昨日A病院の主治医との話しが済み、S医師の所へ外泊中の母と2人で今後の相談に行きました。

向こうの病院から検査結果と主治医の今後の方針が書かれた手紙を持参しました。酷なことだと思いましたが母自身の事です。どうしても母抜きでS医師と話しをすることはできませんでした。心の中では、苦しくて苦しくて母にこれ以上死と向き合わせるのは嫌でした。母に決断させる事は大切ですが、母が精神的に持ちこたえるのか、いいえそれよりも私が頭では分っているのに母の死が迫っている事に向き合う事が怖かったのです。

 「Gさん、検査結果を見たら治療はしないでこのまま過ごしているほうがいいみたいね。どうする?」

 「そうですね。娘のために治療は受けたほうがいいと思ってました。でも、このまま過ごせるならそうします。」

 

私達娘のため?

母はそんな思いを持ってあんな苦しい検査を受けなおしたのか?

私は母が治療を断念しないといけない状態を実感して選択してほしいと思っていたのに、母は本当はもう治療を望んでなかったんだろうか?

それならしんどい入院などしないでよかったのに・・・人の思いというのは本当に難しいと思いました。ましてや最終的に死というものにつながる決定はなかなか口に出しにくいものでした。

それが、日頃からいつも思うことでした。早く退院して自宅に帰らせてあげようと思いました。

母は前日の木曜日から外泊していたので、私だけS病院に向かいました。

昨日の外泊の時点で医師からのムンテラ〔面談〕の時間は決まっていませんでした。医師とは木曜日なら夕方ぐらいになるだろうと聞いていました。

しかし外泊した日の夕方看護師から掛かってきた電話では、ムンテラ開始は夜の8時からということでした。聞きなおしました。

びっくりでした。

しかしもっとびっくりしたことは、実際ムンテラが始まったのは8時55分からでした。常識的にムンテラ開始の十分まえに病院に着くでしょう。そこから結局1時間待ったのです。

夕方、息子の調子が悪くそれも心配だった私にとって、正直この病院ではこれが当たり前なのかと憤慨しました。医師が忙しいのもわかります。確かに朝から晩まで働いています。でも、決して患者主体ではないのではと感じました。

入院してから数日しか経っていないのに疑問ばかり持つ自分に嫌気がさしました。私は今まで人に感謝しながら生きてきたのに、なぜこんな気持ちばかり持つのか。そんなこんなと考えていたらムンテラが始まりました。

 

検査の結果が説明されました。簡単にまとめるとCT結果で腹部大動脈周囲のリンパ節転移が11月より広がり肝門膵周囲を圧迫している。血液データーで肝機能は現在問題ないがいずれ黄疸が出現したら胆汁を体外に流出させないといけないかもしれない。抗癌剤の副作用による腸管の潰瘍・糜爛は直腸付近は改善してきているが奥に進むとまだ持続している。胃癌に有効な薬剤は母の場合、これだけ副作用が出現したから同じ系列のものは使用できない。残るは一種類のみになる。ただ、母の日常生活は介助が必要であり体力的な問題からも治療は薦められない。

というものだった。

 

もちろんこれは予想された事だったので、さしてショックではありませんでした。

というよりショックを見せたくありませんでした。向こうはありのままを言っているだけですが私にはまるでゲームで相手に負けたような気持ちだったからです。

心の中で“私は間違っていない。母と一緒に進んでいる道は正しい、よりよい死にかたを選ぶんだ”と繰り返しました。

 

「分かりました。治療で死ぬようなことがあるより、残された時間をより良く生きたほうがいいと思います。でもこれは母のことなので母とS医師と相談して決めます。」

と言うのが精一杯でした。




内藤 いづみ
笑顔で「さよなら」を―在宅ホスピス医の日記から

検査も終わり母は早く外泊をしたがりました。

主治医にお願いして方針が決まるまで外泊することになりました。

入院して5日目でした。

自宅に戻ると最近はずっとしなかった仏壇のお茶やご飯を下げ始めたのです

今までしんどくてとても出来なかったのに外泊が母に安らぎを与えたのでしょうか。

孫たちに囲まれてニコニコしている母親の表情に安心しました。

でも、主治医からの今後の方針についての話は明日です

私の気分はどんよりよどんだ曇り空。

母に苦渋の決断・・・・・治療をしない・・・

単刀直入に言えば治療をしないということは遠からず最期が来るという意味だからです。

それを母に決めさせる・・・

母の命だから・・・

※ 母、姉、姪っ子。 調子が悪いのに来てくれた子供の運動会で。2002.10。

大学の試験が終わり明石の病院に向かいました。

途中姉から電話がありました。母が便でパジャマを汚したからオムツを買ってきてほしいと言ってるという事でした“オムツ”と思いながら買っていきました。

 

