大阪の紹介
意外と古い歴史があるのを皆さん、ご存知だろうか?
例えば、飛鳥と言うのは、奈良だと思われがちだが、河内にも飛鳥がある。
奈良の飛鳥を、遠つ飛鳥、河内の飛鳥を、近つ飛鳥、と呼ぶのだ。
大王と呼ばれた時代、和歌山から攻め上がり、四方を山で囲まれた奈良を都にしていたが、
大阪もまたもう一つの都であった。
外征軍を率いた物部氏や久米の子らを親衛軍として率いた大伴氏の本家の居館も当時は、
河内にあったのである。
おそらく、このような歴史は中々知られていないと思うが、それと同様、あまり知られてはいないが、
お勧めのものを二つばかり紹介したい。
一つは黒添池(くろんど池) 公園であり、ハイキングなんかもできる場所だ。なかなかほのぼのとできて良く、自然も良い。
枚方の交野にある。
そして、我々が幼少期を過ごした、百舌鳥の布団太鼓。
これは、一度見て頂きたい。 個人的にはだんじりよりも全然好きだ。
http://www.asahi-net.or.jp/~ee6h-wd/futon/sampler4.html
http://m-pe.tv/u/page.php?uid=handa0009&id=31
我々が小学校の頃は、開催は九月の中秋の名月の日で、平日にあたると、小学校は二時間授業とかになって、
お祭りに行くことができた。
もちろん、夜は、保護者不在で行くと、先生に捕まる。
TVに映ると、何故か怒られた。
現在では、必ず土日になってしまったため、大人は行きやすいが、子供たちは、二時間授業と言う
ささやかな喜びを享受できないようだ。
なお、我々兄弟の町は、梅北町だった。町ごとに、少しづつ柄も文化も異なる。
それを見るのもまた面白い。
これらは2t近くあり、いあせ、と呼ばれる技の時には、これらを爪先立ちで持ち上げるだけ持ち上げる。
これは豪快で見ものだ。
町ごとに、どれだけパフォーマンスを豪快にできるのか、競う。
町によっては、若者が足りず、苦しいとこ、非常にパワフルなとこ、色々だ。
しばらく前久々に小学校の幼馴染たちと行ったら、昔は、女性は危ないからかかつげなかったのだが、人が減ったためか、最近は女性もかついでいるし、我々の頃は存在しなかった町の太鼓が出ている。
どうも、何十年の時を経て、復活したのだそうだ。
●石山の秋の月、月に群雲(むらくも)花に風、風の便りは阿波(あわ)の島、縞(しま)の財布に五両十両、ゴロゴロ鳴るのはなんじゃいな、地震 雷 あと夕 立(ゆだち)ベーラベーラベラショッショイ
●牡丹(ぼたん)に唐獅子(からじし)竹に虎、虎追うて走るは和唐内(わとうない)、和唐内お方に知恵貸そ か、知恵の中山千願寺、千願寺のお住さんは坊(ぼん)さんで、それ故八朔(はっさく)雨じゃないな、ベーラベーラベラショッショイ
これらは、この地域の子供たちはほぼ全員唄える、お祭りの囃子だ。
にぎやかでもあり、楽しい祭りなので、是非是非言ってみてください。
和歌山の紹介
古くは、神武東征の舞台であり、大王の大いなる友(伴)と言う名を冠した、和歌山の古代豪族
久米を従えて、大王を助け、代々天皇の親衛軍を率いた大伴氏が繁栄した。
和歌山市には、その頃にちなんで遺跡が数多く眠っている。
観光立国にするのが下手だからか、案内が少ないのが寂しい。
