福島の旅
だから、東北は小さい頃憧れであり、それ故、今でも東北へは足しげく通う。
震災の復興を心から望んでいる。
福島といえば、我々にとっては、三春の滝桜だ。日本三大桜のひとつで、800年ほどの樹齢を持つ。
はじめて見たのは、冬のこと。スキーの帰りに伊達政宗の恋女房である正室、愛姫の生家、三春を訪ねた。
三春を治めていたのは、坂上田村麻呂の子孫、田村氏だ。
[冬の滝桜]
冬の滝桜に出会ったとき、これが咲き誇ったとき、どれほど美しいのか?!威容ですらあった。
もちろん、冬なので誰も観光客は居ない。
そして、春。。。。。
[三春 滝桜]
[三春 滝桜]
なんとすばらしい。 誰が植えたかもわかっていないらしいが、咲いた花々の美しきこと。
三大桜の中で一番美しいと個人的には思える。
それに、ここ三春は、それだけじゃない。以下に列挙する。
たくさんの見事な桜があるのだ。
上記を励みにして、福島の復興を祈りたい。今年もまた三春へ見に行こうと思う。
そして、次に、福島といえば、白虎隊で有名な幕末会津藩。美しき会津若松城だ。
会津というのは、もともと、崇神天皇の御代、四道将軍が派遣され、それぞれの地域を
服属して回った際、四道将軍であった崇神天皇の伯父の大彦命(孝元天皇の第一皇子:昔はモンゴル同様末子相続の慣習があった)と、
その息子で同じく四道将軍であった武渟川別命が、別ルートで東征していたところ、
ばったり出会ったため、会った津=会津となったといわれている古き土地柄である。
なお、稲荷山古墳出土の金錯銘鉄剣に、いわゆる欠史八代と言われる第八代の孝元天皇の第一皇子大彦命の実在を示す系譜が刻まれていたことから、孝元天皇自身も実在だとほぼ証明されていると言える。
#余談ではあるが、欠史八代は、寿命がおかしいなどで言われている事であるが、当時は春秋一年と数える慣習があり今の一年が二年扱いとなっていたりもするし、存在自体は確かであろうと思っている。
確かに後世、暦の都合で若干改ざんされた可能性はあるのだが、どの道改ざんするのであれば、わざわざ存在しない八代を挿入する意味がない。
ちなみに、第二代の綏靖天皇に至っては、人食い伝説まで存在する。ただし、南北朝時代の書物からであるが、口伝として伝えられたのかもしれず、根も葉もないと断ずるのは難しい。
そもそも、この時代は年代にすると、卑弥呼の時代と近しく、まだ大和王権が全国を支配下におさめていなかった頃だと思われるので、天皇号は後々に贈り名されただけであろうが。
さて、余談が過ぎたので、時代を戻して、会津。
江戸時代の末、そこを守るのは、松平容保であった。 人生のすべてはテストであり、個人において失敗はないというのがNLP的な見地であるが、歴史の流れにおいて、失敗は厳然と存在してしまう。
大きな流れでは取り返しがつかない事も多いのだ。
そして、明治維新には数多くの失策があって、それを現代日本も引きずってしまっている。
江戸時代のすべてが良き時代だとは言えないが、少なくとも、モラルは今よりは高かったろう。
日清戦争の際、各国武官は日本軍の一切略奪行為がなかったことを褒め称えている。
ところが、太平洋戦争時にはどうか? これが、教育のなせるところ、文化や、取り入れてきた法の
なせる結果である。
もし、我々兄弟が幕末に生まれていたら、紀州藩士として、戊辰戦争を食い止めたかもしれない。
そう考えると、妙に親近感が沸くと共に、歴史の無常を感じずにはいられない。
旧幕府は、外交において、成功を納めていた。日米和親条約や修好通商条約で、欧米に大きな譲歩を引き出し、
当時、日本側にデメリットはない状態にもっていっていた。開港したのはごく一部であり、関税も諸外国に比べて高く、裁判権が効かない地域も、非常に限られた範囲でしかなく、十分にコントロールできる範囲であった。
