薬剤は、西宮にある薬局が配達してくれることになりました。

フジサワの看護師と同じように、最初は薬剤師が自宅まで訪問してくれ配達の流れや使用する薬剤についての説明をしてくれました。

基本的には、週一回の配達です。高カロリーの輸液は、色々と基本の輸液に薬剤を混注します。普通はそれを冷蔵庫に保管するのです。私も一回はそうしてもらいましたが、うちの冷蔵庫の野菜室が一杯になること、その日によって調整する薬剤があることなどから自分で輸液は作成することになりました。1週間分の輸液セットはダンボール一個分になりました。

 それ以外の、例えば痛み止めの薬などはSクリニックで処方してもらいました。薬剤や医療品は自分なりにダンボールとおかきの缶を使用して整理しました。缶に穴を開け紐を通して、医療用テープを吊っていると切りやすく使用しやすいです。母の近くで使用する頻度が高いものはおかきの缶に入れそれ以外はダンボールに入れました。そういう工夫は私には楽しくぜひ在宅で同じようにされている家族の人に薦めたいものでした。





1週間分の点滴、ダンボール1個分だった

退院後、すぐにフジサワグループの在宅輸液療法コーディネートナースの方が自宅を訪問してくれました。

フジサワグループは 皆がよく知っている藤沢薬品工業株式会社です。コーディネートナースが持参したパンフレットには“HIT”と書かれていました。“HIT”とはHome Infusion Therapyの略です。日本語では、“患者さんがご自宅で、主にチューブやポンプなどの医療用具を使用し、体内に栄養・栄養剤を注入する療法です”と書かれています。そのHITの定義に沿って藤沢が、薬剤の供給サービス、輸液ポンプレンタルサービス、コーディネートサービスを実施するのです。輸液ポンプは掛かりつけ医とフジサワが輸液注入ポンプレンタル契約を行い、病院から患者へ貸与する仕組みです。そして、コーディネートサービスの一環として今日、看護師が訪問して下さったのでした。私と姉はその看護師から輸液の作成方法からラインの接続方法など、一連の方法をくわしいマニュアル用紙を参照しながら説明を受けました。私は、ある程度の知識はあるので、割合早く理解出来ましたが、やはり医療従事者ではない姉にとっては慣れない作業でした。しかし、これだけ分かりやすい説明書があり且つ、看護師が実物を持参して説明してくれれば家族に医療従事者がいなくても安心だと思いました。




入院前と入院中は、どうしても休まないといけない時は年次休暇と看護休暇を取得していました。看護休暇は有給ですが1年で10日のみでした。

正直言うと入院中から介護休暇を取得して休みたかったのですが介護休暇は在宅が対象であり、又社会人としてはそうそう自分の都合ばかりで休むことはできませんでした。日々同僚達が、特に主任のA看護師とT看護師はいつも励ましてくれていました。

 退院で、すなわち在宅で様子を見ることになった時、I看護長は心良く介護休暇にゴーサインを出してくれました。緊張しながら行った看護部長は

「お母さんのことをしっかりみてあげてね。それがあなたに今できることよ。」

と言ってくれました。

この休暇を取得するということは、今度復帰する時は母の死を意味します。又は期間の六ヶ月を過ぎても母が生きていたら、自分が今度は退職して母を看ないといけない事とも意味するのです。複雑な気持を持ちながら、やらなけばならない仕事を済ませました。しかし、自分が関わりを持っている患者・家族の方達に暫く関われないことがとても寂しく、又中途半端な事をしているようで辛い気持を持ちました。そして自分が関わりを持っている患者・家族の人達に何も言わないまま休暇に入ることは当然ですが、本当は私としては長期の休みに入ることをちゃんと言いたかったのです。(何も言わなくて休暇を取って当然という表現は誤解を生むかもしれませんが、自分のプライベートな理由を患者・家族の方々に説明して休むということは出来ないという事です。)

