和歌山の紹介~白浜三段壁、串本海中公園~
我々兄弟の出身地、和歌山県。和歌山にはとても良い場所がたくさんある。
たまには、それらを紹介するとしよう。
和歌山といえば、当時日本第六の都市、紀州55万石の居城和歌山城。


そして、7/21付近には、近くの和歌山港で、湊祭りが行われる。4~5000発の花火。なかなか綺麗で、しかも、人がそんなに多くないのでお勧め。宇治川とか、淀川とか、人が多くて人の印象が勝ってしまうことも少なくないが、ゆっくりと花火を鑑賞できるのだ。屋台も結構多いし、満足度が高い。何しろ、帰りも大変じゃない。
南海和歌山港駅が最寄。 少し遠いけど、南海和歌山市駅からも歩こうと思えば歩ける。


そして、おなじみ三段壁。
海中公園では、海中に立てられた展望館内から、生の海中を鑑賞できる。ダイビングでどんな景色が見れるのか、そういう視点で見てみると面白い。
ただし、入場料はちょっと高め設定なのが、ちょっとだけ残念だが、他にも、海がめを大量に買ってたり、子亀を見たりもできるので、なかなか楽しめる。
たまには、それらを紹介するとしよう。
和歌山といえば、当時日本第六の都市、紀州55万石の居城和歌山城。


そして、7/21付近には、近くの和歌山港で、湊祭りが行われる。4~5000発の花火。なかなか綺麗で、しかも、人がそんなに多くないのでお勧め。宇治川とか、淀川とか、人が多くて人の印象が勝ってしまうことも少なくないが、ゆっくりと花火を鑑賞できるのだ。屋台も結構多いし、満足度が高い。何しろ、帰りも大変じゃない。
南海和歌山港駅が最寄。 少し遠いけど、南海和歌山市駅からも歩こうと思えば歩ける。


そして、おなじみ三段壁。





これは三段壁の洞窟内から、外を見てとった写真。洞窟内に入るともっと絶景が広がる!
白浜にあるので、色んな楽しみと抱き合わせにできるとっておきの場所!
そして、そこから更に南下すると、串本海中公園がある。

海中公園では、海中に立てられた展望館内から、生の海中を鑑賞できる。ダイビングでどんな景色が見れるのか、そういう視点で見てみると面白い。
ただし、入場料はちょっと高め設定なのが、ちょっとだけ残念だが、他にも、海がめを大量に買ってたり、子亀を見たりもできるので、なかなか楽しめる。
京都の紹介 ~精華町の蛍編~
京都府は精華町に、蛍が見れる公園があるというので、行ってみた。
その場所は水景園。入場料は300円程度。しかも、とても見事な景観を誇る。
電車だと、近鉄線で、学研奈良登美ヶ丘か、新祝園、JRの祝園、から、47系統のバスで、公園東通りでおりると近い。けいはんな記念公園内にある。
ただし、相当不便であり、学研奈良登美ヶ丘に向かうバスは三十分に1本なので、車がお勧めだ。
バスの場合は、かえる時間と、バス停は必ず考えて行動するのをお勧めする。
以下にその写真を紹介する。

この付近を歩いているだけでも気持ちが良い。蛍は完全に陽がおちないと、光って見えないので、とりあえず、散策する。




園内には、臨時のカフェもあり、暗くなるまで待つことが出来る。
暗くなると、徐々に人が増えてくるが、他の蛍の場所よりは広々と見ることができた。
少し遅かったようで、乱舞とはいかなかったが、蛍が飛翔するさまを見ることができた。
以下がその写真。フラッシュは禁止なので注意。
格好のデートスポットである。



少し歴史にも触れておきたい。
この公園がある精華町の付近には、第8代孝元天皇の皇子の武埴安彦命が、甥の第10代崇神天皇に反乱を起こし鎮圧された際に、斬られた跡が残されている。武埴安彦命は、邪馬台国と戦った狗奴国の卑弥弓呼という説が残っているほどの人物で、相当に強い勢力を持っていたと考えられる。
ちょうど、大和朝廷が全国に触手を伸ばし始めた頃と考えられ、時代背景的には、邪魔台国と戦っていてもまったく不思議ではない。第10代の崇神天皇が、御肇國天皇(はつくにしらすすめらみこと)と称えられている事からも、崇神天皇の時代に日本の主要部を平定したというのが定説になっている。
崇神天皇は、武埴安彦命の兄弟である伯父の大彦命(四道将軍)と、和邇の祖先の彦国葺命(四道将軍)を派遣。同時に、武埴安彦命の妻の吾田媛には、吉備津彦命(四道将軍)を派遣し、反乱を鎮圧する。この戦いでは、崇神天皇の最高位の四道将軍の四人中三人までもが出陣していることから、相当に大きな戦いであったという事が分かる。
古代、日本は、モンゴルと同様に末子相続であった。年長者は先に家を出て自分で生計を立てられるが、末子は成長していない場合が考えられたため、一族の血縁を少しでも絶やさぬよう、両親の遺産は末子が相続するという慣習が残っていたのである。
しかし、権力を持つと人は変わる。兄弟でも、一緒に育つ場合は少なく、それぞれに、傅役が存在すると、傅役同士の権力争いとも関係し、反乱がおきやすい。特に、先に成人している兄が反乱を起こす例はあとを絶たなかった。
男は、競争本能から、不満が生じたり、力関係を見て、必ずと言っていいほど争いを起こす。
ただし、そのことによって優秀な遺伝子が作られ、発展してきた経緯もあるので、それ自体を否定はするべきではないと思う。
だからこそ、そういった本能的な事も含めて、受け入れ、認識した上で、どうするのか、行動を決める事に意味がある。
生物は、皆、謙虚に切磋琢磨せねばならぬという事なのだろう。
そこで、儒教思想を取り入れ、長幼の順番となっていくのである。
なお、この時代、女性はやはり大切に保護されている。
弱いからではない、種が存続するには、男が10人と女が1人生き残るより、男が1人と女が10人生き残る方が、種が残るからだ。
どの世界でも、よく女子供は先に助けよと言う言葉が出てくるが、それは決して弱いからというわけではないのである。生物の本能的なものなのだ。
それを、弱いからと思い込んでしまった方が多く、それが、過去の男性たちの思い上がりを生じ、昭和初期には本当の男尊女卑の流れが出来てしまった。それが今の行き過ぎた女性保護と権利擁護により、今度は逆差別までも生じ、もはや何をしたいのか良く分からない風潮(我々にはそう思える)が生じているのではないか、と思う事がある。
保護されているのに権利も求めるのは少々虫が良い。権利を求めるのなら保護は求めてはいけない。同様のことが、生活保護の問題でもおきている気がする。
これでは公平感がなくなり、まじめにがんばっている人間が馬鹿を見る世界になってしまう。
モラルは一度低下すると、なかなか戻せない。権利は一度手に入れると捨てられない。
だから、もぐらたたきのように、法律が増えていってしまう。
一度、ほとんどの法律を消してしまった方が良いのではないか?と思ったりする今日この頃である。
話が脱線してしまったが、祝園神社から少し南に、紀元前の昔にあったとされる、この可愛そうな武人の斬られた跡が、残っているのである。祝園神社は、武埴安彦の亡魂が鬼神となって柞ノ森に居座り、人々を悩ませていた。それを鎮めるために、春日大明神を勧請して創立されたのが祝園神社(ほうそのじんじゃ と読む)であると伝えられている。
今はなき旧き時代の息吹が聞こえて来そうな場所である。
旧い場所に行くと、日本がかつて誇っていた高い道徳心、その風潮を復旧したいという念を強くするのは我々だけであろうか?
その場所は水景園。入場料は300円程度。しかも、とても見事な景観を誇る。
電車だと、近鉄線で、学研奈良登美ヶ丘か、新祝園、JRの祝園、から、47系統のバスで、公園東通りでおりると近い。けいはんな記念公園内にある。
ただし、相当不便であり、学研奈良登美ヶ丘に向かうバスは三十分に1本なので、車がお勧めだ。
バスの場合は、かえる時間と、バス停は必ず考えて行動するのをお勧めする。
以下にその写真を紹介する。

この付近を歩いているだけでも気持ちが良い。蛍は完全に陽がおちないと、光って見えないので、とりあえず、散策する。




園内には、臨時のカフェもあり、暗くなるまで待つことが出来る。
暗くなると、徐々に人が増えてくるが、他の蛍の場所よりは広々と見ることができた。
少し遅かったようで、乱舞とはいかなかったが、蛍が飛翔するさまを見ることができた。
以下がその写真。フラッシュは禁止なので注意。
格好のデートスポットである。