我々の生家(今も実家がある)男水門(おのみなと)は、神武天皇の長兄、五瀬尊が戦死した場所だ。
その跡には、水門恵比寿神社が建っている。残念ながら、空襲により全焼し、今は鉄筋になっている。
五瀬尊の墓は、現在は、竈山神社として存在している。平安時代には忘れ去られていたようであるが、
後世になり、思い出され、再び、官幣大社になった。古墳も存在している。
そして、和歌山城付近にある、刺田比古神社。ここには、大伴氏の古墳と共に、大伴狭手彦を祀る。
大伴狭手彦は、兄の山梨県に奉じられた大伴磐と共に、朝鮮半島南部の救援に赴き、新羅の王都を
占領し、新羅を服属せしめた将軍だ。大連の大伴金村の長男と次男である。
神武天皇は四男であり、次兄は、稲氷尊、三兄は、三毛入野尊だ。次兄三兄は、大嵐に合い、はぐれたようで、次兄は朝鮮半島に流れ着き、そこで国を建て、三兄は、彼らのふるさと、宮崎県高千穂に戻って、そこで国を守ったとされる。
ちなみに、三兄の子孫は、三田井氏であり、高千穂地方には今もその子孫が残る。
神武東征の跡がこれほど残っているのだ。ただの伝説とする方もおられるが、そんな事はあるまい。
最初は、小国でしかなく、日本全体に覇を唱えるには、14代の仲哀天皇、15代の応神天皇あたり
まで待たねばならない。 かつての日本は、春秋一年であり、日本書紀や古事記の年齢は実際は半分であろう。 そうすると、つじつまも会う。 卑弥呼の邪馬台国と同時期に、大和朝廷が存在しており、
そのうち、大和朝廷が全てを併合したのではないか、と思っている。
邪馬台国近畿説を信じる方々には悪いが、邪馬台国は近畿にある必然性がなく、
また、国としての王の系列も方や女系、大和朝廷は男系でまったく異なっているため、九州にしかありえないと思っている。 更には、邪馬台国は別に覇を唱えてはおらず、他にも中国に朝貢していた国が多々あり、銅鏡が大量に発見されているのはそのためであろう。 歴史書には全ては載らないものだし、
最初に言ったものがち的なところもあるので、さほど大きな国ではなかった可能性すらある。
和歌山城。もともとは、大伴狭手彦の子孫、岡本氏によって作られていたが、城としての体裁を
整えたのは、豊臣秀吉の弟の羽柴秀長であり、その後、徳川御三家の居城として、栄えた。
我々の先祖も徳川家に仕えていた上、子供の頃から、毎日のように散歩に行ったため、
かなり親近感のある身近なお城である。
ここは養翠園。和歌山市には、こういった美しい庭が多々残る。紀州徳川家第十代藩主徳川治寶により造営された松を主体としている。池は海水を取り入れた汐入りの池で全国的に珍しい。
ここは、和歌浦番所庭園。
奈良時代に、都から天皇がお供の公家達と和歌浦に行幸された時、この番所庭園の北側に広がる海「雑賀の浦」の漁火を見て、
「紀の国の 狭日鹿の浦に 出で見れば 海女の燈火 波の間ゆ見ゆ」と呼んでいる。
番所庭園から、湾を望む。黒船をここで見ていたのだろうか。
さて、ここからは、和歌山県南部の紹介になる。
熊野古道をたどるのもよし、高速経由で山手に入っていくと、三重県、奈良県県境に、熊野川が
流れている。そこは、美しい所だ。
かつて、旅館が存在していたが、今は、もうやっていない。もったいない。
こんな景観は中々ないと思う。
和歌山が誇る、世界遺産、那智の滝。
