平成14年12月28日、フェンタ二―ル水(合成麻薬、痛みどめ)を飲み予備も持参して、神戸大丸に行きました。

母の行きつけのお店に服を買いに行きたいと言ったからです。

もちろん車椅子でしたが、色々な服を見せてもらいスカートとセーターを購入しました。

 「そんなに必要ないけどね。」

と、言った母の表情を見るのが辛かったです。

その後、喫茶店に入り二人でパンケーキを半分個して食べました。

腰の痛みが出ないように早々に帰宅しましたが母は満足そうでした。しかし今日から腰痛の加減でデュロテップパッチR(合成麻薬、痛み止め)が12.5ミリに増量になりました。

結局、大丸を訪問したのはこれが最期になりました。大好きだったブランドの服屋さんには母が亡くなってからお礼を兼ねて訪問しました。母が亡くなった時に着せた死装束は、一般的な白い着物ではなく、このブランドの服でした・・

※これも好きなブランド アシュエルの服・・・

母の実の母親、私にとっては祖母も一緒に住んでいます。

年齢的には82歳と高齢ですが、家族の中では一番元気です。

規則正しく生活し暴飲暴食もありません。祖父は戦死したのですが祖母は再婚もせず母を育てました。

当時としては珍しく私立の中学を受験し母にとっては楽しい学生生活を送れたようです。

そのため、母は結婚は祖母と一緒に同居できる相手を選ばなければいけないと思っていたようです。幸い父は母より祖母と気が合いました。父が亡くなった時の祖母の落胆は目を見張るものでした。そして、次は母です

しかし、祖母はそれで寝込むわけではなく私が母を介護しやすいように出来るだけ家事をカバーしてくれました。重い洗濯籠を持って1階から3階まで上がり干していました。私には頭の下がる思いでした

決して家族がみんな余裕があるから在宅ホスピスができるのではないと思います。でもだからと言って辞めたほうがいいとは思いません。在宅で過ごせることは素晴らしいからです。

右が祖母。左の母は再発する4ヶ月前。すでに痩せ始めている。


子どもの言葉は時として残酷だと、感じることが多かったです。

息子は当時小学2年生でした。お風呂に一緒に入る場合、私はえらくドキドキしたものでした。母が胃癌になってから元々60キロあった体重が33キロに減っていたので、浴槽から立ちあがると息子の視線が母の体にいくのでした。

「おばあちゃん痩せすぎや。お尻ないで。」

私は内心やっぱり言ったな、と思いつつ「お母さん、痩せるのは仕方ないわ。痩せて素敵よ。自信持ってよ。」と元気にこたえるのでした。

姪っ子のFは母のしわしわになったお腹をと表現しており母も悲しむよりほほえましく孫を見ていました。子ども達の純粋な言葉はたまにドキッとしますが、母にとっては日常会話の一こまに過ぎなかったのかもしれません。でも、私はいつもそわそわの連続でした

※手術後1ヶ月。体調も落ち着いて体型もまだ変わってないころ。母の希望で淡路島へ水仙を見に行った。

母には、私の子どものT(当時8歳)と姉の子どものF(当時6歳)の2人の孫がいました。

私にはまだ子どもしかいないので孫のかわいさは分かりません。亡き父も母も本当にこの2人を心から愛してくれていました。Tに関しては震災で実家が全壊し、その頃より同居しているため保育所の送迎から病院の通院まで両親は惜しみなく協力してくれました

しかし、両親にとってはかなり重労働だったにかも?と今では思います。負担を掛けたことが短命につながったにでは?と悔やむときもあります。

 