少し歴史にも触れておきたい。
この公園がある精華町の付近には、第8代孝元天皇の皇子の武埴安彦命が、甥の第10代崇神天皇に反乱を起こし鎮圧された際に、斬られた跡が残されている。武埴安彦命は、邪馬台国と戦った狗奴国の卑弥弓呼という説が残っているほどの人物で、相当に強い勢力を持っていたと考えられる。
ちょうど、大和朝廷が全国に触手を伸ばし始めた頃と考えられ、時代背景的には、邪魔台国と戦っていてもまったく不思議ではない。第10代の崇神天皇が、御肇國天皇(はつくにしらすすめらみこと)と称えられている事からも、崇神天皇の時代に日本の主要部を平定したというのが定説になっている。
崇神天皇は、武埴安彦命の兄弟である伯父の大彦命(四道将軍)と、和邇の祖先の彦国葺命(四道将軍)を派遣。同時に、武埴安彦命の妻の吾田媛には、吉備津彦命(四道将軍)を派遣し、反乱を鎮圧する。この戦いでは、崇神天皇の最高位の四道将軍の四人中三人までもが出陣していることから、相当に大きな戦いであったという事が分かる。
古代、日本は、モンゴルと同様に末子相続であった。年長者は先に家を出て自分で生計を立てられるが、末子は成長していない場合が考えられたため、一族の血縁を少しでも絶やさぬよう、両親の遺産は末子が相続するという慣習が残っていたのである。
しかし、権力を持つと人は変わる。兄弟でも、一緒に育つ場合は少なく、それぞれに、傅役が存在すると、傅役同士の権力争いとも関係し、反乱がおきやすい。特に、先に成人している兄が反乱を起こす例はあとを絶たなかった。
男は、競争本能から、不満が生じたり、力関係を見て、必ずと言っていいほど争いを起こす。
ただし、そのことによって優秀な遺伝子が作られ、発展してきた経緯もあるので、それ自体を否定はするべきではないと思う。
だからこそ、そういった本能的な事も含めて、受け入れ、認識した上で、どうするのか、行動を決める事に意味がある。
生物は、皆、謙虚に切磋琢磨せねばならぬという事なのだろう。
そこで、儒教思想を取り入れ、長幼の順番となっていくのである。
なお、この時代、女性はやはり大切に保護されている。
弱いからではない、種が存続するには、男が10人と女が1人生き残るより、男が1人と女が10人生き残る方が、種が残るからだ。
どの世界でも、よく女子供は先に助けよと言う言葉が出てくるが、それは決して弱いからというわけではないのである。生物の本能的なものなのだ。
それを、弱いからと思い込んでしまった方が多く、それが、過去の男性たちの思い上がりを生じ、昭和初期には本当の男尊女卑の流れが出来てしまった。それが今の行き過ぎた女性保護と権利擁護により、今度は逆差別までも生じ、もはや何をしたいのか良く分からない風潮(我々にはそう思える)が生じているのではないか、と思う事がある。
保護されているのに権利も求めるのは少々虫が良い。権利を求めるのなら保護は求めてはいけない。同様のことが、生活保護の問題でもおきている気がする。
これでは公平感がなくなり、まじめにがんばっている人間が馬鹿を見る世界になってしまう。
モラルは一度低下すると、なかなか戻せない。権利は一度手に入れると捨てられない。
だから、もぐらたたきのように、法律が増えていってしまう。
一度、ほとんどの法律を消してしまった方が良いのではないか?と思ったりする今日この頃である。
話が脱線してしまったが、祝園神社から少し南に、紀元前の昔にあったとされる、この可愛そうな武人の斬られた跡が、残っているのである。祝園神社は、武埴安彦の亡魂が鬼神となって柞ノ森に居座り、人々を悩ませていた。それを鎮めるために、春日大明神を勧請して創立されたのが祝園神社(ほうそのじんじゃ と読む)であると伝えられている。
今はなき旧き時代の息吹が聞こえて来そうな場所である。
旧い場所に行くと、日本がかつて誇っていた高い道徳心、その風潮を復旧したいという念を強くするのは我々だけであろうか?
東京の紹介 ~誤解されている歴史と靖国神社編~
先だっての日曜日、我々兄弟は、はじめて靖国神社を参拝し、資料館に足を運んだ。
観光地としての写真紹介の前に、今回は、知られざる歴史を述べたいと思う。
読者の皆さん、靖国神社といえば、何を想像されるだろう?
戦没者?太平洋戦争?A級戦犯?さくら?特攻隊?外交問題?
そして、A級戦犯と聞くと、多くの皆さんは負のイメージを持っていると思う。
多くの皆さんが、戦争=悪、戦争を引き起こし、日本を傾けた極悪人として認知され、
それ故に、靖国神社=悪のイメージが固定化してしまっているからだ。
だからこそ、今日は、恐らくは、多くの皆さんが知らないであろう歴史を語りたいと思っている。
まずは、簡単に昭和初期までの時代を簡単に述べるとする。
■①幕末から日清戦争までの経緯(学校の授業では習わない)
幕末から明治初頭にかけ、多くの事件があった。
一般に不平等条約とされた、日米和親条約、通商修好条約の締結。
西南の役・・・・。
しかし、日米和親条約、通商修好条約で規定された、不平等とされる治外法権と関税自主権は、江戸幕府下の情勢では、不平等条約ではなかった。
何故ならば、治外法権は、港から数里の外国人居住区内に限られていたし、関税も世界水準の関税であった。これらは、幕府閣僚の優れた外交手腕のなせる技であって、見た目は不平等に見えても、実態は問題にならないと言うフィクションを成立させていたのである。当時の全権の、ペリーやハリスは、交渉時に押され、「日本は数年で世界の列強に並ぶであろう。」と予測したとさえ言われる。
不平等条約化したのは、明治維新後である。外国人居住区が拡がり、関税が引き下げられ、実質上の不平等条約になってしまった。
一方で、西南の役は政府を驚愕させた。政治家としても他を圧する力を持ち、軍事的リーダーシップをも持っていた西郷のような人物が現れ反乱を起こすと困るからである。
そのため、軍令に関することはもっぱら参謀本部長の関知するところとした「統帥権の独立」という概念ができあがっていった。
そして、東アジアを巡る情勢は、華夷秩序(中国を宗主国とした朝貢体制)という安全保障が崩壊し、アジアは欧米列強により植民地に併合されていた。
山形有朋は、日中韓の三国で欧米に対抗したかったが、清国はあくまでも華夷秩序の復興を目指し、折しも清朝最後の天才、李鴻章が、中国の軍隊を近代的なものに改革し華夷秩序を回復し始めてしまう。それまで親日よりだった朝鮮半島が一気に清国よりに傾く。
そんな中、福沢諭吉の脱亜論などに触発され、世論は主戦論派となる。
ただし、日本政府は戦争には慎重であった。政府が気にしていたのは、清ではなく、むしろ、ロシアであった。そのため、清と戦うのは不本意だったのだ。
しかし、メディアは清国が弱いと言うイメージと、朝鮮に対する影響力が高めれば、生糸などが売れて農村が儲かるからと、言う理由により、戦争を煽り立てた。
それにより、ついに、1894年日清戦争が起こる。
■②日露戦争が起きた経緯(学校の授業では習わない)
日清戦争に勝利し、遼東半島などを得るも、三国干渉によって、欧米列強に干渉され返却、すると、ロシアがその遼東半島を即領有する。
ロシアは露骨に東アジアに南下を始めており、満州、朝鮮半島に触手を伸ばしていた。
一方で、日本の国防を考えた時、古来大和王権の時代より朝鮮半島は重要であった。
山県有朋は、主権線(:国境)と利益線(:国家の利益と関係する境界)という観念を提起。朝鮮を利益線と規定し、日本が存立するために不可欠で他国の進出を許すことはできぬ地域と強調。
それ故に、自国に友好的な独立国(できれば同盟国)とし、せめて緩衝地帯で存在し続けて欲しかった。
#この朝鮮半島が日本に友好的である事が国防に大事という観点は現在でも同様であろう。
しかし、当時の情勢では、ロシアは対外征服に躍起であり、あからさまな南下政策を実施。
・ウラジオストクまで前線を開通させたとしたら、日本の防衛は危ない。
(それまでは、対馬、朝鮮、津軽、宗谷海峡などの、海峡を、“部分”で押さえさえすれば良かった。)
・ロシアがウラジオストクまで出てきて、ここに艦隊をおいたならば、OUTだ。
と山県有朋は考えるに至る。
そこに、ロシアのシベリア鉄道ついに完成。
しかも、ロシア中国間で結ばれた条約で、「ロ-中間で、共同でシベリア鉄道が中国内を通る場所の運営がされる事」が合意されてしまう。これは悪夢としか言いようがなかった
日露戦争は、そうした中、始まった。
これは言うまでもなく、日本国家を防衛するための戦いであったといえる。
・日清戦争の結果、亜細亜(華夷秩序)からの独立がなされた。
・日露戦争の結果、西欧からの独立がなされた。しかし、欧米に日本を警戒する心が生まれた。
と書いてある書物も幾つか存在するが、我々はこれらの意見には上記観点から賛成している。
ところが、日露戦争では賠償金は取れなかった。
日本としては、これ以上戦えなかったからであるが、それを国民に言うわけにもいかず
、何も知らない国民は、日々谷焼き討ち事件などで、政府に抗議する。
(当たり前だが、国民が知ると言うことは、敵国/諸外国も、その情報を簡単に手に入れられてしまうと言う事である。もう戦えないなどとロシア側に知れてしまったら日本存亡の危機になったであろう。)
この現象は、今の時代でも相変わらず起きているように思える。
何も知らないマスコミが、無責任に騒ぎ立てると、国民がそれに影響を受けてしまい、政府は身動きがとれなくなってしまう。
国民やマスコミは口々に、何も知らされてなかったと言うが、全部知らせると言う事は、諸外国にもその情報が筒抜けになってしまい、それは国防上、経済や国民の暮らしを守という観点から良くない事が多々存在する事を考えてはいない。
全てを開示することが良いわけではなく、しかし、何もかもを隠匿するのも良いわけではない。この国は、どうも、やることが一様的で、融通にかけていると思うのは我々だけであろうか。
話がそれたが、ここまでが、1910年付近までの出来事であった。
■③政党政治の政権争いが引き起こしてしまった軍部の暴発(学校の授業では習わない)
その後、アメリカの提案から、1922年ワシントン海軍軍縮会議が起こる。
この会議の目的は、各国思惑が異なるが、ウィキペディアでも見て欲しい。
その後世界恐慌が起こり、1930年、ロンドン海軍軍縮会議。
このロンドン軍縮が、我々には、太平洋戦争への道への分岐点であったように、我々には思える。
ワシントン軍縮で譲歩していた軍は、政府に対英米の艦艇保有率を7割で交渉して欲しいと要請。
内閣は、提案した7割に近い6.975割という妥協案を米から引き出せたことで、この案を受諾する方針であり、海軍省内部でも賛成の方針であった。
軍令部は重巡洋艦保有量が対米6割に抑えられたことと、潜水艦保有量が希望量に達しなかったことの2点を理由に条約拒否の方針を唱えた。
これには、浜口雄幸がきわめて強引であった事、海軍内部が賛成派と反対派で割れていた事などが原因としてあげられる。我々にいわせればコミュニケーション失敗の何ものでもない。
幣原外相の不用意な、「外国からの圧力ではなく、自主性に基づいた結果」との主張が、軍部を刺激。
軍令部は、大日本帝国憲法第11条の「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」(統帥大権)を盾に、
第12条 天皇は陸海軍の編制及常備兵額を定むの範囲に、統帥権は及ぶという立場を取った。
これがいわゆる、「統帥権干犯問題」である。
後から見ている我々に言わせれば、こんな問題は、本来、一笑に付せるものでしかなかったんじゃないかと思う。
何故ならば、時の法律博士美濃部達吉(東京帝国大学教授)の公式解釈では、上記とは異なる解釈が存在した上、それまでの慣例的にも美濃部博士の解釈が当たり前とされていたためである。
ところが、当時野党であった、政友会の犬養毅が政権奪取をもくろみ、あろうことか、
この論を支持し、浜口雄幸の民政党内閣を総辞職に追い込もうと、政権闘争に利用してしまう。
ここに「統帥権干犯問題」が正当化され、内閣府は軍の編成権限を失うのである。
その犬飼毅が、首相となって後に、軍縮をしようとしたところ、五・一五事件で将校に殺害されたのは皮肉と言うしかない。
本来、ここが、日本政府と日本の政党政治家にとって、踏ん張りどころであったはずだ。
今の、民主党と自民党の争いと同じに見えてくるのは我々だけではなかろう。
愚かな政党同士の政権闘争が、政党政治に終止符を打つ道筋を創ったのだ。
これを見ると、戦争への道は、軍(しかも一部の過激派)だけが悪いとはとても言えない。
■④資源欠乏から、八方塞の日本が取った道
時代は進み、満州事変が起きる。
これは本来は、アメリカによる資源の日本向け輸出の禁止措置などに対し、自力で資源を得て、対米戦争回避のために、板垣征四郎、石原完爾等が起こしたものだそうだ。
そう断言するのは、我々の親族に、浜面又助中将(関東軍初代参謀総長)がいて、祖父経由で漏れ聞いた話からである。彼は満州事変前に爆死する張作霖の顧問でもあった。
もともとは、軍閥の張作霖との融和により、日本は満州一帯を日本に友好的な地域としたかったようだ。しかし、張作霖は反日姿勢を明確化し始める。
浜面又助中将との関係は以下の通り。祖父の時代の事でしかないが、聞いた話でしかないが、真実味はあると思っている。