病室に行くと母は見なれない新しいパジャマを着ていました

予備が2組あったのでなぜわざわざ買ったのかと姉に聞きました。姉が朝来ると母は便で汚れたままのパジャマで寝ていたそうです。

夜中にトイレまで間に合わず汚してしまったと言うことでした。一応ナプキンをしていたのですが量がそれ以上だったようです。母は朝の8時に深夜の看護師にお金を渡してパジャマを買ってきてほしいと頼んだようですがまだ売店が開いてないといわれたようでした。私が同じ場面の看護師なら確かに売店まで買いに行けないかもしれません。

でもそれよりもなによりも便汚染のパジャマのままというのがおかしいと思いました。病棟におそらく手術前の衣服や予備の物があってもいいはずだと思いました。便のついたパジャマを誰が好き好んで着つづけるか、考えてほしいと・・・・

そして母が自分からオムツという言葉を出させた気持ちを考えてほしいと思いました。

「もしまた今度予備のパジャマまで汚れて便の付いたパジャマを着るぐらいならオムツを付けてたほうがましやわ。」

と言った母の気持ちが痛々しく感じました。私も同じ看護師です。忙しい病棟ということは百も承知です。でも、出来れば何か手段はなかったのか?と私のほうが落ち込んだ一日でした

デイビッド キセイン, シドニー ブロック, David W. Kissane, Sidney Bloch, 青木 聡, 新井 信子
家族指向グリーフセラピー―がん患者の家族をサポートする緩和ケア


平成15年1月29日の大学の試験が終わって行った面会でびっくりしたことがありました。

母の一番大切なこと、疼痛コントロール用のデュロテップパッチRの交換時間の大幅な遅れのことです。

病院でも自宅で交換していた時間と同じ12時になっていました。私が大学の試験のために姉と交替し、帰ってきた時のことです。私がちょうど16時頃に戻ってきた時のことでした。

「パッチ見せてもらっていいですか?」と看護師が来ました。

なぜ、こんな時間に?と思いました。

すると、本当は今日新しいものを張り替えだったものが間違って場所の変更のみになっていたのでした。母の貼付の仕方は以前にも書きましたが普通と違います。本当は72時間毎の交換なのですが、母は24時間後に一旦場所を変更しないと被れてしまうのです。

その日の受け持ち看護師は貼っているパッチに付けてある交換日を確認したのかしなかったのか分りませんが、新しいのと替えないといけないのに古いもう効果のないパッチの場所を替えていたのでした私はいったいなんのために例まで書いた用紙を渡したのか正直腹が立ちました。

「遅れまして。」

という一言でした。えっ、謝罪はないの?と思いました。パッチには交換した時間が4時45分と書かれていました。4時間45分遅れです。私なら申し訳ないと思ってきっちり謝罪します。でもそういう言葉は最後までありませんでした。

看護長は患者付添願の用紙付きそう理由を患者の精神的慰安と記載してくださいと私に言ったけれども、そうかなと思ったのですこんなミスがあるのなら慰安のためだけでなく付き添って医療処置まで監視目的での付き添いと書かないと、と、一人心の中で思っていました。

自分の職場なら必ず用紙で看護長に報告しなければいけないぐらいのミスだと思います。ここでは報告したのか、と複雑な気持になりました。ミスは起こると思います。でももし起こったら今後しないように当事者の行動を元に話し合い振りかえる必要はあると思うのです。

 

こちらも入院したからには医療的な処置は私がでしゃばることではなく看護師の方々に任せて当然だと思います。だからこそ今回の事はなんだか悲しくなって帰った日でした。



エリザベス キューブラー・ロス, Elisabeth K¨ubler‐Ross, 鈴木 晶
死ぬ瞬間―死とその過程について

私は平成8年から放送大学で勉強をしていました。

当時兵庫学習センターでは大学卒業の資格は取れず単位の修得のみでした。平成10年から卒業できるようになり、平成11年に3年次に編入しました。

1年間に数単位しか取得しなかった時期もあり今回の後期の試験でやっと卒業予定でした。子どもが2歳になった時から始めたので家族の協力なしでは無理でした。その間も父の病気、介護支援専門員の試験勉強や取得後の講習会資格、日々の仕事もありなかなか本腰になれない時期もあり本当に卒業出来るのか不安な時期もありました。

