形で、領しました。
秀吉発による朝鮮の役の際、島津歳久家中の多くが参加した北薩摩から肥後にかけての国人衆が一揆が再び起こるなど、不安定な土地柄でした。旧相良氏、島津氏の統治好く、反秀吉の機運が高かったのだと思います。それを見事に治めきったのが、加藤清正でした。
ですから、未だに、熊本城のシンボルとして、その後息子が改易され、細川氏が入ってきているにも関わらず、加藤清正の人気は絶大なのです。
関が原の合戦の時、その清正も大苦戦を強いられました。西軍に与した小西行長の留守を攻撃したものの、小西行長の弟、小西左京行景の奮戦により、宇土城を落とせなかったのです。
本軍が出払った弱兵をよく統率し、小西行景は耐えしのぎました。しかし、西軍の敗北と兄からの開城を促す書状を受け取った小西行景は、自らの切腹と引き換えに、城にこもった家臣の安堵を清正と交渉し、宇土に散ったのです。
戦後、清正は、この肥後一国をもらいうけ、宇土城の天守閣を、熊本城の一角にすえました。
今も、宇土城の天守は熊本城の櫓として健在です。

熊本城
さて、熊本でどこに宿泊するのが良いか、いつも悩むのですが、阿蘇山麓がおススメだと思います。どこも景色がよく、雄大な山々に囲まれた露天風呂は格別です。

阿蘇山

阿蘇山
阿蘇山麓にある阿蘇市には面白い神社があります。阿蘇一宮は随分前に紹介したのですが、
阿蘇一宮の近くにある、国造神社、ここは、元宮とされています。
すごい、巨木がある、すごく雰囲気のある神社でした。
元々、阿蘇氏は、国造家です。国造というのは、大和朝廷時代の、国を預かる古代豪族のことで、その国の支配を任されていました。言うなれば、古代の大名家といってもいいかもしれません。
ちなみに、最近、出雲の国造家と天皇家が婚姻しましたが、あの国造家も同じです。
もちろん、古代は、今とも江戸時代や戦国時代の国のような割られ方はしていませんので、
聞きなれない呼び方です。
肥後の国は、肥前もあわせ、「火の国」でした。その時代に創建されたとされる、この神社、巨木を見に行ってみてはいかがでしょうか?
残念ながら、巨木が折れてしまったようですが、以下のように保存されています。
株を見るだけでも、価値がありますよ!

国造神社

国造神社

国造神社

国造神社
山梨の旅~富士を望んで~
西川兄弟(兄)です。
我々兄弟のお気に入りの場所のひとつが、山梨だ。山梨には足しげく通っている。
ちょっと遠いけれど、のんびりしていて、人も感じが良い。
自分の状態を変えるには最高の土地だと思う。

まず、食べるのは山梨名物ほうとう。うどんより、ちょっと太め。鍋焼きで、ボリュームたっぷり。ここは、あっちの湯、こっちの湯から程近い場所。

心頭滅却すれば火もまた涼しの快川和尚の恵林寺。
ここの素晴らしいのは、うぐいす張り。うぐいす張り自体は各地にあるのだが、ここのは本当に一味違う。音が大きいから、絶対に忍びは忍び込めないだろうと思う。
一度聞いてみるべし! 宝物も信玄公ゆかりのものが揃っていて、見応え十分。
次に目指すのは、富士山麓の水が美味しい景勝地、忍の八海。山梨の中でも南の方。
けれど、山梨県内は、さほど渋滞もしないし、甲府からでも、思ったより楽に着く。
岩垣城と猿橋の付近を通ると思うので、猿橋はよっていくのがおススメ。
岩垣城は、大月にある。かつて郡内と呼ばれ、最強武田軍団の先陣、石投げ部隊を率いた小山田氏の所領である。小山田氏は、最後に、晩節を汚した等、評判はよくないのだが、私は領主として、苦渋の決断だったようにも思える。
武田とは元々独立した勢力でもあった小山田氏は、滅び行く武田に準じて、領民を苦しめるのに葛藤があったのではないだろうか。
彼の石投げ部隊は、三方が原の戦いの時、その投げた石は、家康本陣にまで届き、家康の心胆寒からしめ、命からがら逃げ出したほど、強い部隊だった。
当時、鉄砲も射程が短かったので、石投げ部隊の射程の方が長かったとも言う。

忍の八海、ほら、富士山と一緒に映える水際。

忍の八海の水はこんなにも澄み切っているわけです。

忍の八海の水のみ場。ここでポリタンクを購入して水を持って返るのが良い。
本当に美味しい水。さすが富士山!