そして、満州事変は、満州に住む民衆に歓呼をもって迎えられたらしい。
当時の満州では軍閥と呼ばれる私兵集団が跋扈していたからのようである。
国際連盟から、リットン調査団が派遣され、中華民国側の主張を支持しながらも、
満洲に日本が持つ権益、居住権、商権は尊重されるべきである。一方が武力を、他方が「不買運動」という経済的武力を行使している限り、平和は訪れない。
などの日本側への配慮も見られたし、
しかも、1935年には、外務大臣の広田弘毅が、帝国議会において日本の外交姿勢を「協和外交」と規定。
「私の在任中に戦争は断じてないと云うことを確信致して居ります」と発言した。
この発言を受けて、蒋介石や汪兆銘は、
中華民国政府内の親日派は日本との提携関係を具体化すべく、
1935年5月から協議を開始。中華民国側は「日中関係の平和的解決、対等の交際、排日の取締」の3条件を提示し、さらに満州国の承認取り消しを求めないという条件を伝えるまでに至っている。
この時点で、蒋介石は、満州を日本の影響下におくことに、さほど抵抗は感じて居なかった。
日本は、まだ、ここで止まれたのだと思う。
■⑤日中戦争を引き起こした個人の野心
一人、日本と蒋介石に停戦されては困る人物が居た。毛沢東である。
毛沢東は、部下をスパイとして蒋介石の軍隊に派遣していた。
その部下が、突如、停戦中の日本軍に向けて発砲したのである。
折しも、共産党員による、日本軍襲撃などで、現地の治安は悪化。
邦人保護を求めて、再三に渡って現地軍は、日本政府に攻撃認可を求めていたが、
日本政府はそれを許可せず、現地では不満が溜まっていたと思われる。
ここに、現地軍人の功名心も入ってしまう。牟田口連也大佐は周囲の静止を聞かず、個人の功名心に走ったとされている。
このあたりの事情は 常岡滝雄『大東亜戦争の敗因と日本の将来』1969年に良く載っているので、見てみてると良い。
満州から左遷されていた石原完爾は、この動きを静止しようとするも果たせず、
結果として、泥沼の日中戦争へと突入していくのだ。
皮肉にも、「自分は満州事変を引き起こしたではないか?」と言われ、説得力を失っていたのである。満州事変と日中戦争では、その目的も情勢も全然異なったが、それを判断できた人間は
ごくわずかであった。
そして、それでも、外交努力を続けていた日本は、蒋介石と停戦交渉が成立しそうなところまで
こぎつける。
しかし、その矢先、陸軍ががんばりすぎて、首都の南京が陥落させてしまう。
結果、政府首脳たちが、中華民国あての停戦の条件を改め、書き換えてしまう。
つまり、勝っているのは自分たちだから、もっと譲歩させられると思い込んでしまった。
外務省は、これでは条件を飲むはずがないと抗議するも、結局、その条件を蒋介石に
突きつけ、中華民国は徹底抗戦、日中戦争は本当に泥沼化していく。
■⑥経済封鎖と日中戦争泥沼化に伴う物資欠乏で進退窮まる。亡国覚悟で、ついに、太平洋へ
そうした情勢において、物資窮乏を受け、日本では、フランス領インドシナに侵攻する事になる。
「米主導の経済封鎖により、艦隊を動かさなくても、普通に国民が暮らすだけで、五年で石油が尽きてしまう。戦えば、二年は持ちこたえるが、三年を超えると厳しい。」
この現実は、国民には知らせる事は出来なかった。国民が知ると言う事は、諸外国に日本の事情を知られてしまうと言う事でもあるからだ。
そうすると、日本はますます苦しくなるだろう。
そのため、閣議は、損な役回りの押し付け合いになったようである。
陸軍、海軍ともに、建前から、負けるから辞めたいとは言い出せない。
当時の近衛首相は、近衛首相は陸海軍に何とか、勝てないと言ってもらえるよう
要請するも、会議になると本音を言えない首脳達。
対米開戦をするかどうかを決定する日を決める、など先送りしたものを更に先送りする事態。その日自体も先送りされる。
経済封鎖や、日本人移民排斥運動に憤ったマスコミは、日清日露の勝利から、対英米戦争を煽る中、本音を言えない状態が続くのである。
そんな中、戦時下体制を創るためか、一国一党の強力な政治体制を目指す大政翼賛会が成立する。これは、国会の承認なしに政府が法案を規定し実行出来ると言う趣旨のものであり、政党政治を全否定するものであった。
政党政治家は、これを可決するのである。責任放棄と言われても仕方ないではないか?
そして、彼らを選出したのも、国民である。
■⑦危急の折、警鐘を鳴らし続けた知られざる二人の議員
戦時下体制で、立ち上がった人物もいるので、紹介したい。斉藤隆夫議員や、濱田國松議員である。
斉藤隆夫は、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%8E%E8%97%A4%E9%9A%86%E5%A4%AB
濱田國松は、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%9C%E7%94%B0%E5%9B%BD%E6%9D%BE
を参照頂きたい。
斉藤隆夫は、
「政府の独断専行に依って、決したいからして、白紙の委任状に盲判を捺してもらいたい。これよりほかに、この法案すべてを通じて、なんら意味はないのである」と、翼賛体制に疑問を呈して抵抗。しかし、議員を「賛成多数」で除籍されてしまう。
この人の主張で有名なものを見ると、
現在までこの人が、評価されている理由は、「軍にすり寄る政府に対して抵抗した。」と言うただ一点のようにも思えるのであるが、我々は、こう思うのである。
「結局、この人が問題視しているのは、日本国民の無責任体質なのではないか?」と。
その目に見える結果が、「軍にすり寄る政府に対して抵抗した。」ということであって、
本質的には、「日本国民の無責任体質に警鐘を鳴らした。」のではないか?
戦争は絶対悪であったにせよ、望まなくても押しつけられる事は多分にある。
だから、斉藤議員は、当時の戦争そのものを否定していたわけではないと感じている。
その視点では、http://jseagull.blog69.fc2.com/blog-entry-588.html
も面白いと思う。
濱田國松は、
腹切り問答で有名。浜田議員が「近年のわが国情は特殊の事情により、国民の有する言論の自由に圧迫を加えられ、国民はその言わんとする所を言い得ず、わずかに不満を洩らす状態に置かれている。」と主張。
寺内陸軍大臣が、「軍人に対しましていささか侮蔑されるような如き感じを致す所のお言葉を承りますが」と反論。
浜田は「速記録を調べて私が軍を侮辱する言葉があるなら割腹して君に謝罪する。なかったら君が割腹せよ」と激しく寺内に詰め寄った。
このような気概のある人物は、今の国会にいるであろうか?
■⑧戦争回避に向けた最後の努力から敗戦
余談が入ったが、結局、戦争回避の道を探れず、事態の収拾を図れず、近衛首相は総辞職。なんとか戦争回避と言うことで、親王に組閣すると言う案がでるも、木戸孝一内大臣は、敗戦の際、戦争責任が天皇に及ぶのを避けるため、それは拒絶される。
結果、最後の頼みの綱として、軍部を抑える事が出来る東条英機が内閣総理大臣となるのである。
しかし、時間ばかりが過ぎて、ついに、外堀が埋まってしまっていた当時の日本。
世論とマスコミは主戦論に傾き、ありがちな、「信じたいものだけを信じる」心境に達した日本国首脳は、仮定に仮定をつなぎ合わせて楽観論を創りあげ、開戦を決意。
それは、天皇を前にしての御前会議の内容で明らかだ。
「南方方面だけは3カ月くらいで片付けるつもりであります」。日米戦の見通しを述べた杉山元参謀総長に昭和天皇は語気を強めた。
「杉山。お前は支那事変勃発時の陸軍大臣として”1カ月で片付く”と言ったが、4年経った今も片付かないではないか」
「支那は奥地が広いので…。」杉山の弁明すると、
昭和天皇は「太平洋は支那よりも広いぞ」と叱責。一同静まりかえったとされる。
「10月下旬を目処に戦争準備を完整する」と外交交渉打ち切りの期限を明示した「帝国国策遂行要領」案が諮られた御前会議。
天皇の意を受けた枢密院議長の「外交より戦争に重点が置かれている」との問いに統帥部側の返答がないとみると、懐から紙片を取り出し異例の発言に踏み切る。
「四方の海 皆はらからと 思ふ世に など波風の 立ちさわぐらむ」
これは明治天皇の歌であり、平和を望む昭和天皇の声であった。
しかし、情勢はもはや変わる事は無かったのである。
永野修身 海軍軍令部総長は、こう述べている
「戦わざれば亡国と政府は判断されたが、戦うもまた亡国につながるやもしれぬ。
しかし、戦わずして国亡びた場合は魂まで失った真の亡国である。
しかして、最後の一兵まで戦うことによってのみ、死中に活路を見出うるであろう。
戦ってよしんば勝たずとも、護国に徹した日本精神さえ残れば、我等の子孫は再三再起するであろう。
そして、いったん戦争と決定せられた場合、我等軍人はただただ大命一下戦いに赴くのみである」
そうまで考え、苦悩した彼らの後を受けている、我々の何と情けないことか。
そう思えてくる深みのある言葉ではないだろうか?
これらを決した多くの人たちは、その多くが東京裁判で死刑となった。
それがA級戦犯である。
なお、東京裁判の際、
「裁判の方向性が予め決定づけられており、判決ありきの茶番劇である」との主旨でこの裁判そのものを批判し、被告の全員無罪を主張したインド人判事ラダ・ビノード・パールは、こう語っている。
引用したい。
「日本は独立したといっているが、これは独立でも何でもない。しいて独立という言葉を使いたければ、半独立といったらいい。
いまだにアメリカから与えられた憲法の許で、日米安保条約に依存し、東京裁判史観と
いう歪められた自虐史観や、アメリカナイズされたものの見方や考え方が少しも直っていない。
日本人よ、日本に帰れ!と私は言いたい。」
「今後も世界に戦争は絶えることはないであろう。しかして、そのたびに国際法は幣履のごとく破られるであろう。だが、爾今、国際軍事裁判は開かれることなく、世界は国際的無法社会に突入する。その責任はニュルンベルクと東京で開いた連合国の国際法を無視した復讐裁判の結果であることをわれわれは忘れてはならない。」
■結論
マスコミによって、植え付けられたA級戦犯=悪、は、誤りとは言わぬが、絶対的な真実でもない。
自分が相手と同じ立場に立ったことがないのなら、
その相手を批判する資格はあなたにはないのである。
ここまで読まれた読者の方、A級戦犯即悪人、靖国=悪と、思われる方はどのくらい残っているだろうか?事実知らずして、そう思っていた方がほとんどであろうと思う。
ここまで読んでなお、「靖国、即イコール悪」と思う方々はそれでも良い。知った上で、自分の考えを持つ事を我々は否定しない。
少なくとも、靖国神社に参拝する事を、何故批判され、そして、謝るのか?
日本のマスコミは、何故、こうも、日本の国益に反する事を多く主張するのか?
我々は、近代史の真実を皆がきちんと理解し、深く考え、自分の事として捉えていないからであると考える。
太平洋戦争は、大きくは自主自衛の戦争であったと結論づけられる。
更には、結果として、東南アジア諸国の欧米からの独立がなされ、朝鮮半島もロシア領とはならず、民族独立を守っている。
東南アジアには、未だ、日本軍が欧米を打ち払ってくれたから親日だと言う方々が多い。台湾の少数民族の方々も、日本が稲作を教えてくれた。だから、義勇軍として日本のために戦った。と言ってくれる人々もいる。
我々日本人が、太平洋戦争の意義までをも全否定し、自虐的になるのは、こうした他国で日本を支援してくれた人たちに対しての義理をも欠く行為にも移る。
もちろん、戦争は絶対悪であり、引き起こすべきものではない。
だが、過去におきた経緯を知らずして、日本を守った方々の事跡までも含め、全否定の上、葬り去ってしまうのでは、先人たちに申し訳が立たないではないか?
我々に言わせれば、それも含め、結局、”人ごと”として捉えているのではないか?
それが無責任感にもつながる気がしている。
そして、それを育んでしまったのも、教育である。
自分勝手な親が自分勝手な子供を創る。特に、近年、女性の一部は子育てを社会的システムに預け、権利拡充を求め、自己の都合を優先する傾向がある。
そして、それを追従するマスコミも存在している。#全員ではない。
自分の権利ばかり追い求める風土が喜ばれてしまう結果、風土が悪くなり、真面目に働いた人間が馬鹿を見てしまう事象もよく見かける。
今の日本人は、否定が好きだ。すぐ、相手を否定する。自分が正しいという錦の御旗を掲げて、
そうではない人種を否定するかの如くに見える。
例えば、その意味で、我々は、労働組合や、”多くの”女性権利団体はあまり好きじゃない。なぜなら、うたい文句が、”組合員の利益””女性の利益/権利”しか”考えていないからである。
もちろん、全部じゃない。ちゃんと全体のバランスや本当に国民全員のことも視野にいれて活動している方々の事は嫌いじゃない。
一つの権利を追い求めれば、別のところで、ダメージをこうむる方々が存在する。
それは摩擦につながり、歪をましていく。結果、法律が増えて、余計な金がかかる。
更に、そうなると、自分の事を優先に考えるしかなくなってしまい、モラル低下が法律増加に拍車をかける。
今、生活保護需給ですら、問題が起きているが、まさに正直者が馬鹿を見る世界になってしまった感が、我々には否めない。
全体のバランスや調整を考えずして、自己都合と権利のみを主張する方が増えているからであろうか。こういう方々は、相手を一切受け入れていないのだとも思う。とても残念な事だ。
だから、我々が考えるのは、「老若男女の別なく、正直者が馬鹿を見ない世界」だ。
その実現の一つの手段となり得るのが、NLPであると、我々は思ったのである。
NLPは、たくさんのコミュニケーションテクニックがあるが、テクニックそのものだけに意味はない。相手を受け入れた上で、相手の立場や思考を受け入れるそういう事を学べるのだ。
多くの方々にNLPを学んで頂くことで、問題に柔軟に対処していく手段、風土が創られる、そういう可能性が大いにある。
だから、NLPトレーナーとなり、お伝えする事を始めつつある。
正直、NLP事業はさして儲かるものではない。良い授業をしようとすれば、値段を高くせざるを得ないし、あまり高すぎると、来ずらくなってしまう。
最後に、では、国とは何か? 皆さん、考えて欲しい。
皆、自分の家族は守りたい。家族を守ると言う事を少し拡げると、地域や居住している周囲を守ると言う事。そして、それを大きくすると国を守ると言う事になる。
古代の偉そうな哲学者たちによれば、
そもそも、人間には、産まれながらに自然権が存在している。
この自然権は、全員が自由に行使すると、危険極まりない。人に危害を加えたいと言うのも、一つの欲求であるからだ。
そのため、人は、コミュニティを創り、そこに所属する。そのコミュニティが、住民を守るのだ。しかし、その対価として、一部の自然権を放棄し、皆で決まり事をなどを創り、それを守る。
国家とはそう言うものであって、そこに所属している以上、何らかの貢献を持って、帰属しうるのである。そこには、自分勝手なものはない。
「他人を幸福にするのは、香水をふりかけるようなものだ。
ふりかけるとき、自分にも数滴はかかる。」
古来日本人の多くが持っていた、この考えを思い出して欲しい、そう願う次第である。
靖国=負のイメージは、マスコミの影響が大であると思うが、それ以上に、我々日本人の精神面の弱さにも関係していると思うのである。
我々は現在の風潮を嘆かわしく思い、また、先人が必死に守ったこの国を良くしたいと考え、ここにこの記事を書いた次第である。
少しでも感じてくれる人がいれば幸いに思う。
なお、参考として文献は以下である。
・それでも、日本人は「戦争」を選んだ
・ラダビノード・パール『パール博士「平和の宣言」』
・朝日新聞コラム~山県有朋~2011/5/E
・大東亜戦争の敗因と日本の将来
・根本博中将 この命義に捧ぐ
・海軍の逸材 堀悌吉
・常勝将軍 立見尚文
・ 『雪風ハ沈マズ』―強運駆逐艦栄光の生涯
・撤退―ガダルカナル・コロンバンガラ・キスカ
・ラバウル航空隊の最後―陸攻隊整備兵の見た航空戦始末
・ NHK「その時歴史が動いた」
・Wikipedia
さて、ここからは写真の紹介。九段下の駅を降りて、歩いていくと、大きな鳥居が見える。
靖国神社の入り口である。