 介護休暇のためのもろもろの書類も済ませ11月29日から残りの看護休暇を取得し、12月5日から介護休暇に移行しました。母は私が介護休暇を取得することにとても驚いて途端に元気がなくなりました。なぜなら、父の時は状態がかなり悪くなってから取得したので自分がそんなに悪いのかと思ったようです。私自身は、下血や体力的な事、抗癌剤を使用してない事で決して元気で帰るわけではないと考えていたのですが、母自身としてはそれほどと考えていたようです。そういう訳で退院は母にとって嬉しい反面、複雑な気持ちでもあったようです。私は母には隠さず言っているつもりでしたが、時として母の性格や医療者とそうでない違いがあると思うのですが解釈の違いでドキッと思うことがありました。

 腫瘍マーカーという各癌の指標があります。必ず数値が大きくなるから癌が進行しているとは限りませんが、母はずっと低地でした。しかし11月頃から数値はどんどん上昇していきました。抗がん剤を辞めてからすぐのことでした。今後、在宅で看ながらどういう方向へ向かうのか、私の中ではすでに在宅ホスピスと考えていましたが、希望があるなら抗癌剤治療も考えていました。母は特にそうだったと思います。こんな私で母をちゃんと看ていけるか不安がないわけではありませんでした。しかし、もう始まっているこの状況から逃れることはできるわけでなく、自分の最大限の力を出すしかありませんでした。反面、母を在宅で看れることは嬉しかったのです。次回のS病院受診は、12月6日の大腸カメラで後日診察予約が入っていました。

※胃がんが判明する4ヶ月前。息子の保育所の卒園式で。亡くなった時は体重がこの時の半分だった。


外出から戻って病院のトイレについて行きました。自宅では付いていくことはなかったのですが、点滴があったので中まで入りました。二十四時間尿量を測定するので母はコップで尿を取りました。するとなんと、母の便は綺麗な血液そのものでした。びっくりして母に

「お母さん、いつからこんなん?」

「10月ぐらいからかな。」

「これはひどいよ。先生に見てもらわないといかんわ。」

「痔から出ているんだと思ってた。」

あまりに衝撃的でした。自分が母の下血を知らなかったことがショックだった事、自宅で母が毎日何回もこんな下血をしていたという事、坐薬を毎日入れていた事……。でも落ち込んでいられません。すぐ看護師に便を見てもらいS医師に連絡してもらうようにしました。S医師が肛門を開いて診ましたが分りませんでした。血液ばかりが出てきて腸を見ることが出来ませんでした。急遽7日に大腸カメラの予約が入りました。

 結果は腸が広範囲に糜爛・潰瘍ができているということでした。おそらく抗癌剤の副作用だろうという考えでした。抗癌剤はこの腸が回復しないと出来ない事、胃癌に効果のある薬はもう使用できないかもしれないということが説明されました。母は24時間高カロリー輸液、水分のみ摂取可でした。腸の安静しかなく、S医師からはSクリニックのS医師がいるので自宅でもいいと言ってくれていました。こちらからは在宅になるなら自宅でも高カロリー輸液が必要なので皮下に植え込み式中心静脈カテーテルを挿入してほしい旨を伝えました。関本医師からも在宅の場合、皮膚から出ていないカテーテルのほうが生活しやすいので薦められていました。私も職場で使用しているものなのでなじみがあり利点も良く理解していました。

 中心静脈からの植え込み式カテーテルは放射線科の医師が挿入してくれました。腸のほうは再度大腸カメラを実施する予定となり、11月29日に退院の運びになりました。以後は消化器外科から消化器内科に転科になりました。退院前にS医師から消化器内科の医師にコンサルトをとってもらい話しがありました。やはりこの腸は抗癌剤の副作用であるということ、腸の状態がかなりひどいので同じ系列の薬は難しいということでした。私の中では胃癌は抗癌剤が元々効きにくく、良く効くといわれている薬が使用できないのならしないほうがましだと考えていました。大腸カメラの写真では母の腸はまるで熱湯をかけられたような発赤で回復は困難かもと思いました。消化器内科の医師の話しにS医師も同席してくれました。話しが終わって廊下で私はいてもたってもおれずS医師に言いました。

「先生、私は母が効果の少ない抗癌剤治療をするぐらいならしないほうがましだと思うんです。」

「分るよ。僕の父は最期まで抗癌剤で苦しんで死んだから。」

意外な言葉が出てきました。私は日頃からS医師に対しては疑問な事、分からない事、自分の考えは全部話していました。S医師を信頼していましたし、S医師も患者・家族に対して自然でした。変な表現ですが癖がないナチュラルな医師でした。ですから医師の父親の話しが出た時、やはりそういう経験が今の患者・家族に対する対応に結びついているのかも?と思いました。元々の性格かもしれません。でも、母の主治医になってもらってストレスなく日々付き合えました。今後、S医師が主治医にならないのは残念ですが良い出会いが持てたと感謝しました。痛み止めのデュロップパッチRは2.5ミリから5ミリに増量になりました。