ひどく古そうなお社を見つけたので、立ち寄った北口本宮富士浅間神社。富士山への北口の登山道前に鎮座しているようだ。
山中湖付近にある。ちょうど渋滞部なので、休憩に立ち寄るのもおススメかもしれない。
そこから、富士山の樹海を越えて、鳴沢に向かう。

鳴沢氷結入り口がここ。当然のごとく、この道は大渋滞。

鳴沢氷結の中はこんな感じ。

超涼しい。というより、むしろ寒い。温度差がはんぱじゃない。
そして、岐路も大渋滞のため、もう遠くへはいけない。
そこで、せっかくなので、富士五湖から富士山を見てみようと思う。

西湖から富士山を臨んで。実は、ここからの眺めは良く、人もそれほどいないので、記念撮影には一番のおススメかもしれない。

山中湖から富士山を臨んで。山中湖は混んでる。ただ、色々な館が集まっているから、ここで、1日十分遊べる。
特に、オルゴール館での演奏は、癒される。

オルゴール館内にて。

オルゴール館内にて2。
総括すると、今回は、自然風景をメインに、富士山麓を回った。
富士五湖付近は、山梨にしては珍しく、大渋滞なので、ここを目指す場合は要注意だ。
それ以外は、空いているので、楽に回れる。
美味しい水、美味しい食事、そして、ナイスな景色。山梨はやはり良い!皆さんも、是非一度はいかれてはいかがでしょうか?
長野の旅~
西川兄弟(兄)です。
今回は再び、長野の旅。
珍しく、群馬側から長野へ入る。
理由は、戦国時代を駆け抜けた真田一族にかかわる所を見たかったからだ。
真田一族は、清和源氏を称しているが、実質は、古代豪族の大伴氏の末裔の可能性が高いとも
言われている。戦上手の血は、確かに、古代の大王親衛隊や歴代の征夷大将軍を勤めた大伴氏にふさわしいかもしれない。
本拠地は信州上田市。

まずは、上田城付近の真田資料館。ここには、武田24将に数えられる、真田幸隆、信綱、昌輝、昌幸の展示がある。24将に、同一家から四名も数えられた家はない。
幸隆は、攻め弾正と呼ばれた城攻めの達人。信綱は、なんと家老にまで登りつめた嫡男。昌輝は、信玄直属のエリート集団百足衆にも属し、「兵部は我が両目なり」とまで言わしめた侍大将。昌幸はいわずとも知れた、徳川家を二度も撃退した謀将である。

そして、付近にある、信濃国総社科野神社に参拝。信濃は、昔、科野と書いたことなどがわかる。ここには、徳川軍に攻められた真田昌幸、信幸、信繁(幸村)父子が、徳川を撃退した戦いの際、住民が、この真田昌幸を慰めるために、踊られた舞が今にも残る。
真田氏は松代に転封となるが、その後も、その祭りは真田氏を偲んで続けられ、現在に至る。