しかし、母が在宅ホスピスになって支えになったのはこの2人の孫達でした。孫と話すと気力が出るのか急にしゃんとなりました。

時には笑いあったり時には叱ったりと、ちゃんと祖母としての役割を自宅で果たしていました

2人も孫達も祖母とのこのひとときを決して忘れないと思います。

両親と違う祖母の暖かさ・・・・・

私にとっての素晴らしい母親です。この血を次の代にまた引き継いでもらいたいと願っています。


主人とは平成4年に結婚しました。ずっと共働きでいたため家事も育児も実によく行ってくれていました。

父の闘病の時も今回の母の時も私の支えになってくれました。

母の看護中、私自身母と喧嘩をしました。実の親子なので母が病気でも普通に喧嘩することがありました。でも、一番愚痴を話したりストレスを出したのはやはり主人に対してでした。自分の仕事もしながら帰宅したら家事や私の話に付き合い、本当に彼も辛かったと思います。母が亡くなった時主人が言った言葉がありました。

 

「俺はお父さんもお母さんも好きだったから・・・。」

血のつながらない義理の両親をこんなに大切にしてくれて本当に感謝しました。

 

※点滴を単品で使用する時は、間違わないようにお盆に入れてベッドまで持って行っていた。
医療は整理整頓が基本!!



母が退院してから、私の気分転換は掃除とメールでした。

母はとても綺麗好きだったので、私が掃除する事を喜んでいました。占いは日頃から信じないほうでしたが、この時は風水に沿って月曜日は何処を重点にする・・・というようにして母と笑いながら行っていました。母自身も自分でベッドの周りや机の上を片付けていました。母も掃除に参加して病人というより一人の人間として日常生活を送るような感じでした。それも、大切な事だと思います。日常の生活に自然に参加出来る事は、病気を持っていても役割があって大切な事だと思いますしかし、母の死期が近づいた時は部屋の戸を閉めて掃除をするととても不安がり掃除の回数もめっきり減りました。

 インターネットは自宅で過ごす私にとって外界に通じる唯一の手段でした。私なりに滅入ることも多かったですが、親御さんを同じように癌で亡くした友人も出来ました。彼女とは母が亡くなった後も交友関係を続けていて年に一度彼女の住んでいるハワイに会いに行っています。

 自宅で介護・看護をするには生き抜きは大切です。人は自分も癒さないと人に優しく出来なくなるときがあるからです。上手に訪問看護師やヘルパー、又は緩和ケア病棟を利用することも一つの手かと思います。私は、医療的な処置を実施することは看護師だったため全然苦になりませんでした。逆に仕事をしているように逆に生き抜きになったほどです。しかし、医療関係でない場合、反対にストレスに思うこともあるでしょう。そういう時は担当の医師・看護師に気軽に依頼してみるべきです。一人暮らしの方で鏡を見ながら一人で点滴を開始(もちろん実際に血管に針を刺すのではなく、中心静脈の植え込み式のカテーテル部分に針を刺すこと)する方もいれば、毎日医師・看護師が点滴開始だけ訪問するケースもあるということでした



※点滴に使う物品をおかきの缶に入れていた。テープは紐を通してつるしておくと使用しやすい


H看護師と初めて出会ったのは、看護師単独での訪問の時でした。

病院受診時はいつも訪問看護で不在だったのでお会いしたことがありませんでした。人間、一概には言えませんが初対面の印象でその後の関係が決まる事が多いと思います

 訪問してくれたH看護師は、見るからに冷静沈着でかつ物腰の柔らかい印象でした。私と2歳しか違わないと聞いて正直違うなと感じました。なんといっても私は昔から“酉歳のバタバタ貧乏”と言われ、またの名を“ガチャ子”と言われてます。よく看護師ができているなぁと自分で思うときもしばしばです。

 母の往診は水曜日でしたが途中で追加の薬の処方がでると堀看護師は訪問看護の途中に届けてくれました。私達が不在だと必ずメモを添えてくれたのです。

 “様、F様 お車がなかったのでポストに入れておきます。保護用のテープはたりますか?一応入れておきます。不足しそうだったらご連絡いただけますか?よろしくお願いします。 Sクリニック H  PS・有馬の宿はとれましたか?とれたら楽しんで来てくださいね”

 “G様、F様 フェンタネスト20回分です。年始に不足するようでしたらご遠慮なくお電話下さいね。今年も残り4日となりましたね。新年の準備たいへんですね。急に寒くなりましたので皆様お身体に気をつけて楽しいお正月をお迎え下さい。来年もよろしくお願いいたします。  Sクリニック H”

