12月に手術したA病院の受診時、おそらく1月になれば腸も落ち着いているからという事で平成15年1月20日に入院の予約を入れました。主治医は多分これぐらい先なら予定通り入院出来るだろうからと、その週に3つの検査を入れたのです。

 そろそろ入院の日が近づいてきました。母は常に右側に向いていないと、痛みが出るので、S医師と相談して事前に病棟の看護長に四人部屋でのベッドの位置の選択とトイレに近い病室をお願いする旨の手紙を出すことにしたのです

 しかし入院予定の前週の木曜日、16日に看護長から掛かってきた電話はなんと入院できないということでした。看護長が言うには病院全ての病棟のベッドが空いてない事、母の状況からすれば自分の病棟で看たいので後一週間待ってほしいというものでした。元々予約されている検査はどうされますかと聞かれ、家族としては少しでも早くしたいから外来で受けると答えました。私は思わず「母の名前は入院のベッドコントロールに上がってなかったのですか?」と聞いてしまいました。そんな事はないことを看護長は言いました。

そして、「ベッドの件はなんとかは皆さん協力してくれると思いますので。」というものでした。入院する身になればもうこれ以上言っても入院したら母に悪影響がでたら困るし、トイレに近い部屋にいれてもらえるためにぐっと堪えようと思いました。「よろしくお願いします。」とだけ言いました。

 電話を切ってから、入院に向けて母の体調を整えていた私は拍子抜けしてしまい思わずS医師へ電話を掛けていました。しかし、休診日の留守番電話の案内が空しく流れそれでやっと休診日に気づき受話器を置きました。母自身は入院するより外来で検査をしたほうが良いと言いました。それは本心だったようです。私は母の体力的なことから入院してからのほうがいいと考えていました。暫く考えて、1つの検査は検査2日前より前処置が必要で薬など何も用意されていないことに気がつきました。もし、看護長のほうから事前に外来で検査になるので前処置の薬の手配についての説明があれば気がついたのですが電話の時点では私は延期がショックで頭が廻りませんでした。

 仕方なく、外来に電話して理由の知らない看護師に一から説明して処方をお願いしました。こうして、2つの検査は問題なく終わりました。しかし大腸のカメラだけは処置が大変で、自宅から病院までに行く間のことを考えて入院後に変更してもらいました。しかし、そのために買っていた一日分の検査食(1500円)は入院した時に看護師さんに相談したのですが、もう食事は頼んだからと受けつけてもらえず、業者に返品がきくか確認しておくと言われましたが結局退院するまでその返事はもらえず、退院後私のご飯になりました。

 1週間後。27日に入院になりました。

平成15年1月のある日、午後から子供の授業参観に行きました。姉が仕事が終わり次第、来るので安心でした。

事前に献血が学校であることを知っていたので自分の調子がいいならしようと考えていました。

介護休暇を取得してから一ヶ月あまり、自分も母の看護以外になにかしないといけないと考えていたからです。

もちろん自己満足です。

生まれての初めて400ml採取です。採血前の比重では私の血液はおもいっきり下がり身体のコントロールができている証拠で安心しました。

と、いうか夜間トイレ介助のため寝れないので良く食べるからです。風邪もひけないので服は沢山着込みにんにくを食べて、ばい菌もはいる隙がないようです。

息子Tは来ないと思っていた私が来たので何度も後ろを振り返っていました。

阪神大震災の時、生後5ヶ月でした。

それから両親の自宅再建、父の病気・死、母の胃がん、そして再発・・・そして私の仕事により息子は口には言いませんでしたが辛い日々を送っていました。

母には申し訳ありませんでしたが、息子の授業参観に行けてなにより嬉しかったのは私でした

母も自分以外の用事を私が出来ることが嬉しいようでした。自分のために孫が寂しがっているのを知っていたので、日頃から自分が調子が良い時は出来るだけ孫の事をしてあげてほしいと言っていました。