総社科野神社に伝わる獅子。前述の徳川家との戦いにおける上田城籠城戦の際から続くもの。
信州のかたがたは親切にも、わざわざ見せて下さった。

上田から信州に入るには、長野市を通るため、次は、善光寺参り。何度も書いているので、省略する。

ついでに松本城に立ち寄る。実は、この後、上高地に向かいたいわけだ。
松本城の話も、前のブログで記載済みなので、有名な馬場信春の話などは省略するが、少しだけ書いておく。
ここは、もともとは、小笠原氏の城だった。それを武田信玄が攻略して、馬場信春が守る事になる。信玄は、地域ごとに、信頼できる重臣をつけていた。
ここ中信濃には馬場信春、駿河には山県昌景、最北端には高坂昌信、北信濃には真田氏、上野には内藤昌豊、遠江には秋山信友、と言う風に。
しかし、次世代で武田氏が滅亡すると、その間隙を縫って、信玄に領国を奪われた小笠原長時の息子小笠原貞慶が奪還。その子小笠原秀政は、なんと、松平信康の忘れ形見の娘を奥方にもらって、親藩扱いで江戸時代を生き延びる。
名門が何故名門なのか。親から子に受け継がれるパターンがある。遺伝だけではなく、パターンだ。パターンというのは脳の使い方だ。人他人もは自分と同じように脳を使っていると思いがちだが、実は違う。同じ使い方をしていない。
幼いころに、つちかってなければ、その使い方に気がつかず、同じ事を出来ない場合もある。
どこから仕入れるかと言うと、自分の経験。基礎的な部分は親からだ。
名門は、かつて、先祖が優秀だったから、つまり、良い脳の使い方をしていた、更に言うと、良い脳のパターンを持っていたが故に、名門となりえた。その使い方が受け継がれる可能性が高いわけである。
逆に言うと、そういう良さそうなパターンを取り入れれば、別に、名門じゃなくても、脳はパターンを取り入れる事が出来る。父母の努力がいかに大事な事か。
子育てを他人任せにすると、この大事な脳のパターンが受け継がれない可能性が高まる。過去は、核家族ではなかったから、祖父から孫にも連絡経路があった。教育と言う意味で、今の社会は実は良くない側面がある。
などと上高地へのドライブ中に考えてしまう。

この時期の上高地。春じゃない。冬。上高地はなめててはいけない。

上高地にて。歩いていると雪がちらほら。

上高地にて、穂高をのぞむ。天候が悪く見えないと思っていたが、運よく一瞬だけ見えた!

上高地の天候は変わりやすい。ほら、一瞬でこうなる。

上高地のつり橋付近。靴はもうびしょびしょ。春の上高地は、冬。アルプス一万尺というが、ちょうど、標高が一万尺らしい。綺麗だが、防寒具は必須。
こっちは、半そでにジャケットを羽織ってるという完璧に春の格好だから、寒くて仕方ない。
凍える。。。。
しかし、この時期の上高地は本当に綺麗だ。一度は言ってみることを進めたい。
人は少ないし、白銀の上高地は見ごたえ十分。
上高地に続いていくのは、またしても、真田氏の松代。

松代城は、もともとは海津城といわれ、信玄の小姓時代からの家臣。高坂昌信が守っていた。
高坂は、ここで、息子たちと共に、上杉謙信相手に北信濃を防衛した。
そのためか、信玄家中では、段違いに与えられた兵力が多い。それだけ信頼されていたと言うことだろう。昌信の嫡男は、長篠で戦死。
武田氏が滅びると、次男昌元の一族は、森長可の弟、森忠政に恨まれて一族皆殺しにあう。しかし、三男の昌定の一族が、保科正之の家臣となって、血脈を伝えたと言われる。
その後、ここへは、真田信幸が転封されてくる。これが松代真田氏の始まりである。

松代藩校。超ひろい。昔の武士の子弟の学校は実に興味深い。武道が大事だが、読み書きや文書などの授業もあったようである。

松代真田資料館。ここには、歴代の家宝がおさめられている。

資料館前の唐辛子ソフト。変わってる。

思わず、資料館前で唐辛子ソフトを食す。
宿泊は、安くて美味しくて楽な温泉が良い。

国民宿舎諏訪湖水苑。安い。結構うまい。温泉もなかなか。しかも、超わかりやすい。
なので、この付近に来たら良く使う。なお、日本酒の飲み比べセット、飲みすぎるくらいで、超お得。
次の日、AMからは、何回も来ているが、せっかくだから、諏訪を久々に歴訪する。
抑えておきたいところは以下かな。

