自分で自由に行動出来なくなった母にとって、車でのお出掛けは楽しみの一つでした

晴れているときは助手席には太陽が燦燦と降り注ぐため、フラットにして寝ている母は光に照らされて幸せそのものでした。

自分で、「ほんと、日向ぼっこだわ」と、言いながら買い物までの道のりを楽しんでいました。

在宅の中で大切なことは、日ごろ気にも留めなかった事がとても大切に感じるようになるということです

元気なら逆に女性なら日が当たったら日焼けを心配します。出来るだけ本人が気にいった事が見つかれば可能な限りしてあげることです。

※孫のFがベッドのテーブルの上のお菓子を取ってあげている場面




痩せて思うように歩けなくなった母は近所に車椅子で出かけるのを極端に嫌がりました

自分が車椅子でいるところを近所の人には見られたくなかったようです。

そんな話を往診の時にするとS医師から車で15分の所にある大丸ピーコック甲南店を教えてもらいました。

医師のお勧めのお店ということで教えてもらってすぐに出掛けました。痛みが出ないようにフェンタネスト水(痛み止め)を事前に飲み予備も持参しました。

店は1階のみ、廊下も広くて買い物しやすい店内でした。母が車椅子に乗って買い物かごを膝に乗せ、私が車椅子を押します。ゆっくり移動しながら品物を見てまわりました。

品物の品質は良く、お惣菜もおいしく母は気が向いたら少しずつ買っていました。それからピーコックには調子がよければ必ず出掛けて行きました。買い物をする母はどこにでもいる主婦でした。

夕ご飯をあれやこれやと考えていました。違うことと言えば、車椅子とこの先の寿命がもう少ないということでした。

姉や子ども達も一緒に行くこともありそれはそれでまた楽しいものでした。息子は私が車椅子をトランクに収納する時いつも手伝ってくれていました。

癌になると痩せることが多いです。

母も例外ではなく、30キロ台になっていました。母は毎日の入浴をとても楽しみにしていました。しかし、どうしてもやせ細った全身が見えてしまい暗くなることがありました。

そこで、今まで透明の入浴剤を使用していたのを止め白色のものに変えました。これは効果があり母も気にせずお湯につかれていました。

白色でも毎日違う種類の入浴剤に替えることも気分転換にもなりました。一番の楽しみが入浴だったので、毎日どうしたらもっと楽しんでもらえるか考えました。母の死後、もう白い入浴剤を使用することはなくなりました。

たまに、使用すると息子が懐かしそうに母の話をします。



日野原 重明
こころ上手に生きる―病むことみとること人の生から学ぶこと


 毎日の入浴は、車での買い物について母の大好きな日課でした

夕方や夜は他の家族がいるためゆっくり入ることが出来ないので、

毎日だいたい午後二時頃に入浴していました。

まず、お風呂のお湯が入ると蓋を開けに行き、風呂場が暖かくなるようにします(風呂場には暖める機能は付いていないので)。そして、脱衣室の温風器を入れ、台所の丸椅子を持って来ます。母がゆっくり二階から降りて来ます。私が手伝うのは嫌がるので、私は転倒しないように細心の注意を払います(母は立っては降りれなかったので、お尻をすりながらおります)。

脱衣室でゆっくり母のペースで服を脱ぎます。

洗い場に移動して私が母に掛け湯をします。そして、母が手すりを持ちながら私が母の足を上げてゆっくり浴槽に入ります(母は浴槽の二十センチの段差に足を上げることは出来ませんでした)。母が浴槽に入ると、私は母がさっき脱いだパジャマを椅子に置きます。なぜなら母のおしりは骨だけに等しかったため入浴後に椅子に座って服を着るときに痛がるからです。

 母は、いつも入浴すると「気持ちいい!!」と本当にいい顔で言いました

嬉しそうで私も一緒に微笑まずにはいられませんでした。母と二人で浴槽につかりゆっくりするのがなにより幸せでした。ある程度したら今度は体を洗います。また母の足を私が持って洗い場に誘導します。

おしりを持ってゆっくり椅子に座らせます。それから、体が冷えないように私がシャワーを母に掛けながら、母は自分で洗います。綺麗に足の指まで毎日丁寧に洗います。洗髪は毎日はしんどいので数日に一回でした。頭を後ろに向けるのはしんどく一人で二分も出来ません。