 母は3週間強の入院生活を終えて退院の運びとなりました。在宅に関してはSクリニックのS医師に連絡し、退院後製薬会社・薬局からそれぞれ看護師、薬剤師が来ることになりました。点滴薬のみ1週間分は入院していたS病院で処方してもらいました。こうして、この先どんなふうな経過をたどるか不安に思いながら退院になりました。まだ下血は完全には止まってなく体力もないので、今後おそらく治療は出来ないのではないかという思いを持っての退院となりました。仕事を続けながらの面会は少々疲れました。なんといっても病院は家から反対方向だったので帰りも時間が掛かり、子どもには一緒に住んでいながらほとんど会えず寂しい思いをさせてしまいました。


 平成14年11月6日、定期の診察予約でした。この日までに入院の連絡はありませんでした。母はどんどん衰弱しており、SクリニックのS医師には数週間かも?と言われていました。こればかりは私も信じたくはなく素直に聞き入れることはできませんでした。診察を待つにも座ることが出来ず、看護師もさすがに状態を理解してくれベッドのある部屋へ通してくれました。

 診察では現在の状況を説明しました。K医師は

「ベッドがね、まだ空かなくてね。病棟の看護長とも後藤さんのことは話しているんだけどね。」

「先生、母を診てもらったら分かると思うんですけど、もう限界です。入院させて下さい。」

「そうやな。」

と言い医師は病棟に連絡をしてくれました。

入院はあっけなくスムーズに行われました。以前手術のときに入院した病棟でした。前回 入院した時の受け持ち看護師もいて心強く感じました。K医師は病棟で受け持ち患者は持たないので別の医師でした。S医師はサバサバとした見るからに外科系の医師でした。

「なんかね、K医師が娘さんが治療を探してるから入院待ちだったって言ってるんですけどね。」

「はぁ?なんの事ですか?言っている意味が分かりませんけど。母の状態を診てもらったら分かりますよね。そんなん信じられません。いったいなんのつもりでK医師は言ったんでしょうね。」 

「まぁ、ええわ。ややこしい。取り合えず、中心静脈のルート入れますから同意書いて下さい。」

というやりとりの末(別に医師のこの言動に嫌味やものは感じず、むしろサバサバさに好感が持てました。)、母の点滴の処置はスムーズに終わりました。

どうしても一旦帰って自分で用意をしたいという母の我侭を聞いてもらい外出となりました。しかし、母にとっては我侭ではなく、入院での自分の先が見えないため自分で準備をしっかりして入院したかったのだと思いました。だから言いにくくても私が看護師達に言わなければいけませんでした。自分も同じ看護師なのになぜ立場が逆転したら言いにくくなるのでしょうか?不思議なものです。やはり、まだ日本の医療は医療者のほうが患者より立場が上という感覚があるのでしょうか?



※指輪は姉の指輪。両親の遺骨が入っている。私や母と同じタイプでロケットタイプで開くようになっている。

母の指輪と同じ形だがよりふたまわりほど小さく、まわりにパベェダイヤが付いている。。値段は25万ぐらいだったと思う。

モルヒネの坐薬とボルタレン坐薬Rでは効果がはっきりしませんでした。

平成14年10月22日よりデュロテップパッチRに変更してみることになりました。これは、クエン酸フェンタニールが成分であり合成麻薬です。全身麻酔や局所麻酔の補助としても効果があります。今年の3月(平成14年)に日本でパッチが発売になりました。それまでは皮下注射しかなく効果はあっても患者には行動の制限があり、針の差し替えという苦痛も伴っていました。これは72時間貼りつづけるものです。