諏訪オルゴール館。

諏訪時計館。

諏訪湖。諏訪湖には、伝説がある。出雲の大黒様の息子の建御名方尊が諏訪大神であるが、その妻と夫婦喧嘩をして、妻が出て行ってしまう。妻が春から夏に暮らす春宮と秋から冬に暮らす秋宮がある。これが諏訪下社だ。もともとは諏訪上社で、元々夫婦で暮らしていた時の前社と建御名方尊が住む上社がある。冬になると、諏訪湖が凍り、夜、びきびきと音がなるのだが、これは、仲直りした建御名方尊が、妻の元に移動している音だと言い伝えられている。
これを「おみわたり」と言う。
しかし、温暖化でここ10年、ほとんど、「おみわたり」はないらしい。さびしい限りだ。

諏訪大社。実は四社ある。電車だときつい。バスが少ないし、タクシーだと結構な距離になるので、金銭的にかかってしまう。
はじめてきた時は、私は歩いたのだが、一日がかりになるので、お勧めしない。
やはり、車が一番だが、無理な場合は、前社と上社をタクシーで行き、下社の方にはバスで行くのが良い。下社の二つはそんなに離れていない。
諏訪をあとにして、次に向かうは戸隠。

戸隠と言えば、やはり、そば屋。ここでそばを堪能する。

これが、ここで食べた戸隠そば! 忙しい時期の臨時バイトなのか、女子中学生か、高校一年生か、そのくらいの子が恥ずかしそうに、注文やお伺いをしてくれる。

戸隠忍者屋敷。ここは超楽しめる。からくりを頭を使って突破しないと次の部屋に進めない。
忍者屋敷は冬季は休館。春からだ。春はすいているらしい。
そして、戸隠と言えば、戸隠神社。全部まわろう。しかし、奥宮だけは、気をしっかり持って、覚悟していかないと、きつい。
歩いていると、何も知らずに来たカップルがいて、女性の方が、男性に「疲れた」とか、「なんでこんな所にくるのよ」とか、だんだん文句を言われている。
何故か?歩く距離が段違いに長い。しかも、近くまで車ではいけない。
車を止めて、入り口にいたるまで、直線で2km弱くらいある。直線で2km弱。入り口が見えない。
これはもはや修行。

そして、ようやくたどり着いた「戸隠神社奥宮入り口」。まだ入り口。
ここから次第に登山が始まる。われわれの足で30分くらい。普通の人なら45~60分くらいの山登りが始まる。しかも、春先は足場が最悪。なぜなら、雪が残ってるので、びしゃびしゃ。

で、ようやく着いた戸隠神社奥宮。ここは二度と行けないな。。。
なので、御朱印とお札を頂戴する。
そして、また戻りで、すさまじい距離を歩く。
ここに祀られているのは、珍しい、なんと、手力男尊。彼は、天照大神が天の岩戸に隠れてしまったときに、扉を開いた神。なんでこんなとこに?
どうやら、神話では天手力雄命が投げ飛ばした天岩戸が現在の戸隠山であるとされているようだ。

帰り際に、川中島に立ち寄る。夕方まで、りんごを売るおばちゃんのセールスがすごいが、夕方になると、それもあまりない。ちょっと寂しいくらいだ。
一つだけ川中島で紹介したいエピソードがある。
第四回川中島では、きつつきの戦法というのが出てくる。でも、あれはおかしな話で、
お互いに撤退しようとした所を出くわしてしまったと言うのが本当のところらしい。
謙信軍は、妻女山に陣取るのだが、戦術的にはこれは愚策の象徴で、囲まれてしまうと、身動きが取れなくなる。
信玄を決戦に引きずり出したい謙信は、あえて良くわからない布陣をして、信玄をおびき出そうとした。しかし、信玄は逆に、なんだこの変な構えはと慎重になった。
相手の腹の読み合いだ。
しかし、当時は稲刈りなどの季節が近づくと農民兵は帰宅したくなる。それで、勝手に帰る連中も出たため、謙信は決戦をあきらめ、濃霧に紛れて撤退しようとした。
しかし、信玄の真正面に出てしまったと言う。
これは、一つの説だが、キツツキの戦法は、合理的じゃないので、まぁ、妥当な線かもしれない。
何故、合理的じゃないかというと、軍を二手に分けると、謙信軍より一手一手が少なくなり、ただでさえ強い謙信に対する数の優勢が消える。しかも、その数が多い謙信軍に山の下から攻めかかって、謙信軍は山の反対側に追い落とされるだろうか。
普通に考えたら、負けるのは武田別働隊の方になる。
挟み撃ちにするなら、正面軍も同時に動いて、同時攻撃しないとだめだ。
皆さんはどう考えるでしょうか?
大分の旅~
大分県は見所が多い県である。
以前、別府や湯布院に行ったが、再度いきたくなるところ。
今回は、もう少し羽を伸ばして時間をかけて大分県を回ってみる事にする。
まず、向かったのは原尻の滝。ここは、宮崎県高千穂から大分側に抜ける山道を越えていくと着く。その途上に、おそらくこの付近を開いたであろう土地神(少なくとも知っている神話でみあたらない)が祭られている神社もあったり、その行程は楽しい。
ただし、曲がりにくねっているため、運転に気をつけないと車酔いしてしまう。
だが、それを潜り抜けて着く先は、すばらしい滝。スモール版グランドキャニオンと言っても良いかもしれない。