しばらく行くと、外苑の庭が広がり、維新時に活躍した大村益次郎の銅像が建っている。


事のほか、広い神社内部。

資料館におさめられているゼロ戦。
幾人の先人達がこの機体で国を守ったのだろうか。

資料館の有料ゾーンでは、遺書や、遺書のつもりはなかったが、遺書になってしまった数々の家族への手紙などが展示されている。どの手紙にも、家族を守ろうとした兵士たちの思いがつづられていて、涙する。
女性の工員や看護員たちも、多数亡くなられており、得もいえぬ場所である。
有料ゾーンは撮影禁止であったため、訪れて見てください。

砲門。真剣に見入る昌志トレーナーを、横から盗撮?笑

観光地としての写真紹介の前に、今回は、知られざる歴史を述べたいと思う。
読者の皆さん、靖国神社といえば、何を想像されるだろう?
戦没者?太平洋戦争?A級戦犯?さくら?特攻隊?外交問題?
そして、A級戦犯と聞くと、多くの皆さんは負のイメージを持っていると思う。
多くの皆さんが、戦争=悪、戦争を引き起こし、日本を傾けた極悪人として認知され、
それ故に、靖国神社=悪のイメージが固定化してしまっているからだ。
だからこそ、今日は、恐らくは、多くの皆さんが知らないであろう歴史を語りたいと思っている。
まずは、簡単に昭和初期までの時代を簡単に述べるとする。
■①幕末から日清戦争までの経緯(学校の授業では習わない)
幕末から明治初頭にかけ、多くの事件があった。
一般に不平等条約とされた、日米和親条約、通商修好条約の締結。
西南の役・・・・。
しかし、日米和親条約、通商修好条約で規定された、不平等とされる治外法権と関税自主権は、江戸幕府下の情勢では、不平等条約ではなかった。
何故ならば、治外法権は、港から数里の外国人居住区内に限られていたし、関税も世界水準の関税であった。これらは、幕府閣僚の優れた外交手腕のなせる技であって、見た目は不平等に見えても、実態は問題にならないと言うフィクションを成立させていたのである。当時の全権の、ペリーやハリスは、交渉時に押され、「日本は数年で世界の列強に並ぶであろう。」と予測したとさえ言われる。
不平等条約化したのは、明治維新後である。外国人居住区が拡がり、関税が引き下げられ、実質上の不平等条約になってしまった。
一方で、西南の役は政府を驚愕させた。政治家としても他を圧する力を持ち、軍事的リーダーシップをも持っていた西郷のような人物が現れ反乱を起こすと困るからである。
そのため、軍令に関することはもっぱら参謀本部長の関知するところとした「統帥権の独立」という概念ができあがっていった。
そして、東アジアを巡る情勢は、華夷秩序(中国を宗主国とした朝貢体制)という安全保障が崩壊し、アジアは欧米列強により植民地に併合されていた。
山形有朋は、日中韓の三国で欧米に対抗したかったが、清国はあくまでも華夷秩序の復興を目指し、折しも清朝最後の天才、李鴻章が、中国の軍隊を近代的なものに改革し華夷秩序を回復し始めてしまう。それまで親日よりだった朝鮮半島が一気に清国よりに傾く。
そんな中、福沢諭吉の脱亜論などに触発され、世論は主戦論派となる。
ただし、日本政府は戦争には慎重であった。政府が気にしていたのは、清ではなく、むしろ、ロシアであった。そのため、清と戦うのは不本意だったのだ。
しかし、メディアは清国が弱いと言うイメージと、朝鮮に対する影響力が高めれば、生糸などが売れて農村が儲かるからと、言う理由により、戦争を煽り立てた。
それにより、ついに、1894年日清戦争が起こる。
■②日露戦争が起きた経緯(学校の授業では習わない)
日清戦争に勝利し、遼東半島などを得るも、三国干渉によって、欧米列強に干渉され返却、すると、ロシアがその遼東半島を即領有する。
ロシアは露骨に東アジアに南下を始めており、満州、朝鮮半島に触手を伸ばしていた。
一方で、日本の国防を考えた時、古来大和王権の時代より朝鮮半島は重要であった。
山県有朋は、主権線(:国境)と利益線(:国家の利益と関係する境界)という観念を提起。朝鮮を利益線と規定し、日本が存立するために不可欠で他国の進出を許すことはできぬ地域と強調。
それ故に、自国に友好的な独立国(できれば同盟国)とし、せめて緩衝地帯で存在し続けて欲しかった。
#この朝鮮半島が日本に友好的である事が国防に大事という観点は現在でも同様であろう。
しかし、当時の情勢では、ロシアは対外征服に躍起であり、あからさまな南下政策を実施。
・ウラジオストクまで前線を開通させたとしたら、日本の防衛は危ない。
(それまでは、対馬、朝鮮、津軽、宗谷海峡などの、海峡を、“部分”で押さえさえすれば良かった。)
・ロシアがウラジオストクまで出てきて、ここに艦隊をおいたならば、OUTだ。
と山県有朋は考えるに至る。
そこに、ロシアのシベリア鉄道ついに完成。
しかも、ロシア中国間で結ばれた条約で、「ロ-中間で、共同でシベリア鉄道が中国内を通る場所の運営がされる事」が合意されてしまう。これは悪夢としか言いようがなかった
日露戦争は、そうした中、始まった。
これは言うまでもなく、日本国家を防衛するための戦いであったといえる。
・日清戦争の結果、亜細亜(華夷秩序)からの独立がなされた。
・日露戦争の結果、西欧からの独立がなされた。しかし、欧米に日本を警戒する心が生まれた。
と書いてある書物も幾つか存在するが、我々はこれらの意見には上記観点から賛成している。
ところが、日露戦争では賠償金は取れなかった。
日本としては、これ以上戦えなかったからであるが、それを国民に言うわけにもいかず
、何も知らない国民は、日々谷焼き討ち事件などで、政府に抗議する。
(当たり前だが、国民が知ると言うことは、敵国/諸外国も、その情報を簡単に手に入れられてしまうと言う事である。もう戦えないなどとロシア側に知れてしまったら日本存亡の危機になったであろう。)
この現象は、今の時代でも相変わらず起きているように思える。
何も知らないマスコミが、無責任に騒ぎ立てると、国民がそれに影響を受けてしまい、政府は身動きがとれなくなってしまう。
国民やマスコミは口々に、何も知らされてなかったと言うが、全部知らせると言う事は、諸外国にもその情報が筒抜けになってしまい、それは国防上、経済や国民の暮らしを守という観点から良くない事が多々存在する事を考えてはいない。
全てを開示することが良いわけではなく、しかし、何もかもを隠匿するのも良いわけではない。この国は、どうも、やることが一様的で、融通にかけていると思うのは我々だけであろうか。
話がそれたが、ここまでが、1910年付近までの出来事であった。
■③政党政治の政権争いが引き起こしてしまった軍部の暴発(学校の授業では習わない)
その後、アメリカの提案から、1922年ワシントン海軍軍縮会議が起こる。
この会議の目的は、各国思惑が異なるが、ウィキペディアでも見て欲しい。
その後世界恐慌が起こり、1930年、ロンドン海軍軍縮会議。
このロンドン軍縮が、我々には、太平洋戦争への道への分岐点であったように、我々には思える。
ワシントン軍縮で譲歩していた軍は、政府に対英米の艦艇保有率を7割で交渉して欲しいと要請。
内閣は、提案した7割に近い6.975割という妥協案を米から引き出せたことで、この案を受諾する方針であり、海軍省内部でも賛成の方針であった。
軍令部は重巡洋艦保有量が対米6割に抑えられたことと、潜水艦保有量が希望量に達しなかったことの2点を理由に条約拒否の方針を唱えた。
これには、浜口雄幸がきわめて強引であった事、海軍内部が賛成派と反対派で割れていた事などが原因としてあげられる。我々にいわせればコミュニケーション失敗の何ものでもない。
幣原外相の不用意な、「外国からの圧力ではなく、自主性に基づいた結果」との主張が、軍部を刺激。
軍令部は、大日本帝国憲法第11条の「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」(統帥大権)を盾に、
第12条 天皇は陸海軍の編制及常備兵額を定むの範囲に、統帥権は及ぶという立場を取った。
これがいわゆる、「統帥権干犯問題」である。
後から見ている我々に言わせれば、こんな問題は、本来、一笑に付せるものでしかなかったんじゃないかと思う。
何故ならば、時の法律博士美濃部達吉(東京帝国大学教授)の公式解釈では、上記とは異なる解釈が存在した上、それまでの慣例的にも美濃部博士の解釈が当たり前とされていたためである。
ところが、当時野党であった、政友会の犬養毅が政権奪取をもくろみ、あろうことか、
この論を支持し、浜口雄幸の民政党内閣を総辞職に追い込もうと、政権闘争に利用してしまう。
ここに「統帥権干犯問題」が正当化され、内閣府は軍の編成権限を失うのである。
その犬飼毅が、首相となって後に、軍縮をしようとしたところ、五・一五事件で将校に殺害されたのは皮肉と言うしかない。
本来、ここが、日本政府と日本の政党政治家にとって、踏ん張りどころであったはずだ。
今の、民主党と自民党の争いと同じに見えてくるのは我々だけではなかろう。
愚かな政党同士の政権闘争が、政党政治に終止符を打つ道筋を創ったのだ。
これを見ると、戦争への道は、軍(しかも一部の過激派)だけが悪いとはとても言えない。
■④資源欠乏から、八方塞の日本が取った道
時代は進み、満州事変が起きる。
これは本来は、アメリカによる資源の日本向け輸出の禁止措置などに対し、自力で資源を得て、対米戦争回避のために、板垣征四郎、石原完爾等が起こしたものだそうだ。
そう断言するのは、我々の親族に、浜面又助中将(関東軍初代参謀総長)がいて、祖父経由で漏れ聞いた話からである。彼は満州事変前に爆死する張作霖の顧問でもあった。
もともとは、軍閥の張作霖との融和により、日本は満州一帯を日本に友好的な地域としたかったようだ。しかし、張作霖は反日姿勢を明確化し始める。
浜面又助中将との関係は以下の通り。祖父の時代の事でしかないが、聞いた話でしかないが、真実味はあると思っている。