そこで私は座っている母の後ろに立ちます。そうすると母の背中に私の太ももが丁度当たるのです。母は私の太ももにもたれるようにします。そして頭を後ろにして私がシャワーで洗髪するのです。

 市販の背もたれがついて介護用の椅子があります。しかし母はどうしても嫌がりました。私達も母が嫌がることはせず、代用できるものは代用品や方法でカバーしました。母もプライドがあります。そしてあまりに介護用具に頼る自分が嫌だったのかもしれません。

  


日野原 重明
生きかた上手


高カロリーの輸液は、最初は毎日20時から朝まで実施していました。

しかし、一時間に90ミリリットルとかなりの量をいくためどうしても夜間帯にトイレに行きたくなります。

母は夜間帯に私を起こしてまでトイレに行くのを悪いと思っていました。私も母が気を使わないようになるべく夜遅くまで起きて過ごすようにしました。しかし、どうしても寝てしまう時もありました。そうすると母は自分で点滴台を押して一人で行きます。

元気な人ならなんの問題もなく移動出来たでしょうが、母の細くなった体でポンプの付いた点滴台を押すのにはかなりの労力が必要でした。たった2メートルほどの距離でしたが母には遠く感じていたことでしょう。

 そこで、母の自信をなくさないためにもS医師に相談して点滴開始の時間を夜の23時頃の開始に変更しました。3時間の時間差があると本当にトイレの回数も減り、行っても1回でした。

私も点滴をつないでから、2時か3時まで起きて母の様子を見てから就寝し朝の6時頃起きるようにしました。母の一番良い方法を他人に気にすることなく選択出来ることは在宅の良い点だと思いました。

関本 雅子
在宅ホスピスハンドブック

母が顔や手を拭くタオルは、できるだけ母が気持ちいいような温度に保って使用してもらいたいと工夫していました。

工夫といっても簡単です。

温水器の温度を最高の六十度にします。そして、ゴム手袋を使用して絞るのです。

ゴム手袋をしても外せば私の手は真っ赤になります。絞ると母にすぐに持って行きます。

母は、しんどくなってからは、ちょっとしたことでも喜ぶようになりました。まるで生きていることを実感するようでした。当然かもしれません。体が好きに動くわけでもなく、死の恐怖もあります。

今まで当たり前のように感じていたことが母にとっては生活の変化であり、気持ちいいということが生きている!と実感させるのかもしれません。簡単なことですが、これは実行しがいがありました。電子レンジで出来ましたが、私は母が要求すればすぐに持って行きたかったのでこの方法でした。   

服部 洋一, 黒田 輝政
米国ホスピスのすべて―訪問ケアの新しいアプローチ

 母は前述した通り、最初にデュロテップパッチR(痛み止め)を使用した時に肌が赤くなり糜爛状態になりました。

それをS医師が、製薬会社の会で使用し今後の検討課題にしたということでした。

「お母さん、良かったね。お母さんは赤くなってしまったけどこの経験が次の人たちのためになったよね。社会に貢献してるよね。凄いことだよ。」

 母は、嬉しそうでした。自分の存在が今はなかなかアピール出来ない状況で、この話をS医師からしてもらい、闘病意欲の助けになったかもしれません

母が喜ぶことならなんでもいいから母に得てもらいたいと思いました。

母にとったら決して肌にいい影響ではないし、結局他の人と違う使用方法を取らないと使用出来ませんでした。でも家にいても母が社会に貢献していることを2人で喜びました。

   お母さん、愛してるよ!



生井 久美子
人間らしい死をもとめて―ホスピス・「安楽死」・在宅死


母の疼痛コントロールは試行錯誤の末に日々変更しました。

安定していた時に実施していたのはフェンタ二―ル(合成麻薬)の成分のデュロテップパッチRの工夫でした。このパッチは72時間後、すなわち3日毎の交換です。しかし母は72時間になると疼痛を訴えやすかったのです。やはり最後のほうは血中濃度が低下してくるのでしょう。

そこで、S医師と考えて、母は同じ部位に72時間添付出来ないことため添付後24時間で一旦場所を変更する必要がありました。それにプラス、薬の量を半分ずつに添付して24時間ずつ新しいパッチに交換するのをずらしてはどうかという案でした。