これが原尻の滝!ここは本当にすばらしい。日本にもこんな景色があったのか?!

原尻の滝、もう一枚。
ここですっかり回復して、次は、ここから程近い、豊後竹田城へと向かう。
竹田城と言えば、兵庫県の天空の城を連想する方が今では多いかもしれないが、この豊後竹田城
だってすばらしい城である。
滝廉太郎作曲 荒城の月のモデルとなった城なのだ。別名は岡城。「はるこうろうの~♪はなのえん~♪」と言われれば分かるのではないだろうか。
岡城に近づくと、道の中央線におもしろいしかけがある。通常、中央線に乗ってしまうと、音がするのだが、その音が、なんともおもしろい。荒城の月のメロディが流れてくるように仕掛けがされているのだ。#と言っても、対向車が来てるときには危ないので止めてね。
しかも、ここは、大友宗麟家老を務めた志賀家の居城。志賀道輝は耳川の戦いでは肥後国に出陣したが、大友宗麟戦に反対していたため軍勢を動かそうとしなかったため無事生還している。
1586年、薩摩の島津氏が侵攻してきた時、志賀家は分裂する。志賀道輝は大友宗麟と共に丹生島城に立て籠もって抗戦するが、(実際には島津に内応していたとも言われている)、嫡子の志賀親度は島津氏に味方したが、嫡孫の志賀親次だけは内応せず、岡城を死守した。多くの城が島津氏に降伏し、豊後はほぼ島津勢力下に落ちた後も、吉弘鎮信の嫡男吉弘統幸の守る屋面城やその弟で高橋紹運の嫡男立花宗茂の守る立花山城など、わずかの城と共に、未だその勢力を維持していた名城のひとつである。

岡城から。激戦を潜り抜けた城だけあって、山道は険しい。

岡城の花見時期のお祭りの模様。
花見時期の岡城は、とても綺麗で人のにぎわいもあって楽しい。
地元産のみかんや、屋台も出ていて楽しいし、資料館なども城跡に登る途中に存在する。
残念なのは、居住空間などは残っていないこと。
てっぺんまで行くと、滝廉太郎の銅像が建っている。
彼の作曲した荒城の月の風景にぴったりな風情のある城である。
今有名になっている天空の城竹田城とはまた別の趣ある城だ。きてよかったと心底思う。
さて、岡城をあとにした我々は、今度は、臼杵に向かう。ここには臼杵城があり、豊後のほとんどを島津に征服された大友宗麟が最期に立てこもり、豊臣秀吉からの援軍を待った城である。
この城には、多くの民衆が宗麟の下に庇護された。国崩しと言われた当時としては破壊力抜群の大砲などを駆使して、粘り強く戦った舞台だる。

臼杵城に向かうさなか、臼杵の巨大石仏に立ち寄る。資料館には、臼杵城からの発掘物などがあり、得した気分である。こうした石仏がここ豊後には多い。
キリスト教の教えを広め、キリスト教の王国を作ろうとした大友宗麟には皮肉なことだ。