そして、満州事変は、満州に住む民衆に歓呼をもって迎えられたらしい。
当時の満州では軍閥と呼ばれる私兵集団が跋扈していたからのようである。
国際連盟から、リットン調査団が派遣され、中華民国側の主張を支持しながらも、
満洲に日本が持つ権益、居住権、商権は尊重されるべきである。一方が武力を、他方が「不買運動」という経済的武力を行使している限り、平和は訪れない。
などの日本側への配慮も見られたし、
しかも、1935年には、外務大臣の広田弘毅が、帝国議会において日本の外交姿勢を「協和外交」と規定。
「私の在任中に戦争は断じてないと云うことを確信致して居ります」と発言した。
この発言を受けて、蒋介石や汪兆銘は、
中華民国政府内の親日派は日本との提携関係を具体化すべく、
1935年5月から協議を開始。中華民国側は「日中関係の平和的解決、対等の交際、排日の取締」の3条件を提示し、さらに満州国の承認取り消しを求めないという条件を伝えるまでに至っている。
この時点で、蒋介石は、満州を日本の影響下におくことに、さほど抵抗は感じて居なかった。
日本は、まだ、ここで止まれたのだと思う。
■⑤日中戦争を引き起こした個人の野心
一人、日本と蒋介石に停戦されては困る人物が居た。毛沢東である。
毛沢東は、部下をスパイとして蒋介石の軍隊に派遣していた。
その部下が、突如、停戦中の日本軍に向けて発砲したのである。
折しも、共産党員による、日本軍襲撃などで、現地の治安は悪化。
邦人保護を求めて、再三に渡って現地軍は、日本政府に攻撃認可を求めていたが、
日本政府はそれを許可せず、現地では不満が溜まっていたと思われる。
ここに、現地軍人の功名心も入ってしまう。牟田口連也大佐は周囲の静止を聞かず、個人の功名心に走ったとされている。
このあたりの事情は 常岡滝雄『大東亜戦争の敗因と日本の将来』1969年に良く載っているので、見てみてると良い。
満州から左遷されていた石原完爾は、この動きを静止しようとするも果たせず、
結果として、泥沼の日中戦争へと突入していくのだ。
皮肉にも、「自分は満州事変を引き起こしたではないか?」と言われ、説得力を失っていたのである。満州事変と日中戦争では、その目的も情勢も全然異なったが、それを判断できた人間は
ごくわずかであった。
そして、それでも、外交努力を続けていた日本は、蒋介石と停戦交渉が成立しそうなところまで
こぎつける。
しかし、その矢先、陸軍ががんばりすぎて、首都の南京が陥落させてしまう。
結果、政府首脳たちが、中華民国あての停戦の条件を改め、書き換えてしまう。
つまり、勝っているのは自分たちだから、もっと譲歩させられると思い込んでしまった。
外務省は、これでは条件を飲むはずがないと抗議するも、結局、その条件を蒋介石に
突きつけ、中華民国は徹底抗戦、日中戦争は本当に泥沼化していく。
■⑥経済封鎖と日中戦争泥沼化に伴う物資欠乏で進退窮まる。亡国覚悟で、ついに、太平洋へ
そうした情勢において、物資窮乏を受け、日本では、フランス領インドシナに侵攻する事になる。
「米主導の経済封鎖により、艦隊を動かさなくても、普通に国民が暮らすだけで、五年で石油が尽きてしまう。戦えば、二年は持ちこたえるが、三年を超えると厳しい。」
この現実は、国民には知らせる事は出来なかった。国民が知ると言う事は、諸外国に日本の事情を知られてしまうと言う事でもあるからだ。
そうすると、日本はますます苦しくなるだろう。
そのため、閣議は、損な役回りの押し付け合いになったようである。
陸軍、海軍ともに、建前から、負けるから辞めたいとは言い出せない。
当時の近衛首相は、近衛首相は陸海軍に何とか、勝てないと言ってもらえるよう
要請するも、会議になると本音を言えない首脳達。
対米開戦をするかどうかを決定する日を決める、など先送りしたものを更に先送りする事態。その日自体も先送りされる。
経済封鎖や、日本人移民排斥運動に憤ったマスコミは、日清日露の勝利から、対英米戦争を煽る中、本音を言えない状態が続くのである。
そんな中、戦時下体制を創るためか、一国一党の強力な政治体制を目指す大政翼賛会が成立する。これは、国会の承認なしに政府が法案を規定し実行出来ると言う趣旨のものであり、政党政治を全否定するものであった。
政党政治家は、これを可決するのである。責任放棄と言われても仕方ないではないか?
そして、彼らを選出したのも、国民である。
■⑦危急の折、警鐘を鳴らし続けた知られざる二人の議員
戦時下体制で、立ち上がった人物もいるので、紹介したい。斉藤隆夫議員や、濱田國松議員である。
斉藤隆夫は、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%8E%E8%97%A4%E9%9A%86%E5%A4%AB
濱田國松は、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%9C%E7%94%B0%E5%9B%BD%E6%9D%BE
を参照頂きたい。
斉藤隆夫は、
「政府の独断専行に依って、決したいからして、白紙の委任状に盲判を捺してもらいたい。これよりほかに、この法案すべてを通じて、なんら意味はないのである」と、翼賛体制に疑問を呈して抵抗。しかし、議員を「賛成多数」で除籍されてしまう。
この人の主張で有名なものを見ると、
現在までこの人が、評価されている理由は、「軍にすり寄る政府に対して抵抗した。」と言うただ一点のようにも思えるのであるが、我々は、こう思うのである。
「結局、この人が問題視しているのは、日本国民の無責任体質なのではないか?」と。
その目に見える結果が、「軍にすり寄る政府に対して抵抗した。」ということであって、
本質的には、「日本国民の無責任体質に警鐘を鳴らした。」のではないか?
戦争は絶対悪であったにせよ、望まなくても押しつけられる事は多分にある。
だから、斉藤議員は、当時の戦争そのものを否定していたわけではないと感じている。
その視点では、http://jseagull.blog69.fc2.com/blog-entry-588.html
も面白いと思う。
濱田國松は、
腹切り問答で有名。浜田議員が「近年のわが国情は特殊の事情により、国民の有する言論の自由に圧迫を加えられ、国民はその言わんとする所を言い得ず、わずかに不満を洩らす状態に置かれている。」と主張。
寺内陸軍大臣が、「軍人に対しましていささか侮蔑されるような如き感じを致す所のお言葉を承りますが」と反論。
浜田は「速記録を調べて私が軍を侮辱する言葉があるなら割腹して君に謝罪する。なかったら君が割腹せよ」と激しく寺内に詰め寄った。
このような気概のある人物は、今の国会にいるであろうか?
■⑧戦争回避に向けた最後の努力から敗戦
余談が入ったが、結局、戦争回避の道を探れず、事態の収拾を図れず、近衛首相は総辞職。なんとか戦争回避と言うことで、親王に組閣すると言う案がでるも、木戸孝一内大臣は、敗戦の際、戦争責任が天皇に及ぶのを避けるため、それは拒絶される。
結果、最後の頼みの綱として、軍部を抑える事が出来る東条英機が内閣総理大臣となるのである。
しかし、時間ばかりが過ぎて、ついに、外堀が埋まってしまっていた当時の日本。
世論とマスコミは主戦論に傾き、ありがちな、「信じたいものだけを信じる」心境に達した日本国首脳は、仮定に仮定をつなぎ合わせて楽観論を創りあげ、開戦を決意。
それは、天皇を前にしての御前会議の内容で明らかだ。
「南方方面だけは3カ月くらいで片付けるつもりであります」。日米戦の見通しを述べた杉山元参謀総長に昭和天皇は語気を強めた。
「杉山。お前は支那事変勃発時の陸軍大臣として”1カ月で片付く”と言ったが、4年経った今も片付かないではないか」
「支那は奥地が広いので…。」杉山の弁明すると、
昭和天皇は「太平洋は支那よりも広いぞ」と叱責。一同静まりかえったとされる。
「10月下旬を目処に戦争準備を完整する」と外交交渉打ち切りの期限を明示した「帝国国策遂行要領」案が諮られた御前会議。
天皇の意を受けた枢密院議長の「外交より戦争に重点が置かれている」との問いに統帥部側の返答がないとみると、懐から紙片を取り出し異例の発言に踏み切る。