近くには、補陀落寺がある。過去、生きながらにして、船に乗って死にに行く。
補陀落浄土を目指すのだ。
南方に臨む海岸に渡海船と呼ばれる小型の木造船を浮かべて行者が乗り込み、そのまま沖に出る。その後、伴走船が沖まで曳航し、綱を切って見送る。場合によってはさらに108の石を身体に巻き付けて、行く者の生還を防止する。どんな心境で渡ったのだろうか。
治承寿永の乱で敗れた平家の嫡男、平惟盛も、補陀落渡海を目指すも果たせず、都においてきた、妻子を思って泣いていたと言われる。
平安時代も、この、熊野を目指して、熊野詣でが行われた。その道が、熊野古道であり、今や世界遺産だ。
北山村筏下り。ここはすごい。筆舌に尽くしがたし。是非、一度訪れて欲しいと思う。
実は、ここが最大の見所じゃないだろうか。



串本の橋杭岩。自然が作った景勝である。


勝浦から少し紀伊半島を北上し、白浜に行くと、三段壁がある。
古代、熊野水軍の拠点があったと言われる。見事な景観。
地下に入ると、なおすごい。こんな所は、全国にも中々あるまい。
熊野水軍といえば、弁慶の父は熊野別当で、熊野水軍の長であった。
壇ノ浦の戦いは、この熊野水軍が源氏方に味方したことで、源氏はどうにか戦える状態になったのである。
湯浅の大天狗。
太地の、鯨博物館内での、シャチのショー。
尻尾しかとらえられなかったが、とても大きいのが分かるだろうか。
ここ太地では、鯨が今も食せる。
宮崎の旅
そして、戦国時代も、伊東氏が、島津氏と凌ぎを削った場所でもある。
戦国時代の話は次回にして、今回は、古代神話の時代の話をメインに紹介したいと思う。
神話とくれば、高千穂である。高千穂には、五瀬川と、神武天皇の長兄の名が付いた川もあり、
高千穂峡付近には、神武東征で漂流し、本軍とはぐれてしまった、三兄の三毛入野尊がここ高千穂まで戻り着いて、鬼八という暴れ者を退治し、とらわれのどこかの姫をもらって、八人の皇子と共に幸せに暮らしたと言う言い伝えがある。
その子孫が、三田井氏だ。戦国時代に三田井城が落城するまで、この辺りを治め、今も、子孫は残っていると言う。
その天孫降臨の里が、高千穂神宮である。

ここは夜神楽が有名だ。観光神楽は毎晩年中無休で、夜21:00-行われている。
高千穂宮の神楽において、天照大御神は男神である。


神楽の模型。天照大御神を中心に、各神が揃っている。
次は天の岩戸神社。高千穂宮で天照は男神なのに、ここでは何故か、女性神の姿で、天照の銅像がたっている。伝承もどんどん失われてきていると言う事だろうか。
全国に天の岩戸神社が存在し、実際の岩戸も存在すると言われる場所があるにはあるが、
ここがもっともふさわしいと思うのは我々だけであろうか。
天照大御神が隠れ、天地が真っ暗になったため、踊り子の神の天鈿女命(天宇受売命)は、神憑りをして、胸をさらけ出し、裳の紐を陰部までおし下げ、乳房や陰口をさらしてまで踊り狂う。
すると、高天原が鳴り轟くように八百万の神が一斉に笑った。
楽しげな宴会を見たくなった天照大御神がそっと除いた瞬間を狙い、力自慢の手力雄尊が、扉を開き、世界は光を取り戻したのである。
賽の河原。何か神秘的な感じがする場所である。神様がこちらで評定を行ったとされる。
そして、次に向かうは、高千穂峡。絶景の場所、三毛入野尊の鬼八退治伝説の場でもある。