なので今回できっちり卒業したいと考えていました。母は今回の試験が受かったら卒業できる事を知っていたので必ず受けてほしいと言っていました。入院したのが27日、試験が26日・28日・29日だったので姉の応援を頼んで受けに行きました。28日は朝9時に神戸から約30キロ離れた明石の病院まで行き、昼2時に今度は自宅を通りこして反対方向に明石から甲子園の試験会場まで車で行きました。

終わったら心配だったのでもう一度明石まで戻り母に会ってから神戸の自宅に帰りました。さすがにこの日は疲れました。でも私は車の運転が大好きだったので運転自体は苦にならず距離をこなすこともなんの問題ではありませんでした。3月に母に卒業証書を見せれたら親孝行だと思いました。試験に合格しなければもちろん貰えませんが、母がその時まで生きてくれているだろうか私にはなんとも言えませんでした。

今回主治医は2人でした。入院後の方針について2人から話しがあるということでしたが詰所の隣の部屋はベッドがなく母は行けませんでした。結局私だけが聞きに行きました。次回から一緒に聞けるように配慮すると言われました。座れない人はいつもムンテラ時どうしているのでしょうか?もしかして患者本人でなく家族だけいつも聞きに行っているのだろうか?そんな状態の悪い人は入院していない病棟なのかな?と思いました。私だけ聞くことは母に不信感を持たせるかもしれません。

平成15年1月28日胃カメラ、29日大腸カメラ、30日腹部エコーの予定である事、先週撮影したCTで腹部大動脈周囲にリンパ節転移があり(去年の十一月のCTで指摘されていた)、以前より大きくなっている、そしてそれが肝門膵周囲に腫瘤を形成し肝内胆管も軽度拡張している(簡単にいえば肝臓の入り口が圧迫されていて血液や胆汁が流れにくくなっているとうこと)ということでした。血液検査がまだでていないからなんとも言えないが、もしかしたら胆汁を流す処置を実施しないといけないかもしれないと言われました。検査が全部終わった後で改めて今後の方針について話しがあるとのことでした。医師からは母が抗癌剤の治療をすることにたいする認識、母にどこまで事実を話していいか尋ねてきました。母には事実を全て話してほしい事を告げました。

 

病室に戻り明日胃カメラあることを言いました。

「胃カメラ?受けないといけないの?嫌や。」

 母がよほどの事がないと我慢をします。大腸カメラも自分でこつを考えて呼吸をしたり力の抜き方を実践していました。実は嫌がるにはわけがありました。以前この病院で胃カメラをしました。そのときは手術前で調子が悪い状態でした。それも初めての胃カメラでした。胃カメラが終わってから母は泣きながら言いました。

「なかなか呼吸が分からなかった。苦しくて。そしたら先生が『まだ他のひともいるんだからそんなやりかたは困る。』と言うのよ。」

私はついカッとなってついていた看護師に検査した医師の名前を確認しました。絶対その医師にはもう検査をしてもらいたくなかったからです。

『言葉』というのはとても大切だと思います。同じ事をいうのに厳しく言えば言い場面と優しく諭さないいけない場面があると思うのです。初めての辛い場面での検査時は、患者が安楽にできるような声賭けも必要ではないでしょうか?あんな冷静さを欠く場面でどなってもなんの解決にもならないばかりかパニックにさせるようなものです。

 

暫くして主治医が来ました。明日の検査の説明に来たのです。母はなにも言わないので私が言いました。

「先生、前の胃カメラ大変だったんです。だからあまり乗り気ではなくて。前に検査を受けた時、その先生にひどい言葉をかけられて。」

「そうですか。それはたいへんでしたね。なるべく楽なようにしますから。」

医師がいなくなってから母が言います。

「別の先生にしてもらうなんてできないもんね。仕方ないわ。」

「お母さん、今ごろどの先生が前にやったか検査結果の用紙を見てるはずよ。」

暫くしてもう一人の主治医が来ました。実は以前この医師が検査をしていたのです。

「なるべく楽なようにしますから。」

「お願いします。」

とだけ言いました。うるさい家族だと思われただろうなぁ思いました。別に検査を我侭でしたくないといっているわけではないのです。患者が受けた検査をどういう気持ちを持ったか言いたかったのです。こんな事言って間違っているのかなと思う時もあります。でもしんどい母の事を考えると前と同じでは困る!と思いました。言うのは勇気がいるものです。疲れた!