当時の政治の専門家のいかに能力が高かったかが偲ばれる。
しかし、明治維新後に、それらは事実上の不平等条約に変貌してしまい、以後重くのしかかることになる。
教科書などは、自分たちに都合よく書く。あたかもそれが正しいかのように。
だが、我々が見ているもののすべては別の側面があるのである。
会津若松城は美しい城で、春、夏、秋、冬と彩をかえる。
中には、松平容保が特集されている。
[会津若松城]
[会津城近くの武家屋敷]
ここでは、西郷頼母の一家が凄惨な運命をたどる。
戊辰戦争の悲劇である。
福島にはほかにもたくさんの見所がある。
冬にはスキーの合間に同じところを再び訪れるのが好きだ。
以下一気に紹介する。
[心清水八幡宮]
カメラスポット。古き伝統ある寝殿造りだ。
[喜多方の酒蔵]
喜多方は会津からすぐ。多くの蔵、おいしいもの、ラーメン等々
飽きない。
[東山温泉]
会津のすぐ近く。どの宿も、滝の音を聞きながらの露天風呂に、
旨い酒、料理、我々のお気に入りの温泉街だ。
[塔のへつり]
福島の南西にある、綺麗な景観を誇る場所。
伊佐須美神社。この付近の一宮。
[阿武隈洞]
ちょっとした資料館付きの鍾乳洞。探検コースもあり、おもしろい。
福島県の南東部にある。
[猪苗代湖]
冬の猪苗代湖は、すごい。白鳥と鴨が子育てをしている。
駐車場に着くと、小さなひな鳥の大群が押し寄せてくる。
踏まぬように要注意。 でも、見ていてかわいらしく飽きない。
よく判別できるものだ。
付近にはガラス工房と、野口英世記念館がある。
同時に三つ味わえるのもお勧め。
あと、馬肉の刺身も美味しい事を付け加えておく。
山梨の旅
大伴狭手彦(次男 : 和歌山市の佐田比古神社)が開いた和歌山出身の我々には多少の親近感がある。
今も、富士浅間神社は、大伴磐の子孫が神官を務めているらしい。
かの兄弟は、新羅の王都を一時占領し、新羅から朝貢関係を得たと
歴史書に歌われる英雄である。
大伴金村失脚時に、この二人は歴史から姿を消すが、その弟である大伴咋が蘇我氏に味方し、
物部守屋が失脚する事件へとつながっていく。
その山梨県が、次に出てくるのは、やはり、戦国時代の雄、武田信玄の時代であろうか。
でも、それ以上に山梨県で特筆すべきは、日本三大桜である。
実相寺というところに座する。
なんと2000年桜で、日本武尊(やまとたけるのみこと)が植えたという伝承がある。
[山高神代桜]
さすが、三大桜といわれるだけのことはある。
見事な桜だ。落雷で主幹がやけおちるも、立派に生きている。
日本で最高長寿の桜、大事にしてほしいものだ。
[実相寺]
[神田大糸桜]
[実相寺からの風景]
[実相寺近くのバスからの風景]
心頭滅却すれば火もまた涼しで有名な快川和尚の恵林寺。
武田信玄の墓所もある。
武田氏の時代、居館がおかれた躑躅ヶ崎の館。
武田二十四将(メンバーには諸説あり)の軍配うちわなどが売られている。
この時代、真田一族が出た。真田幸隆、長男の信綱、次男の昌輝、三男の昌幸と
四人ものメンバーが二十四将に入っている。
実は、真田一族は滋野一族の出であり、滋野一族は実は大伴氏系であるという説もある。
古代軍事氏族の血は確かなのかもしれないなどと考えて、ここを出る。
[登美の丘ワイナリーにて 富士山を望む]
実相寺からさほど離れていない駅(竜王駅)からタクシーかバスで
ワイナリーへ。バーベキューもあるし、風景も最高。
ワインの有料試飲でひたすら呑む。
そして、お次は、小淵沢へ・・・・
[白州蒸留所]
[日本でここしか見れない リチャーの瞬間]
[ひしゃくいっぱいの水で、樽の中の火が一瞬で消える!!]