効果は覿面でした。初日は寝つづけて脈が30台まで下がり不整もでました(元々不整が出やすい)。しかし、継続して観察を続け徐々に回復してきました。痛みがないことが嬉しいようでした。しかし24時間が経過した頃からパッチを通して皮膚がピンク色になっているのが分りました。結局、72時間後に除去した時皮膚は発赤し痛々しいものでした。痛みがコントロール出来たのでとても残念でしたが、母のこの皮膚の状態では中止するしかありませんでした。関本医師からは一旦モルヒネの坐薬に戻すがフェンタ二―ルの皮下注射でも考えようと言われました。しかし母はどうしても皮膚に針を刺し続けるのは嫌だと言い続けました。

 色々とS医師と相談し11月2日に痛みのコントロールは出来ていたのだから貼付方法を考えてみようということになりました。まず24時間後に場所を変えその後の48時間は同じ場所で貼付し続けることにしました。場所も胸部ではなく腕に変えてみました。結果は成功です!やった!これで母の腰痛を減らすことになると思いました。まだ下痢と食欲の回復が残っています。S病院に入院するまでに回復してほしい!お母さん辛いけど一緒にがんばろうね。

 デュロテップパッチRで皮膚に赤みが出たことで添付方法の変更を余儀なくされましたが、私達は決して批判的ではありません。添付方法を変更すれば赤みは出ませんでしたし、何よりもこの薬が母の残された日々を素晴らしいものにしてくれたからです。ですから誤解のないように書いておきますが、けっして批判のために書いてのではありません。

 前述したように、S医師は六甲病院の緩和ケア病棟に勤務されていました。平成13年10月に阪急R駅の近くで開業しました。母はまだかろうじて歩くことができていたので病院に受診しました。周りの建物とは異なり近代的な明るい建物が先生の病院でした。1階が駐車場で3階建ての鉄筋でしたがエレベーターが完備されていました。診察室は2階でした。待合室はやわらかな色のソファーとカーテンで統一され、やさしい音色の音楽が流れていました。

 診察室に通されると、縦十センチ横十五センチはある大きな名札(ご年配の方が読みやすいための配慮だと思いますが)をした先生は座っていました。(後によくよく見ると名札はそんなには大きくありませんでした。。私にとってS医師のインパクトが大きく余計名札が大きく見えたようだった!)

 「はじめまして、Sです。」から始まった医師の診察は初回でもあり実に時間を掛けたものでした。母の言葉を良く聞き、母の状況・母の希望する事をしっかり聞いた上で方針を説明してくださいました。モルヒネの坐薬・ボルタレン坐薬Rの併用はこのまま暫く使用すること、副作用をちゃんとコントロールし、栄養は今まで飲んでいた高カロリーの流動は下痢しやすいようだから違う種類を試してみることでした。痛みのコントロールが難しい場合は他の薬も試せることも付け加えてくれたのです。

 結局、小1時間診察を受けたが薬は自宅にあったので処方はなく、流動食も病院にあったのを無料でいただきました。試して良ければ飲みましょうという計らいでした。入院までは週1回の受診とし受診が無理になればいつでも往診に変更ということになりました。数回は受診に行くことができましたがだんだん難しくなり2週間ほどで往診になりました。私が身体をさすると痛がり人に肌を触れられるのを嫌うようになりました。孫達が部屋に入るのも拒むようになりました。下痢と痛みと食欲の減退により母の性格が少しずつ変わっていきました。

 

 姉の指輪。これもロケットになっている。

 平成14年の8月、母が腰痛を訴えるようになりました。受診の時にK先生に相談しましたが、特になんの指示も出されず、たまたま連れてきていた私の子供に

「おばあちゃんの腰をマッサージしてあげるんだよ。」

と言いました。

母自身も我慢出来ない痛みではなかったようでした。亡き父の九州の田舎にも私達の心配をよそに行きました。今から考えるとこの時期を逃したら九州にはとても遠くていけませんでした。母のなんとなくある痛みを気にしつつも気力を出して行ったのだと思います。しかし、9月に入り立つことが難しくなり疼痛で食事が入らなくなりました。9月の受診で母の様子を見てK先生もびっくりされ、急遽検査が行われましたが骨転移は見られませんでした。

痛み止めのモルヒネ(麻薬)の坐薬が開始になりました。私が8月の時点でもっと先生に強く言っていたらよかったと自己嫌悪に陥りました。本人の訴えが一番正確です。以前癌患者の痛みの訴えはオーバーなものはなく正確であるから、大げさだと思ってはいけないと読んだことを思い出しました。