「四方の海 皆はらからと 思ふ世に など波風の 立ちさわぐらむ」
これは明治天皇の歌であり、平和を望む昭和天皇の声であった。
しかし、情勢はもはや変わる事は無かったのである。
永野修身 海軍軍令部総長は、こう述べている
「戦わざれば亡国と政府は判断されたが、戦うもまた亡国につながるやもしれぬ。
しかし、戦わずして国亡びた場合は魂まで失った真の亡国である。
しかして、最後の一兵まで戦うことによってのみ、死中に活路を見出うるであろう。
戦ってよしんば勝たずとも、護国に徹した日本精神さえ残れば、我等の子孫は再三再起するであろう。
そして、いったん戦争と決定せられた場合、我等軍人はただただ大命一下戦いに赴くのみである」
そうまで考え、苦悩した彼らの後を受けている、我々の何と情けないことか。
そう思えてくる深みのある言葉ではないだろうか?
これらを決した多くの人たちは、その多くが東京裁判で死刑となった。
それがA級戦犯である。
なお、東京裁判の際、
「裁判の方向性が予め決定づけられており、判決ありきの茶番劇である」との主旨でこの裁判そのものを批判し、被告の全員無罪を主張したインド人判事ラダ・ビノード・パールは、こう語っている。
引用したい。
「日本は独立したといっているが、これは独立でも何でもない。しいて独立という言葉を使いたければ、半独立といったらいい。
いまだにアメリカから与えられた憲法の許で、日米安保条約に依存し、東京裁判史観と
いう歪められた自虐史観や、アメリカナイズされたものの見方や考え方が少しも直っていない。
日本人よ、日本に帰れ!と私は言いたい。」
「今後も世界に戦争は絶えることはないであろう。しかして、そのたびに国際法は幣履のごとく破られるであろう。だが、爾今、国際軍事裁判は開かれることなく、世界は国際的無法社会に突入する。その責任はニュルンベルクと東京で開いた連合国の国際法を無視した復讐裁判の結果であることをわれわれは忘れてはならない。」
■結論
マスコミによって、植え付けられたA級戦犯=悪、は、誤りとは言わぬが、絶対的な真実でもない。
自分が相手と同じ立場に立ったことがないのなら、
その相手を批判する資格はあなたにはないのである。
ここまで読まれた読者の方、A級戦犯即悪人、靖国=悪と、思われる方はどのくらい残っているだろうか?事実知らずして、そう思っていた方がほとんどであろうと思う。
ここまで読んでなお、「靖国、即イコール悪」と思う方々はそれでも良い。知った上で、自分の考えを持つ事を我々は否定しない。
少なくとも、靖国神社に参拝する事を、何故批判され、そして、謝るのか?
日本のマスコミは、何故、こうも、日本の国益に反する事を多く主張するのか?
我々は、近代史の真実を皆がきちんと理解し、深く考え、自分の事として捉えていないからであると考える。
太平洋戦争は、大きくは自主自衛の戦争であったと結論づけられる。
更には、結果として、東南アジア諸国の欧米からの独立がなされ、朝鮮半島もロシア領とはならず、民族独立を守っている。
東南アジアには、未だ、日本軍が欧米を打ち払ってくれたから親日だと言う方々が多い。台湾の少数民族の方々も、日本が稲作を教えてくれた。だから、義勇軍として日本のために戦った。と言ってくれる人々もいる。
我々日本人が、太平洋戦争の意義までをも全否定し、自虐的になるのは、こうした他国で日本を支援してくれた人たちに対しての義理をも欠く行為にも移る。
もちろん、戦争は絶対悪であり、引き起こすべきものではない。
だが、過去におきた経緯を知らずして、日本を守った方々の事跡までも含め、全否定の上、葬り去ってしまうのでは、先人たちに申し訳が立たないではないか?
我々に言わせれば、それも含め、結局、”人ごと”として捉えているのではないか?
それが無責任感にもつながる気がしている。
そして、それを育んでしまったのも、教育である。
自分勝手な親が自分勝手な子供を創る。特に、近年、女性の一部は子育てを社会的システムに預け、権利拡充を求め、自己の都合を優先する傾向がある。
そして、それを追従するマスコミも存在している。#全員ではない。
自分の権利ばかり追い求める風土が喜ばれてしまう結果、風土が悪くなり、真面目に働いた人間が馬鹿を見てしまう事象もよく見かける。
今の日本人は、否定が好きだ。すぐ、相手を否定する。自分が正しいという錦の御旗を掲げて、
そうではない人種を否定するかの如くに見える。
例えば、その意味で、我々は、労働組合や、”多くの”女性権利団体はあまり好きじゃない。なぜなら、うたい文句が、”組合員の利益””女性の利益/権利”しか”考えていないからである。
もちろん、全部じゃない。ちゃんと全体のバランスや本当に国民全員のことも視野にいれて活動している方々の事は嫌いじゃない。
一つの権利を追い求めれば、別のところで、ダメージをこうむる方々が存在する。
それは摩擦につながり、歪をましていく。結果、法律が増えて、余計な金がかかる。
更に、そうなると、自分の事を優先に考えるしかなくなってしまい、モラル低下が法律増加に拍車をかける。
今、生活保護需給ですら、問題が起きているが、まさに正直者が馬鹿を見る世界になってしまった感が、我々には否めない。
全体のバランスや調整を考えずして、自己都合と権利のみを主張する方が増えているからであろうか。こういう方々は、相手を一切受け入れていないのだとも思う。とても残念な事だ。
だから、我々が考えるのは、「老若男女の別なく、正直者が馬鹿を見ない世界」だ。
その実現の一つの手段となり得るのが、NLPであると、我々は思ったのである。
NLPは、たくさんのコミュニケーションテクニックがあるが、テクニックそのものだけに意味はない。相手を受け入れた上で、相手の立場や思考を受け入れるそういう事を学べるのだ。
多くの方々にNLPを学んで頂くことで、問題に柔軟に対処していく手段、風土が創られる、そういう可能性が大いにある。
だから、NLPトレーナーとなり、お伝えする事を始めつつある。
正直、NLP事業はさして儲かるものではない。良い授業をしようとすれば、値段を高くせざるを得ないし、あまり高すぎると、来ずらくなってしまう。
最後に、では、国とは何か? 皆さん、考えて欲しい。
皆、自分の家族は守りたい。家族を守ると言う事を少し拡げると、地域や居住している周囲を守ると言う事。そして、それを大きくすると国を守ると言う事になる。
古代の偉そうな哲学者たちによれば、
そもそも、人間には、産まれながらに自然権が存在している。
この自然権は、全員が自由に行使すると、危険極まりない。人に危害を加えたいと言うのも、一つの欲求であるからだ。
そのため、人は、コミュニティを創り、そこに所属する。そのコミュニティが、住民を守るのだ。しかし、その対価として、一部の自然権を放棄し、皆で決まり事をなどを創り、それを守る。
国家とはそう言うものであって、そこに所属している以上、何らかの貢献を持って、帰属しうるのである。そこには、自分勝手なものはない。
「他人を幸福にするのは、香水をふりかけるようなものだ。
ふりかけるとき、自分にも数滴はかかる。」
古来日本人の多くが持っていた、この考えを思い出して欲しい、そう願う次第である。
靖国=負のイメージは、マスコミの影響が大であると思うが、それ以上に、我々日本人の精神面の弱さにも関係していると思うのである。
我々は現在の風潮を嘆かわしく思い、また、先人が必死に守ったこの国を良くしたいと考え、ここにこの記事を書いた次第である。
少しでも感じてくれる人がいれば幸いに思う。
なお、参考として文献は以下である。
・それでも、日本人は「戦争」を選んだ
・ラダビノード・パール『パール博士「平和の宣言」』
・朝日新聞コラム~山県有朋~2011/5/E
・大東亜戦争の敗因と日本の将来
・根本博中将 この命義に捧ぐ
・海軍の逸材 堀悌吉
・常勝将軍 立見尚文
・ 『雪風ハ沈マズ』―強運駆逐艦栄光の生涯
・撤退―ガダルカナル・コロンバンガラ・キスカ
・ラバウル航空隊の最後―陸攻隊整備兵の見た航空戦始末
・ NHK「その時歴史が動いた」
・Wikipedia
さて、ここからは写真の紹介。九段下の駅を降りて、歩いていくと、大きな鳥居が見える。
靖国神社の入り口である。