ここが臼杵城。かなり変わった城である。縄張りは大きくはないが、守備は難そうに見える。
元々は海に囲まれていたようで、更に守りやすい城だったようだ。
こんな小さなところに籠城していたのだと、島津の大軍を前に、非常に心細かったろう。
臼杵でも桜祭りが行われていた。屋台で物色したのち、宿泊のため、再び湯布院に向かう。
前回は湯布院だったが、今回は由布院に泊まる。
どうやら、昭和30年頃に由布院町と湯平村が合併して湯布院町となったらしく、町全体を言うときは湯布院で、昔からある地名などは由布院と“由”の字を使うようである。
なんともややこしいものだ。
今回宿泊するのは、由布の里。部屋はそれぞれ離れになっているし、風呂は全部貸切で使える上、食事も言う事なしの宿。

由布院のホテル由布の里の客室。

由布院のホテル由布の里で食した城下ガレイ

由布院のホテル由布の里で食した豊後牛A級の焼き物
ここまできたら豪勢にいきたいところ。
あとは焼酎。で、食べすぎ、飲みすぎは風呂で汗を流して解消!
この日はゆっくり寝る事が出来た。
次の日、再び湯布院の町へ。

湯布院のステンドグラス館。前回行けなかったので今回は立ち寄る。
中はなかなか見ごたえがある。写真禁止と書いていたので、外からのみ。
ちょっと離れている場所にあるので、先に車で立ち寄るべし。入館料はちょっと高め。
お得感は低いが、素晴らしい。

のんびり湯布院散策。
さて、昼を食べた後、湯布院を後にして、次は、耶麻渓へ向かう。

耶麻渓の風景。車で通っていく耶麻渓の風景はドライブしているだけでも楽しいもの。
自然のおりなす景観は、心を洗い流してくれるだろう。

更に耶麻渓の風景。

耶麻渓を進んでいくと、有名な青の洞門がある。そこに向かっていると、何やら面白そうな場所を発見。
ここは、青の洞門近くの羅漢寺。ロープウェーもある。やたら広くて、ここを上ると一日かかりそうだったため、下からのみ。時間があればゆっくりと立ち寄りたいところ。

ようやく着いた青の洞門。今は、昔の青の洞門は使われていないようだが、ここが無かった時代、人々は岩盤を伝って行くほか無く、多くの人が落下して命を落としたと言う。
それを見た禅海と言う和尚が、一本ののみをもって、何年もかかってトンネルを掘ったそうである。実はこの禅海和尚、若いころに人を斬って、その息子が仇討ちのために、和尚を追い求めていた。しかし、和尚の姿を見たその息子は、和尚の仕事を手伝い、ついにトンネルが開通した時、抱き合って喜んだと言う。復讐心は溶けていたのだ。
その禅海和尚の銅像も近くに建つ。