帰って4時から久しぶりに息子も一緒に3人でお風呂に入って・・・

もうそろそろ入院、不安な気持ちを持ちながらこの今の幸せに感謝しました。




母は車椅子を使っていましたが、出来るなら自力で歩きたいと思っていました。

いつも家の前まで車を入れて乗っていたのも近所の人の目を気にしており可能なら駐車場まで歩きたいと言っていました。母の気持ちを尊重して買いに行くことになりました。杖といってもたくさん種類がありなかなか決まりませんでした。

母としては花柄などの華やかなものを好みました。

しかし、一番使用しやすかったのは持ち手がただの一直線の棒ではなく手の平の形をしているものでした。わかりやすく言えば粘土で棒をぐにゅっと掴んだそのものです。ですから手になじんで体重がかけやすいものでした。そして持ち手の形からこの杖だけ右利き、左利きがあるのです。しかし色は黒色しかありませんでしたがやはり使い勝手が良いものが一番なのでそれを選びました。

 この杖は重宝させてもらいました。やはり持ち手が手になじむ物だったので体重がかけやすく、母が転倒することはありませんでした。

最期まで周りの目を気にし、母は女性として人間としてプライドを持っていたと思うのです。人間は最期まで前向きで生を全うするのが大切だ、周りがそういう環境にしてあげることも大切だと感じました。

平成15年1月18日、阪急六甲の近くの厄神祭に行きました。私も姉も若かりし頃巫女としてアルバイトに行っていた神社です。

例年家族でお正月ではなく厄神の時にお参りに行きます。母は楽しみにしていました。いつもすごい人なので昼前に行きました。駐車場に入れるのに二十分ほど待って車椅子で出動です!お参りしてから階段があるので一旦外に出てから再び境内に入りました。

母は病気が良くなるお守りを買いました。

屋台を見に行く時、地面がガタガタで車椅子が振動して母が腰が痛くならないか心配でした。隣の見知らぬおじさんが「ガタガタで歩きにくいのォ。」と言ってくれました。車椅子を押すまでは気にも留めませんでした。こうなって初めてこんなに歩きにくかったんだと感じました。

同じ立場にならないと分からないものだと言いますが実感した日でした。明石焼きがおいしくて珍しく母が5つも食べました。味と雰囲気がそうさせたのでしょう。

しかし、さすがに疲れたようで帰宅するとすぐにぐっすり寝てしまいました。

暫くすると入院です。母に治療の望みがあるかどうか検査するためです。最期の望みを持つことは誰でも同じ・・・悪あがきかもしれませんが、検査してみるつもりです・・・

※自宅で使用していた点滴セット。ポンプは簡易だが点滴台は結構重量があり母にとっては移動に時間を要した。でも命綱なので私達には大切な生活の一部だった。オレンジのビニールが点滴に付けてあるのは、ビタミン剤が光を通したら破壊されてしまうため・・・

父が死んでから、お正月を自宅で過ごす気にならず毎年姉親子も一緒に総勢七人、旅行先で新年を迎えていました。今年も母の励みになるように伊勢志摩に予約を入れていましたが、母の体調でキャンセルしたのです。

お正月が過ぎたあたりから年を越せたことで母も気分的に楽になったようで急に旅行に行きたいと言い出しました。ちょうど3連休だったので数日前の予約ではなかなか取れず、結局淡路島のホテルに決めました。バリアーフリールームがあったのでそこを予約しましたが、お風呂までは階段があるとのことでした。母はそれでも行きたいと言いそこに決めました。

母がゆっくり行けるように自宅の車は使用せずレンタカーを探しましたがなかなか希望の車種の在庫がなく、何軒か探してやっと大阪の営業所から持って来てくれることになりました。

 亡くなる2ヶ月前の平成15年1月12日、点滴などの母の医療用具を一式持参して淡路島に向かいました。途中、淡路鳴門自動車道のパーキングで休憩をはさみホテルに到着しました。母は久しぶりの長旅だったので痛みが出てしんどそうでした。