天候次第で、ボートにも乗れる。最高の景色をしばし、堪能して欲しい。


これらの絶景を見るだけでも、ここ高千穂に来た意味があると思う。
少し峠を登ると、国見ヶ丘。そこでは雲海も楽しめる。
宮崎に来たら、必ず、高千穂によるべし。また来たいところである。
最後に、少し離れているが、霧島神社。鹿児島県側にあるので、実際には宮崎県ではないが、県境付近にある。
ここも凄く旧く、島津義久が大友氏との決戦耳川の戦いを前に祈祷を捧げた場所である。
火山の麓にあるという立地のためたびたび炎上する。境内にある樹齢800年の杉の木は、南九州の杉の木の先祖と言われている。
神奈川の旅 ~戦艦三笠編~
戦艦三笠と言っても、既に戦艦の機能は失われて久しく経っており、今は記念館ならぬ"記念艦"となっている。
全長122mもの雄大な姿が、三笠公園内に設置されている。
マストや砲塔などはレプリカになっているが、多くの貴重な資料が展示されている。
三笠が建造されたのは、今から100年以上も昔のことである。
当時、日本は戦艦を建造する技術が不足していたため、最新鋭の戦艦はイギリスやフランスなどに発注していた。戦艦三笠の発注先はイギリスだった。
1902年にイギリスから日本へ引き渡され、日露戦争時は連合艦隊の旗艦となっている。
三笠を旗艦とする日本海軍の連合艦隊は、日本海海戦にてロシア海軍のバルチック艦隊に壊滅的な打撃を与えている。日本側の被害が少なく、圧倒的な勝利に終わり、日本側の制海権が確定した。
バルチック艦隊は、7ヶ月に及んだ航海で疲弊していたことを考えても、大きな戦果であり、当時、ロシアの脅威に怯える国々を熱狂させている。
[三笠の艦橋]
日本に戻った三笠は、後部弾薬庫の爆発事故のため、佐世保港内で沈没している。「勝って兜の緒を締めよ」とでも言うのだろうか?
1906年に引き揚げられ、修理され、第一艦隊の旗艦として現役に戻っている。
その後、ワシントン軍縮条約によって廃艦が決定し、解体される予定になっていたが、国民の保存活動などもあり、横須賀に保存されることとなり、現在に至る。
記念艦となった三笠だが、今でも戦艦の内部を見ることができるので、一度は見ておいて欲しいと思う。
[再び、三笠の艦橋]
[三笠 艦橋にて 弟 昌志トレーナー]
さて、三笠公園と横須賀駅の間にあるレストランで、
予約するとプライム・リブというローストビーフを食べることができる。
下の写真は、300gのミディアムレアのプライムリブだ。
少々値は張るが、柔らかくおいしい。
[プライムリブ 300g]
ピアノの演奏もあるので、優雅なひとときを過ごすことができる。
[優雅に?食事、兄 知希トレーナー]
福岡の旅
まず、志賀神社の金印。平安時代の太宰府の歴史。
太宰府と言えば、菅原道真公が有名だが、忘れてはならないのは、
藤原隆家だ。
摂関家の暴れ者で、酔って花山法皇に矢を射かけてしまい、それが元で、兄伊周は失脚。藤原道長が関白となる。自身も太宰府にながされるが、たまたま、偶然にも彼の赴任中に倭寇が襲来。
勇猛な彼の手によって、余裕で鎮圧されている。このために流されてきたのか!と思うほどタイミングが良い。
そして、元寇の歴史。
多くの方々は、元寇は、神風によって撃退されたと思っているのではないか?