青の洞門を少し離れてから撮影。
そしてここを更に北上していくと、黒田官兵衛の築いた中津城もあるのだ。
黒田官兵衛と言えば、2014年の大河ドラマの主人公である。
少し紹介しておこう。
彼は、播磨の国に生まれた。生まれた場所は諸説ある。大河ドラマ人気を狙い、その説がある地域は自分のところこそが生誕地であると譲らないそうである。苦笑
彼の祖父は薬売りで儲け、彼の父黒田職隆は一代で、小寺氏の家老とまでなり、姫路城主となっていた。
姫路城も、今ほどの城ではなく、黒田家時代の城は土塁のような小さな城だった。
当時、播磨国は、赤松家の城。小寺氏も赤松一門である。赤松本家の播磨置塩城と赤松分家の播磨龍野城、そして、小寺の御着城が、赤松を守る鉄壁のトライアングルであった。
しかし、戦国の世、そのトライアングルはもろくも崩れる。
守護代浦上氏の台頭、尼子氏の侵攻、などこの三勢力は時に糾合し、時に対立しながら小競り合いで時を浪費していくのである。そのさなか、黒田官兵衛は産まれたのだ。
その浦上氏も内部の兄弟喧嘩で分裂。長男で家督を継いでいた浦上政宗と次男の浦上宗景が互いに争い、その勢力を弱めていく。
その経緯で形成不利となった浦上政宗は宗家の赤松義祐方の宿老に返り咲き、10年以上争ってきた備前国の弟浦上宗景と和睦して、小寺政職と同盟を結ぶなどして地盤を固め、更に勢力を伸長する動きを見せると、今度は浦上政宗と領土を接する分家の赤松政秀はこれを危惧し、浦上清宗(政宗の二男)と黒田職隆の娘(養女か?)との婚礼当日に清宗居城の室津城に夜襲を仕掛け、浦上親子を討ちとった。
こうして、三すくみならぬ、四すくみ五すくみの中、官兵衛は成長したのである。
官兵衛には、同腹の弟一人(利高)と、別腹の弟二人(利則、直之)がおり、それぞれ独立して、
秀吉から禄をもらっていたが、官兵衛が中津城主となると、官兵衛の下に集結し、官兵衛を補佐した。この兄弟、全員が賢かったようで、つかず離れずの関係で、お互いに邪魔にならないように配慮されていたようである。また、この全員が黒田八虎と呼ばれている事からも相当に有能であったようである。
その後の官兵衛は、秀吉からは警戒されていたが、関が原の戦いでは、溜め込んだ金子を全て用いて、私兵を組織。金子の二重受け取りなどの不正にも笑って見逃していたと言う逸話が残っている。
苦戦したのは、大友義統の号令のもと(実際には吉弘統幸が指揮)集まった旧大友勢との戦いくらいで、瞬く間に九州を席巻。残すは、島津氏のみとなっていた。
なお、予断であるが、吉弘統幸は従兄弟の立花家の客分として2000石で逗留していたが、大友義統の嫡男が東軍につくのに加勢するため東に向かっていたところ、大友義統に出くわす。(一説には他の遺臣に頼まれて面会したとも言う。)その場で、東軍への参加を強く進言し、聞き入れない大友義統を捨て置いて、その息子を助けにいったんは向かうも、大友義統の息子は一人でもまぁ大丈夫だろうと判断して引き返し、大友義統にその身を投じた。
彼は、七度突撃したのちに、黒田軍の先鋒以下数隊を突き崩すも、衆寡敵せず、次第に圧されはじめ、最期には囲まれて討ち死にする。彼は、槍の加兵衛と言われるほどの豪勇でもあった。
大友軍は吉弘統幸が闘死して統率を完全に失い、完全に崩れた。
現在その子孫によって建立された吉弘神社(別府)に祀られている。
その心、忠烈無比。感動を覚えるので、ここに紹介したい。
そして、黒田軍に立ちはだかる島津氏もいまや、智謀の歳久、兵術の家久はこの世に無く、武略の義弘は関が原にて本国に不在。弱体化著しく、おそらくは官兵衛の敵ではなかったかもしれない。
しかし、この段階で、関が原はあっと言う間に勝敗が決していた。しかも、息子の黒田長政の長暦によって。
それでも戦役を続けようとしていた黒田軍に、ついに、家康からの戦闘停止命令が届く。
ここからは狐と狸の化かしあい。
しかし、戦勝報告に訪れた息子長政が、家康に手を取って喜んでもらったと言ったところ、
「その時、お前の左手は何をしておった」と言われ、凍りついたと言われている。
つまり、左手で何故、家康を討たなかったのだ?好機ではないか?!と言う意味だ。
彼は、その友、山名禅高(豊国)に後年、こう述べている。「筑紫をば皆打平げたり。島津のみ残りしかばあつかいを懸て味方とせん。若し楯つかば攻敗らん事、尤易き所なり。中国、備前、播磨まで皆空国にて有りしかば、我其の頃二万余の軍兵をひきゐ、加藤、鍋島、は既に我に随従すれば、両先陣として海陸二手に分ち、道すがら浪人どもをかり集んに十万はあるべし。清正は猛将なり。~中略~内府を討滅さん事、掌の内に有りと覚えたれども、我、年老ぬ」(『常山紀談』)
つまり、島津を破るのは容易く、行く先々は皆領国を留守にしている上、加藤清正、鍋島直茂はすでに追従しているから、両者を先人として浪人を糾合して進めば10万は集まっただろう。内府=家康を討ち滅ぼすのなんか、私の手のひらの上であった。しかし、私は老いた。
と言う意味になる。
実は、黒田家には、ひとつ素晴らしい家風がある。これは福岡県の紹介の項にて紹介するとしよう。