 少し休んだら夕食で、痛み止めを飲み久しぶりにラメの入ったバラの絵の服を着て化粧をした母は嬉しそうでした。少しずつでしたが魚介類を食べ雰囲気を楽しんでいました

お風呂もどうしてもおんぶは嫌だと言い長い階段を貼って上りました。私たちもゆっくり付いて行き母のしたいようにさせました。お風呂は白い入浴剤が入ってなかったので母の体型がもろに出ました。それでも母は露天風呂にも入り気持ちいいと繰り返していました。澄んだ綺麗な表情を一緒にお風呂に入りながら横から眺めていました。連れてきて良かったと思いました。

入浴後も点滴をしながら車椅子でお土産屋さんに行きました。人の視線もありましたが、私が逆に堂々としていました。母が旅行に行けたなんて私には何にも変えがたい素晴らしいことだったからです。人から見たら点滴をしてまで旅行に来るの?と、いう感覚だったかもしれませんが母の希望で行ける時期が迎えれたこの旅行で胸を張って堂々をしないといけないと強く感じました。

 翌日は淡路人形浄瑠璃館を訪れました。大黒さんの前で笑顔でいる母のなんとすがすがしいことか・・・・大黒さんに負けない笑顔でした。


母の看護中も料理は出来るだけ手作りでと心がけていました。

母の主食はほうれん草を添えたにゅうめんでした。

しかし、私達が食べるものを食べたがりこんな脂っこいものをいいんだろうか?と思うものを食べたりしていました。

記録を読み返してみてもエビフライ一匹とんかつ一切れ・肉だんご半分すき焼きの肉と豆腐ライスバーガー・ぜんざい揚げてんぷら・桜玉・そばめしなどなど。

平成15年1月10日は春巻きを作りました。自分でいうのもなんですがパリパリした皮に具も沢山の種類が入っているものです。母は夕食に1本食べました。夜中の2時半に私が起きていると、母はお腹が減ったようでゆっくりと台所まで歩いてきて美味しそうにほうばっていました。この時はかなり気に入ったようで、朝もまた春巻きを食べていました。

テレビの音量が最小でも聞こえるこの深夜の時間が大切な母との時間でした。


ギリギリまで待っていましたが、母の体調により予約していたお正月の旅行はキャンセルしました。

その代わり仲の良い親戚の家に新年の挨拶に行くことを母は目標にしていました。

新年を越せたという自信もあり予定通りに挨拶に行くことが出来ました。

皆も母を特別視することもなくたわいのない話をして恒例のお好み焼きを焼いてもらいました。

少量でしたが母も食べることができました。珍しく椅子に長く座ることも出来ました。家では久しくしていなかったことです。嬉しそうでした。ベッドを借りでしばらく寝てから帰りましたが母は心の中できっとこれが最期の年始だと感じていたと思います。

私は誰にでも感謝したい気分でした。連れて行くのは大変気を使うものでしたが、母のあの笑顔を私は忘れません。

 しかし、朝トイレに行ったときに疼痛が出現してデュロッテプパッチRは15ミリグラムに増量になりました。便は去年の血便が判明したとき以来ずっと続いていましたが徐々に減っていきこの頃には普通の便に戻りつつありました。

ちょうどこの頃リロ アンド スティッチが上映。姉と交代して見に行った。母は不安だったようだが、私と息子の大切な時間だった。

当時2年生。私が母と寝ると、夜になったら必ず起きて私を呼びにくるようになった。息子には本当に寂しい思いをさせてしまった。今は5年生でそんな寂しい記憶より祖母のよい思い出しか持っていないが、当時は母として本当に在宅を選んでよかったか悩んだ日々だった。

平成15年の元旦は特別なものでした。

私、おそらく母自身ももう新年は迎えられないかもしれないと思っていたからです。

ステロイド(副腎皮質ホルモン)を一日おき変更した影響で年末から食欲が落ち活気もなくなりました(31日には毎日に戻す)。高カロリーの点滴をしているので栄養が不足していたわけではないのですが、人間は不思議なもので食の欲求がなくなると何に対しても気力がなくなるようでした。母は元々グルメでおいしいお店を探しては食べに行く人でした。だから余計だったのでしょう。