文章にしても難解ですが、実は実際の交換もパズルのようでした。要は、2枚のパッチの新しいパッチへの交換日をずらすのです。そうすると、片方が3日目に交換日でも、もう一方はまだ48時間しか経ってないのです。

私が用紙に交換方法を記入しているのでそれを参考にして、パッチに直接交換日時を記入している〔24時間後と72時間後の2回記入しておく〕のも確認し2重チェック後に交換しました。これがのちに入院した病院で案の定、間違われ苦い経験をしました。この方法は母にとっての疼痛コントロールの中心となりました。

 これ以外の補助的な方法に同じ成分であるフェンタ二―ルの注射液をブトウ糖液で希釈した物を外出する少し前に内服する方法です。

これは効果がありましたが、最期が近づいた時は肝臓の代謝能力が下がり血中濃度が高くなり錯乱することがありました。

しかし疼痛コントロールが確実に出来れば在宅で過ごす可能性が高くなると言うことです。痛みを我慢するなんてナンセンスです。疼痛がなければ精神的に安定し末期患者なりに自分のやりたいことや役割を持てると思うのです。『疼痛はその人の人格まで変える』というのは私の父の時の経験です。だからこそS医師を選びました。コントロールは患者毎に異なると思います。それに患者・家族の意見を聞きながら柔軟に対応してコントロール出来る医師が増えることを望みます。

 12月11日にはパッチは7.5ミリに増量になりしました。

母が、「パッチはファッションだと思うわ」

と言う母の前向きな言葉がせめてもの救いでした。

日本ホスピス在宅ケア研究会
退院後のがん患者と家族の支援ガイド


母の退院に向けて姉と車椅子を見に行きました。

車椅子といってもかなりの種類です。自走式(自分で車輪を動かして移動できる)と介助式(乗っている人が車輪を動かさないから車輪が小さくてすむ)がありそこから悩みました。しかし母の今の状態ならおそらく自走式は使わなくていいだろうと考え介助式を選びました。

出来るだけ軽くコンパクトになるものを選びました。

1ヶ月6000円です。もし介護保険なら600円です。

ベッドもH看護師の知り合いの業者に依頼して1ヶ月14000円です。

母は61歳なのでもちろん介護保険は適用ではないのは分かっています。

将来在宅ホスピスに対する公的支援がほしいと感じました。(これは平成14年に書いた手記です。最近の新聞でいずれ介護保険でがん患者も適用になると読みました。嬉しい限りです。母は無理でしたが、これから癌になるかたができるだけ経済的楽になれたら私も幸せです)


母は夫を亡くしていたので寡婦でした。そのため医療費は国民健康保険でしたが、高額医療費は23200円以上は後日返金されました。しかし、後日です。ですから、薬局と受診のたびに1万円札が飛んで行きました。S医師がいつも心配してくれました。しかし、堅実な母は“自分の医療費は自分で”の信念のもといつもしっかり支払っていました。自分で銀行に行けなくなってからは、私達が銀行に新札をおろしに行っていました。新札はもちろん母の希望でした。関本医師に支払うので自分なりの敬意を払っていたのだと思います。

 実は母は、癌になる前年に私の職場で癌保険に入りました。私が、母にどんなふうに誘ったか実は覚えていません。でも、結局癌保険の効力が出てから暫くして癌が判明しました。その保険は外資系の会社でしたが本当に迅速なお金に入金をしてくれました。母にとっても安心だったと思います。亡き父も母もよく『お金がないと病気も出来ない』と言っていました。本当に両親の病気を見ていると私もそう思います。

 状態によって料金はまちまちでしたが、1週間毎高カロリーの薬のセットはだいたい1万円前後でした。ですから1ヶ月に4万円前後。それ以外の麻薬や痛み止めや衛星材料、点滴台・ベッド・車椅子のレンタル代を合計するとやはり高額で、3割負担で実際に払った金額です。多少抜けているものもあるかと思います。

11月  210、780円(総合病院での入院費は除く)

12月  1840、20円

1月  136、180円

2月  151、920円

3月  55、270円(四日のみだったので車椅子・ベッド代は入れず)

               

 合計549、180

  総合病院の11月・12月の入院費は入れていないので少し高くなります。自分ならこれだけスムーズに払えたかなと思います。公的な機関が癌患者の負担をもっと減らしてくれることを望みます。