もちろん、台風が来たのは事実であるが、それによってのみ勝ったわけではない。
在地武士団が本当に死にものぐるいで、戦略の要衝を死守したからに他ならない。
文永の役では、対馬の宗氏の先祖が奮戦。その間に時間を稼ぎ、九州北部に防御線をはった在地豪族達は、苦戦の末、赤坂高地を死守する事で、元の船団を容易に上陸させなかった。
そして、小舟にのり、夜襲、強襲すると言う作戦で元軍の疲弊を誘った。
結果、足止めをくらった元軍は一ヶ月以上も沖合に停泊。台風の季節なのだから、そんなに長い間停泊していたら台風が来て当たり前なのである。
次の弘安の役では、予め防塁を築き、準備万端だったため、元軍の上陸を一切許さなかった。
そして、火薬も尽き、厭戦気分が漂った元軍は、台風を理由にして撤退したのである。
ことさら神風を語るのは、鎌倉武士の矜持を否定することになるので、私は好きじゃない。
そして、福岡と言えば、何と言っても、黒田如水と黒田長政だ。親子ながら似てもにつかぬ二人。
黒田如水は、最後まで天下取りの野望を捨てなかった。本能寺の変の際、秀吉に、今こそ天下を取る好機と献策。しかし、それが元で、危険視されてしまい、領土は僅か12万石しかもらえなかった。秀吉に目をつけられたままでは、家が危ないと判断した如水は隠居を申し出るほどであった。
そして、関ヶ原の戦い。この時、如水は、蓄えた財を全てつぎ込み、9,000人ほどの速成軍を作り上げた。その軍勢をもって、西軍に与した九州諸侯の城を片っ端からかすめ取る。
残すは、戦国の雄、島津氏を残すのみ。その時、家康から停戦命令が下る。
何と関ヶ原の合戦はたった一日で決着してしまったのである。
それも、自身の嫡男、黒田長政の寝返り工作の功績によるところがおおきかった。
兵力は五万ほどに増えていたようであるが、ここで、如水はあっさり諦めて、
家康さまのために、九州を平定しておきましたと何食わぬ顔で謁見するのだ。
鹿児島の島津歳久の項でも触れたが、勝っている時に、それを引く判断は極めて難しく、
それをやれる所が、しかも判断を誤ってない所が、彼らの凄さなのだ。
後に、黒田長政は、父に褒めて貰おうと関ヶ原での自身の活躍ぶりを如水に述べ、
「家康様が、私の右手を両手で取って、喜んでくれた。」と言った際、
鋭い眼光でこう述べたと言われる。
「おぬしの左手はそこで何をしておったのだ?!」と。
長政は、かたまって何も言えなかったと言う。すると、如水は、かかかと笑って、「それで良い。それで良いのだ。」と述べ、それ以上は何も言わなかった。
そして、晩年死期を悟った如水はわざと馬鹿殿として振る舞い、死んだ後、家臣の忠誠が嫡子長政に行くようし向けたのである。
黒田長政は実直で、大阪城夏の陣の際、武士の活躍よりもむしろ、庶民がひどい目に遭った有様を屏風に残している。

菅原道真の、太宰府天満宮。電車だと、西鉄でしかいけない。
結構、今は中心部から外れている。
近くには、九州国立博物館があり、ここだけで一日過ごせるほど、充実している。
伝説の飛梅もあり、美しい所。あと、名物梅が枝餅は、大変美味。店によって少し味が違うので、ちょっとづつ食べ比べてみよう。
空いている店が意外に良い。
正面から見た感じ。お店が結構立ち並び、廻るのも楽しい。
福岡にある祇園山笠がある、櫛田神社。勘違いしがちだが、奇稲田姫命を祀っている神社ではなく、主神は、大幡大神(大幡主命)/大若子命といい、天御中主神の19世の子孫を祀る。
左殿に天照大神、右殿に素盞嗚神も祀られている。
この山笠、見応えがあるので、行ってみると良いと思う。
香椎宮にある、第14代仲哀天皇陵。応神天皇の父で、新羅討伐軍中にて、病死する。
暗殺説もある天皇。
ここに、神宮皇后も随伴し、皇軍が陣取っていたようである。
ここが、福岡城。先に述べた、黒田家の城。今はこの立派な城門のみ復元されていて、
中はスポーツ公園等になっている。
元寇資料館。日蓮のばかでかい像が建つ。
愛宕神社。子供が良く育つように祈る神社。元々は京都にある。
ここからの眺めは良い。特に夜は夜景が綺麗でデートには最適だろう。
福岡最古の歴史を持ち、日本三大愛宕のひとつ。室見川河口西側の丘陵上にあり、古くは天忍穂耳尊と伊弉諾尊の2神を祀る鷲尾神社で、明治時代に、愛宕権現(伊耶那美尊・火産霊神)を合祀したようである。
かつては、ロープウェーも運行していたようだ。


