まさに職人の技。
樽を再利用する際に行う、リチャーという工程。
白州蒸留所でしか見れない、最高のパフォーマンス。
結構燃え盛っているのだが、たったひしゃくいっぱいの水で、
火を消すのが特徴。
その後は、有料試飲所で、たくさんのウイスキーを飲み比べる。
筆者たちは、弟のほうが、兄に比べ10倍くらい酒が強い。
結果は押して図るべし・・・・。
秋田の旅
震災後にも伺ったが、幸いにも被害がなかった。
平安の世では、物部氏の血を伝える安部氏が”蝦夷”と交わって栄え、
遠くロシアとも交易をしていた。
一方で、坂上田村麻呂も秋田城柵に進出している。
秋田美人と言われるのはロシアとの混血もあり、
白い肌になったためとも言われる。
源氏との戦いに敗れたとはいえ、安部氏は残り、
戦国の世になり、安部氏は安東氏と名を変え、いつしか、秋田氏となった。
そして、佐竹氏の転封に伴い、佐竹氏次男の芦名氏の城下町となったのが、
角館であり、佐竹本家は久保田城に入ることになる。
ただし、芦名氏には子がなく無嗣絶家となり、佐竹氏一門家老の佐竹北家が
角館領主となり、今の景観を伝えている。
我々はこの土地を好み、幾度となく訪れている。
特に角館が好きだ。飯もうまいし、空気もうまい。人もとても物腰柔らかく、のんびりしていて良い。
[美しき角館の武家屋敷街 桜の季節]
[街角アンケートに記載する 兄]
[桜のつぼみ]
[武家屋敷]
[武家屋敷 青柳家の中]
[九月に行われる 勇壮な祭り]
この祭りは、戦いの祭りで、だんじりより激しいかもしれない。
神輿同士がぶつかりあうのだ。町内によって若干目的が異なり、
どっちが先にその道を通るかで押し問答が始まる。
調整がつかなかった時には、ぶつかりあいだ。
初日はぶつかりあいはないが、神社にいっせいに向かう神輿同士がどちらが先に
入るかで騒動が起きる。お互いに引かないので、例祭の委員会?が仲裁に入る。
[冬の角館]
[冬の角館]
冬になると、角館は凄い雪深くなる。路面は凍結しているが、田沢湖スキー場や、
雫石スキー場からさほど距離がない場所にあるので、
我々はスキーやスノボがてらよることが多い。
また様相が違っていて趣があるからだ。
我々の一門ももともとは武士だった。それ故に郷愁となって感じるのかもしれない。
[角館 火祭り]
毎年2/14に行われる。観光用はその前日。俵に火をつけて振り回す。
なかなか勇気がいるが、慣れてしまえば楽しい。
周囲はやたら寒いので、露店で暖かいものを買ってそれも楽しめる。
[秋田城柵 跡]
[説明を受ける兄]
秋田城柵は、征夷大将軍が蝦夷征伐を行った最前線基地である。
なんとここには、高句麗が滅びた後に起こった国、渤海からの使者も着く場所だったようだ。
なんと、水洗トイレの跡がある。こんな古代に驚きだ。
かつて、日本は、朝鮮半島に権限をもっていた。伽羅諸国だ。その上に百済があり、
百済も当初は敵対国であったが、新羅に圧迫されるにおよび、親日となる。
日本は朝鮮は独立国として扱うほうが良いと判断し、侵略はしなかった。
大伴金村大連は、そのため、伽羅を百済に割譲する。 明治維新時の山県有朋のような
大きな視点で、百済を支援する事で、日本防衛ラインを百済、高句麗に託したのかもしれない。
いずれにせよ、日本の国家防衛には朝鮮半島は重要な位置だった。
結果、唐、新羅連合軍と、百済残党と日本連合軍の白村江の戦いへとつながる。
この戦いで、日本軍は、エースの将軍たちを派遣していなかった。
陸戦で名を知られる阿倍比羅夫くらいである。
この時に、軍事氏族であった大伴氏や物部氏が指揮を執っていたら。。。。