しばらく行くと、外苑の庭が広がり、維新時に活躍した大村益次郎の銅像が建っている。


事のほか、広い神社内部。

資料館におさめられているゼロ戦。
幾人の先人達がこの機体で国を守ったのだろうか。

資料館の有料ゾーンでは、遺書や、遺書のつもりはなかったが、遺書になってしまった数々の家族への手紙などが展示されている。どの手紙にも、家族を守ろうとした兵士たちの思いがつづられていて、涙する。
女性の工員や看護員たちも、多数亡くなられており、得もいえぬ場所である。
有料ゾーンは撮影禁止であったため、訪れて見てください。

砲門。真剣に見入る昌志トレーナーを、横から盗撮?笑

山梨の旅~郊外編~
前回、山梨県を紹介した時には、古事記の時代を紹介したので、今回は、別の時代について
紹介する。
これまで同様、我々が実際に一日でまわった所を順次掲載する。
山梨といえば、そう、武田信玄。
今回は、この武田信玄から話を興そうと思う。
武田信玄といえば、有名なのは、風林火山、そして、「人は石垣、人は城」という言葉。
しかし、後者の「人は石垣」は、後世の誤解が生んでいる事を、皆さんはご存知だろうか?
確かに、居館としての、城は甲州には少ないように我々も思う。
しかし、砦は大変多いし、信玄が新しく征服した土地、信州や上野などの地には、かなりたくさんの城が築かれている。
例えば、信州に残る松本城。ここは中世、武田信玄の時代には、重臣、馬場信春が守将を務めた城でもあるが、信玄時代の築城だ。ここは、上杉謙信をこの城まで引き付けてから叩く作戦を取った事もあり、信州の要であった。
その東には、長男義信の傅役でもあった飯富虎昌が内山城を守り、内山城の更に東北には、信玄に常に付き従い、「一之先衆七千」を務め「兵部は我が両眼なり」とまで言わしめたという逸話が残る「百足衆」の真田昌輝が守る沼田城があり、
更には、大太刀を奮ったと言う真田信綱の上田城、この二人は、徳川家を撃退した事で有名な真田昌幸(三男)の次兄と長兄である。
余談ではあるが、この昌幸たちの父幸隆も次男である。その幸隆の兄、綱吉は海野氏を継ぎ、武田家中でかなり活躍している。
しかし、その活躍は真田幸隆の方が上で、弟の方が栄達している。武田家の強さは、年功序列ではなく、実力主義であった事からであろう。ちなみに、内藤昌豊も次男であり、長男は春豊と良い、別の家を継いでいるが、弟ほど栄達はしていない。
近世では、昌幸父子にばかり注目が集まるが、幸隆、信綱、昌輝ともに武田24将に数えられるほどであるから、昌幸の兄弟の能力も相当に高かったと思われる。
さて、話がそれたが、上杉謙信との境には、高坂正信の海津城があり、駿河遠江に行くと、江尻城を山形昌景が守り、岩付城に秋山信友、上野の要衝箕輪城には、内藤昌豊、など、歴戦の将は各地の要衝を任されている事からも、「人は城・・」が誤っている事が分かる。
人は城と言わしめるほど、信玄存命時は、家中がまとまっていた事から、「人は城・・」と後世言われたのであろう。
かといって、跡を継いだ武田勝頼がまったく愚将であったかというとそうではない。
彼は、長篠の戦いまでは、常に勝っており、長篠の戦いもどちらかと言えば、織田、徳川両氏を誘い出した形での戦いであった。
この勝頼と長篠の戦いの話はまた次の機会にするとする。

甲州といえば、「ほうとう」。
要は、うどんに近いものである。
熊ほうとう、豚ほうとう、と山梨では色々味わえるが、熊ほうとう、が意外にうまい。
甲府駅付近でも簡単に店を見つけて食べることができるので、おすすめだ。

甲府から南に車で一~二時間程度、下山温泉駅前で食す、金山そば。
ここには、かつて、甲府金山があった。信玄が傷を癒すために用いた隠れ湯であったと言う。
山梨にはこういった温泉がたくさんある。温泉巡りも良いものだ。

下山温泉にある金山博物館。砂金採りの体験ができる。
甲州金の歴史が載っていてなかなか面白い。
そして、下山温泉から、東に車で30分程度で身延山久遠寺がある。
この身延山久遠寺は今は日蓮宗のお寺になっているが、景色も良く、古くからの霊峰である。
武田信玄の家臣団の中に穴山氏がいる。信玄の娘婿の穴山信君が有名だ。最後に徳川氏に内通し、武田勝頼を見限った武将である。
その穴山氏は、武田信玄に対する嫡男の武田義信謀反事件で、兄は信玄に、弟は義信についたとされ、敗北した義信派は多くが切腹した。同様に、弟穴山信嘉も切腹、それが、ここ身延山久遠寺の塔頭であるとされている。
今川義元亡き後、海を求め、駿河侵攻を意図する父武田信玄と、駿河と協調路線継続を意図する嫡男義信との間に確執があり、家臣団はまっぷたつに割れていたようだ。
義信謀反事件は、武田家にとっては、かなり痛手であり、人望、能力ともにあったとされる嫡男ばかりか相当数の重臣を失った。
宿老の飯富虎昌も自害し、信玄亡き後、長篠の戦いで敗残する温床となったといっても過言ではない。信玄最大の失態ではないだろうか。
義信は、信州統一に向けて信玄が戦っていた頃、初陣で9つも城を落とし、第四回川中島の合戦で、ほぼ全軍が崩壊するほどの状況でも、戦線を維持した数少ない武将であり、家臣団の信望は厚かった。母は、京都から来た公家出身の三条夫人であり、朝廷とのつながりも強く、武田家にとっては悪夢の事件だったに違いない。
ちなみに、弟の次男竜邦は、失明していたため、跡継ぎとはならず、半僧半還俗状態で、最終的には、江戸幕府に高家旗本として存続し、信玄の家を後に伝えた。
信玄の弟の幾人かも、徳川家に仕えたりして、後世に武田家の血を繋いだようである。
三男の信之は、途中で名前が出てこなくなることから早逝と言われているが、別の説では、上野武田家を継いだとされる。
ある文献では、勝頼の子や武田一門が、信玄の子である上野武田を頼って落ち延びたと有ることから、個人的には上野武田家を継いだのだと思っている。だが、結局、最後は、織田軍に滅ぼされるのだ。
いずれにせよ、ここまでが、正室三条夫人の息子たちであり、甲斐武田家は、朝廷の後ろ盾を得られたはずの男子全てを跡継ぎ候補から失ったと言う事になるのだ。