 10月の診察で、入院して別の抗癌剤を開始するために予約をしました。しかし、入院の連絡はなかなか入らず日に日に母は弱っていきました。モルヒネの坐薬の効果ははっきりしませんでした。ボルタレン坐薬Rも併用するようになりましたが布団を畳むことはなく終日臥床していました。一日何も食べれないことが日常的になりました。

私は仕事を続けていたため姉が仕事のないときは朝から来てくれ、姉が来れない時は81歳の母の実の母が側にいてくれました。昼休みしか母へ電話ができず心配で胃が痛くなりました。当然、母の体重は勢いよく減少しました。すぐ病院に連絡して強く言えば入院できたかもしれませんでしたが、母が入院することを嫌がっていた事、こんな状態では入院しても抗癌剤治療は無理だろうと考え、入院までの全身管理をお願いしたくS医師宛ての紹介状をK医師に記載してもらいました。

※痛みを訴えだした頃、孫Fの誕生日会・・・

かなり痩せているがまだ自由に歩けていた・・・



退院後、すぐに腸閉塞で入院はしたものの、その後は1ヶ月毎の診察と内服の抗癌剤のみでした。私も休みを母と合わして必ず受診は付き合いました。

体重は元気な頃より10キロ近く減りましたが、食事も少しずつ入るようになり外食にもいけるようになりました。洋服のサイズが15号から7号か9号になり身体に合った洋服を買うのに元町の大丸によく荷物持ちに駆り出されました。手術後、主人の母に薦められて磁気の出る椅子?に毎日座りに行くようになりました。それまでは、そういう所に行く気はなかったようでしたが、手術をしてからは『死』をかんがえるようになったからかもしれません。

 平成14年のお正月は恒例の飛騨高山に行きました。母とまた来れたことが本当に幸せでした。ずっとこんな幸せな日々が続いてほしいと願わずにはおれませんでした。

 結局、手術から約10ヶ月は平穏に過ごしました。生活もほぼ前の通りに戻りました。

もしかしたら、再発なんて起こらないかも?と、考えました。いえ、そうなってほしくないと強く望んでいました。父の亡き後母まで亡くしたら、という考えは想像したら気持ちがどうにかなりそうでした。

退院後初めての飛騨高山。嬉しそうな母・・・

私・祖母(母の実母)・姪っ子・母


 平成13年9月25日、胃がんの外科手術のためにA市のK先生の外来を受信しました。4時間、何も言われず待ち続けました。母はかなりしんどかったのですが、待つしかありませんでした。

 やっと診察室に入り、お会いしたK医師は本当に見た目から優しさが出ていました。前病院での検査結果と母の様子を見て、「早く入院を入れるから無理をしないようにね。」と母の肩を優しくたたきました。先生におまかせしようとは思わず(ここが看護師をしているからか、まかせるのではなく一緒に母を診ていきたいと思ったのです)信じてみようと思いました。

 こうして入院までは、すでに固形物は入らなかったためカロリーの高い流動食を飲みながら自宅で待ちました。仕事は手術の時に休みたかったので、心配しながらも出勤していました。毎日、休憩時間に母に電話をしていましたがだんだん電話にでるまでの時間が伸びてきました。結局、S病院に10月23日に入院、25日に手術を受け胃の5分の4を切除しました。看護学校時代の親友のOさんとSさんが手術室勤務だったので、彼女達は手術時多大な努力を母にしてくれました。その後も病室に仕事帰りによってくれ励ましつづけてくれました。持つべきものは親友だとその時はつくづく感じ感謝しました。約1ヶ月入院して退院の運びとなりました。母の胃癌はボールマン三型で、このタイプの予後はよくないものです。転移は見られなかったのですが、採取したリンパ節に癌があったので先生からは一年後ぐらいで再発するかもしれないと言われました。母には、手術後胃癌の告知はしました。ただ、再発の可能性までは言えませんでした。

やはり、実際に母が癌になるとそれ以後は『死』、『癌』という言葉はタブーになりました。ですから、元気なうちに最期について話をしておいて良かったと思いました。もし、そういう話をしていなかったら母にずっと癌について内緒にし、最期は在宅で迎えれなかったかもしれないからです。