いずれにせよ、日本百済連合軍は破れ、朝鮮半島は敵対国新羅が統一。高句麗も滅びてしまう。
高句麗の末裔たちは、渤海国を建国したが、朝鮮半島は敵対国新羅の制海権下であったため、
この地秋田へと使者たちが着ていたのである。
なんと歴史を感じることだろうか。
ちなみに、説明員の方は、少し違った話をしていたが、朝鮮よりの見解に偏りすぎていたため、
触れないでおく。 歴史は事実をどう解釈するかで、人によって話が異なる。
我々はそれらを重ね合わせて自分なりに推察した結果、確からしいと自分が信じる話をしているが、
人は自分が信じたいものしか信じないというのも、また、事実であろう。
[唐松城 跡]
[唐松神社]
中世安部氏の居館跡もある。それが、この唐松城跡だ。
近くには、唐松神社もある。女性神のようだ。
今よりもっと女性にもてますように。と願ったら、思い切り躓いて膝に大きなダメージを負ってしまう。
[地獄谷]
山県との県境付近にある玉川温泉地獄谷。
数キロ先からも、ものすごい硫黄のにおい。
[抱きかえり峡谷]
角館付近にある、綺麗な峡谷。さすが東北。雄大な自然だ。
[払田柵 跡]
ここは綺麗。整備されて公園になっている。
ちょっとした資料館も傍にあって、中世の大和朝廷領の最北端を守備していた
兵士たちに思いを馳せる。
[冬の払田柵 跡]
冬に来ると、さすがに閉鎖されている。雪が深すぎて近寄ることは難しい。
[後三年役 合戦資料館]
源義家、義綱、義光、三兄弟が東北で戦った跡。
当時の朝廷からは私戦とみなされて、自腹で恩賞を払ったという美談がある。
しかし、この三兄弟は仲が悪く、後に、内部闘争を繰り返す。
義綱の一門は、義綱死後に、義光に嫌疑をかけられ、合戦の後、ほとんどが殺されてしまった。
このあたりから、源氏の内輪もめがすでに始まっている。
後の時代になって、鎌倉幕府を開いた源頼朝(義家の子孫)も、自分の弟を殺害している。
武田信玄(義光の子孫)は長男を殺害している。
やむ終えない事情もあるかもしれないが、肉親を信じられないのは悲しいことだ。
[男鹿半島 なまはげ博物館]
男鹿半島もお勧めの地だ。特に、角館の火祭りとほぼ同日程で開かれる
なまはげ紫灯祭りは、多くのなまはげが、真山神社で集結。
周囲を練りまわってみていて楽しい。
しかも、駐車場も大量にあるので、混まない。
子供たちの泣き叫ぶ声がまた良い。
なまはげは、男鹿半島各地に残るようだ。なまはげ館によると、昔、漢の武帝が、
部下を連れて漂流してきた際、ひともんちゃくあったようだ。
女に手を出すので、村人が相談して、一番鳥がなくまでに、階段を作り終えたら、
嫁を差し出すと約束するが、ものすごい速度で階段を積み上げた異人に対して、
娘を差し出したくない村人は、雄鶏をたたいて、無理やり一番鳥を鳴かせてしまう。
そういう昔話もある。 これらの話をみているだけで、我々は楽しくなる。
いくつかは本当の話で、いくつかは、尾ひれがついて話が変わっていったんだろうが、
何かしらの事実はあったのだ。それが、この地方特有のこの祭りにつながっている。
[なまはげ 紫灯祭り]
[真山神社]
[神社でお神酒=竹酒を飲む]
[横手城にて]
[横手のかまくら]
最後に、横手のかまくらを紹介する。
たくさんのかまくらが、城の周辺、横手市外につくられる。
祭りが始まると、子供たちが中でお餅を焼いている。
お餅をごちそうになると、三百円くらいつつんであげる。
とても、ほのぼのと、そして、綺麗な祭りである。
熊本の旅
現在も残る肥後もっこす、と言う言葉がそれを代表している。
我々の故郷、和歌山も自主自立の気風が強く、似たような感じを受けるため、親近感が湧く。