ここは宇佐神宮。福岡県との県境。
仲哀天皇と神宮皇后はこの地まで共に出征してきたが、仲哀天皇はこの地で没する。
実は、武内宿禰の陰謀で毒殺されたとも言われている。また応神天皇はこの武内宿禰との不倫の皇子であるという説もある。
なお、武内宿禰も天皇家の男系男子ではあるので、仮に、そうだったとしても、万世一系は崩れない。そんな家は他にはなかなか無い。
こうした経緯からも、応神天皇が祀られている。
この時の将軍は、大伴磐、狭出彦の兄弟であり、大伴磐は補給を担当し、狭出彦は外征軍を率いて新羅の王都を陥落させたと言われている。この時、この地方の松浦の佐用姫との悲恋の話になるのである。別項で紹介したのでここでは割愛する。
ちなみに、予断では有るが、大伴磐は、山梨県の国づくりのため、甲府に至り、現在の一宮浅間神社は、この系統である。また、大伴狭出彦は、和歌山県の本領に戻り、現在は、岡の宮と呼ばれる、和歌山城の鎮守、佐田比古神社の系統になる。大伴総本家は、当時、住吉に居館があり、住吉大社を祀っていた。そのため、この時の勝利を記念し、住吉大社には、四の宮が作られ、そこに神功皇后が祀られていると言うわけである。(推定)
宇佐神宮と言えば、時代は先に行って、聖武天皇の嫡男が不在で、初の女性皇太子になった孝謙天皇の時代、従兄弟で太政大臣で政務を執っていた藤原南家出身の藤原仲麻呂とねんごろだったが、藤原仲麻呂は孝謙天皇があまりに好き者であった事で政務に支障をきたし、巨根の僧道鏡を引き合わせたところ、いつのまにか、道鏡の権勢が強くなってしまい、藤原仲麻呂は滅亡する。(藤原仲麻呂の乱)その道鏡は、自ら天皇位を望むようになり、寺社を擁護した事情も手伝って、宇佐神宮の神官が、偽の奏上をする。道鏡に天皇位をとの神託があったと告げるのだ。
それを防いだのは、和気清麻呂である。彼は今、生国の岡山県や、当時栄えていた都から程近い和歌山県の海南市、また、後世勧進された京都などに祀られている。
この日本史を大きく揺るがした事件の舞台でもある。
この後、豊後一ノ宮を探し、そこに向かう。なんと二つある。

豊後一の宮、柞原八幡宮。ここには、豊後守護の大友宗麟が、まだキリシタンになっていなかった頃に、奉納した太鼓などが伝わる。古く、よさそうな神社である。
延暦寺の僧が宇佐八幡に千日間籠り、「八幡神が豊前国に垂迹する」との神託を受け白幡が飛び渡った。この僧はこのことを朝廷に奉上し、仁明天皇の命により豊後国司が社殿を造営したと言われているようだ。
次に向かうのは、もう一つの一宮。

ここは、豊後一の宮、西寒多神社である。神功皇后が三韓征伐からの帰途、西寒多山(現 本宮山)に臨幸し、その証として山頂に白旗を立て、その後、武内宿禰が本宮山上に祠を建てたのが始まりのようである。中々古く、よさそうな神社である。ただ、道は行きにくくものすごく狭いところを何とか行った。
行く場合は要注意。
そして、再び別府へ。

別府温泉のワニ。このワニなんど見ても立派。地獄めぐりの傍ら、こうしたものを楽しむ。
そして、旅の終着点へと向かう。もうすぐ旅は終わり。ついに、大分空港経由で帰国である。
その前によるところがある。

国東半島に残る杵築城。ここも景観が良い。
元々、国東半島には、更に大きな城として、吉弘氏の屋面城と筧城があったが、今はもうない。
この杵築城は、木付頼直が、島津軍が豊後を襲った時、守り抜いた城の一つでもある。
小さな城だが、往時をしのばせる。なお、木付頼直は大友氏が改易された時自刃して果てた。
大友氏はこうした忠臣たちがいながらも滅んでしまった。大友宗麟が馬鹿とのであったわけではない。自分の正義や価値観を民に押し付けてしまった結果なのである。