20時、ここ数ヶ月母とは離れたことがなかったので後ろ髪を引かれる思いで帰路に着きました。夜はちゃんと看護師を呼んでトイレに行くように言って。2日後の大腸カメラの前処置(下剤)が母が無理ではないかと医師に相談し今日から絶食になりました。

※最期の旅行での素敵な笑顔。大黒さんに負けていない。今回の入院は母の心身ともに消耗させるものになった。入院中この笑顔は見られなかった・・・


平成15年1月27日入院の日。高カロリー輸液をいつもより早めに終わらせ(10時間で終了すればいいから前日を早く始めた)、出発まで2時間ほど母がリラックスできるようにしました。9時30分に受けつけなので7時50分家を後にしました。母がどんな気持ちで出発したか聞けず、車の中でも母はずっと寝ていました。

 

病院では親戚のS子さんが待ってくれていました。S子さんと母は従妹どうしです(年齢は15歳母より若い!)。病院の近くに住んでいるということで入院の度にほとんど毎日顔を見に来てくれるのです。以前の入院で私が仕事を休まなかった時は本当にお世話になりました。いくら家が近いといっても毎日くるのは大変です。母もS子さんが来るのを楽しみにしていました。今回も入院時に荷物が多いだろうということで寒い中待ってくれていたのです。

 

受付で1時間以上待って、やっと病室に着きました。でも、病室はトイレから遠い場所でした。前回と違う初めての病棟なので男女の病室の場所が逆になっていました。トイレは個室2つの次からです。だから一番近い4人部屋もトイレからは遠く母の部屋はその次の4人部屋でした。せめて、1つ目の4人部屋にしてくれたら…手紙を事前に送り、入院延期の電話が入った時にも話て前向きな回答を言っていたのに・・・

しかし、看護長からはなぜ1つ目の4人部屋に入れなかったのか説明はありませんでした

確かに母ばかり優遇される理由もありません。もっとしんどい方が入院していたのかもしれません。ポータブルトイレは絶対使用したくないという母の気持ちがどこまで通用するか心配でした。

 

母の今の様子を看護師に分かってもらうために用紙を作製していました。今までの経過と現在使用している薬剤、その薬剤の使用方法、私の母に対する思い、私達の病気にたいする気持ちなどです。特に麻酔の成分のパッチは母にとってはとても大切な疼痛コントロールの手段でした。そして、他の人と管理の仕方が違ったので例も書いて説明しました。その看護師は「うちではこんなやり方しません。」と言います。だから例まで書いて説明してるのに!と内心思いました。

パッチの成分のアルコールで糜爛(じゅくじゅくした感じ)をおこしたためだと写真を見せながら再度説明しました。

普通なら72時間貼付したままでいいのですが、母の場合24時間後に一旦場所を替えて残りの48時間は同部位に貼付するというものでした。そして、上から保護するためのテープを貼ります。最終的には了解してもらいましたが、結局初回のパッチ貼付時の保護のテープは病院では実施してないからしないという事でした。確かに、パッチは保護テープを使用しなくても入浴時、水が入らないと言われています。しかし在宅では100パーセントでなければいけません。私は看護師なのでもしかしたら初回保護テープを貼付しなくてもよく観察すればいいかもしれません。でも、それも100パーセントできないと思います。実際在宅では皮膚の状況による剥がれてしまうケースもあるそうです。もし使用出来なくなると一枚3000円です。自分も気をつけて付き添う中は観察しようと思いました。

入院前日、内服についてS医師に電話をしました。

日曜日の夜8時でしたが往診の途中でした。暫くしてS医師が電話を掛けなおしてくれました。私は今日内服する薬の事よりも、入院してもし抗癌剤治療になったらどうしようというほうが心配でした。

 「先生、私は本当は抗癌剤治療は受けさせたくないんです。でも母の命だし、母が希望したら仕方ないし。私が止めても母に悔いが残ったらいけないし。」

「そうね、入院してみてからよ。確かにお母さんの意思を確認しないと後いけないし。もし抗癌剤治療ができて実施したとしても無理と判断した時点で途中で止めて帰る方法もあるから」