 “明けましておめでとうございます。お車がなかったので重曹をポストに入れておきました。また何かありましたら電話下さい。よろしくお願いします。お大事に。 Sクリニック H”



このメモが私達にとって薬と同様の”心の薬”だと思いました。自分もこんな看護師だろうか?と考える機会となりました。



クリスマスプレゼントを渡した時Hに

看護師が「私もあるんですよ。」

と、なんと手作りリースをプレゼントしてくれました。

忙しいのによく時間があるものだと思いながら感謝しました。

在宅になって日々、患者・家族と医療者の垣根のないことと感じていました。

おそらくそれはS医師とH看護師の人柄や在宅に賭ける思いからかもしれません。

このリースもH看護師は自然に渡そうと思って作製してくれたのでしょう。

早速、玄関の門に飾りました。

来年も母とこのリースを飾れたらどんなにか幸せでしょうか。



平成14年12月18日、S医師、H看護師のクリスマスプレゼントを買いに神戸大丸に行きました。母にとっては本当に久しぶりの大丸です。今回の調子が悪くなるまで神戸生まれ神戸育ちの母は神戸大丸をこよなく愛していました。私も物心付いた時から大丸に連れて行かれた記憶があります。痛みの出ないようにフェンタネスト水(痛み止め)を出発の1時間前に飲みました。予備の2回分もアイスノンにくるんで持参しました。

 車椅子なので駐車場は一番便利な場所です。

「お母さん、車椅子だったらVIPの場所の駐車場よ。いいこともあるでしょ!」というと母も苦笑いをしていました。

私は母がこうなったからということで全てに悲観的になってほしくありませんでした。車椅子になったからいい場所に駐車できる、人の視線が気になるだろうけど、助けてくれる人がいる、そしてそういう人達に感謝の気持ちがもてるのです。その時その時の置かれている状況でプラスに考えれることが私の取得です。でも、本当は自分が車椅子に乗れば人の視線も気になるだろうし、癌になれば死を考えて恐怖に震えるかもしれません。それでも、母にはそんな風な気持ちを持っていても周りの言葉掛けで前向きな気持ちにさせてあげたかったのです


 大丸では母の行きつけの店があります。今回なかなか行くことが出来なかったので仲の良い従業員の方がお見舞いのひざ掛けを送って下さっていました。そのお礼を兼ねて最初はその店のほうへ向かいました。結局、事前に連絡していなかったので会うことが出来ずスカートを予約してまた来る約束をしました。

 S医師には事前の情報収集で好きなブランドを聞いていたのでそこのスカーフを、H看護師には私の好みでキーホルダーとリップペンシルを買いました。途中、フェンタネスト水を飲み、母は疲れながらも楽しめました。結局、今日が往診だったので少し早かったのですが渡しました。先生達の喜ぶ顔を見て母も満足そうでした。お義理のプレゼントではなく本当に心もこもったプレゼントでした。いつの日か母が天に召されてもこのプレゼントを見ると母を思い出してくれるだろうか?と、母の側に座りながら考えた私でした。


平成14年12月6日、再度、K病院に大腸透視を受けに行きました。

腸全体に出来ていた真っ赤な糜爛は少しましになっていました。

が、劇的というわけでもありませんでした。

回復なら、また抗がん剤の治療が出来るかも?と少しばかり期待を持っていた私は、残念な気持ちを持ちました。母の最期を見ると決めたものの気持ちは揺れ動いていたからです。

よく〝死を受容して死んでいく〟という言葉がありますが、私は本人も家族もそんな簡単に死を受容するなんて出来ないと思います。

死を受容しなくても残されて日々を生きようという気持ちは持てるはずです。

死を受容するなんて医療者がよく患者の計画に立てるのですが、

母がそういう立場になってみれば、そういう計画は無意味ではないかと感じるようになりました。

人間は死ぬまで生きることを考え、死と生は表裏一体だからです。




桜町病院聖ヨハネホスピス, 山崎 章郎
ホスピス通信―生の終わりに小さな「もてなし」