母は点滴台を押してトイレに行くのが大変負担だったので夜中の3時のトイレが済むまでは起きて待っていました。

そのため12月31日は夜におせち料理を作っていました。ちょうど平成15年になった時私は高野豆腐を炊いていました。いい匂いが母の部屋まで届いたようで食べたいと言ってくれたのです。熱々の高野豆腐を食べる母に

「お母さん、明けましておめでとう。」

といいました。私は幸せを噛み締めていました。私は本当に幸せに感じ、又涙をこらえるのが精一杯でした。

「年と越せないと思ってた。あー高野豆腐がおいしい。これからは清美に任せるわ。」

母はずっと年末からそう思っていたのでしょう。母の年末からの元気のなさはもちろん体の状態も大きかったでしょうがその他にもう年を越せないかもしれないという漠然とした不安が大きかったようでしたということがこの言葉で分かりました。母と私と主人と3人で忘れられない新年を迎えました。

そう遠くない死が間近にあると、何に対しても感謝の気持ちを持ち、そして幸せに感じるのです。来年のお正月はもう一緒に祝えないと分かっていましたが今のこの幸せに感謝しました。

※体重は減っているがまだまだ元気な頃・・・死が近くなるとなかなか写真を撮りたがらなくなった。おそらく、体重がへり風貌が容姿が変化したためだろう。だから死ぬ数ヶ月前に撮れた写真は旅行や豆まきのイベントのみになった。。。。


平成14年12月29日は昨日の神戸大丸に続き二日続けての買い物。お決まりの大丸ピーコック甲南店に行きました。息子・姉・姪っ子も一緒です。母は惣菜コーナーのグラタンが気に入ったようで購入しました。しかし帰宅してみると今日は疲れてしまったようで結局食べることは出来ません。夜中に便がありしんどくなっていきました。30日も結局終日臥床して過ごしました。腰痛もひどくなり、今まで隔日に注入していたステロイドを毎日に戻しました。そして今日から非ステロイド系消炎解熱鎮痛薬が点滴から開始になりました。

癌による痛みは在宅ホスピス・ケアガイドラインにこう説明されています。

 『がんによる痛みは末梢神経を介して脊髄を経て脳に伝達される。末梢神経の先端部位では発痛物質が産出され、炎症が発生し、痛みが増強さるが、この機序を抑制するのが末梢(作用)性鎮痛薬の非ステロイド系消炎解熱鎮痛薬である。一方、脊髄・脳において痛みの伝達・受容・認識機能を抑制するのが中枢(作用)性鎮痛薬の麻薬である。』


 癌に従事する医療者ならこの使用方法は一般的でしょうが、つくづく疼痛コントロールは熟練した医師や他の医療者がいてくれてら安心だと感じました。現在は看護師でも痛疼痛コントロール認定看護師がいるほどです。

私はS医師から新しい薬品が処方されるたびに直接医師に確認したり自分で本を調べて用法を確認していました。もちろん在宅ホスピスの本も数冊読んでいたので、理解していましたが担当医に聞けない人や検索出来ない人は不安があるかもしれせん。S医師は元々が麻酔科なので疼痛コントロールは本当に安心できました。いつも医師の黒いバックから出てくる薬を見て、心の中で

『このバックはドラえもんのポケットみたいだ!いつも母の望む薬が出てくるもん!』

とひそかにドラえもんポケットバックと名前を付けていました。

※1週間分の医療品。こんなにたくさんの薬が1週間できれいになくなった・・・

ステロイドと聞けば皆さんはアトピーに使用する軟膏と思い浮かべることが多いとおもいます。

ステロイド(副腎皮質ホルモン)の用途は実に幅広いものです。

母がなぜ使用していたかと言うとステロイドは癌の末期である重症消耗性疾患に有用だからです。簡単にいえば元気になるということです。

そして抗炎症作用によって二次的に鎮痛効果もあります。

そして副作用である満月様願望(顔がふっくらする)は母にとっては痩せた顔をふくよかに見せてくれ本人の滅入る気持ちを少しはやわらげてくれました

S医師とその時々の母の症状を見ながら増減をし、亡くなるまで使用しました。