その昔、佐々成政は、肥後の国熊本を預かったが、反乱が絶えず、豊臣秀吉によって切腹の憂き目を受ける。
その後、加藤清正と小西行長が二分して治め、特に、加藤清正は武断ではなく、柔軟な政治を行ったとされる。
今でも、加藤清正は、地元の英雄のようで、その後入城した細川家は、加藤清正の影に隠れてしまっているかのようである。
ここには物語がある。加藤清正は、豊臣秀吉の恩を忘れず、もしもの時には、秀頼を熊本城に匿うつもりであった。
現在復元された御殿は、非常に行きにくく、そこは秀頼のために創られたとされている。
生前、加藤清正は、不摂生するのは早く死にたいからである。長生きすると、家康が秀頼さまに戦争をしかけるような事を見てしまうかもしれない。と漏らしていたそうだ。
その思いが遂げられたのか、加藤清正は、福島正則に先んじてこの世を去るのである。
その後、加藤家は改易。旗本として存続される事となる。
対象的に、細川家は、冷徹な判断を下している。長男忠隆を廃嫡。次男興秋は西軍につき、三男忠利が徳川軍に着く。三男は徳川家縁故であった。
次男興秋は、大阪城冬の陣、夏の陣でも豊臣方として活躍。その統率力と武力で徳川軍を大いに苦しめたとされる。表向きはその後、切腹した事になってはいるが、どうやら、庄屋となって、存続したようである。長男忠隆は最終的に父忠興と和解。父は、長男忠隆に6万石を分けようと持ちかけるが、固辞した。しかし、その息子達が細川内膳家として熊本藩家老として存続するのである。

名城熊本城。本丸までは結構長い道のり。
ああ、辛子レンコン食べたい。。。。そんな気分になる。
熊本は広く、南の方では、また別のストーリーがある。
阿蘇家、相良家、島津家、各家の興亡があった。
阿蘇家は、神武天皇の孫、健磐龍命を祖とすると言う話もある名家である。
現在も、阿蘇神社の宮司を務め、現在では第91代にもなる。
阿蘇惟光は、島津歳久の部下梅北氏が起こした梅北一揆に家臣が加担したとして秀吉に自害させられた。
しかしながら、関ヶ原の戦い後に加藤清正の計らいで惟光の弟の阿蘇惟善に所領が与えられ、清正の手で復興された阿蘇神社の大宮司となった。一度滅びかかった名家を加藤清正が
復興したのである。
人吉城。ここは、島津氏と興亡を演じた、相良氏の居城である。
相良氏は人吉藩として存続した。相馬氏、島津氏と並び、明治維新まで800年以上領地替えされることもなく続いた世界でも稀有な大名である。
相良氏は、相良晴広の時代には『相良氏法度20か条』や『晴広式目21か条』を制定し、また明との貿易にも取り組んで最盛期を迎えた。
相良義陽の時代に島津義久の侵攻を受け降伏。しかもその後、義陽が阿蘇家の甲斐宗運と戦って戦死したため、相良氏は滅亡の危機に立たされる事となる。
しかし義陽の次男・相良頼房が豊臣秀吉より人吉2万石の領主として存続を許されたのである。
その城も、廃墟とかしている。近くに球磨川があり、球磨川川下りを楽しめる。
所変わって、阿蘇駅から、阿蘇山へ向かう。火口まではロープウェーがある。
阿蘇駅はさびれすぎ。
このバスに載っている、日本人環境客は私だけ。あとは、中国と韓国の人たちであった。
放送で解説が色々あって、道中、なかなか楽しめる。



阿蘇火口。九州は阿蘇山の噴火により産まれたと言うのもうなずける。
中国や朝鮮半島からの客が多いようで、土産物屋はすぐ、そちらの言葉を使ってくる。
この駅を降りたら、近くに、白雲山荘がある。
ここの風呂は、緑色をした温泉。露天風呂はプールのように広く最高。
是非、白雲山荘に泊まってみたらいかがだろうか。


