久遠寺にて。男坂、女坂がある。ここは男坂。男坂はかなり急で大変だ!厄除けになるという。
一度チャレンジすべし!
さて、所変わって、甲府近くにある考古学博物館。


ここでは、ボランティアの方が、熱く歴史を教えてくれる。
それによると、縄文時代は8期に分かれるが、その中の二つ目~四つ目、山梨付近は、
日本全国中で、もっとも栄えたようである。
たしかに、縄文式土器の派手なものが、たくさん、展示されており、
日本全国どこにもないような、見事な品揃えである。
見事な模様や彩色は縄文時代人の精神社会を反映されているという。
是非、ここ山梨の考古学博物館でみてもらいたい。
ついでに、大阪にある近つ飛鳥博物館、島根にある古代出雲歴史博物館、青森にある三内丸山古墳の博物館、福岡にある九州国立博物館にも足を運んで、出土した遺稿を比べてみると面白いと思う。
特に、縄文時代中期付近の土器に関しては、ここ山梨の考古学博物館のものが非常に珍しく、際だっていると思う。
どうやら、この頃、縄文文化が花開く要因がここにあったようだ。
つまり、食料の問題である。
未だ稲作がなかった時代、
豊富な木の実が、この山梨県付近に集中することで、動物たちも、木の実を求めて移動、
結果、この山梨県付近に人口も集中したようである。
ただし、土器の形なども、最盛期から、晩期になってくると、簡易的になってくる。
人々に余裕がなくなったのであろうか。
どうも、土器を作成するのは、家の外であり、間氷期から、寒冷な氷河期へと移行していった
事に関係してそうである。
そして、甲府付近といえば、忘れてはいけないのは、昇仙峡だ。
以下に、この見事な風景を掲載する。影絵の美術館などもあり、ここもゆっくり着たいところである。美しい景観と自然は、日本全国有数であると思われる。








散々、昇仙峡を堪能した後、更に北上し、清里へ。
甲府からは、大体車で1~2時間くらい。高速で飛ばせばもっと早い。
まずは、穴場のハイキングコースへ。



清里にある吐竜の滝。電車が上を通る橋梁もあり、風情がある。
夏前が良いと思う。それなりに歩きやすいし、駐車場から滝もさほど遠くなく、良いところだ。
そして、またぎの里へ。
またぎの里は色々遊べる。家族でゆっくり着たい感じがする。




ここはオルゴール館。ここにおられるオルゴールの調律師の方が全国にあるオルゴール館の調律に回っているらしい。バイオリンを用いたものや、数々のオルゴールの生演奏がその経緯とともに聴けるのが醍醐味。
清里は、たくさん遊ぶところがあって、もっとゆっくりきたい所だと感じる次第である。
山梨は、我々兄弟にとっては、島根、東北と共に、何度でも行きたいところである。
紹介する。
これまで同様、我々が実際に一日でまわった所を順次掲載する。
山梨といえば、そう、武田信玄。
今回は、この武田信玄から話を興そうと思う。
武田信玄といえば、有名なのは、風林火山、そして、「人は石垣、人は城」という言葉。
しかし、後者の「人は石垣」は、後世の誤解が生んでいる事を、皆さんはご存知だろうか?
確かに、居館としての、城は甲州には少ないように我々も思う。
しかし、砦は大変多いし、信玄が新しく征服した土地、信州や上野などの地には、かなりたくさんの城が築かれている。
例えば、信州に残る松本城。ここは中世、武田信玄の時代には、重臣、馬場信春が守将を務めた城でもあるが、信玄時代の築城だ。ここは、上杉謙信をこの城まで引き付けてから叩く作戦を取った事もあり、信州の要であった。
その東には、長男義信の傅役でもあった飯富虎昌が内山城を守り、内山城の更に東北には、信玄に常に付き従い、「一之先衆七千」を務め「兵部は我が両眼なり」とまで言わしめたという逸話が残る「百足衆」の真田昌輝が守る沼田城があり、
更には、大太刀を奮ったと言う真田信綱の上田城、この二人は、徳川家を撃退した事で有名な真田昌幸(三男)の次兄と長兄である。
余談ではあるが、この昌幸たちの父幸隆も次男である。その幸隆の兄、綱吉は海野氏を継ぎ、武田家中でかなり活躍している。
しかし、その活躍は真田幸隆の方が上で、弟の方が栄達している。武田家の強さは、年功序列ではなく、実力主義であった事からであろう。ちなみに、内藤昌豊も次男であり、長男は春豊と良い、別の家を継いでいるが、弟ほど栄達はしていない。
近世では、昌幸父子にばかり注目が集まるが、幸隆、信綱、昌輝ともに武田24将に数えられるほどであるから、昌幸の兄弟の能力も相当に高かったと思われる。
さて、話がそれたが、上杉謙信との境には、高坂正信の海津城があり、駿河遠江に行くと、江尻城を山形昌景が守り、岩付城に秋山信友、上野の要衝箕輪城には、内藤昌豊、など、歴戦の将は各地の要衝を任されている事からも、「人は城・・」が誤っている事が分かる。
人は城と言わしめるほど、信玄存命時は、家中がまとまっていた事から、「人は城・・」と後世言われたのであろう。
かといって、跡を継いだ武田勝頼がまったく愚将であったかというとそうではない。
彼は、長篠の戦いまでは、常に勝っており、長篠の戦いもどちらかと言えば、織田、徳川両氏を誘い出した形での戦いであった。
この勝頼と長篠の戦いの話はまた次の機会にするとする。

甲州といえば、「ほうとう」。
要は、うどんに近いものである。
熊ほうとう、豚ほうとう、と山梨では色々味わえるが、熊ほうとう、が意外にうまい。
甲府駅付近でも簡単に店を見つけて食べることができるので、おすすめだ。

甲府から南に車で一~二時間程度、下山温泉駅前で食す、金山そば。
ここには、かつて、甲府金山があった。信玄が傷を癒すために用いた隠れ湯であったと言う。
山梨にはこういった温泉がたくさんある。温泉巡りも良いものだ。

下山温泉にある金山博物館。砂金採りの体験ができる。
甲州金の歴史が載っていてなかなか面白い。
そして、下山温泉から、東に車で30分程度で身延山久遠寺がある。
この身延山久遠寺は今は日蓮宗のお寺になっているが、景色も良く、古くからの霊峰である。
武田信玄の家臣団の中に穴山氏がいる。信玄の娘婿の穴山信君が有名だ。最後に徳川氏に内通し、武田勝頼を見限った武将である。
その穴山氏は、武田信玄に対する嫡男の武田義信謀反事件で、兄は信玄に、弟は義信についたとされ、敗北した義信派は多くが切腹した。同様に、弟穴山信嘉も切腹、それが、ここ身延山久遠寺の塔頭であるとされている。
今川義元亡き後、海を求め、駿河侵攻を意図する父武田信玄と、駿河と協調路線継続を意図する嫡男義信との間に確執があり、家臣団はまっぷたつに割れていたようだ。
義信謀反事件は、武田家にとっては、かなり痛手であり、人望、能力ともにあったとされる嫡男ばかりか相当数の重臣を失った。
宿老の飯富虎昌も自害し、信玄亡き後、長篠の戦いで敗残する温床となったといっても過言ではない。信玄最大の失態ではないだろうか。
義信は、信州統一に向けて信玄が戦っていた頃、初陣で9つも城を落とし、第四回川中島の合戦で、ほぼ全軍が崩壊するほどの状況でも、戦線を維持した数少ない武将であり、家臣団の信望は厚かった。母は、京都から来た公家出身の三条夫人であり、朝廷とのつながりも強く、武田家にとっては悪夢の事件だったに違いない。
ちなみに、弟の次男竜邦は、失明していたため、跡継ぎとはならず、半僧半還俗状態で、最終的には、江戸幕府に高家旗本として存続し、信玄の家を後に伝えた。
信玄の弟の幾人かも、徳川家に仕えたりして、後世に武田家の血を繋いだようである。
三男の信之は、途中で名前が出てこなくなることから早逝と言われているが、別の説では、上野武田家を継いだとされる。
ある文献では、勝頼の子や武田一門が、信玄の子である上野武田を頼って落ち延びたと有ることから、個人的には上野武田家を継いだのだと思っている。だが、結局、最後は、織田軍に滅ぼされるのだ。
いずれにせよ、ここまでが、正室三条夫人の息子たちであり、甲斐武田家は、朝廷の後ろ盾を得られたはずの男子全てを跡継ぎ候補から失ったと言う事になるのだ。


久遠寺にて。男坂、女坂がある。ここは男坂。男坂はかなり急で大変だ!厄除けになるという。
一度チャレンジすべし!
さて、所変わって、甲府近くにある考古学博物館。


ここでは、ボランティアの方が、熱く歴史を教えてくれる。
それによると、縄文時代は8期に分かれるが、その中の二つ目~四つ目、山梨付近は、
日本全国中で、もっとも栄えたようである。
たしかに、縄文式土器の派手なものが、たくさん、展示されており、
日本全国どこにもないような、見事な品揃えである。
見事な模様や彩色は縄文時代人の精神社会を反映されているという。
是非、ここ山梨の考古学博物館でみてもらいたい。
ついでに、大阪にある近つ飛鳥博物館、島根にある古代出雲歴史博物館、青森にある三内丸山古墳の博物館、福岡にある九州国立博物館にも足を運んで、出土した遺稿を比べてみると面白いと思う。
特に、縄文時代中期付近の土器に関しては、ここ山梨の考古学博物館のものが非常に珍しく、際だっていると思う。
どうやら、この頃、縄文文化が花開く要因がここにあったようだ。
つまり、食料の問題である。
未だ稲作がなかった時代、
豊富な木の実が、この山梨県付近に集中することで、動物たちも、木の実を求めて移動、
結果、この山梨県付近に人口も集中したようである。
ただし、土器の形なども、最盛期から、晩期になってくると、簡易的になってくる。
人々に余裕がなくなったのであろうか。
どうも、土器を作成するのは、家の外であり、間氷期から、寒冷な氷河期へと移行していった
事に関係してそうである。
そして、甲府付近といえば、忘れてはいけないのは、昇仙峡だ。
以下に、この見事な風景を掲載する。影絵の美術館などもあり、ここもゆっくり着たいところである。美しい景観と自然は、日本全国有数であると思われる。








散々、昇仙峡を堪能した後、更に北上し、清里へ。
甲府からは、大体車で1~2時間くらい。高速で飛ばせばもっと早い。
まずは、穴場のハイキングコースへ。



清里にある吐竜の滝。電車が上を通る橋梁もあり、風情がある。
夏前が良いと思う。それなりに歩きやすいし、駐車場から滝もさほど遠くなく、良いところだ。
そして、またぎの里へ。
またぎの里は色々遊べる。家族でゆっくり着たい感じがする。




ここはオルゴール館。ここにおられるオルゴールの調律師の方が全国にあるオルゴール館の調律に回っているらしい。バイオリンを用いたものや、数々のオルゴールの生演奏がその経緯とともに聴けるのが醍醐味。
清里は、たくさん遊ぶところがあって、もっとゆっくりきたい所だと感じる次第である。
山梨は、我々兄弟にとっては、島根、東北と共に、何度でも行きたいところである。