「そうですね。そうですね。有難うございます。」

母に聞かれないように自動車の中で電話をしてました。受話器を置いて泣きました。涙が枯れるというのは嘘だと思うほど1人で泣きました。

 

抗癌剤の副作用で母の腸管が損傷を受けてから、母の側でいた私はおそらくこの状態では抗がん剤治療は出来ないのではと思っていました。抗癌剤を止めてすでに4ヶ月、癌も広がっていると予想していました。だからこそ覚悟して日々在宅で看ていたのに、とうとう本当の決断が来たと思うと怖くなりました。

母を失いたくありませんでした。

よく、本やテレビでは人は生まれた時から死がある、だからより良い死を迎えるために日々生きる、死を受容するなどというものです。でも実際本当でしょうか?皆綺麗に手記を書いてるだけで本当はもっと苦しんではずです。私は、母を失いたくない!手術先の病院でもっと転移を早く察知してほしかった!下血を私がもっと早く発見しておけばこんなひどい副作用までならなかったはず…泣くしかありませんでした。

 

平成15年1月24日、いつも内服していたフェンタ二―ル(麻薬、実際は注射薬だが飲み薬としても効果があるため使用。外国ではキャンデーのような内服薬ができているが日本ではまだまだ発売されないようだ!)の1回量では効果が出なくなりました。先生に確認すると、今内服している量は手に付けているパッチからすると、かなり少ないから2倍から3倍量を試しても良いという事でした。その後時間をおいて、3倍量と2倍量を一回ずつ内服したのです。その日は私の幼なじみの友達のお母さんが、お見舞いに来てくれました。その間はそれほど変わりなく過ごしていました。夕方の5時頃に帰られたので、それから入浴になりました。いつもなら、用心して湯船につかる母が今日は10分以上つかるのです。「お母さん、もう上がる?」と聞いても「うん」と言うのにまたそのままつかるのです。ようやく上がりベッドに戻りましたがすぐ寝てしまいました。

 暫くして「お母さん、大丈夫?」と聞いても「あっ、お風呂に入ろか。」と言います。この時点で何か変だと感じました。早めに仮眠して起きておかないと何か起こるかも?と思ったのです10時からの点滴も声掛けしてから針刺しまで20分掛かりました。仰向けになってくれないと針が刺せないのですが、いくら声掛けしても頷くのですがそれからが進まないのです。

 12時のトイレまで寝ようと、私は3階で寝ていました。暫くすると、「○○~」、「○○~」と声が聞こえ私は慌てて2階に走りました。母がトイレの前でしゃがみこんでいました。「○○、苦しい。立てない。」というので、手伝って立たそうとするのですが、「待って、待って。」を繰り返し、顔を俯かせてしまうのです。こちらがきつい口調で言っても、母が混乱する可能性があると思いました。脈拍はいつもより少し速いぐらいだったので緊急性はないと判断し、立たせるタイミングを図りました。その内も排ガスと便が漏れます。母も分かっているのですが、また意識が遠のくのです。30分してやっと立ちトイレに座れました。でも、いつもウォシュレットをする母が用を足してもただ座っているだけです。紙を切り「お母さん、紙で拭こうか?」と、聞いても私が持っている紙を見ながら、新しい紙をロールから切ろうとします。なんとか拭き部屋に戻りました。

 1時間ほどすると、急に「トイレ、便」と言ってベッドに起き上がりました。「トイレね」と、聞くと頷くのですが目が座り一点を見つめ続けるのです。言われたことが理解してなくただ頷くだけでした。暫くすると、横になってしまいました。二分ほどしたら「トイレ」と言いまた起きあがります。明け方まで、こんな事を繰り返しました。やっと、朝になって少し会話が出来るようになりましたが、口と足の痺れが出てきました。

 朝を待ってS先生に電話し、落ち着かせる薬を夜に内服したほうが良いということになりH看護師が届けてくれました。患者にとって適量でも実際使用しないと分からないと思いました。母は全然覚えてなく安心しました。覚えていると、私に申しわけない気持ちを持つからです。このまま、入院になったら、母がしんどいかもしれないと思いながら、入院はもう数日に迫っていました。



関本 雅子
在宅ホスピスハンドブック